発行人コラム(過去ログ2005年)

前科者の体験談
2005 12/21

 10月下旬、警察から呼び出しを受けた。道路に設けられた自動速度測定機でスピード違反を認定されたらしい。

  話には聞いていたが捕まったのは初めてで、指定された日に出頭すると、運転中の私の顔と、クルマのナンバーを写した写真を見せられた。その日その道路を、私は確かに通過した。別に急いでいたわけではないが、葬式の帰路で、少し解放感があったかもしれない。日曜日の午後で道路も空いていた。しかし、50キロ制限のところ46キロオーバーと聞いて驚いた。

  「この写真はあなたですね」と若い取調官が罪状認否に取り掛かった。なんだか妙に優しくソフトなので、ちょっと抗弁してみた。「私にしては顔が四角いようですが」「いや、私が見てもこれはあなただと思いますよ」「はあ、では私ですね。でもね、こんなに飛ばしたつもりはないんですが。測定機の誤作動ってことはないんでしょうか」「機械は正確です」

  罪を認めると、指定日に地裁へ行くよう命じられた。略式起訴であちこち回され、被告人に8万円の罰金。控えのロビーには私のような不届き者が朝から40人。飲酒運転や事故もあるらしい。みんな寡黙でじっと順番を待っている。どこかで見たような光景だと思ったら、病院の待合室に似ていた。確かにどちらも楽しい待ち時間ではない。

  罰金を払ったら終わりではない。罰金は刑事処分で、まだ行政処分がある。初犯なので違反点数は6点、30日の運転免許停止だが、温情により一日運転者講習を受ければ、29日分を短縮してもらえる。で、また指定日に出席。この日は運転できない。

  講習は朝9時から夕方5時まで、交通マナーや適正テストを受けたあと、20分40問の試験を受ける。試験は簡単で、晴れて免許証を返してもらったが、一年間無事故無違反でないと6点は消えない。4点追加になると、こんどは60日免停のお達しが来る。

  やれやれ、きついお灸だったが人身事故でなくてよかった。いい歳をしてこんなことをしていてはと深く反省。みなさんも安全運転を、と前科者からの体験談。

心得違い
2005 11/16

 BSE発生で2年間禁止していたアメリカ産とカナダ産牛肉の輸入が、年内にも再開される見通しになった。食品安全委員会が、日本産と比べリスクの差は非常に小さい、との答申を行ったのを受けたものだが、アメリカからのやいのやいのの圧力がかかっての上の話だった。

  なにしろ日本はアメリカ産の最大の輸入国で、禁輸前には年間1100億円にも上った。四の五の抜かすと経済制裁を加えるぞと、北朝鮮並みの扱いを受け、答申が出るとすぐに、生後20カ月以下の限定を国際基準とされる30カ月以下にせよ、とアメリカは迫っている。20カ月以下では禁輸前の輸入量水準にはほど遠いからだ。

  日本は当初からなにがあっても2度と輸入しないなどとは言ってなかった。全頭検査で安全が確認できれば買うと要求していた。その要求を非科学的でバカげた理屈だと一蹴された。流通量が日本とはケタ違いのアメリカで、全頭検査は不可能というのがホンネである。

  おかしな話ではないか。買う買わないは売り手の都合で決めるものなのか。客がLサイズのシャツを捜しているのに、Mサイズで間に合うからこれにしとけと脅すブティックがあるだろうか。平屋建て100平米の家に住みたいのに、延べ床面積は同じだから二階建てになるぐらいで文句を言うなと押し付ける不動産屋がいるだろうか。まして物は食材である。政府はこれまでも、有害物質が基準値以上検出された中国産の野菜を止めたではないか。副作用の強い減肥薬の輸入も禁止した。

  答申発表後のアンケートによると、アメリカ産の牛丼を心待ちにしている人もいるが、安全に不安を感じ輸入に反対の人は4割も5割もいる。輸入されても買わなきゃ自衛できると言っても、レストランや弁当など調理済みの牛肉は、いちいち素性を確かめることができない。

  日本は世界一の長寿国である。不健康な食生活が蔓延するアメリカの方こそ日本の食材や基準に学ぶべきだ。自国の都合で他国を仕切り、クジラは食うな、代わりに病気のウシを食えとは、一体なにさまのつもりなんだろう。

浮世離れ
2005 11/9

  滑稽本の戯作者、式亭三馬の代表作に「浮世床」があるが、私の行きつけの床屋は、“浮世離れ床”とでも言うのがよさそうだ。

  どこかしっくりこない床屋や美容院を何軒か渡り歩いた後に、辿り着いたのがこの店だった。気の利いたところなどは別にない。むしろ時代遅れのぱっとしない店に、年寄り夫婦がごろんといるだけだ。予約制だが、これから行くよと電話するとたいてい空いているから、本当は予約の必要もない。店で他の客を見ることは滅多にない。

  ばあさんがなんで店に出ているのかもよく分からない。じいさんが仕事にかかると、私のそばに寄ってきて「旦那さん、きょうはお休みですか、いいですね」といつも同じ挨拶をする。あとは店の隅に座って机に寄りかかり、組んだ腕に顔を乗せて退屈そうにしている。それを見て、私はいつも「猫はコタツで丸くなる」という歌を思い出す。

  私が世間話でも始めれば話し相手になろうという気なのだろう。だが私は、こういう時間は神経を全部緩めてぼんやりしていたい。できればモーツァルトを聞きながら居眠りしたいところだ。モーツァルトの代わりにはならないが、NHKラジオのアナウンサーが退屈な話をするので眠気はほどよく誘われる。

  先日は、そろそろ終わりに差し掛かったころ、じいさんが私の肩や頭をマッサージしながら、ばあさんにのんびりと話し始めた。「いっぺん、うまい茶碗蒸しを作ってみようかな。ええと、ギンナン入れて、カマボコ…ミツバ…エビ…サトイモ」「サトイモ? サトイモは入れんでしょ」「サトイモじゃなきゃなんだ…ああナガイモか。それにトリ」「そんなに入れて買いすぎたら余っちゃうし」「4つ作って2つずつ食べればいいことだ」「ふうん、それでいつ作るの」「さあて、まず構想をよく練って」

  私の頭を上の空で揉みながら、いつまでも終わりそうにないので「もうそんなところで」と切り上げた。

  機能や合理性追求が最優先の世の中にいると、こんな浮世離れした床屋が、なによりのリラクセーションになる。

12字取り
2005 11/2

  今週は、茶の間情報を除き、1段を12字取りでお届けする。通常は13字取りだが、字が小さくて読みにくいとの声が読者から聞かれるようになり、テスト的に変更してみた。

  日刊紙も含め、新聞と言えば長い間15字取りが当たり前だった。紙がそれなりに貴重だったため、限られたスペースにできるだけの情報を詰め込むのに、紙のムダ使いはできなかった。記事特有の体言止めの表現や、メートルやグラムなどの単位をひとマスで表記する方法も、字数を節約し、改行時の余白を生まないための工夫だった。

  ところが高度成長後、各紙が競ってページ数を増やした時期があった。一面の題字下に目次よろしく紙面の案内が載るようになり、まるで書籍のような扱いになった。このころ各紙それぞれに15字取りの定番を崩し大きな字を使うようになった。本紙は増ページをしたわけではないが、流れに応じて13字取りに切り替えた。

  バブル崩壊後も、各紙がいったん増やしたページは減らせない。加えて高齢化社会がさらに進み、字をもっと大きくの声に、いまや日刊紙は11字、12字取りが主流となった。

  13字取りでも大差ないのではと思うが、右と左に並べて見ればたしかに違う。しかし12字取りにすれば記事の量を8%減らさなければならない。

  本紙もページ数を増やせばわけのない話だが、8ページにするには広告収入を少なくとも1・5倍にしなければ経費倒れになる。6ページは、製造工程が複雑になりかえって変動比率が膨らむ。印刷会社と何度交渉しても日の目を見ない。

  電子編集・組版システムを導入しているので、技術的には難しい問題はない。あとは、人間で言えば体脂肪の少ない経営体質でどう乗り越えるか。営業会議や編集会議を重ねながら、ええい、久しぶりの8ページ発行時に12字取りを試してみよう、と即決した次第。

  結果を見てさらに打開策を探るが、当面は省資源発行にご理解を。

大騒ぎ
2005 10/19

  日曜日の朝10時過ぎ、隣りの別棟に住む母の顔を見に行こうとしたが、カギがかかっていて入れない。呼び鈴を鳴らしても返事がない。庭に面した雨戸も閉まっている。

  毎朝規則正しく7時半に食事を取る人なので、今頃まで寝ているわけはないが、体調不良かもと思って寝室の外に回った。雨戸を叩いても、呼んでみてもシンとして応答がない。

  昨日は会っていないが、庭越しに居間のテレビがついていたのを見ている。健診でも特に悪いところはなかった。まさかとは思うが、なんといっても来月には89歳になる高齢だ。これはちょっとヤバくはないか。

  家に戻って電話をかけてみる。もちろん出るはずもない。外出したのではとカミさんが言うが、門を開ければチャイムが鳴るから気がつくだろうに。合鍵がベランダの鉢植えか何かに置いてあったような気がして探して見たが見つからない。探しながら葬儀屋の手配が頭に浮かぶ。生前にもう一度顔を見ておくべきだったか。

  これはもう、窓ガラスを割って入らねばと思ったら、カミさんがセコムを呼べば合鍵を持っているだろうと言う。隣りといっても年寄りの一人暮らしなので、警備保障を頼んである。こういうときセコムに気がつくのは、カミさんが聡明なのか、嫁なので冷静なのか。

  連絡を取って来てもらうことにしたが、すぐには来ない。郵便受けの朝刊は、と再びカミさんの的確な指示。

  ない。ということはやはり外出か。生存説が強まったところへセコムが到着。まず寝室へ。こういうときは警備員立会いで入るらしい。異常時の場合の目撃証人になるからだろう。

  寝室にはいなかった。ダイニングに入ると食卓にきょうの朝刊が広げてある。これで外出と決まった。警備員は念のため外回りをチェックし、報告書を書いて帰っていった。いやどうもお騒がせしました。

  母は昼ごろになって、ひょこひょこと帰ってきた。バスに乗って編み物に使う毛糸を買いに行ったのだと言う。「合鍵を預けてあるのにどうしたの」と言われ、探してみると家の中で見つかった。

  寝たきりの長期介護も大変だが、不意を衝かれた突然死もあわてることが分かった。なにはともあれ、やれやれ。

筆記具
2005 10/5

 近ごろは、人が文章を作るとき使うのは、パソコンとケータイが圧倒的に多いだろう。しかし手書きがなくなったわけではない。手書きに使われる筆記具は、ボールペンとシャープペンシルが主流のようだ。

  私はこのどちらも好きではない。ワープロもなかったころは、取材メモも原稿書きも万年筆を使った。ボールペンのように力を入れなくてよいので、長時間書き続けても手が疲れない。シャープペンシルは芯が減ったり折れたりすると、ノックボタンを押して芯を繰り出さなければならないが、取材中は相手の話す早さに遅れぬよう走り書きでメモを取るので、芯が折れやすい。愛用の万年筆は、結婚したときに大河内昭爾さんからいただいたプラチナの太字用で、10年近く酷使に耐え、天寿を全うした。

  プラチナの次にモンブランを使い始めたが、これはあまり活躍しなかった。ワープロの登場で原稿の行数計算が飛躍的に便利になり、さらにパソコンで電子編集や組版ができるようになると、もう万年筆の出る幕はなくなる。取材時には鉛筆を使うようになり、万年筆は、たまに使ってもインクが詰まって出が悪くなるので疎遠になっていった。

  その後、取材原稿は書かなくなったが、鉛筆は引き続き愛用している。スタッフの原稿や報告書に手を入れたり注文をつけるとき、書き直したいときは消しゴムを使えるという安心感が鉛筆にはある。芯は柔らかめのBがよい。削ったときの木の香りも捨てがたい。ちびてきても結構頑張って付き合う。

  字は上手に書く必要はないが、読めなかったり読み誤りが起きたのでは用をなさない。気をつけてはいるが、思いが走るとつい走り書きのくせが出る。私の走り書きときたら、自分で書いておいてあとで判読できずに首をかしげることさえある。スタッフはどう思っているのだろう。もっとも彼らの手書きの字も、笑ってしまうほどのヨレヨレ字なので気は楽だ。

たしなめる
2005 9/28

  高校時代の友人3人と小淵沢までゴルフに出かけた。

  車の運転担当のA君は、職人を20人ほど使ってエクステリアの会社を経営しているが、ちょっと行儀が悪い。狭い道路の交差点付近でも平気で停車し、コンビニで用を足す。雨降りの中ホテルに到着し我々が降りたあと、ボーイが彼を駐車位置まで誘導して行った時も、プンプンしながら戻ってきた。「ボーイが自分だけ傘を差してオレの分がない」ので叱りつけ、ボーイの傘を取り上げたという。食事時には品がよいとは言えない女の話を始める。
 
  帰路、私は寄り道があったので電車を使い、荷物は家に届けてもらった。ところが帰宅してみると、持ち主の分からない手提げバッグがひとつ余計に届いている。どうしたのと電話で聞くと、だれかが間違って他人のバッグを積んでしまったらしい。「面倒なら捨てればいい」と言う。冗談ではない。中身を調べたら持ち主らしい名前が出てきたので、ゴルフ場に問い合わせ、該当者を捜し当て、丁重に詫びて菓子折りと一緒に送り返した。

  目にあまるA君の態度をたしなめると、カミさんが「あんまり言うと友達をなくすよ。根は悪くない人なんでしょ」とブレーキをかける。

  カミさんが心配するには理由がある。私はときどき人と悶着を起こす。少し前には、カミさんに長電話を頻繁に掛けてくるやつがいて、カミさんが閉口して居留守を使ったら事態が悪化した。彼は私の大学時代の同級だが独身で、カミさんと話すのが楽しかったらしい。悪気はないのだが常識はずれのところがあり、「長電話が迷惑ならそう言えばいい」と言ったが面と向かってはなかなか難しい。しかし言わなきゃ分からないしその方が親切だと思って、代わりに注意したらたちまち修復不能の関係になった。

  数年前には、カミさんの学生時代の先輩で、編集プロダクションの男とひと揉めあった。私のコラムを本にするとよい、出版社にいたころの顔も広いし売れるよ、というので私もその気になった。土曜の朝10時に打ち合わせの電話をくれと言われ約束どおりにすると「いまイヌの散歩中なので、お昼にまた電話を」。自分からすっぽかしておいてまた電話しろはないだろうとムッとしていると、昼前に電話が来て「今からそばを食うのでまた後で」。アンタはいつもそんなチャランポランな仕事をしているのか、と言ってやっても、だってきょうは休日でしょなどと間抜けなことを言って謝りもしないのでこの話は断った。

  カミさんが「私の人間関係まで壊す」と抗議する。バカ言うな、自分の非礼に気づかぬやつを野放しにするな、と思うものの、右も左もジコチューの世の中、どう身を処したらよいものか。あんたこそ自分の価値観にジコチューだよとカミさんは言う。へえ、そういうもんかねえ。

長寿の過ごし方
2005 9/7

 私の母はもうすぐ89歳になる。人に気を使って世話になるのが嫌いで、隣りでひとり暮らしをしている。カミさんが買い物を頼まれたり、外出時のアッシー君を務めることはあるが、雨戸の開け閉めから食事の支度、後片付け、洗濯などたいていは自分でやる。新聞も丹念に読み、時事問題にも結構関心が高い。いまのところ取り立てて心配な点はなく、元気なうちは勝手にするのがよかろうと、好きにしてもらっている。

  その母が最近、あまり長生きするのも良し悪しだね、と言い出した。身の周りのことと言っても大してあるわけでもなく、生活に張りを失って退屈しているようだ。最大の関心事は年に2度の墓参と月に1度の棚経。暇つぶしに編み物教室に通ったり、たまに2泊ほどの旅行や歌舞伎見物に出かけるが、その程度では変化に乏しく、余生を持て余すようだ。

  社交的な性格ではないから、編み物教室でシャキシャキと交友を広めるわけでなし、昔からの知人と旧交を温めようにも多くは物故している。耳が遠く、足も弱っているから、気の合う母の妹と旅行するにも骨が折れる。この先、健康を損ねて人の厄介になったのでは気兼ねする。寿命は70代までがまずまずの頃合いなのに、どうも長生きしすぎたようだ―と。

  なるほどそんな気分になるのも分かる気がする。若いうちは目標もあり、責任も背負い、しのいだり乗り越えたりしなければならないことがつぎつぎと起こる。そうした重荷や心配事から解放されてお役御免になったとき、ひとは晴れ晴れと自由になれるかというと、自分はなんのために命を繋いでいるのか、その意味を問われ始める。なかなかの難問だ。

  寿命を待機して、それまでの時間を消化しようと後ろ向きになったら、もういけないのだろう。なにか目標をもって、制限時間が足りなくなるぐらいぎりぎりまで取り組んではどうか。

  そんなこと言ってもねえ、と母は気乗り薄だったが、老人性うつ病にでもなったら大変だ。人付き合いが苦手ならばと、私は漢字検定2級の問題集と図形パズルを選んだ。漢字検定は試験があるから励みになる。合格したらさらに上級の試験にチャレンジすればよい。

  これで一件落着となるかどうかは分からない。ただ、私が小学生のころ、書き取りテストの前日の予習で、母に付き合ってもらって正解率を競い合ったことを思い出す。嫌いではないはずだ。

  死ぬ1日前でも人生をやり直す―昔見た新劇でそんなせりふがあった。

第1外国語
2005 8/30

  野球やマラソンの勝利者インタビューを聞いていると、もう少しちゃんとした日本語を使えよと言いたくなるときがある。

  ―センター前のヒットで逆転したときは?
  「鳥肌が立ちました」
  感極まったとか、感動でぞくぞくしたというような意味で使っているようだが、鳥肌が立つとは、恐怖でぞっとしたときや身の毛がよだったときに使う言葉だ。

  ―ラストスパートで観客席が沸きましたね。
  「感動を与えることができてよかったです」
  与えるという言い方は、目下の者に使うもの。イヌに餌を“あげ”て、お客に感動を“与えて”はいけない。

  質問のたびに、「そうですね」を連発する選手もいる。なにを聞かれても「そうですね」と言ってから答える。相づちを打っておいて、その間に、コメントを考えるのだろうが、インタビューもショーのうちなら、受け応えに気を利かせてもらいたい。こういうボキャ貧(ボキャブラリーの貧困な人)は「いまの気分は」と聞かれると、決まって「最高です」と答える。最高なんてものが、そうちょいちょいあってたまるか、とインネンをつけたくなる。

  まあしかし、インタビューが放映されるから目立つだけで、言葉の貧困化や迷走はなにもスポーツ選手に限ったことではない。「情けは人のためならず」を〈人に情けをかけるとその人のためにならないから、放っておくのがよい〉という意味だと思っている人が少なくないことは前に触れたが、「船頭多くして船、山に登る」が(船頭がたくさんいれば船で山にも登れる〉、「天に唾する」が〈尊いものを粗末にすると罰が当たる〉の新解釈になっちゃっている人もいるようだ。

  学校の国語の授業は、そのうち第1外国語と呼ぶようになるかもしれない。もっとも、こんな悪態をついていると、口うるさいじじいと思われるのが関の山だ。近頃の言葉は大体通じればよいものらしい。

ぐうたら家族
2005 8/23

  なにも予定のない休日というのは、たまにはよいように見えて案外そうでもない。見るつもりもないテレビをつけて所在なくだらだらしていると日が暮れて、ああきょうはなにもしなかったと思うと、ひどく虚しい気分になる。第一、仕事をしているよりも疲れる。だから私は、なるべく土日の休みも軽い仕事を持ち帰るようにしている。別に仕事中毒というわけではない。

  それが夏休みともなると1週間もある。交通渋滞の中、どこかに出かける気などさらさらない上、右足をはくり骨折して運動も自重しているから、これは綿密な計画を立てなければ大変だ。

  というわけで2、3の書類に目を通すほか、ホームページのリニューアルのため指南書を2冊購入。コラムを2本書き、家事も、あちこち切れたままの電球の取り換え、庭の草刈り、キャッシュカードの暗証番号の変更。さらに隣りで暮らす母親の相手、イヌの散歩。遊びの予定は友人とマージャンを半日、博物館で円空展。

  家事はあっという間に片付いたが、苦戦したのがホームページの指南書。「SEO・アフィリエイト・RSS・ワンクリックアンケート・XOOPSで集客力、収益力、リピート力がアップするウェブサイトを創る」というなんだかピッタリだがよく分からない本を読み始めたが、パソコン音痴の私には続けて30分読むのが限界。パンクした頭をなだめつつ、休み休み、難解なところは飛ばしてそれでも2回読んで、2冊目の「検索にガンガンヒットするホームページの作り方」は、戦意を使い果たしてあえなくギブアップした。しかしまあ、リニューアルはできそうだ。

  かくして充実の夏休み、と言いたいところだが、それに比べて家族のぐうたらぶりときたらどうか。帰省中の学生の3男は、夜になると出かけて何時に帰ってくるか分からない。帰宅後ビデオの映画を見て明け方寝るから、昼にならないと起きてこない。「ムダメシばかり食っていないで少しは社会の役に立て」と、イヌの散歩を命じるが「暑いし、めんどい」とモノウゲに返事をして、居間で昼寝をこく。さっき起きて来たばかりなのによく寝られるものだ。

  高校生の娘は、3男よりは早く起きるがそれでも10時。食欲旺盛なのでいつまでも寝ていられないのだろう。朝食を食って安心すると、ケータイをいじったり漫画やファッション誌を読んだり、服を買いに出かけたり。宿題はやっているのか。

  2男はマッキンリーに登頂、来年のチョーオユ目指して帰ってこないが、長男は仕事の合い間を見て短期帰省。長男、3男が揃って喜んだカミさんは、夜中まで息子たちと話し込んで、これまた朝9時まで起きてこない。私が夜も明け切らぬ5時半に目を覚まし、本日のスケジュール消化に闘志を燃やしているころ、だらしなくよだれを垂らして熟睡している。

  年寄りは朝が早くてハタ迷惑だ、というのが家族の感想らしい。

自己実現の領域
2005 7/20

  アメリカの心理学者、マズローは、人間の持つ欲求を5つに分類し、低次の欲求が満たされないと高次の欲求が現れないとした。低い順から、@生理的欲求=食欲や睡眠、A安全の欲求=安全、安定、不安や恐怖からの自由、B愛情、所属の欲求=人から嫌われたくない、よく思われたい、C承認の欲求=地位や名声、独立、自由、D自己実現の欲求=自分はこうありたいとする欲求。ただし人によってはこの順位が変わる例外もあり、また、低次のものが100%満たされないと高次のものに移らないというものでもない、としている。

  この5段階欲求説が、日本の企業の中で注目されるようになって来た。というのも、かつての高度成長を支えてきた年功序列や終身雇用制を企業の側から崩し始め、従業員の側からも食うためにはとにかく働かなければという意識が希薄になってきたからだ。このため、一方でニートやフリーターの増加、他方で青色ダイオードの発明者、中村修二さんのような頭脳流出も進む。企業は、その将来像を従業員に示し、新たなモチベーション(動機付け、やる気)を用意する必要に迫られている。

  この観点から、某社が一部社員の意識調査を行ってみた。若手の中間管理職10人を集め、部下には会社の方針を伝えるなどコミュニケーションを充分取っているか、仕事や会社に対する満足度、不満足度はどんなところにあるかなど、アンケートを取った上で、意見交換に入った。社内の会議室では組織人としての自己制御が働いてホンネが出にくいと見て、会場を外に取り、私服で出席する懇談会とした。

  最初は戸惑い気味だった一同もしだいに打ち解け、まずまず実りある集まりとなった。アンケートの中に「あなたは何のために働いていますか。あなたにとって働く意味は何ですか」の質問があり、みなそれぞれの思い入れとともに、一様に「生活のため」を挙げた。では、5億円の宝くじが当たり、働かなくても生活の心配がなくなったらどうするかと投げかけられ、懇談会終了後に予定されていた食事会で継続論議となった。

  すると数人から「宮仕えはやめるが、趣味を生かした仕事を始めたい」とする回答が出た。もともと宝くじが当たるなどというのは仮の話で現実味がないから、回答も平凡にならざるをえない。ただ、そこから、仕事はさせられるもの、モチベーションが高まるのは趣味、と割り切っているのが読み取れる。

  気ままな趣味がそのまま仕事になるほど世の中甘くはない。青い鳥症候群の域を出ない話だろう。だが逆はある。七転八倒の苦しみがあっても、好きな仕事なら耐えられる。マズローの言う第5段階とは、この領域のことではないか。

托鉢僧の友
2005 6/29

  僧衣に網代(あじろ)笠、手に鉢(はつ)と鈴(れい)を携え、経を唱えて門(かど)づけをする――金沢で托鉢(たくはつ)を続ける大学時代の友人が、36年ぶりに訪ねて来た。

  彼は私と同期だが、歳は4つ上。高校時代に結核を患い、進学が遅れた。無為の療養生活の中で、同級生に置いて行かれる焦燥感と、恋する人への思いの苦しさに悶々とするうち、鈴木大拙の書に出合い、禅の道に導かれるようになった。

  妥協なくまっすぐに進もうとする姿勢は、人には寛容を欠くようにも見られ、私も彼とキャンパス近くの喫茶店で大声を上げて言い争ったことがある。それでいて彼には、どこか人恋しさを漂わせる面があった。

  学部卒業後、彼はトップクラスの成績で大学院への推薦入学を得たが、体調を崩し、失意の帰郷を余儀なくされた。郷里の福岡では一時、学習塾を開いて生計を立てたが、志と異なるわが身を思い直し、学生時代の師の世話で東北の大学付属の仏教研究室の主事の職を得た。

  そこからさらに、彼は学問よりも実践の道を選択して上京、出家して禅宗系大学の寮監に就いた。寮監は、各県から入学してきた寺の子弟の学生寮でともに寝起きし、日常生活の作法を修行の一環として指導する。

  しかし彼は失望する。世俗に慣れ、志を持って身を律することからほど遠い彼らの現実に。4年の教育が徒労に終わり、葛藤と幻滅を抱えたまま彼は寮を去る。その後、一時北陸の寺に身を寄せたあと、蓄えをはたいて金沢の地にささやかながら自らの庵を用意し、かねてから断続的に行っていた托鉢1本に生計を托した。

  朝4時半に起き、座禅を組み、玄米粥とごま塩、梅干、たくあんの朝食を作る。作法に従った朝食がすむと、9時半ごろ托鉢に出る。午前中で1万円ほどの浄財が人々から喜捨される。托鉢に出るのは、雪の2月と猛暑の8月を除き月10日ほど。月10万の浄財を、仏道修行に使わせていただく毎日。

  「仏法の"法"の字は、さんずいに去ると書くでしょう。水は上から下に流れる。その自然の流れに従って生きるのが法なんですよ」

  曲折を経て、ようやくたどりついた彼の"法"がここにある。肉食(にくじき)妻帯し、悟道でも救済でもなく、葬式を頼りに身過ぎ世過ぎの寺のあり方には強い批判を示しながら、先々への不安や迷い、人恋しさも、ふっと顔をのぞかせる。それもまた法に素直なゆえなのだろう。

  語り合い、語り合い、再会を約して別れた。

生活者姿勢
2005 6/22

  環境省が、スーパーやコンビニで買い物客に無料配布されているレジ袋を有料化する方針を固めた。

  レジ袋は年間300億枚使われているという。原価が1枚2円で計600億円。金額も金額だが、持ち帰りに使われた後はゴミとなって捨てられるだけ。資源の枯渇に影響を与える上、土に還らぬ化成品だから環境汚染にもなる。

  有料にすればこの無駄が激減する。100円取ればよい、いや10円で充分効果が上がる、と理解を示す消費者も多い中、客にツケを回すのはおかど違いだと受け取る人もいる。無料はこれまで店のサービスとして当たり前になっていたから、業界としては足並みが揃わなければとても恐くて踏み切れないだろう。施行は来年度以降、代金の使い道はリサイクル費用や環境対策費など、今後国と関連業界で協議を進める。

  経済活動は、豊かさと便利さを売り物に激しい競争を続け、とめどなく成長してきた。環境保全だ、汚染予防だと言われても、いまさら止められるかい、というのが、たとえば世界最大の温暖化ガス排出国でありながら京都議定書の批准を拒み続けるアメリカの態度だ。日本は批准して2012年までに1990年の排出量の94%まで減らさなければならないが、03年には逆に108%に増えている。産業界からすれば大変な重荷なのだ。

  消費者から見ても、いったん手に入れた豊かさと便利さは手放したくない。いきなり地球規模の話をされても、感覚的に日常生活とは結びつきにくいだろう。しかし、そうのんびり構えてもいられない。地球の温暖化、オゾン層の破壊、酸性雨、野生生物種の死滅、熱帯雨林の減少、砂漠化の拡大――。海面上昇で南太平洋の島が水没するのは他人事でも、今世紀後半には日本の真夏日が5カ月続くだろうと観測されれば、穏やかではいられない。

  “環境にやさしい”が、企業イメージのポーズに使われた時期もあったが、産業界は本気になりつつある。トラック集配の一部を手押しの台車に切り替えて排ガス対策を進める宅配業者が登場し、省エネのため深夜営業取り止めの検討に入ったコンビニチェーンも現れた。どの業界も、ISO14000シリーズ(国際標準化機構による環境マネジメントシステム)の認証取得で企業姿勢を問われるようにもなった。

  そろそろ消費者も、買い物カゴを用意してレジ袋の受け取りを辞退し“生活者姿勢”を示してはどうだろうか。

部長の申し出
2005 5/18

  某社の取締役経理部長(55)が、社長にお願い事を持ち込んだ。思うところあって少し仕事を減らしたい、身分は顧問か嘱託にしてもらってよい、と。

  定年まではまだ間があるし、日ごろ部長の精力的な仕事ぶりを見てきた社長は意外に思いワケを尋ねた。理由は3つ。1つは健康面。糖尿が要注意で疲れがたまるようになった。2つ目は仕事、仕事で半生を過ごしてきたのでそろそろ自分の時間を大事にしたくなった。3つ目はいつまでも自分がのさばっていては後進が育たないので道を譲って成長させたい。

  なるほど気持ちは分かる、と社長は思った。しかし定年まであと4年あまりが待てないのは、たぶん2番目の理由が1番大きいのではと推測した。部長は2度の転職を経てこの会社に入り、10年ほどで取締役に駆け上がった。私生活では長年、障害者の姉の介護を続けてきたが、数年前よい施設を見つけて手が離れた。子供たちもそれぞれ独立し、ほっとしたところで昨年、近所の人たちに誘われ奥さん同伴でイタリア旅行に出かけてみた。そこで、ああこんな人生の楽しみ方もあるのかと気がついた――。

  もうひと世代前までは、がむしゃらに働く日本人は珍しくなかった。マレーシアの日系企業で「私の休みは年間3日。広い工場内で入ったことがないのは2カ所だけ。女子更衣室とイスラム教徒の従業員のためのお祈りの部屋です」と話す現地トップに会ったことがある。戦後の復興も高度成長も、こうした日本人が支えてきた。仕事中毒といえばそれまでだが、彼らにはそれが誇りであり充実ライフでもあった。

  それがバブル崩壊、リストラばやりになってからようすが変わってきた。私の友人にも早期退職優遇制度を活用して50でリタイアした者や、60でいったん退職し、1年間はヒマをもらい、そのあとまた復帰できるよう会社と話をつけた者がいる。彼らは一様に「おれはこれまで充分働いた。だからだれにも気兼ねすることなく、自分のためにこれからの人生を使いたい」と述懐する。

  経理部長に社長はこう言った。「いま君が閑職に退いて、若手に代わりは到底務まらない」。「ですから代わりができるようになるまで、面倒は見ます」「いや、顧問だろうが嘱託だろうが、君がいる限り部下は君を頼って指示を仰ぐだろう。部下がしっかりするのは君がいなくなったときだ」

  部長には、ハワイに永住している幼馴染がいて、遊びに来いよと誘われてもいるらしい。「じゃあ、1カ月ほど長期休暇を取って、ガス抜きをしてくればどう。すぐに退屈してしまうかもよ」と社長は提案したが、部長の立場上、異例の長期休暇を取ること自体が、社内の手前気兼ねだろう。2人の話し合いは持ち越しになった。

振り込め詐欺
2005 4/27

振り込め詐欺が横行している。ニュースを見ていて、なんであんな手口に簡単に引っかかるのだろう、ちょっと考えれば変だと分かりそうなものだと思うが、そう言っていた自分が引っかかった。

  3月初め、1通の案内が来た。私の出身高校の同窓名鑑が発行されるので、データに変更があれはお知らせください、とある。住所、氏名、年齢、電話番号、職業区分、役職などの書かれた一覧があり、間違いがあってはと思うから一応確かめる。郵便の振込用紙も同封され、購入ご希望の方はお申し込みをとのこと。私は、同窓生との付き合いも増えたので、1冊買っておくかと1万800円を振り込んだ。その時点でなんの疑いも持たなかった。

  3週間ほどして、同じ相手から「代金ご入金済みのお知らせ」なるハガキが届いた。「ご入金いただき、誠に有難うございました」はよいが、そのあとに「つきましては発刊予定日が平成32年5月6日となっておりますので、もし掲載内容に変更等がございましたらお手数ですが、平成32年5月5日までに郵便・FAX等にてご連絡ください」とある。

  冗談じゃない。平成32年といえば15年後で、私が生きているのかも、その「会社」があるのかも保証の限りではない。あまりにバカげているので頭にきて「お問い合わせフリーダイヤル」に電話して談判しようと思ったがつながらない。高校に確かめると名鑑の企画も購入者募集もしていないとの回答。今にして思えば、私の学校は名古屋なのにその「会社」の所在は大阪になっている。それに同窓名簿の類はたいてい無料で配布されるものだ。相手がすでに私のデータを持っていたので、母校の関係者だとつい信用したのが落とし穴だった。

  いやむしろ、私の個人情報をヘンなやつが手に入れていることの方が問題だ。しかもご丁寧に記載事項に変更があるかないかの返答までしてしまった。

  それにしてもなんでわざわざ「代金ご入金済みのお知らせ」を送ってきたのか。おそらくは抗議やキャンセル要求を誘い出して、2度目のカモに引き込むつもりだったのではないか。振り込め詐欺によくある手口だ。

  他にも被害者はいるだろうし、深追いは危ないので、一応警察に被害届けを出しておいた。みなさんもご注意のほどを。

調和のしかた
2005 4/20
物知りの話によると、いま各国間の領有権問題は世界中で124にも上るそうだ。

  日本はロシアと北方4島、韓国と竹島、中国と尖閣諸島、沖ノ鳥島。これに日本の国連常任理事国入り、靖国参拝、歴史教科書が絡んで、特に中国との関係がごっちゃごっちゃになっている。中国とは東シナ海の海底ガス田も火種になっている。領有権に限らなければ、北朝鮮とは拉致、ミサイル、核、アメリカとは牛肉輸入で困っている。

  日本がどの国にも劣勢なのは、率直に言って60年前の戦争に負けたからだ。広島、長崎に原爆を落としたアメリカは、大勢の悲惨な被曝犠牲者に謝罪もしなければ補償もしない。むしろ原爆によって戦争終結を早め、戦死者を最小限に食い止めたと、"歴史的評価"を定めている。それを日本が抗議したことはない。まさに勝てば官軍、負ければ賊軍を絵に描いたような話だ。

勝てばよかったと言いたいのではない。また、冒頭の諸問題で、自国相手国どちらの言い分が正しいかもここではひとまず置こう。言い分と言うのは、それぞれ自分こそ正しいと思うから譲れないのだ。しかしだからと言って、力ずくで脅したり、早い者勝ちで押しのけたり、騒乱をあおったりしてよいものではない。やり方というものがあるだろう。売り言葉に買い言葉では、互いに引くに引けなくなる。

  それぐらいは分かりそうなものだが、人間はそれほどりこうではない。相手はなぜ、自分と同じ価値観や尺度を持たないのかと怒っても、土台むりな話だ。それが分からない。無知蒙昧な怒りが結集して爆発すると大変なエネルギーになる。それを利用しようとする手合いも必ずいる。声高なナショナリズムはろくなものにならない。

  人間は自分の愚かさをもっと自覚すべきだろう。親鸞は自らを愚禿と称した。だれもがそのくらいの自戒を持てば、いさかいなど起こらない。だが残念なことに、賢くなければ自分の愚かさには気づかない。皮肉なものだ。

内輪もめ
2005 4/16

  父が亡くなって7年、88歳の母の最大関心事は、墓参の行く末のようだ。

  私の友人の母親は、連れ合いが亡くなってから毎日墓参を欠かさないという。年老いて残された者の心情は、そういうものかもしれない。墓が近くにあればそれも可能だ。

  しかしウチの場合は、高速道路をビュンビュン飛ばしても墓まで片道3時間かかる。「家族揃って年に2回は行かないと」と母はたびたび釘を刺す。自分も行きたいが、あとに続く者がちゃんと墓守りをするくせがつくのを見届けて安心したい、という気持ちがあるようだ。しかし私の子供たちにとって、小さいうちは墓参など別に面白いものではなかろうし、大きくなるに連れそれぞれ私用優先になってくる。さらに仕事や学校で各地に分散ともなってくると、全員を揃えるのは難しい。

  母は作戦を立てる。「忙しければ日帰りもできるし、泊りがけで行くなら、お参りがてら途中で遊んでくればよい」。日帰りはできない相談ではないが、ちょっときつい。1泊でも、私はいつもわき目も振らずに墓を目指し、次の日は朝食をすませるとみんなを車に押し込んで、さっさと帰ってくる。翌日の仕事を考えると、日が暮れてからくたびれて帰宅したくない。

  今回も長男、次男が不参加となったが、行きに寄り道をして親戚の家に顔を出し、翌朝墓参りをして帰る計画になった。が、すぐに変更。娘が2日目は昼から友だちとカラオケ大会の予定を入れていた。そうなると親戚の家を訪問したあと、墓参をすませてホテルに入るしかない。

  すると今度は母の機嫌が悪くなった。土日でどんな渋滞になるかもしれないのに、墓参りがちゃんとできなくなったらどうするんだ、と。親戚訪問を見送ろうかと言うので、相手が予定を空けて待っているのに、いまさらドタキャンするのは失礼だと答えた。母は終いに「これからの世の中は、墓参りなんかはしなくなるんだろうね」などと口をとんがらかす。

  車で動けば多少の狂いは出るもの。渋滞といってもゴールデンウイークや夏休みじゃあるまいし、すべて任せて後部座席で居眠りしていればよいものを、と思ったが、なにかの弾みでそれ見たことか、と言われるのも業腹なので、遅れた場合の変更スケジュールを2つ作って見せておいた。

  結果は10分と狂わず全日程を終えた。やれやれ。歳をとるとなにかと扱いにくくなる。ま、仕方ないか。私もいずれ、そっくり生き写しの年寄りになるのだろう。

人はなぜ山に登る
2005 3/16

  私の登山経験は、中学の時の富士山と大学時の八ヶ岳の2回だけ。2回ともこりごりだった。重い荷物を背負って、歩きにくい道をうんざりするほど登る。八ヶ岳の時は、友人手製のテントで寝たが、台風が接近していて夜中にうなされて何度も目が覚めた。ふもとの温泉宿で酒でも飲んでいれば、どんなに心地よいかと後悔した。

  以後ずっと、登山は私に縁のないものと気にも掛けなかった。が、次男が命懸けで登り始めてから、なんでそうまでして登るのだろうと思うようになった。夏の富士山や八ヶ岳ならまだしも、6000メートル、7000メートル級になると、風速80メートルの突風に見舞われたり、岩壁のわずかな出っ張りにしがみついたり、雪をかき分けて前進したり、クレバスが深い口を開けていたりする。技術や装備、高所順応が万全でも、天候による運不運で、大きく左右される。

  スポーツではあるが、だれが見ているわけでもない。観客がいなければ入場料も取れず、ギャラが出ないので生計も立たない。スポンサーの付く稀なケースを除いて、プロとして成り立たないところが他のスポーツとまるで違う。

  これは道楽なんだ、と思えば分かりやすい。しかし道楽ならもっと快適なものがいくらでもあるだろうに。次男も決して楽しんで登っているわけではない。むしろ思いつめている。修行僧、苦行僧の趣きといったらよいだろうか。

  次男所属の山岳会の連中の話を聞いていると、なんだか「七人の侍」で宮口精治演ずる久蔵のイメージがほうふつとしてくる。久蔵は勘兵衛(志村喬)に「あの男は、己を鍛え上げることに凝り固まっておる」と言わしめる。鍛錬を続け、たどり着ける極限まで自分を追い詰めて、そこで見えてくるものを極めたい、ということなのだろう。

  映画の話なら興味深い人物像として眺められる。しかしわが子となると「おい、おい、無理しないでもう少し力を抜いたら」と言いたくなる。かといって、自己の存在意義を求め続ける者を、途中で止められるものでもない。「死ぬなよ、死ぬなよ」と牽制しながら、本人が見極めをつける日を待つしかない。

今年も受験
2005 3/9

  ウチは、もう何回子供の受験を迎えたのだろう。次男の高校受験の翌年は長男の大学受験、その翌年は三男の高校受験、といったあんばいで、過去10年間で受験がなかった年は2回だけ。今年は末の娘が高校受験、次男が大学院に挑戦した。

  娘は美術科志望。幼稚園のときから絵を習い始め、よほど好きと見えて、制作中の集中力はかなりのものがある。描き上がると評を求められ、褒めないと機嫌が悪い。展覧会に行っても、こっちが1時間で飽きるころ、本人はまだ半分も回っていない。打ち込めるものを持っているのは幸せなことだ。

  しかし、美術科の入試は実技だけではない。5教科もそこそこ得点しなければならないが、こちらはどうも絵を描くようにははかどらない。絵の教室から帰ってくると、疲れたと言って、こたつで熟睡。晩ご飯になるとむっくり起きて、体重を気にしながらよく食べるが、食後は友だちとメールのやりとり。カミさんが見かねて勉強の催促をすると、ちょっとテレビを見てからなどとなかなか腰を上げない。やっと2階に行ったかと思ったら、ほどなく下りてきて「休憩」。

  どうもこのままでは危ないと、直前整理の問題集を苦手の教科分買ってきたのが12月。入試に間に合わせようと正月も返上の過密スケジュールを組んだが、計画通り進まない。第1志望校には推薦入試の資格を得たが当てにはできず、一般入試が勝負と思われた。

  ところが、推薦入試で合格してしまった。実技のできがよほどよかったらしい。とりあえずはやれやれだが、美大に進むつもりならこの先が思いやられる。せめてこの機会に、やり残した問題集をすませて、中学のおさらいをしておきなさいと言うと、「うん、やるよ」と返事はよいが、すっかり羽を広げてその気配すらない。それどころか、同級で野球部のピッチャーから毎晩呼び出しがかかって、家の外で立ち話。相手はジョギングコースの通り道だと言っているらしいが、ヘンなムシでなければよいが。どういうわけか、相手に同じ野球部の付き添いがいて、一応"グループ交際"になっている。

私もダイエット
2005 1/26

  年明けにスーツを作ったとき「ウエストは90ですね」と言われ、ぎょっとした。20代のころは、たしか72センチぐらいだった。それが80を超え、86になり、とうとう90の大台に乗るとは。そういえばこのところ食べすぎで、体重も74キロを超えていた。ハゲの上にデブでは取り柄がないし、子供もまだ一人前になっていないので、ここは何とかしなければならない。目標は、身長の2乗に24を掛けた69キロ台。

  過食症ぎみなのはストレスのせいもある。ストレスをためないために、日ごろから手は打ってある。厄介なことはくよくよせず意識的に忘れ、言いたいことは溜めないでその場で言ってしまう。ニュース番組を見ていても、とんでもない事件や政策が報じられると、私はテレビに向かって「コノヤローメ、バカヤローメ、いい加減にしろ!」とひとりで勝手に叫ぶ。
 
  それでも食べ過ぎるのは、常に食欲旺盛で食べることに関心が高いのがいけないかも。肥満症の患者が医者に「今後はなるべくパンを食べるようにしなさい」と言われ「それは食前に食べるのですか、食後ですか」と聞いたという笑い話があるが、私も、夕食の後でせんべいや饅頭を食っているカミさんを見るとつい手が出る癖がついて、なにか食べないと物足りなくなってしまっていた。不思議なことにカミさんはいくら間食をしても太らない。

  近ごろは忙しくて運動も不足気味。食後に1時間ばかり散歩をするといいらしいが、仕事を終えて帰宅して、一杯飲んで酔い心地がいいときに、夜寒の町に出直す気にもなれない。「ムリすると脳溢血になるよ」とカミさんに心配されるのが情けない。

  だがまあ言い訳ばかりもしていられないので、カロリーに気をつけ腹8分目、間食は止め、イヌの小次郎を相棒にときどき長めの散歩をする。努力の割に上達の見込みなく、以前ほど熱心でなかったゴルフも、休みの日にはコースか練習場に。コースに出ると、スコアよりもプレー後の浴室で計る体重の方が楽しみになった。

  大した節制でもなかったが、3週間で2キロ減。この分で行くと残り3キロは射程距離。せっかく効果が出ているのだから、家族に非難ゴウゴウのタバコをやめるのは、もうちょっとあとにしよう。

芸を見せる
2005 1/19

  ワケあって工場経営を引き受けることになったAさん、畑違いの世界に入って最初は戸惑った。幸い、会社は基盤がしっかりしていて、当面の業務は回っている。シロウトの自分が采配をふるって判断を間違えるよりは、経験豊かな部課長に任せ、いずれは後継者を指名して、バトンタッチしようと考えていた。ワンポイントリリーフで身を引き、元の世界に戻るつもりだった。

  ところがことはそう簡単に運ばなかった。経済動向や市場は刻々に変わり、それを読みながら企業も舵を切らねばならない。局面、局面での投資も、するのかしないのかつぎつぎと決断に迫られる。大型投資の場合、だれが決断し、その結果にだれが責任を取るのか。そうしてみると、資本と経営を分離して、経営だけを実務担当者に譲るなどという考えは理屈上の話で、中小企業は資本と経営が一体でなければ到底成り立たない。

  Aさんがそのことに気づいたのは、2、3の手痛い失敗を経験してからだった。このままでは会社が傾くと、本気で乗り出してみて唖然とした。部門長は自部門の守りに心を砕き、他部門に余計な提案をして嫌われたり、責任を取らされては大変だ、と身の処し方を心得ている。中間管理職も右にならえ。前工程は後工程に丸投げ仕事、後工程は前工程からの頼まれ仕事。どちらも結果を見届けようとしない。

  「これは一体どういうことだ。シロウトのオレがすぐに気がつく問題や対策を、経験豊富なベテランが、なぜ気にもせずに放っておくのだ」とAさんは息巻いた。別に驚く話ではない。Aさん以外のだれも経営者ではない。

  それからのAさんは一変した。あちこちの部門会議やミーティングに顔を出し、口を出し、そのファイルが10種類。ほかに個別の懸案ファイルがもう10種類。朝6時に目を覚まし、寝床の中で今日の指示をリストアップし、朝食をすますと「気合だーッ」の勢いで出社する。仕事はかなり増えたが、忙しい方が仕事がはかどる、と充実しているようす。

  口うるさいだけではよい経営者ではない、部下を生かし、育てるのが管理者、経営者の大事な仕事、ということもAさんはよく知っている。「会議に出て、ただ人の話を聞いているだけなら、出なくていいと言うんだ。会議中に何か芸を見せろ。オレならこうするという芸を見せろ。そしてオレだからやれたという報告書を書け、とね。仕事ってそういうものだろ」

  Aさんの会社は徐々に変わり始めている。仕事は受身になったらつまらない。

水と油
2005 1/12

  私は昔からデパートがどうも苦手だ。人ごみの中を2時間もうろうろしていると気分的に疲れてしまう。広いフロアに見渡す限りの品揃えも、豊かさというより程よさを超えた退廃を感じてしまうのは、貧乏性のせいか。豊かになればなるほど人間は弱くなる。早い話が、毎夜羽毛布団で心地よく眠ってはいても、いつでもせんべい布団で安眠できる強さを失ってはならない。

  それでも年に1度ぐらいはカミさんを連れてデパートに行く。先日もスーツとスポーツシャツと靴をまとめて買いに行った。カミさんを同伴するのは、品物を選んでもらうため。私自身はおしゃれにとんと興味がなく、服は暑さ寒さを防ぐもの、靴ははだしで歩くとケガをするからぐらいにしか思っていない。

  同伴するというより、身なりにかまわぬ私を見かねて、カミさんが私を連れ出すと言った方が正しい。「馬子にも衣装だから」「馬子にも衣装だから」と呪文のように唱えながら、デパートに乗り込む。

  ところがペアを組むから時間がかかる。紳士服売り場にたどり着くまでに、女性用小物売り場に差し掛かると「みなみにちょうどいい」、若者用セーターに目が止まると「耕太郎や佑三や知之に」と途中停車する。先を急ごうとすると「あんた、うるさいね。喫煙コーナーでタバコでも喫ってくれば」。なにしに来たんだよと私は力なくつぶやく。

  そもそもカミさんは、一念発起して家計簿をつけても、3日でギブアップするほど計画性のない生き物なので、クレジットカードでも持たせた日には大変なことになると、ビザやマスターカードは家族加入しないでずっと黙ってきた。ところがある日気がついてみると、高島屋だの松坂屋だの5枚も6枚も束にして持っていた。

  ようやくにしてスーツを一着新調。サイズ合わせをして、でき上がったら送ってもらうことにする。スポーツシャツは厚地のを2着。靴はカミさんが陳列棚からとっかえひっかえ持ってきたが適当なのがなく、買わずに帰宅。

  家に戻ってスポーツシャツを着てみたら袖が長い。なんだこりゃあと言ったら、知之が「服が悪いわけじゃないよ。おやじの体形に合う既製服なんかないもんね」。

  デパートはやっぱりくたびれる。

新年の祈り
2005 1/1

 新年を迎え、ことしはどんな年になるだろう、と思いを馳せる。「よい年でありますように」と神仏に祈念する。そこには不確定なこの先1年に対する「よい年であってほしい」という期待と、「よい年になるのだろうか」という不安が同居している。

  先のことは分からない。だから大昔は呪術師が占った。今は経済アナリストが景気を占ったりするが、どちらも当たったためしがない。

  だれもがよい年にと願っているのに、1年経ってみると戦争、犯罪、天災、人災と、暗澹(あんたん)たるニュースに事欠く日がないのはなぜだろう。

  人間は、来るところまで来てしまった、生き物としての基本を野生動物の生き方に学び直すべきだ、というのが持論の私には、神が人間を創ったことがそもそもの間違いではないか、と思うことがある。動物よりも格段に優れた知能を与えられながら、神に比肩するには程遠い。不完全な知能は、当然ながら使い方を誤ることがある。

  原爆を発明し、環境を破壊して自らの住む星を危機にさらしながら、目先の損得に血道を上げてまだ懲りない。民主主義を広めると称して侵略と殺戮(さつりく)を繰り返す西の超大国。偽札、麻薬、拉致、テロとなんでもありの東のならずもの国家。身勝手な欲が人間の精神を蝕む。企業犯罪しかり。金権政治しかり。やらずもがなの殺人事件しかり。中途半端な知能を与えられた人間は、どこまで愚かな過ちを犯すのか。

  それでもやはり新年になると、私たちは「ことしこそ、よい年でありますように」と祈る。なにが起こるか先の読めない弱さを知っているからだ。万能ではない自分を自覚しているうちは、まだまだ救いがある。祈るということは、そういうことなのだろう。

  大統領や将軍様も、この際、奢(おご)りを捨てて初詣に行くとよいのだが。