発行人コラム(過去ログ2006年)


犬の出産
2006 12/20
 
 愛犬小次郎が年頃になり、一度こどもを産ませようかという話になった。小次郎と言ってもジャックラッセルテリアのメスで、一度も産まずに避妊手術をするとホルモンのバランスが悪くなると聞いた。

 受精は成功し、キュッと締まった筋肉質の体形が、だんだん子持ちシシャモのようなおなかに変わっていった。カミさんが予定日の1週間前にレントゲンを撮ろうかと言うので、そんなことしなくてもいいよと答えた。小次郎の前にいたコロは庭で飼っていて近所のオスに見初められ、3度も出産したが何の手もかけないうちにひとりで産んだ。しかし、今度は室内で飼っているのでカミさんも日々気になるのだろう、結局レントゲンを撮って4匹と判明した。 娘がダンボールで保育室を作り、屋根の部分に母子5匹の絵を描いた。

 予定日より早く出産が始まった。3人で見守ったがなかなか出てこない。1時間ほどかけてようやく1匹目を産み落としたものの、息をしない。背中をさすってもだめ。あわてて動物病院に駆け込んだ。「仮死状態ですよね、なんとかなりますかね」とカミさんは医師にすがりつく。医師も背中をさするしか手がない。

 カミさんには明らかに、自分が2番目の子を死産したときのことが蘇っていた。「どうですかね、なんとかして」と、子犬を諦められないようすだが、私は小次郎の方が気になった。まだ3匹いる。次のことを考えなければ。

 医師は帝王切開の方法もある、と言った。犬に帝王切開なんてと思ったが、次々死産では目も当てられない。今度は小次郎を連れに戻り、手術を託した。麻酔を打つなどして2時間で無事出産。その日に連れ帰る。

 翌日、最初の子の遺体を引き取り、3人で庭に埋めてやった。「せっかく生まれてきたのに」とカミさんがつぶやく。娘は早々と4匹の子犬の絵を描いたことを気にした。私は「自然界のことだから。いつでも全部育つわけではない。だから一度に4匹も産むんだ」と答えた。

 3匹はすくすくと育っている。まだ鼻の頭も足の裏もピンク色で、なるほど犬も“赤”ちゃんだ。目も見えず立ちもできず、しかしだれに教えられなくても這って行って小次郎のおっぱいにぶらさがる。小次郎も甲斐甲斐しく授乳と下の世話を続ける。独りモノの時には想像もできない献身ぶりだ。本能は素晴らしい。毎日3人で飽きずに眺めている。

こんにゃくゼリー
2006 11/8
 
 近ごろカミさんが、高校の同窓会だ、大学のクラスの同窓会だ、サークルの同窓会だなどといって、ちょいちょい外泊する。子離れした年代になって気安く集まりやすいらしい。おやじがヨレヨレしながら働いているのに、外食なんかさせてと思うが、「娘とデートできてうれしいでしょ。アハハ」などと言い残していそいそ出かける。

 酒を飲んで運転はできないので、出かける店は歩いて行ける範囲になる。「奥さんに逃げられた親子のようだね」と、娘が冗談とも本気ともつかぬ感想を漏らす。たまには肉を食おうかと石焼きステーキの店に入ったら、娘は値段の高いほうからメニューを選び始める。ちょいちょいあることだから、こっちの方にしておけ、と小声でたしなめているのに、人数が少ないときはいいじゃないのと、大きな顔で特選牛のディナーコースを頼む。悔しいから私も同じものを注文する。

 娘は、運ばれてきたオードブルやサラダをほおばりながら、私に説教を始める。「お母さんには、もう少し口の利き方に気をつけたほうがいいね。二人とも普通じゃないんだから、お互いうまくやろうと少しは相手に気を使わないと」。普通じゃないとはどういう意味だ。おまけに、うまい、うまいと肉を追加注文する。

 帰り道で、ドラッグストアに付き合わされて「財布貸して」。借りるんじゃなくて中身を抜くんだろうに。カロリーゼロのこんにゃくゼリーと、化粧品をお買い上げ。肉をたっぷり食ったあとでダイエットの準備かい。このこんにゃくゼリーの棚のすぐ上に、働きバチ用の栄養ドリンクがずらりと並んでいるのを見て、他人事ならず胸が痛む。

 「日経ビジネス」の最新号で「広がる消費の男女格差」を特集している。中見出しに「京都観光を支える50代女性」と「消費のにおいがしない男性」とある。なるほど、家でいくら「質素でつつましいシンプルライフ」を提唱しても無駄な抵抗か。母娘の挟み撃ちで私の財布が見る見るうちに軽くなる。これでカミさんが帰ってきたら、同窓会でモテた話をまたひとしきり聞かされるんだろうな。

丁重語、美化語?
2006 11/1
 
 文化審議会ではこのほど、敬語を従来の3分類から5分類に改める指針案をまとめた。従来の謙譲語を謙譲語1と2に、丁寧語を丁寧語と美化語に分けるというのだが、そんな区分をしてなんの意味があるのかさっぱり分からない。

 例として、伺う、申し上げるは謙譲語1で、参る、申すは2なんだそうだ。1は自分の行為などで相手を立てる、2は自分の行為などを丁重に述べると説明し、2はカッコして丁重語とも呼んでいる。しかし、伺う、申し上げるも丁重に述べているし、参る、申すも相手を立てている。どこが違うのか。

 丁寧語は、です、ますなどが、話し相手などに対して丁寧に述べる、美化語が、お酒、ご祝儀など物事を美化して述べる、と例を挙げている。これも理解に苦しむ。酒をお酒と言ったら美化したことになるのか。「まずいお酒だねえ」「けちなご祝儀だよ」とけなしても美化になるのか。

 なんでこんなわけの分からないことをしたのかと思ったら、国民の約4割が、正しい敬語を使っているか自信がないと答えた世論調査を受けての指針案と言うから、2度驚く。

 たしかに、敬語の誤用はよく耳にする。ご乗車できませんは、ご乗車になれませんが正しいし、窓口に伺ってくださいは、窓口にお尋ねくださいでないとおかしい。しかし、誤用を正したいなら、年に1回誤用例を挙げて注意を喚起したほうがよほど効果が上がる。敬語をうまく使えない人に、いじくり回して細分化した分類を押し付けたところで、混乱が増すだけだろう。

 近ごろ、英語を小学校から必修にすべきだとの意見が強くなっているが、日本語をちゃんと使えない大人が増えているのに、なんたる無定見だろうとあきれる思いがする。言葉は単なる用件伝達の道具ではない。人は言葉を使って物を考えるから、成長期に言語で思考力の基盤を形成する。母国語を使いこなせない日本人が、英語の技能を充分身に付けたとしても、思考力形成が未発達では中身のあるやり取りができない。

 こういう言い方をすると、あなたはウヨクですか、それとも英語が苦手なんですか、と言う人がいるがどちらでもない。英語は中学からの基礎があれば、大人になってから必要に応じてプラスしても充分間に合うが、母国語の不足は気がついたときには手遅れだ。文化審議会は、手遅れの人が委員になっているのだろうか。

核拡散
2006 10/18
 
 世界で保有される核爆弾は、ロシアに1万6000発、アメリカに1万発、その他あわせて2万7000発にも上るという。人類を5回以上全滅させられる量だそうで、よくまあこんなにアホらしいほどため込んだものだ。

 北朝鮮が核実験に成功したと発表して、世界中で大変な騒ぎになっている。成功かどうか真偽のほども定かではないのに、テポドンとは比較にならないこれだけの混乱は、核保有と言っただけでいかに絶大な威嚇力をもっているかをまざまざと見せ付ける皮肉な結果となった。

 それほど効き目があるなら、脅かされる不利な立場より脅せる側に立ちたいと、どの国も考えて不思議はない。現に被爆国の日本でさえ、そんな意見が出始めた。このまま行けば、核拡散は食い止められなくなる。いつまでたっても力ずくの世の中だ。

 そもそも核拡散防止が、イギリス、フランス、中国を含めた5カ国の勝手な理屈だ。自分たちはよいが、それ以外の国には持たせないなどという屁理屈が通るわけもなく、条約に加盟していないインド、パキスタン、イスラエルがすり抜けるようにして手に入れた。

 北朝鮮はいかん、あれはまさしく「××に刃物だ」と言いたいのだろう。同感だ。なんとか抑え込まねばならない。しかし、あんな凶器を持ちたがるやつらは、あっちが××でこっちは××でないなどと、区別をするのもおかしい。

 拡散に歯止めが利かなくなったら、いっそ大半の国が核保有して抑止力を働かせるしか方法がなくなる。つまり、世界中がヤクザになれば脅すカタギの衆がいなくなるという構図だ。むろんこれはパラドックスで、ヤクザの抗争で地球の破滅ということもありうる。

 そうならないためには、保有国が自ら核廃絶を決意するしか抜本解決はない。「ターミネーター2」で、人類抹殺の指令を受けた相手の新型ターミネーターを倒したあと、シュワルツェネッガーのターミネーターが「まだひとつ人工頭脳が残っている」と言い残して、人工頭脳の埋め込まれた自らの存在を消滅させる。あんな英断は映画の上の話に過ぎないのだろうか。

ビミョウな年頃
2006 10/11
 
 ここ2、3週間、なんとはなしにダランとした気分が続いた。暇で退屈というわけでもないのにどこやら気が乗らないのだ。体調が悪いわけでもない。8月には北海道へ行って気分転換もした。リタイアできないことも分かっている。なのに、元気はつらつ、闘志満々、怒涛の進撃てな具合にはならず、月曜の朝は体も重い。

 野球の選手が引退会見を開いて「以前のように燃えなくなった。ヒットを打たれても悔しくなくなった」などと心境を話すことがある。ひょっとしてあれかな、と思う。それともちょっとした中だるみなのか。

 60という年齢がビミョウに心理的な影響を及ぼしているのかもしれない。近ごろは60を過ぎても仕事を続ける人は多いが、一旦は定年の歳。自分ではまだまだと思っていても、会社から「いえ、もういいです」と正面切って言い渡されるのはどんな気分なのだろうか。

 もっとも、最近は定年を心待ちにし、積極的に迎えようという人も増えている。もう充分勤め上げた、これからは好きなことをして自分のために時間を使いたい、と。趣味のそば打ちセットがよく売れ、昔の仲間が集まってのフォークソングやジャズのミニコンサートも盛んなようだ。消費生活だけではつまらないと、社会参加を重視したボランティア活動も活発だ。

 体力気力は多少衰えたとはいえ、ぶらぶらするには早すぎる。やることがなくなったのではもっと困る。といって経済活動のまっただなかで、気がかりな懸案や不安材料を相手に、責任負って渡り合い、切り抜け続けてゆくには息切れがするし、といったところだろうか。

 ま、仕事継続で時に息が切れたときは、むりをせず生活のリズムを変えてみたり、老後の生活を勝手気ままに空想してみるのがよい。たとえばオーストラリアにカミさんと2人で長期滞在。時差もない、英語も通じる、クルマも左側通行、気候も選べる、BSEもない、ゴルフもできる。いつかきっと行こう、と思い描いている方が、栄養ドリンクを飲むより元気が出るが、もみじマークになるころ外国で運転するのは、たぶん家族に反対されるだろう。

棄煙のすすめ
2006 9/20
 
 棄煙を始めて2カ月になる。禁煙とは違う。

 禁煙は自分で自分を拘束し、喫煙しないことを強制するものだから、禁欲的で息苦しく忍耐を伴う。だからガマンできずについ1本吸ってしまうと、おれはなんて意志の弱いダメ人間なんだろうと敗北感や罪悪感に打ちのめされてしまう。そんな目に自分で追い込むぐらいなら、喫煙を続けていた方が害が少ない。

 棄煙は喫煙を否定するわけではない。否定はしないが依存はしない、つまり吸ってもよいが吸わないという立場をとる。なぜ吸わないかというと、わが物顔で蔓延する嫌煙ファシズムにブチ切れたことは先月書いた。

 これだと、吸う吸わないの選択権はわが手に残っているから、ガマンしているわけではない。実際、ときどき試しに吸ってみる。このとき大事なのは、タバコがほんとにうまいかどうか自問自答してみることだ。

 タバコがそれ自体うまいと思い込んでいるなら大いなる勘違いだ。たとえば飛行機に乗って10時間もガマンした挙句、空港に着いてやっと吸えるとき、どんなにうまいだろうかと期待して火をつけると、拍子抜けがするほど当てが外れる。ガマンが期待を増幅していただけで、あんなものうまいはずがない。棄煙はそれを確認する。一方、ガマンとにらめっこの禁煙は愚の骨頂だ。

 では人はなぜ、年頃になるとうまくもないタバコに手を出すはめになるのだろう。答えは平凡だ。かっこよさ。私の世代で言えば「カサブランカ」のハンフリー・ボガードや「ハスラー」のポール・ニューマン。あの大人の渋み、苦味、不良っぽいダンディズムは、煙の出ないほかの小道具では演出できない。大人になりたい若者、男と対等を主張したい女性をたちまち誘引する魔力があった。

 ところがいまや、事情は一変した。隔離された喫煙コーナーで、背を丸めながらこせこせとタバコを吸う姿のなんとかっこ悪いこと。嫌煙ファシズムがうむを言わさず圧殺し、もはや喫煙を始める動機がなくなった。

 取り残されたのは喫煙が習慣化してしまったオールドファンだ。彼らには棄煙をお勧めしたいが、かっこよい穴場もまだ残っているので禁煙には及ばない。たとえばホテル最上階のバーラウンジ。夜景を眺めながら、久々、優雅に紫煙をくゆらし、カクテルグラスを傾ける。この贅沢なひとときを無粋なファシスト達は味わったことがない。かわいそうに。

隘路(あいろ)の選択
2006 9/6

 カミさんと二人で旭山動物園に行った。その夜は旭川駅近くの居酒屋で食事をし、ホテルまでぶらぶら歩いて帰る途中、道端で演歌のライブに出くわした。

 音響機器を積んだクルマには「日本一周歌旅」とある。すぐに続けて「6週目」。へえ、なんだろうと立ち止まって聞いてみるとなかなかいい声だ。歌の合い間に自己紹介を入れる。クルマで寝泊りしながら持ち歌「ありがとう函館」キャンペーンの旅を続けている。お巡りさんに注意されたら店じまい。夏には故郷の鹿児島にたどりつく。ことし50歳、CD1枚1000円で売りながら、紅白出場を目指している。昨年はテレビ朝日の「銭形金太郎」に出た……。

 とても腰が低い。誠実で好感度も悪くない。ぱらぱらと取り巻いた人の中からCDを買う人が出る。がんばってね、ありがとうございます、と言葉を交わす。小一時間でワンステージを終えると、六、七千円になるのだろうか。

 ステージが終わると、彼は運転席に戻った。立ち去るのかと思ったら、ペットボトルでのどを潤し、じっとしている。しばらく休憩を取ってから第2ステージをやるのだろうか。

 私は彼の人生を想像してみた。歌が好きで、しかもうまい。周りの音楽関係者も実力は認めているのだろう。しかしこの世界は実力だけでは這い上がれない。なにかきっかけや運がいる。それがなかなか巡ってこない。もう50だ。いつまでこんな生活を続けるのか。

 いや、そうではないのかもしれない。夢は決して諦めていないが、これはこれで生活になっている。これで終わったとしても、それもまた自分で納得した人生ではないか。

 私はもう30年近くも前、無名だったころの渥美二郎のライブを聞いたことがある。たまたま行ったデパートの屋上で、3人セットのアトラクションで歌っていた。このときも随分うまい歌手だと思った。その後「夢追い酒」が大ヒットした。50になってブレイクした人もいる。綾小路きみまろはキャバレーの漫談や歌謡ショーの司会で30年の下積み生活を過ごした。

 なまじ才能があると、引くに引けない。そうやって“フーテンの寅”のような流転の人生を送った人の数は、累々とあるのだろう。いいとか悪いとか、他人が口を出す話ではない。

 紅白で彼の姿を見る日が来るだろうか。名前をたくみ・こうじと言った。

葬式仏教の葬式
2006 8/30

 最近、仏教の勉強を始めた。

 字数の少ない戒名は見栄えがしないなどと平気でぬかす菩提寺に唖然とし、愕然とし、憤然としたものの、さてこれからこんな寺をどう扱ったらよいか、考えておかざるを得ない。近頃は大方の寺が葬式と法事しかしなくなり、檀家の方もそれ以上期待しなくなってはいる。しかし、もはや葬式すら寺に任せてよいか疑問なのではないか。

 どこの葬式も似たり寄ったりだ。斎場で葬儀屋が「導師のご入場です。拝礼してお迎えください」というと、坊主が入ってきてやおら重々しく経を読み始める。しかし、何の経なのか何を言っているのか全然分からない。会葬者はチンプンカンプンのまま、何の説明もなく放っておかれ、いつとも知れぬ読経が終わるのをただじっと待つ。

 戒名の要点は2字だが、それにあれこれ付け足して長いものだと11字、字数とともに戒名料も上がってゆく。そもそも戒名とは何か。あの世でちゃんと名前がないとぐらいにしか思われていないが、あれは本来、仏弟子としてこの世をどう生きて行くか発心するときにもらう名前であり、死んでからあわててもらうものではない。そんな説明も坊主から聞いたことがない。要するに、手遅れになってから呼ばれ、わけの分からない“呪文”を唱えて型通りの儀式をこなすのが坊主の仕事になっている。

 寺に足を向けない檀家が悪いのか、向けさせるほどの魅力を失った寺が悪いのかはともかくとして、葬式や墓だけで繋がっている関係がいつまでも続くとは思えない。そういう点ではキリスト教の方がうんと努力しているように見える。教会では日曜ごとの礼拝で布教し、葬儀のときは分かる言葉で語りかけてくれる。会葬者が賛美歌を一緒に歌って死者を送るのもよい。

 しかし仏教に望みがないわけではない。たとえば「がんばれ仏教!」(上田紀行著、NHKブックス)には、危機感を持った僧侶たちの新たな試みや努力が報告されている。で、私なりに仏教と向き合ってみることにした。経は、漢文を音読みするのをやめ、読み下し文すなわち日本語に変換すべきだが、内容も解説書に従って読み解けば、別に坊主にしか分からないようなむずかしいものではない。手始めに般若心経を唱えられるようにしておく。

 もっとも、仏教は葬式や先祖の供養のためにあるものではない。寺がお迎えの近い年寄りの集まる場でなく、若い人が自己省察する場に蘇ってほしいものだ。坊主よ、いいかげんで目を覚ましてくれ。

ブチギレ棄煙1カ月
2006 8/9

 今まで何度も禁煙を試みた。結果は最長で6時間。そういうのは禁煙とは言わないそうだ。ところが今回は違った。初日が終わる段階で、早くもこりゃいけそうだという予感がした。

 これまでとどこが違うのか。まず、やめたいとかやめなくちゃとか思ってはいけない。思っただけでプレッシャーになる。吸いたいけど我慢するのでは、吸いたい方へばかり気持ちが移って、いずれ我慢に限界が来る。吸いたくないと思えばよいのだ。簡単だ。

 簡単なはずがないだろう、ニコチン中毒患者なんだぞ、と思うだろうか。私もそうだった。朝起きるとすぐに一服、朝食後に一服、出勤前に一服、出勤中に一服、会社に着いて一服、打ち合わせで五、六服、原稿書きで七、八服、寝る前に一服、結局一日40本。タバコが切れるとそれだけで不安になって、夜中でも雨降りでも買いに出た。

 しかし今度という今度は、タバコへのそうした心理的依存より、世を挙げての喫煙者いじめにブチギレする気持ちが勝った。タバコ税は気安く上げる、路上で吸えば罰金を取る、レストラン、駅、空港は言うに及ばず新幹線も全席禁煙の構え、個室のはずのタクシーでさえ遠慮を強いる。嫌煙者側には、もうかつてのように分煙などという穏健な考えは毛頭なく、タバコを吸うやつは社会生活をするなと言わんばかりの勢いだ。そのうち逮捕して収容所に送り、強制労働を科す世の中が来るのではないか。

 いや、麻薬と同じ扱いをするなら、いっそそれもすっきりする。販売禁止ならこの国に喫煙者はひとりもいなくなる。ところが、劣等国民扱いしておきながら、姑息にも小刻みな値上げを繰り返して、今や税率63%、年間2兆3000億円の税を巻き上げるのはどんな魂胆なのか。この差別、偏見、嫌がらせ、抑圧の大合唱は、大政翼賛会や愛国婦人会とどこが違うのか。

 そこまでされて吸いたくねえ、おじさんを怒らせると恐いんだぞ、と決起したら、禁断症状も心理的不安も表れない。私が断行したのは我慢と向き合う禁煙ではない。嫌煙者にも重税を負担させて、喫煙者を追い詰めたことを後悔させるために戦う“棄煙”なのだ。

 全国の喫煙者たちよ、相変わらず隅っこで遠慮しながら、いじましく卑屈に喫煙を続けますか。いっそ棄煙し、しかし喫煙は生活の楽しみ方のひとつであり、復権されるべき文化として保存しませんか。正月に雑煮を食うように、年に一度の喫煙デーを設けて、晴れ晴れとタバコを満喫するのです。

やはり行くのか
2006 7/26

 もうすぐ8月15日が来る。あの人は、やはり靖国を参拝するのだろうか。

 非難されるような、過去の戦争を肯定するものではない、平和を祈念するものだ、行こうと行くまいと他国にとやかく言われることではない、文句をつけたい国は靖国に行かなくても別の文句を見つけて言う……。

 言い様はいくらでもある。一応の理もある。相手と喧嘩するつもりならそれでもよかろう。しかし外交の空白はどうするのか。

 一国の総理が、他国に行くなと言われてやめるのはメンツにかかわる問題で、たしかにみっともない。ならば最初から行かなければよかった。行くから引っ込みがつかなくなる。自業自得だ。

 いや、総理として是非とも戦没者を参拝したかったので公約に挙げ、その公約が信任されて総理になった以上は、という理屈。わが身、わが思いに誠実なのは結構だが、先の戦争や支配で殺された人の遺族やひどい目にあった人にしてみれば、国の代表が、戦死でもないのにあとから合祀された戦争責任者を公然と参拝する行為は、決して許せるものではなかろう。その気持ちを忖度(そんたく)していない。

 戦争はお互いさまだ、俺達だって原爆を落としたアメリカを責めていないのだから、済んだことはいつまでも根に持たず、お互い寛容でないと、という理屈はあるのだろうか。いや、日本が本当に独立国なら、アメリカに対して原爆投下の正当化を許さず、敗戦国といえどもきちんと謝罪させて総括するのが、国として取るべき態度だろう。

 だれかが諌(いさ)めても、イコジなあの人はきっと行くだろう。一方で言いなりのポチのくせに、他方で聞く耳持たないこの意地の張りよう。最後までいわく言いがたい変人だった。

呉越同舟
2006 7/12

 夏休みというと、たいていは家でうろうろしながら、あれこれたまっている仕事を片付けるのが常だが、今年はカミさんとふたりで北海道へ行くぞ、と決めた。

 雑学大学のシンポジウム「生涯学習と地域社会」の司会の準備は大筋でめどがついた。文芸同人誌「カオスの会」に依頼された原稿も書いた。娘は美大予備校の夏期講習に出かけ、留守になる。北海道往復の飛行機はマイレージが使える。

 それに私は今年還暦だ。かつての同級生は定年で遊び呆けている。私の場合はまだ子供に手がかかるので自重しなければならないが、その勤勉な姿勢をよいことに子供たちが安心して私のスネをかじっている。気がつくとカミさんまで一緒に取り付いて遠慮なくかじる。このままでは自分でかじる分がなくなる。俺のスネだぞ。

 というわけで、登別と旭川に2泊ずつ。レンタカーで移動しながらゴルフと旭山動物園をマイペースで楽しむことにした。こういうときカミさんはあっちへ行こう、こっちも見ようと駆け回りたがるが、私は重々しくたしなめる。せかせかした観光旅行は初心者がするもの、旅慣れた人は涼風に誘われていつしか午睡のひとときをゆったりと過ごしただけで満足するものだ、と。もちろんカミさんは反論する。「どこが旅慣れた人なのよ。どこにも連れていかないくせに」。

 こうして行く前からケンカになり、行っている間もケンカになり、行くんじゃなかったと後悔しながらくたびれて帰ってくる。もう二度と行くまいと決意を固めていると、カミさんが明るい声で感想を述べる。「楽しかったね。また行こうね」

 今年もきっとそうなるだろう。

床屋の攻防
2006 7/5

 昨年の本欄で、行きつけの床屋の話を書いた(2005年11月9日号「浮世離れ」)。ところがようやく見つけたその床屋が急に廃業してしまった。歳も70、客もまばら、といって店を開けていれば、気まぐれに遊びに出かけるわけにも行かないし、といったところだろうか。元気なうちは土日だけでも仕事を続けたらどう、生活にメリハリがついて体にいいよ、と助言したのだが。

 というわけでまた床屋探しを始める羽目になった。私の頭はただの丸刈りだから別に難しくはない。除草剤を振り掛けて毛が伸びてこなければそれでもよいくらいだ。私がうるさいのは髪型ではなく、店のオヤジとの相性だ。

 散髪の1時間を、私はボケッと過ごしたい。居眠りができれば言うことはない。ところがなかなかそうは行かない。床屋のオヤジというのはどうしてあんなにおしゃべりなんだろう。どうもあれは客を退屈させないためのサービスのつもりらしい。再びの来店を願って人間関係を作っておこうという営業意識もあるだろう。

 あっちもだめ、こっちもだめで床屋を渡り歩いているうちに、どの床屋もオヤジは年寄り、店は古びて客は閑散ってことに気がついた。私が子供のころは、控えのコーナーに髪の伸びた小中高生がずらりと並んで、マンガの本を読みながら順番を待ったものだ。いくら少子化とはいえ、子供たちはどこへ行ったのか。

 「みんな美容院へ行くんですよ。いまどきオカッパや刈上げなんていませんからね」とオヤジが言う。そういえば、昔の中学生は体育会系でなくてもみんな坊主頭だったのに、近ごろ頭を丸めるのは調髪するほど毛が残っていない年寄りばかりになった。ふらりと来店した私のような客を逃がすまいと、ひときわ気合を込めて話しかけるわけだ。

 それにしても理容と美容はどう違うのか。

 理容師法によると、理容とは「頭髪の刈り込み、顔剃りなどの方法により容姿を整えること」で、美容師法では「パーマネントウエーブ、結髪、化粧などの方法により容姿を美しくすること」とある。髪を切るのが理容で、髪型を整えるのが美容らしい。美容院で客を仰向けにしてシャンプーするのは、化粧が落ちないようにするためだとか。

 ま、どっちでもいいけど、私は当分、無愛想ではないが無口な床屋を探し続けることにしよう

揉め事
2006 6/28

 ことしは7月に墓参りをすることになった。墓参は母の最大関心事だが、いつも揉めることがある。母は一家総出で出向きたいのだが、子供にとって土日を潰して出かけたいところではない。それに今は上の3人が各地にばらばらにいるので、召集をかけるのも容易ではない。ではせめてカミさんだけでも、と母は思うのだが、高校生の娘をひとり置いてゆくわけにもいかない。日帰りできない距離ではないが、往復7時間の運転は私がご免だ。

 で、結局今回は私と2人だけと聞いて、母の機嫌が悪い。とりわけ今年は、墓参の直後にカミさんの母親の7回忌がある。そっちは行くのに、こっちに行かないのはおかしい、小林家の墓を守るのがヨメの務めである、私はそうして来た、と言いたいようだ。

 そういう言い方はないだろうと私はたしなめた。というより私がだんだん不愉快になってきた。母が墓参りをしたい気持ちは尊重する。しかし、人にああせい、こうせいと指図すべきではない。子は親の都合や親のついでで生きているわけではない。まして「小林家のヨメ」という言い方には、独立した人格を認めない気配さえある。

 私が、そこまでして行かなくてもいいじゃないの、と思う理由が他にもある。寺がろくでもないのだ。数年前に住職の老僧が倒れてから、はるばる墓参に行っても経のひとつも読む人がいない。息子が新住職になったのだが、よその無住の寺を預かっていて姿を見せない。住職不在の寺は坊守のばあさんが取り仕切っているが、過去帳を一新してもらったらあちこち戒名を間違えている。どこで間違ったか聞いてもとぼける。そのくせ過去帳に父の名を入れた後は3行あけて、ここに生前貰った褒章と勲章を記しておくとよい、と余計なことを言う。母は書きたがったが、私は同意しなかった。人は死ねば仏の前にすべて平等で、俗世のことを持ち込むのは仏教の道に外れてみっともない。それに、ひとりだけ特別扱いしたら代々の先祖を軽んずることになる。このほか、位牌堂の繰り出し位牌には記名を忘れて7年放置した。

 こんなアホ寺でも母は父の墓を守りたいし、死後は息子夫婦に任せて安心したいらしい。しかし古くさいヨメ扱いはよくない。カミさんだって、都合がつけば墓参ぐらいは行く。「そんな言い方するならオレも行かない」と言ったら、気の強い母がしょんぼりして「もう言わへん」と背を丸めた。あと味が悪かった。

 寺が心を改めないと、檀家制度はいずれ崩壊するだろう。

妻たちの奮闘
2006 6/21

 東京雑学大学の菅原珠子さんから、「生涯学習と地域社会」をテーマに近隣市長を招き、シンポジウムを開くので司会をやってほしいと依頼を受けた。

 司会といっても、私は結婚式の司会ぐらいしかしたことないし、生涯学習と言われても不勉強でと申し上げたのだが、大丈夫、大丈夫と言ってあきらめない。なにが大丈夫か分からないまま、下打ち合わせをしてみて当日の輪郭が描けるようでしたら、と先日スタッフの方と面談したのが飛んで火に入る夏の虫、そのまま引き受けることになってしまった。

 引き受ける以上は、聴衆に途中であくびをされるような展開になったのでは情けない。菅原さんに少し勉強しておきたいと申し出たら、分厚い関係書籍を5冊も貸してくれた。

 特定非営利活動法人東京雑学大学(TEL 0422―52―0908)は、菅原範人さんが始めて11年になる。この間、各界から多様な講師を招き、週1回の驚異的なハイペースで、市民の手作りによる無料の講演会を開いてきた。範人さんは現在体調不良で、副理事長の奥さんがボランティアのスタッフとともに活動を続けている。シンポジウムは8月26日、コール田無で。

 夏休みはのんびり昼寝ができるはずが、この下準備で吹っ飛ぶな、と思っていたら、文芸同人誌「カオスの会」の竹内稔さんから原稿の依頼。「近く15号を出すことになったので、2ページ程度の巻頭言を」。エッセーでもなんでもいいからと気安く言うが、なにしろこっちはこのところネタ切れで、本欄を書くのも青息吐息の状態。気に入ったコラムを切り抜いて貼っといてくれと言いたいがそうもいかない。

 カオスの会(TEL 042―422―7743)の方は、作家の故吉岡和雄さんを担いで20年前に立ち上げた。こちらも今は妻、洋子さんが代表に。私は創立時のメンバーだったよしみで、現在は会友にしてもらっている。

 頼まれると断れないというわけではないが、こうして息長く営々と活動を続けてこられたあれやこれやを見ると、カミさんや子供とのバトルに明け暮れして実り少ないわが身をつい反省する。少しは人の役に立たねば。

超少子化
2006 6/14


 出生率がとうとう1.25まで落ち込んでしまった。発表の少し前、少子化問題に取り組む阿藤誠・早大教授の講演を聴く機会があったので、一部紹介しよう。氏は、少子化にも日本、韓国、南欧、東欧など超少子化国と、その他の欧米諸国の緩少子化国とがあり、その違いがどこにあるかを、人口問題研究所や総理府統計局などの資料を使って踏み込んでいる。

 日本の年齢別出生率を見てみると、1970年には25歳〜29歳をピークに、20歳未満から39歳までほぼ二等辺三角形のグラフを描いている。それが2002年には25〜29歳が半減しているのに、30歳以上で特に増加しているわけではなく小さな台形に変化している。これに対しスウェーデンでは、25歳〜29歳で減少した分が30〜34歳で増加している。もともと大きな台形に近いグラフだったのが、全体に5歳ほど加齢方向にずれているだけで、深刻な人口減少にはなっていない。

 氏はさらに未婚化と婚外子の関係にも注目している。日本では30歳未満での未婚率が女子で54%、男子で70%に上る。未婚の母などによる婚外子割合は数%と例外的。ところが、緩少子化国の北欧やフランス、イギリスなどの婚外子は40〜50%にもなる。これは結婚しないが同棲するライフスタイルの拡がりのためのようだ。ヨーロッパでも婚外子割合の少ないギリシャやイタリアでは、出生率も低い。

 親にとって子供は何を意味するのか。「子供を持つことのよさ」の日本のアンケートでは「家庭が明るくなる」「子供を育てることは楽しい」「老後の頼りになる」「子孫が絶えない」などが上位に上がるが、「家名や財産を継いでくれる」「家業を継いでくれる」は、当てにならなくなった。逆に「子育てで大変なこと」では「教育にお金がかかる」「進学やしつけなど気苦労が多い」「外で働きにくくなる」「子供の面倒を見るのは体が疲れる」など。氏は「子供の消費財化と負担感の増大」と見ている。

 氏は超少子化国が緩少子化国なみの出生率に戻れる可能性はあるとし、提言を試みているが、容易ではないとも指摘している。

 生む生まないは個人の専決事項でありながら、社会構造的、経済構造的影響があまりに大きすぎる。目立ちたがりの小泉チルドレン大臣に任せておける問題でもなかろうに

育ち方
2006 4/12


 ウチのカミさんは、麩菓子(ふがし)や芋ようかん、人形焼きといった妙なものを好んで食べる。食い物に妙も妙でないもないが、言ってみればB級品、駄菓子の類で、試しに食ってみてもそれほどうまいとは思わない。

 たぶんそれは、カミさんにとってうまいというよりは懐かしい味なのだろう。浅草育ちのカミさんは、三社祭やほおずき市があると10円玉を手に露店のあちこちをのぞいては、ソースせんべいやべっこうあめを買い食いした楽しい思い出があって、麩菓子もまた同じように、食うと子供のころがよみがえるのだろうと思う。

 私にはそういう思い出がない。おやつは、自家製であれ市販品であれ常に家で用意され、小遣いを貰って“素性”怪しきものに手を出すなんてことはなかった。アイスキャンディーもだめ、紙芝居の水あめもだめ。

 「へえ、かわいそうに。あんたってボクちゃんだったのね」とカミさんはバカにした目で私を見るが、これには事情がある。私の姉が、赤痢だか疫痢だかで幼いときに亡くなっており、私が生まれる前なので詳しいことは知らないが、母としてはたぶんかなり神経質になっていたと思われる。

 そんな私にもアイスクリームには思いがある。夏の盛り、汽車の旅の途中で駅の売り子から買ってもらったアイスクリームは乳脂肪分が少なく、今のもののようにねっとりしていなかった。あれが食べたい。「昔懐かしいラクトアイス」などといって似たようなものを売っているが、あの味は再現できていない。

 なるほど食べ物は、こうでなければという思い入れが人それぞれにあって、その大半が子供のころに慣れ親しんだ、あるいは刷り込まれたものに起因しているようだ。カミさんの作るてんぷらは、衣のカロリーを気にして素揚げに近いし、カレーはトマトジュースをたっぷり使って作るのでミートソースのような色をしている。そのたびに私は「これはてんぷらじゃない」「黄色をしたフツーのカレーを食いたい」と文句を言う。

 ま、夫婦だから争いにはならないが、家事の主導権や流儀の正統性、プライドがかかってくると簡単ではなかろう。世間の嫁姑の確執なんて、そんなものなのではないか。

一括祝賀会
2006 3/22


 「あんた、ことし還暦やろ」と母が言った。

  気にもしていなかったが、言われてみれば60になる。

  「なんぞ記念に買うたらわ。メガネも古そうやし」。

  プレゼントするつもりらしいが、還暦なんて歳を取ればだれでもなるし、60にもなって90のばあさんに祝ってもらうのも……と思って気がついた。あれ、ばあさんは卒寿だ。それならこっちで卒寿の祝いぐらいはしないと。

  さて、近所の店で家族の食事会を開いてもよいが、なにしろ平均寿命をクリアしているのだから、もうちょっとインパクトがほしい。年寄りだからと言って変化のない生活をしているのもよくない。ここらでホテルに一泊して、姉の家族も呼んで、ついでに少し遠いが母と仲のよい叔母も呼んで……と考えを進めて、またハタと気がついた。叔母は米寿だ。おや、いとこに古稀がいる。そういえば還暦も2人いる。

  ええい面倒だ、全部いっぺんに集めてしまえと企画したのが「祝卒寿・米寿・古稀・還暦 年寄りの集い春の宴」。仕事で都合のつかない1人を除き、めでたくみんなの賛同を得た。総勢12人が夕方集まって、ただ飲み食いとおしゃべりをして泊まり、翌朝解散だがそれでよい。このぐらいの歳になると、離れ離れの親戚が集まる機会は葬式か法事ぐらいしかない。湿った雰囲気でぼそぼそ故人を偲ぶよりは、生きている間ににぎやかに集まった方がはるかに気分がよい。ホテルには、耳が遠い人も大声で気兼ねなく話せる個室のバンケットルームと、ひざが悪くても支障ないベッドの部屋を用意してもらった。

  開催日は4月8日で、だれの誕生日でもないが、細かいことを気にする人はいない。そもそも還暦といっても満も数えも混在して、要するに理屈がつけばなんでもよい。あえて言えば、4月8日はお釈迦さまの誕生日で、これから仲良くしていきたい相手なので、ついでに祝ご生誕。


  参加できないいとこは残念がっていたが、10年経ったら生き残った人で「百歳、白寿、傘寿、古稀の集い」を開けばよい。出席したければ健康に気をつけるに限る。

  近ごろは斎場ばやりだが、生前法要パーティー会場なんてものを作ったらどんなものか。ジジイ、ババアが線香をたいて「次は私の番やでえ。待っててや」などと叫びながら酒を酌み交わしたらどんなに楽しいだろう。

てんしき
2006 3/1

 落語に「てんしき」という演目がある。

  寺の和尚が体調不良で医者に診てもらったところ「てんしきはおありか」と聞かれた。和尚はてんしきが何か知らなかったが、知ったかぶりで「ございません」と答える。後から気になって小坊主の珍念に探りを入れたり花屋に借りに行かせたりするが、花屋も知ったふりをしてふたつあったが、ひとつは来客のみやげに、もうひとつは味噌汁の実にして食べたなどと適当な返事をする。てんしきとは実はおならのことで、この後も滑稽な珍問答が続く。

  医者としては「放屁はおありか」とぶしつけに聞くのを遠慮して言い換えたのだが、確かに屁というのは人間関係の上で独特の位置にあり、こういうものは他に類がないと感心さえするのは、私が少しヘンなのだろうか。

  娘が学校から帰ってくるやいなや、壁に向かって尻を突き出し、ブリブリブッと豪快な屁をした。こたつに入っていた私があぜんとして見上げると、娘は「だって学校でずっとがまんしていたんだもん」と叫ぶ。その解放感に満ちた晴れやかな顔。「年頃の娘がそんなことをしていると、お嫁に行けなくなるぞ」と言うには言ったが、嫁に行って1年もしたらだんなの前で堂々とするのだろう。

  屁が許容されるのは、どこからの人間関係なのだろう。満員の電車やエレベーターの中で居合わせた人には、とても私がやりましたとは言えない。きわめて親しい仲や親せきでも、ちょっと具合が悪い。となると、これはやはり家族の前だけで通用するものではないか。皇族の家庭ではどうだか知らないが。

  娘がバレンタインデーにカップケーキをたくさん作って配ったとき、あまりものが私にもひとつ回ってきた。ラップした中にメッセージが入っていて「おならは控えめに」とあった。家で一番おならをするのは私で、私はそのたびに家族の絆を確かめている。

  屁はひとりでしても面白くもおかしくもない。尾崎放哉の句に「咳をしてもひとり」という荒涼とした世界があるが、こうした方がもっと寂寥感が出る。

  屁をしてもひとり

「へえ」
2006 2/22

 知らないかと言われれば知らないわけではないが、では知っているかと聞かれると、そうとも言えないってことがあるものだ。

  ソ連が崩壊したとき、いっぺんに15の独立国が生まれた。もともと連邦を構成していた共和国がそのまま分裂しただけなので、彼らにとってはそれほどの戸惑いもなかったのだろうが、こちらとしては「へえ」と思っただけで、こう数が多いと覚える気にもならなかった。なじみがあるのはロシアのほか、杉原千畝で有名なリトアニア、それにリトアニアとセットでバルト3国と呼ばれるラトビア、エストニアぐらいだった。

  ところが分立後15年の間には事変も起こりニュースになる。とりわけこのところグルジアのバラ革命、ウクライナのオレンジ革命、キルギスの政変、カザフスタン、アゼルバイジャンの油田開発など話題も多い。ついでに言うとベラルーシは美人の多い国らしい。

  「へえ」「へえ」と思っても、一体どの辺にある国なのか見当がつかず、なんだかだんだん不安になってくる。地図を見て「へえ、そうなの」と思ったついでに、トルクメニスタンなんて国があることも知って、また「へえ」。

  この際、地理上の位置関係を覚えてしまおうかと思ったが、記憶力が若い頃ほど働かず、どうせすぐに忘れてしまいそうだ。知ってないと困るほど日本との関係もなく、ま、知っているような知らないようなことは、いくらでもあるんだし……なんて思うのが、すでに老化の始まりなんだろう。役にも立たないことをバカバカしいほど詳しいのが教養というものだ。

  実は私、島根と鳥取のどちらが東寄りだったか心もとない。どういうわけか、日本地理は中学1年の時までしか習わなかったような気がする。だから記憶力の旺盛なうちに基礎学力をしっかり身につけておかないと――なんて言うと説教じみて、また年寄りくさくなる。

館内呼び出し
2006 2/15

 娘の高校では、指定の制服が一応あるが、私服通学も認められている。規則で生徒を縛るより、状況をわきまえた自主性を養いなさい、という教育方針らしい。となると、普通科はそれほどでもないが、娘の美術科では制服で登校する生徒は皆無のようで、毎日コーディネートを思案して身支度し、学校で互いに批評しあったりしている。それも勉強のうちらしい。

  で、いろいろと物入りになる。幸いブランド物は欲しがらない。ブランド物は、自分に自信がないやつが欲しがるもので、私は中身がありませんと触れて歩いているようなものだ、と小さいうちから言ってきたのが効いているようだ。それでもなんだか年中買い物に行く。それをまたカミさんがうれしそうに付いて行く。私が汗と涙でやっと稼いだ金を、よくまあなんの気兼ねもなく使えるものだと不思議な気がする。

  あんたも同じ服ばかり着ていないで、少し買いなさいよ、とカミさんが言う。なにを言ってんだか。私が買うべき服は、みんな娘の服に化けてしまっている。

  ところがその、いつも着ている数少ないズボンとコートが一着ずつ、どこを捜しても見つからない。洗濯屋に出しっぱなしになっているのではないかと聞いても、そんなはずはないと言う。仕方がないので半年ぶりにデパートに行くことにした。私はショッピングは面倒で気詰まりな上、方向音痴なので、カミさんに連れて行ってもらわないとデパートに行けない。

  コートは決まったがズボンでもめた。私は6階のスポーツ用品売り場にあったコーデュロイが気に入ったのに、カミさんはこれは膝が抜けてよくないから、4階の紳士服売り場のフラノにしろという。ごちゃごちゃ押し問答をしているうちに「おれはてんぷらを食いたいのに、いいからすき焼きにしとけと言っているようなものじゃないか」と怒ったら、「じゃあ、付いて来てと言わなきゃいいじゃないの」と逆襲し、あとで待ち合わせすることにして、途中から合流した娘と小物売り場か何かへ行ってしまった。

  私は6階に戻ったが、ズボンの売り場が見つからない。6階でなかったような気がして、カミさんと娘を捜したが、これも分からない。すっかり迷子になって館内放送で呼び出したら、ほどなく救出された。

  念願のコーデュロイを手に入れ、待ち合わせ場所でおとなしく待っていたが、閉店時間になっても二人は現れない。場所は再確認したから、今度は間違いない。蛍の光が流れ、店員が商品にほこりよけの布をかける。広いフロアに客は私ひとり。店員が近寄ってきて「お客さま、いかがされましたか」。ワケを話すと「館内呼び出しいたしましょうか」。えっ、2回目だよ、と思った時、やっと二人がやってきた。

  だからデパートはいやなんだ。

孤高
2006 2/1

 高校の美術科に進んだ娘が、しょんぼりしている。毎日楽しそうに通学していて、そんな表情は見せたことがないのに、どうしたのか。描いた絵をクラスで批評しあう時に、自分の絵には意見が出なかったことがショックだったらしい。

  娘は幼稚園の時から絵を描くのが好きで、小中学校ではいつも目立っていた。運動会のプログラムの表紙を飾る絵が公募されると常に採用されたし、校外コンクールでも入選した。体育の教師に、おれのジャージに何か描いてくれと頼まれたこともあった。しかし、高校の美術科となると各地から絵に自信のある子が集まってくるので、ひときわ抜け出るというわけにもゆかなくなる。

  自分では自分の絵をどう思うのかと聞くと、一番よいと思うと答えた。じゃあそれでいいじゃないかと片付けても、でも誰も何も言ってくれない、と沈んだ声で言う。「バッカだなあ、人が見てどう思うかなんてどうでもいいことだよ。自分の絵にうっとりするぐらいじゃなきゃ」と話すと、そうだねと娘は気を取り直した。

  娘は中学の時も、授業中別の生徒が悪い冗談を言って彼女をからかい、教室がどっと沸いたと言って落ち込んだことがあった。人に気を使うところはカミさん似らしい。この時は森鴎外の短編の話をした。

  鴎外の「杯」は単純な話だ。十一、二歳の娘7人が、温泉宿の近くの泉でそれぞれ杯に水を汲んで飲んでいるところに、フランス人の女の子がやってきて自分の杯を取り出す。娘たちの杯は銀製なのに、この子のは小さな陶製の黒ずんだ杯だったので、娘たちは侮りの色を見せたり、私のを貸してあげるよとお節介を焼く。するとこの子は「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」と答える。フランス語なので娘たちには通じないが、この子の意思は伝わる。

  つまりね、孤高ということなんだ、と私は説明した。娘には初めて聞く言葉だった。「言い換えると矜持(きょうじ)、自分を恃(たの)むといってもいいかな」。よけい分からなくなる。

  いずれ言葉の意味が実感できる時が来るだろう。その時は、充実した気分で絵が描けているだろうか。自分の絵にうっとりできなくて、いい絵は描けない。

再びダイエット
2006 1/25

 太り気味だったのでダイエットをしてみたら、苦労もなくすぐに効果が出た、と以前書いた。その後気にしないでいたら、いつの間にか元通りに戻ってしまっていた。

  今度は本気でやらないと。というのも、もうすぐ定期健診がある上に、医療保険の見直しをしようと思っていたところだった。健診で要再受診や要治療が出ると、保険に入るとき一定条件で保障の免責を受けることがある。これから保険に入るというのに、免責でけちをつけられるのは気分が悪い。そこで健診前の一週間、酒を抜いてみた。

  家で飲む酒はせいぜい1合どまりだから決して多くはないが、もう何十年もほとんど飲まない日はない。酒なしでは5分か10分で食事が終わってしまうし、ルーチンワーク(決まり事)を変えるのはどうも勝手が悪い。と思いつつやってみたら、効果はてきめんだった。

  わたしがいつもひっかかるのは、肝機能のγGTPと高尿酸、総コレステロールだが、γGTPは半減して「ほぼ正常」、尿酸もセーフ、総コレステロールはオーバーしたが244なら正常値にあとひと息のポジションだ。酒の肴がなくなった分、体重も減って「ふつう」の範囲内に。

  せっかく改善したので前のように酒を飲んだのではまずい。そこで、家では金曜日の夜の楽しみにした。

  たまに飲む酒はことさらうまい。辛口だがとがってはいないすっきりした味わいの純米酒。そのほのかな琥珀色をしばし眺めたあと、香りを確かめながらのどの奥にそっと流し込む。映画「黄色いハンカチ」で、刑務所を出所した高倉健が、思いつめたような表情で久しぶりにビールを飲むシーンが蘇る。分かるなあ、あの気持ち。

  いやいや、腹が出ているのでもう少し減量しよう。「節制をしてあと2キロ痩せるんだ」と高らかに決意を語ると、意外にもカミさんと母親が同じ反応を示す。

  「酒より先にタバコでしょう」

  ハテ、嫁としゅうとめってそんなに気が合うものだったっけ。

悪人正機
2006 1/18

 私の家の宗派は曹洞宗だが、中学、高校が浄土宗系の私学だったため、法然や親鸞にはなじみがある。法然上人の和讃に次のものがあり、学校のチャイムには今もそのメロディが使われている。

  「月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ住む」

  月の光はあまねく地上を分け隔てなく照らしているが、この光を仰ぐ人の心にしか届かない、という意味だ。存在と知覚とは別物で、「それ」が目の前にあっても気づかなければ目には入らない。毎日通る道にポストがあっても、意識がなければ案外気がつかずに通り過ぎる。ハガキを出そうと思って探していて、ああなんだ、こんなところにあったのかと初めて気がつく、なんてことは日常の経験でもあることだ。

  もちろん法然はポストの話をしたかったわけではない。仏法の智慧や慈悲は、すべての人の心に行き渡るものだが、それを自覚した人が受け取れる、と暗喩している。

  なんでこんな話を始めたかと言うと、私には法然の弟子の親鸞が説いた悪人正機説の悪人の意味が、長い間腑に落ちなかったからだ。親鸞は言う。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ阿弥陀の世界に往って生きることができるのだから、悪人の往生は言うまでもない)」(歎異抄第3章)。

  悪いこととは知りながら少々はやむを得ぬこととして続け、「人間って正しさばかりで生きられないものなあ」と思っている人は多い。それはまあよしとしよう。しかし「なんであれ仏さまは広い心で許してくれるから安心だ」となると、これはどうもおかしい。そういうことを平気で言い、自戒することもない者が真宗の坊主だったりする。

  他力本願といい、悪人正機といい、当時は面食らうほど大胆で鮮烈な論理だったろう。一見、逆説とも取れる。それが800年経って、都合のよいように曲げられていないか。もっとも、寺の形骸化は真宗に限った話ではない。もっと言うなら、今、日本の社会全体が心の面でひどく劣化している。だからこそ、現代仏教の役割は大きいはずだが。

  先日、久しぶりに歎異抄を読んでいて、長年の疑問が解けた。高史明(コ・サミョン)氏は「現代によみがえる歎異抄」の中で悪人を「自らの罪悪性と煩悩に悩み、阿弥陀の本願を恃(たの)むことになった人」と注釈をつけている。つまり、単なる悪人ではない。過去、悪人であっても問われないが、今も悪人のままで顧みない者が正機とされるわけではない。

  昔、子供が悪さをするとカミさんが「仏さまが見ていますよ」とたしなめた。法然の和讃はそういうことなのだろう。

一日の無事
2006 1/1

  「正月気分」というと、ちょっと華やかで浮かれた状態を指すのだろうが、私には正月のもうひとつの顔、穏やかでのんびりとした静寂の風景の方に気持ちがなじむ。

  日頃はせかせかと休みなく動く日常の営みが、元日の朝にはぴたりと止まり、住宅街を訪れるのは年賀状を配達する自転車ぐらい。人通りがないのに寂しい雰囲気はなく、どこか晴れやかでなにもかもが新しく、あらたまったようなすがすがしい気分になる。こんな気分は、同じ休日でも日曜や夏休みには味わえない特別なものだ。年末のせわしなさが、一夜でがらりと変わる落差のもたらす効果も大きいのだろう。

  まるで街全体にアルファー波を引き出す空気が横溢し、その中にどっぷりと浸かり込めるような正月気分に、毎日ひたることができたらどんなによいだろう。しかし、世の中そうは動かない。昨年も、悲惨な事件や事故、戦争や殺人、不祥事であわただしく明け暮れた一年だった。つぎつぎとニュースがなければ報道番組も困るだろうが、たまには「きょうはなにもありません」と言って、環境ビデオでも流してすます日はないものか。

  そうしてみると、なにごともない、無事ということは、平凡で退屈なようでいて実は決して容易ではない、むしろ世の中や人生に稀有の難事であるようだ。

  佐佐木信綱がこんな歌を詠んでいる。

  ありがたし今日の一日(ひとひ)もわが命めぐみたまへり天と地と人と

  この歌は信綱の遺詠三首のうちの一首だが、一日一日を確かめながら生き、一日の無事を天、地、人の恵みのお蔭と感謝してきょうを終える――そんな気持ちになれば、いさかいや不祥事も起きなかろうに。年頭に当たってわが身に心しておきたい。