発行人コラム(過去ログ2007年)

エッセイの書き方・5
2007 12/19

 自分なりの見方、感じ方、考え方を言葉にする以上、どこかで聞いたような陳腐な話では読者もがっかりする。決して奇をてらうという意味ではなく、そこに新鮮さや独自性を折り込んで勝負をかけたいものだ。

  歌謡曲の歌詞を例に取ってみよう。昔はやった「女心の唄」に「どうせ私を騙すなら、騙し続けてほしかった」という一節がある。この歌は理屈からいうとかなりおかしい。ウソをついていて途中でばれるから騙したことになるのであって、騙し続けるのなら騙したことにならない。しかし、騙されてなお強い未練が残る微妙な心情が巧みに吐露されて「言われてみれば分かるよな、その気持ち」と気づかされる。

  今も歌い継がれる「神田川」では「若かったあのころ、なにも恐くなかった。ただあなたの優しさが恐かった」が心に迫る。若者が無鉄砲で恐いもの知らずなのはなるほどそうだ、と思わせておいて、「あなたの優しさが恐い」とはどういうことか、と立ち止まらせる。いま幸せだ、しかし幸せすぎて、こんな幸せがいつまでも続くわけがない、という予感や不安――これもまた、言われてみればの発見ではないか。

  こうして読み手の心を掴んで動かすには、かなりのサービス精神が必要だが、逆に人目に触れるのを意識して恥ずかしがったり、無難さを求めると、てきめんに平凡で常識的な話になってしまう。

  ただし、読み手が身近な人であれ、不特定多数であれ、人は思いも寄らぬ受け取り方をすることもある、と覚悟しておいた方がよい。自著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」第6章所収の「海外旅行をするなら」では、あちこちに出掛けたいカミさんと、出不精で面倒がる私との応酬をマクラに振った後、どうせ行くなら数々の名所旧跡を落ち着きもなくこなすだけの観光旅行でなく、ポルトガルの小さな漁師町で小部屋でも借りて、土地の人情に触れながらしばらくのんびり暮らすのがよい、と書いた。

  応酬のくだりで「私がミラノやロスにも行ってないのでみんなエッて絶句するよ」と大袈裟に言うカミさんに対し「ウソをつけ。生協の共同購入仲間のおばさんたちが、そうあちこち行っているわけがない」と書いた。カミさんは生協を利用している。数年前、この話を本紙に掲載したところ、読者から「これは生協の仲間を馬鹿にしているのでしょうか。私の周りには90%が海外旅行に行っています」とブチ切れ状態のハガキが届いた。カッと来てブチッと切れると1カ所にとらわれて全体が見えなくなる。これは表現上の責任なのか、読解力の問題なのか。先ごろの柳沢前厚労大臣の「女は産む機械」発言も、彼の本意とかけ離れたところで大騒ぎに発展した。

  不測の災難を避けるため、筆名で逃げる人がいるが、筆名は覆面のために使うものではない。近ごろはハンドルネームだのラジオネームだの匿名だのと覆面ばやりだが、モノを言う以上、覚悟の上で本名を名乗り、責任所在を明らかにしておくのがルールだろう。
          (おわり)

エッセイの書き方・4
2007 12/12

 新聞で使える漢字は常用漢字が基本。常用漢字以外の漢字は、熟語の一部でも平仮名を混ぜたり、ルビを振る。新聞は万人が読めることを前提にしているからだ。

  しかしエッセイとなると、それでなければという思いが書き手にあれば、ある程度無視して自由に使ったらよいと思う。

  私がどうしてもいやだと思うのが代用漢字だ。常用漢字以外の漢字で、常用漢字と似た字があれば、それで代用してもよいと国語審議会が決めている。たとえば、稀有は希有、擬似は疑似、象嵌は象眼、臆病は憶病、といった類い。漢字の数は膨大で、諸橋轍次の大漢和辞典には、親文字で5万語、熟語で53万語もあるから、これもやむを得ぬ苦肉の策ではあろう。しかし、漢字はそれぞれ固有の意味を持っており、姿かたちが似ているから拝借というのは、いかにも乱暴だ。稀は「まれ」なのに希は「ねがう」、擬は「なぞらえる」なのに疑は「うたがう」の意味しかない。象嵌の「かたどり、はめる」を「象の眼」にしてよいものか。「おもいだす、おぼえる」の憶の病とは認知症のことなのか。

  外国語の氾濫もしばしば問題になる。安倍前首相は最初の所信表明演説でカタカナを70回も多用した。「戦後レジームからの脱却」をうたい文句にして全国民に呼びかけたが、レジームの意味が分からず戸惑った人は何千万人いただろう。相手の立場に立てない人は、日本語を使ってもよく伝わらない。「美しい国、日本」とは一体なにを言いたかったのか。

  訳語は、あえて訳せばという便宜上のもので、外国語と日本語は厳密に言えば置き換えられない、というのが私の考え方だ。オレンジを訳せばみかんになるが、愛媛で採れるのはみかんで、カリフォルニアで採れるのはオレンジでなければならない。2つは大きさも皮の厚さも味も全然違う。

  ずいぶん理屈っぽい話になってしまったが、私が言いたいのは、言葉や言い回しを選ぶときは、場面に応じて一番ぴったりするものを選ぶべきだということだ。やわらかい和語、硬い漢語、くだけた俗語、軽い流行語、カタカナ、平仮名……字数の少ない俳句や短歌の世界では、とりわけ言葉選びが命となる。

  文をつづる途中で、もっと適当な言葉や言い回しがあったはずだが、筆を止めて探してみても思い浮かばない、というときがある。そんなときはとりあえず書き進んでひと晩置き、翌日読み直してみると、見つかりやすい。


エッセイの書き方・3
2007 11/28

 以前、谷戸公民館で「文章実作教室」の講師を務めたとき、生徒さんから「どうも構えてしまってうまく書き始められない」と相談されたことがある。私は、書き出しにはこだわらなくても一向に構わない、と考えている。

  「雪国」「奥の細道」「方丈記」など、古今の名作の書き出しには名文が多い。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる「平家物語」などともなると、一大叙事文学の序として、全編に流れる無常観の主題を格調高くうたい上げている。

  しかし「今昔物語集」などの書き出しは実に単純だ。どの話も「今は昔」「今は昔」の繰り返しで、たまに「これも今は昔」があるぐらい。書名の通り「今となっては昔の話になるが」と切り出し、さまざまな面白い話を集めた説話文学で、エッセイとは違うが、短い文の中で一面の真実を切り取る点では通い合うものがある。

  自著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」第2章所収の「馬齢を重ねる」の書き出しも、実年齢と見かけの若さを巡る話を導入するにあたって、ちょっとしたエピソードを使っただけで、本題ではなく落語のマクラのようなものに過ぎない。

  一方、話の着地が、落語でいうオチだとする(常にそうではないが)なら、これはちょっと気を利かせなければならない。話が中途半端でどうもうまく結べないときは、なにを言いたいか自分でもはっきりしていないおそれがある。この点でも書く前の要点整理が大切になる。コラムとなると主張を折り込み、メッセージ性が高くなるので、なおさら着地の重要度が増す。

  とはいえ「今昔物語集」の着地は常に教訓が語られ、それが説話の本領なのだが、説教くささが鼻につくことがある。説話ではない「徒然草」にもちょっとそんなところがある。

  主張があるとついうっかり高みに立ちがちだが、そこは細心の注意が必要だ。高みに立って物を言ってすべると、悲惨な結果を招くことになる。


エッセイの書き方・2
2007 11/21

 特に用件もないが、相手の声を聞きたくて電話をかけるときがある。会話のなりゆきで思わぬ話が聞けたりもするが、もともと目的がないからついだらだらと長電話になる。

  目的がある場合はどうか。話し方の要領に良し悪しがあり「あ、そうだ、あれを連絡しておかなくちゃ」とあわててかけると、その1点にとらわれて充分に伝わらないことがあり、またかけ直したりする。かける前に一度要点整理をしておくと、過不足なく伝えられる。

  エッセイも同じ。題材が浮かんでもすぐに筆を執り、なりゆきで書き始めず、少し内容を温め、大まかで簡単な構成をしてからの方が、厚みも広がりも出る。1000字かそこらだからと言って、筆が勝手に走ると思わない方がいい。

  私はひとつの話に、3つぐらいの要点を盛り込んでから書き始めるようにしている。自著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」第1章に所収の「はあ?」では、近ごろ若い人たちが会話の途中で「はあ?」と、ぶしつけで攻撃的、拒絶的な反応をしばしばするのが気になって、1話書こうと思った。しかし、「はあ?」は不快だ、だけでは話を支えられない。「はあ?」がはやる前はなんと言っていたか、と思いを巡らすと「マジで?」。その前は「ウッソォ、ホントォ?」だった。それぞれの言葉のニュアンスが相手に与える印象は、「はあ?」で明らかに変質している。それは何を意味するのか。

  この話をあとで分解してみると、起承転結にちょうど収まる。話が一本線でなく複合的に動き出し、途中で局面が転換して着地する。起承転結はなかなか便利な手法だ。

  ただし、それは結果的にそう言えるということであって、この手法に嵌めようと思って書いたわけではない。嵌めようと思うと窮屈になり、むしろ身動きが取れなくなる。

  眼高手低という言葉がある。眼は高い、つまり理屈は分かっていて他人の批評はできるが、実際に自分でやってみるとうまくできないという意味で、理屈通りに動こうとするより、メモ程度の要点整理をした方が助けになる。

  余話になるが、世の中にはまれに「眼低手高」の人がいる。長嶋茂雄は天才的な野球選手だったが、その動物的カンは理屈ではないので人には伝えられない。「いいかい、球がスーと来たら、パーンと叩いて、ピューと飛ばせばいいんだよ」と言われてその通りにしても、うまく打てるはずがない。


エッセイの書き方・1
2007 11/14

 さる1日、一橋学園前郵便局で開かれた東京雑学大学の講演会で講師に招かれた。講演の内容は、本紙コラム「きのう きょう あす」の書き方の手の内を明かしながら、受講者が文章を書くときのなにか参考になれば、といった趣旨で、今回から5回の連載で抄録します。
       ◇
  ひとくちに文章と言っても、手紙やレポート、新聞記事や小説、エッセイ、論文とさまざまだが、そのいずれも日記や手帳のメモとは大きく違う点がひとつある。

  日記や手帳のメモは自分に分かればよい。しかし読み手を想定した文章となるとそうは行かない。たとえば吉永小百合と来週の水曜日午後6時に赤坂プリンスホテルで会食の予定があるとする。手帳には該当日の欄に「吉赤プリ6PM」と書けば用は足りるが、他人が読んだのではなんのことかさっぱり分からない。

  幼児との会話では、相手が目の前にいても、相手の言う内容が受け取れないときがある。「きょうはだれと遊んだの」「いっちゃんと遊んだの」。いっちゃんてだれ? 本人はもちろん分かっているが相手には通じない。
 
新聞記事なら5W1Hを漏らすことなくこれを説明する。たとえば「さる1日午後4時半ごろから、福田康夫ちゃん(4)は、西東京市谷戸町の谷戸公園で、近くに住む小沢一郎ちゃん(4)と、約1時間にわたり砂遊びを行なった」。

  新聞記事ならこれでよい。事実を前提としているので、人が犬を噛んだ事件を報道しても驚きこそすれ、事実を疑う人はいない。しかし、同じ話を小説にすると、読者は「いくらフィクションでもそれはありえないだろう」と付いて行けなくなる。したがって小説では、読者を虚構の世界に引き込むために、説明ではなくいかにもありそうなリアリティーのある描写を必要とする。「晩秋の夕日はすでにかなり傾いていた。大きなケヤキの木が、公園の砂場に長い影を落としている。一郎は砂山作りに夢中だった。康夫が『山にトンネルを掘ろう』と言うと、一郎は少し考えてから『いいよ』と答えた」。

  これが論文となると、感覚ではなく裏付けのある論理性が要求される。砂遊びの例を50年前の出来事としてその検証のための研究論文に仕立ててみよう。「当時、福田康夫と小沢一郎は、同じ幼稚園の同じクラスで席も隣同士であったことから、親交は深かったと推測される。2人がしばしば砂遊びに興じていたとしても、なんら矛盾はない」。

  エッセイは、自分なりの見方、感じ方、考え方を、比較的短い文にまとめて切れ味を見せるもので、フィクションではないが説明文でもない。

  しかしここで大事なことは、どう書き分けるかではなく、どの文章も読み手がいる限り、まず基本として、文脈は分かりやすく混乱の起きないよう、内容はひとりよがりになって読者を置いてきぼりにしないように注意すること。そのためには、書き手としての自分のほかに、読み手としてのもうひとりの自分を頭のどこかに置いて“これでちゃんと伝わるかどうか”を常に問いかけながら書き進めることだろう


幼なじみ
2007 10/31


 同期の同窓会は、出てみるとその時の年齢によって随分雰囲気が違うように思われる。

 40代ぐらいの働き盛りだと、出世街道を走っているやつの中になんだか鼻息の荒いのがいる。やたら名刺を配りたがるのは、オレはこんなにエラくなったと自慢したいからか、こんな場でもビジネスチャンスをあさっているのか。逆に、半生イマイチだった人は隅っこにおとなしくして目立たない。気後れして欠席するやつもいる。女性の場合は、夫の地位や子どもの学校のランクで、じっとりと張り合ったりもある。

 昔は同じ教室で机を並べた仲ではないか。それを今さら勝ったの負けたのと見苦しくて見ていられない、と白けてしまう人も結構いる。私も10年ほど前、そうとは知らず不用意に出てみてうんざりした。

 ところが、十数年を経て定年前後の年齢になると、がらりと空気が変わる。みんなすっかりいい人になって付き合いも深まり、だれかの心配事、相談事に親身になって助け合う。歳を取ると角が取れて丸くなると言うが、ヒマが増えるので遊び友達を確保しなければならないし、死んでから悪口を言われないようにと、配慮が働くようにもなるのだろうか。

 もっとも1回でこりごりだったのは小学校の同窓会で、和気あいあいなのは中高時代の顔ぶれなのだが、先日は小さな食堂をやっている小6のときの同級生の店に寄ってみたら、長いブランクにもかかわらず思いのほか話が弾んだ。お互い子どものころを知っているので、今さら取り繕うこともない。彼の店で飲み食いしながら「おう、気が合うな」。カラオケ店に席を代えて深夜までマイクを奪い合った。

 「友を選ばば書を読みて、六分の侠気四分の熱」と歌にあるが、この歳になるとそんなものどうでもいい。


出版事情

2007 10/10

 
 本は、製作して取次ぎを通し、書店に並べてもらえば内容次第で売れる、というものでもない。

 まず、内容次第といっても、読んでみなければ分からない。立ち読みで手当たり次第に読破する豪傑もいまいが、仮に読破したとすれば買う必要もなくなる。ま、興味がわけば手にとってパラパラめくってまえがきや目次、見返しや本文の一部をチェックすることになるが、ではどこで興味がわけば本に手が伸びるのか。

 この段階で来店客には表紙しか見えない。だから版元側は表題や装丁、帯のキャッチコピーに髪の毛をかきむしって知恵を絞る。ただし表紙といっても、ハリーポッターのような本なら、ドッと平積みされて表表紙が出るが、棚差しになると幅わずか15ミリ程度の背表紙で勝負になる。なにしろ新刊書の発行点数は年間8万点近くにも及ぶ。平積みできるスペースは大型店でも限られてくる。棚差しからも外れ、店内に並ぶことなく返本される新刊書もある。

 返本率の平均はあっと驚く40%弱。4200社の版元がひしめき合っての過剰供給ゆえなのだが、そうなると版元も発行部数に慎重にならざるを得ない。全国に書店は1万7000店。これを上回る部数を版元が初版で刷る例はそうはない。返本の一方で、小さな書店には売りたい本が回って来ないことになる。

 版元はあの手この手の策を練る。発売前の手ごたえを見るために、主な書店に向けてファクスDMというチラシ広告のような物を送る。本ができるとマスコミや図書館にプレスリリースをつけて贈呈し、話題作りを仕掛ける。本の世界も複雑だ。

 本欄のコラム集「虫瞰(ちゅうかん)の風景」が、いよいよ書店に並び始めた。本紙オフィスでも扱っている。


千客万来
2007 10/3

 
 このところ遠路からの来客が続いた。

 同窓のA君は広島の大学で国文学を教えている。そろそろ定年がやってくるので、転籍して延長を図ろうと、別の大学の公募に応じて面接を受けに来て立ち寄った。

 飯でも食いに行くかと誘ったが、和食は魚が嫌いだし、フランス料理は肩が凝る、飲み屋は落ち着かない、脂濃いものはどうも、などと講釈が多いので困る。近くの中華料理もあいにく休業でやむをえない、カミさんも連れて焼き肉屋に押し込み、二人に話をさせておいて、ひとりで食べまくった。

 そのあとやってきたのは千葉のBさん夫婦。カミさん同士が学生時代の友達で、家族ぐるみの長いつきあいだが、それでも10年ぶりの再会。B夫人の弟も合流し、てんぷら屋で腹ごしらえをした後、5人でカラオケを3時間、マイクを奪い合って歌い家に戻る。その晩はうちで泊まって翌日は日曜なので、つい夜中の3時まで話し込んだ。

 先週は大阪の長男が、遠距離恋愛中の女友だちと顔を見せた。彼女がうちに来るのはこれで3回目。結婚するような、はっきりとは決まっていないような、なんだかビミョウな仲のようだ。すし屋に行って、本人に勘定を預けた。親孝行も練習しておいた方がよい。

 彼女を駅まで送って行くというのを、ちょっとうちでコーヒーでもと誘ったら、犬の熊五郎が大喜びで飛びついて、彼女の腕に大きな引っかき傷が2つできた。親犬の小次郎は、犬にしておくには惜しいほどおりこうなのに、クマはいつもまるで空気が読めない。これからは「晋三」と改名したらよかろうに。


「虫瞰の風景」
2007 9/12

 
 本欄のコラムを単行本にすることになった。

 新聞は鮮度が命の生ものだから、コラムとはいえこれを本にまとめる気など、私には長い間毛頭なかった。ひと昔前の話を再録してもピンとこないだろうし、街に住む人でなければ背景が分からない題材もある。書き飛ばし、読まれ飛ばし、生々流転、未練を残さぬ潔さ、といったつもりだった。

 ところが読者から折々に「本にしないのですか」「本が出たらぜひまとめて読みたい」などとお便りをいただくようになった。内心悪い気はしないが、真に受けてよいものか、と生来の素直でない性格の上に、本の出し方も分からないし――と思っていたら、第三書館の北川明さんと知り合う機会を得た。北川さんには「古い、新しいは新聞社の感覚ですよ。シェークスピアなんて400年前の作品を今でも売っているんですから」と言われ、この際の引き合いに出すにはちょっと違うけどな、と思いながら、なんだかその気になってしまった。

 時事テーマなどをかなり落として厳選したが、それでも230話にもなり、前編、後編各224ページの2部作となる。1999年から直近までの後編を10月に、前編は来年1月に上梓の予定。

 本作りで最も悩んだのは題名だった。私は最初、「言わせてもらえば」にするつもりだったが、北川さんからクレームがついた。たしかに地元の読者には通じても、全国相手では無名のオッサンがなにを言いたがっているのか分からない。
 20案ほど考えたが、どれもしっくりこない。するとカミさんが「ぼくの頭がハゲるわけ」にしたらどうかという。木瀬記者には大ウケ。ところが北川さんも表紙のデザイナーも「うーん。治療薬の本じゃないしね」。

 結局ぎりぎりになって「虫瞰の風景」に決まった。虫瞰とは、鳥の眼で大空から地表を俯瞰する鳥瞰に対し、草の根を掻き分ける虫の眼で地平を観察するという意味で、本紙はずっとこの視点を続けてきた。

 さてこれで、書店で目が止まり、手に取ってみようという気になってくれるかどうか。10月を待つ。


生活臭
2007 8/22

 
 「近ごろは、臭いを嫌がるやつが増えたけど、臭いって人間にとって結構大事なものじゃないのかな」
 学生時代の友人と酒を飲んでいたら、突然彼がそう言い始めた。

 「この間、おや、どこかで嗅いだことがあるような臭いだと思ったら、子どものころおじいちゃんの部屋に入ったときと同じだと気がついた。今で言えば加齢臭なんだろうけどな。臭いで記憶が蘇って、懐かしかった。それだけのことだけど」

 言われてみれば、昔は家庭の内外でいろいろな臭いがした。風呂場、下駄箱、便所、台所、どぶ、土の臭い、草の臭い、蚊帳の臭い……。それが、便所は水洗で消臭剤、冷蔵庫の中は脱臭剤、どぶも未舗装道路も原っぱもなくなって、無臭、無菌が第一。自分の汗の臭いや口臭も神経質なほど気になって、シューシュースプレーを振り掛ける。つまり臭いは不快な物として拒絶され、他人にも自分にもだんだん許容ができなくなっている。

 動物園は、かつて子どもたちの大好きな場所だった。それがいつのころからか、けものの強い臭いが嫌われ、代わりに水族館がもてはやされるようになった。今でこそ、旭山動物園のアイデアが各地の動物園にも波及し、客足が幾分戻っているが、よく見ると話のタネにと訪れる大人の団体客の方が目立つ。昔の子どもはどんな臭いも平気なほど鼻が悪かったわけではあるまい。

 田無駅北口から青梅街道に抜ける道は、再開発の前は車も通れないほどの細い路地で、両側に八百屋、だんご屋、うどん屋、総菜屋、花屋などがひしめき合って並び、行き交う人の群れに「安いよ、安いよ」「奥さん、買ってって」と売り子が声をかけた。そうした活気に溢れた風景も含めて、生活の臭いや色が消えてゆく。


来世はあるか
2007 8/1

 
 来世があるかないか、現世の人はだれも見たことがないので、あるともないとも証明できない。しかし私は、あると信じる人が、なぜあると思いたいかは説明できる気がする。

 現世で思いを遂げ、充分満足して死を迎えられる人はどのくらいいるだろう。「私の人生ぐらい辛酸をなめ尽した一生はない」などと苦労話を語る人がある。悲惨すぎて人には語れない人もいる。せめてもと、死後の世界に救いや幸福を求めるのは、古今東西を問わず、自然のなりゆきだろう。死をもって生まれ変わり、来世に思いを託すことは、待ち遠しいことでさえあるのかもしれない。

 これとは逆に、死への恐怖から逃れるレトリックとしても、死後の世界へのこだわりが生まれる。人はだれもいつか死ななければならない。現にこうして目に見、耳に聞き、口で話し、頭で考え、元気にやっているのに、死んだらなにもかもなくなってしまうなどとは、想像もしたくない。肉体が滅びたあとも、せめて魂ぐらいは残ると思わないことには、とても生きてはいられない、と。

 魂とはなにか。精神活動を指して言うなら、それをつかさどるのは脳で、脳は肉体のうち。そうなると、魂と肉体の二元論は成り立たない。また、神が人間を創造したのでなく、人間が(深い思慮があってのことだが)神という概念を創造したのと同様、死後の世界もまた人間の創作で、その証拠に人間以外にそんなことを考える生き物はいない。

 結局のところ、死後の世界なんか、人間の弱さと欲のゆえに生み出された虚構である、と言ってしまってはミもフタもない。来世を信じることで心の安寧が得られるならば、他人がとやかく口を出す話ではない。

 問題は、真摯な宗教活動に紛れ込んで、人間の弱さや欲を操る手合いがいることだ。最近は、あろうことかテレビがそれを見世物にしている。細木ナニガシといった横柄な占い師や、他人の前世やオーラの色が見えるらしいソフトタッチの霊感師を、視聴率稼ぎに使ってよいものだろうか。


淡きこと水の如し
2007 7/18

 
 うちのカミさんは人付き合いがよい。だから友だちもたくさんいる。引っ越しをしたときなど、近所の人が何十人も見送りに来て、道路に人だかりができたほどだ。

 引っ越してからもつぎつぎと付き合いができた。前の家のように親密な近所づきあいのある一帯ではないが、町内を越えてあっちの仲間、こっちのグループと2重、3重の人間関係を結んでいる。気がよいので人には好かれる。しかし、世話好きでも仕切り屋というわけでもない。気の合わない人がいても合わせようとする。

 これだけお人よしだと、厚かましい顔ぶれにはいいように利用されてしまう。たとえば、数人で会合に出掛ける。高速道路も使ってちょっと距離がある。彼女らは迷わずカミさんの車に便乗することに決め、往復を送り迎えさせ、高速代負担も申し出ない。

 さすがにカミさんもストレスがたまる。が、私は取り合わない。「そういうのを飛んで火に入る夏の虫というんだよ。そこまでしてそんな連中と付き合わなければいいんだ」

 礼記(らいき)に「君子の交わりは淡きこと水の如し。小人の交わりは甘きこと醴(れい=甘酒)の如し」と言う。よく似ているが荘子には「君子は淡くして以って親しみ、小人は甘くして以って絶つ。かの故なくして合する者は、故なくして以って離るる」と記す。

 要するに、自分と相手との距離をわきまえて、お互いの領域に踏み込まない、踏み込まれない人間関係が、淡々と流れる水のように絶えることなく続く、というわけだ。

 それでなくても人間関係はむずかしいのに、近ごろは自分勝手で慎みのないやからが増殖している。しかしまあ、いちいち怒っていたのでは身が持たない。夏の虫でいるぐらいの方が多くの友に囲まれ、豊かな人生といえるのかもしれない


特徴のない喫茶店
2007 7/4

 
 私が子どものころ、コーヒーは喫茶店で飲むものだった。コーヒー豆を挽いて缶に入れた輸入品も売っていたが、一般には家庭で飲むことは稀だった。

 一般家庭に一気に広がったのは、インスタントコーヒーが出回るようになってからだろう。納豆と味噌汁の朝食が目玉焼きとコーヒーに、番茶と和菓子のティータイムがコーヒーとスナックへ変わっていった。しかし、味はサイホンやドリップで淹れた喫茶店のコーヒーにはかなわない。その後メーカーも工夫して高級化を図ったが、インスタントにはやはり限界があった。

 その差を埋めるのに、家庭用のコーヒーメーカーが人気を集め始めた。自宅で豆を挽いて濾紙で濾すと、香りも味も充分に引き立つ。コーヒー専門店では、豆を炒るところから手をかけ、種類も豊富に用意しているから、まだ差はあるが、喫茶店にとってはかなりの強敵になったのではないか。

 追い討ちをかけたのがファーストフード店の安いコーヒー。味は明らかに後退したが、特別な飲み物でなくなれば、半値以下で気安く飲める方にも人が集まる。

 さらに気安いのが自販機で手に入る缶コーヒー。これはもうコーヒーとは別物といっていいが、これはこれでファンができた。

 かくしてかつての名曲喫茶、純喫茶、談話喫茶などがしだいに姿を消して行き、喫茶店もランチやマンガやネットを用意してしのぐ店に様変わりしていった。いまカフェとして勢いがあるのは、スターバックスやドトールなど、味をそれなりに維持し、価格も抑えて多店舗展開を進めるチェーン店だろう。

 私は家で毎日数杯のコーヒーを飲む。それよりおいしいコーヒーをと思うときは、コーヒーがおいしいだけで特に特徴もない喫茶店に出向く。そういう店がいずれなくなってしまわないかと心配だ。


おやじ族の生態
2007 6/13

 
 昔、卒業間近の学生や生徒をホテルの食事会に連れて行き、テーブルマナーを教える女子大や女子高があった。社会に出てからそんな機会があったとき、恥をかかないようにという配慮なのだろう。あれは今でもやっているのだろうか。なんだかしゃらくさい気がしたものだが、やっておいて無駄ではない。

 ホテルで数百人が出席する政治や経済の講演会がある。新聞社主催だけあって講師は多士済々。講演の前に昼食が出る。聴衆は会社経営者が多く、若くて50代、上は70、80代で、会場は加齢臭ぷんぷんになる。それはまあよいが、ひとテーブル10人にひとりふたりはどうにもぎこちない人がいる。

 音を立てずにスープを飲むのはコツがいる。これはざるそば式になっても日本人ならとがめられない。床に落としたナイフを自分で拾う。隣の人のグラスの水を間違えて飲む。この辺までは許容範囲。食事の途中でタバコを吸う。食器をかちゃかちゃいわせて食べる。だんだんはた迷惑になってくる。食事を口に運びながらケータイをいじったり新聞を読む。周囲が「なんだい、この人は」と言った面持ちで見る。

 極めつけは、食事を終えたじいさんが、やおら入れ歯をはずして水の入ったグラスに入れ、ゆすいだとき。家でいつもそうしていて、習慣になっているのだろうか。毎日付き合うヨメの思いが察するにあまりある。

 食べ物も食べ方も西洋化して、コーラやアイスクリームを歩きながら飲み食いするのは無作法だとか、近ごろの若いモンは箸の持ち方も満足に知らない、と小言の多いおやじ族も、実はこんなにかっこ悪い。

 不慣れな席に出るなというのも気の毒だし、いまさら女子学生並みにテーブルマナーの講習会でもなかろう。周囲にそこそこの気配りができればそれで合格なのだが。


エベレスト登頂
2007 6/6

 
 エベレスト(チョモランマ)に登頂したと、2男から連絡が入った。下山に折り返したキャンプ地で衛星電話が使えるらしい。心配でハラハラしていたカミさんも、これで落ち着いたようだ。

 今シーズンは他のパーティで死者が何人か出てしまった。その中のひとりは、出発前の低酸素室で知り合い、お守りを贈った相手だった。標高が1000メートル上がると酸素が10%薄くなる。8848メートルともなると高度順応もさることながら、判断力が随分と低下するらしい。

 マッキンリーのときは単独行だった。チョー・オユ(8201メートル)では公募隊に参加し、ただひとり無酸素登頂に成功した。今回も公募隊に加わり、7900メートルから酸素を使ったので、比較的安心かと思っていたが、2、3度死ぬ思いをしたようだ。

 死とぎりぎりの隣り合わせになるのがどういうことなのか私には分からない。本人も語らない。しかし、出発前にはかなり神経過敏の状態に陥る。トレーニングで痛めた足の古傷が完治していない、体重調整に失敗した、気持ちが集中できない、などといつも不安を口にしながら出掛ける。

 万全の態勢でも天候には勝てない。同じ山に再三挑戦して果たせぬ人もいる。能力をはるかに超えた運がものを言う。

 それを聞いているから、行くたびに「無理はするな」と繰り返し、今回は敗退(登山家たちはそういう言い方をする)かもしれないと思って見送る。そして登頂を果たして帰ってくる。よほど幸運でもあるのだろう。

 今度で最後だと言っている。命懸けの挑戦が彼にとってどんな意味を持っていたのか、私なりにいろいろと考えてきた。しかし本当のところは、やはり分かっていないのだろう。


恐怖の脳ドック
2007 5/23

 
 毎年秋には定期健診を受けている。レントゲンや胃の透視、採血、心電図などひと通りは調べてもらうが、頭のMRIやMRAがない。いっぺん頭の中も調べてもらいな、とカミさんが言うので、それもそうだと検査センターに申し込んだ。

 検査項目はほかに胸部ヘリカルCTや骨粗しょう症なども含め、全部で32。それが3時間で終わると言う。人間ドックもいろいろオプションを付けると昔は泊りがけだったのに、近ごろは医療機器が進歩したおかげだろうかと、軽い気持ちで出かけてみると、いきなりMRIとMRA。狭い装置に押し込められて、閉所恐怖症の人には大変だと聞いていたが、うわさどおり台の上に寝かされ、頭を固定されてトンネルに入る。

 検査員が「これから1時間動かないでください。動くとやり直しになります」と脅かす。我慢ができなかったら声を掛けてくださいって、拷問のつもりかい。「大きな音が出ます。眠っても構いません」。親切なアドバイスのつもりだろうが、大きな音がすれば眠れない。眠っていたって寝返りぐらい打つだろうに。鼻や耳がかゆくなったらどうしようかと、始まる前に掻いておく。

 1時間は長かった。あらぬ考えを巡らせながらやっとの思いで暇つぶしをしたが、音楽ぐらい掛けてくれればよさそうなものだ。これじゃあ病気になってしまう。

 やれやれと思って次の検査で血圧を測ったら168。「血圧は高いほうですか」と聞かれ「いえいえ、上が100行かなくて測り直したことがあります」。「ははあ、脳ドックでストレスが溜まりましたね。検査の最後にもう一度測りましょう」

 再測定の結果は128。無事解放された。


死ぬに死ねない
2007 5/16
 
 従業員170人の会社経営者Aさんは60歳。あと18年は死ぬにも死ねないと思っている。というのも、事業承継を託す息子と38歳の年齢差があり、40で一人前とするなら自分が78になるまで目が離せない計算になるからだ。

 冗談じゃない、第一線はせいぜい70までで、それ以上出しゃばっては老害になる、と思うが、何度計算し直しても78は78。平均寿命からすれば無理な数字ではないが、なにが起こるか保証のないのが人の命。なにがなんでも78というのは、気がつけばその歳に届いたというのとはまるで意味が違う。

 そこでAさんは考えを変えてみた。自分が70なら息子は32。どこやら心もとないが、近ごろIT業界では30代の若手経営者も珍しくない。結構行けちゃうかも、と思いかけて、いやいやと首を振った。ホリエモンや村上ファンドは、やりすぎてずっこけた。民主党のプリンス、前原さんも脇の甘さで失脚した。一気に世代交代した安倍総理もなんだか頼りなかったり強引だったり。

 M&Aや廃業なんてプライドにかけてもとんでもない話だ。従業員の将来にも責任がある。かといって死ぬ自由もないオレの人生は一体なんだ、と嘆いてみても、友人たちは「贅沢言うな、後継者難の時代に跡継ぎがいるだけでも幸せだよ」と同情もしない。

 それからのAさんは、念入りな健康診断、食事の管理、適度な運動、充分な睡眠、規則正しい生活、安全運転に心掛けたが、あるときハッと気がついた。

 「後継がしっかりするまで生きていなければと思うからいけないんだ。オレが死んだら勝手にしっかりするに違いない」と。

短文
2007 4/4
 
 今週から1行11字取りになって、この欄も中身を2割減らさないと、従来のスペースからはみ出てしまう。

 文章はなるべく簡潔で無駄がないのがよい。600字でも400字でもそれなりの書きようはある。しかし、話に厚みや展開を持たせようとすると、エピソードや論点を1話に3つぐらいを盛り込みたい。制約の中でむりをすると凝縮しすぎて舌足らずになったり、文の運びが窮屈になる。短文になるほど難しいとも言える。

 短文で有名なのが、家康の家臣、本多作左衛門重次が陣中から留守宅に送ったとされる手紙。

 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
 
お仙とは長男の仙千代のことで、留守を守る要点は火事と育児と馬の世話であるぞと、妻に過不足なく申し送っている。西洋人なら「陣中より愛を込めて」ぐらいは付け足さないと、帰ってから叱られるだろうが。取手市青柳の本願寺にこの手紙の碑がある。

 フランスにはもっと短い手紙のやりとりがある。差出人の文面は「?」、受取人の返事は「!」。差出人はビクトル・ユーゴーで、「ああ無情」を出版したとき、本の売れ行きが気になって「?」と尋ねた。すると出版社が「!(バカ売れです)」と答えた次第。

 これが売れ行き不振だったらどんな返事になっただろうか。→や×ではあまりにストレートだし、…ではどうにも白ける。ケータイでいま流行の絵文字なら、額から汗のにじんでいる顔にしておけば無難だが。

飲んで崩れず
2007 3/28
 
 夕食のとき、私は毎晩酒を飲む。量は知れている。日本酒なら1合、缶ビールならレギュラーサイズ1本。それですっかりいい気分になる。
 つきあいで外で飲むときはそうはいかない。飲め、飲めと勧められれば断らない主義なので、どこまでも飲む。注がれているうちにだんだん量が分からなくなる。さらにハシゴに誘われて、焼酎だのウイスキーだのえり好みせずなんでも流し込む。しゃべりまくってとまらなくなる。

 そこまではまだいい。限度を超えると記憶がなくなる。そういうことがこれまで2度あった。夜中に布団の中で目を覚まし、途中までは覚えているが、どうやって帰ったのか思い出せない。さらにまずいことに、だれか怒っている顔がとぎれとぎれに浮かんでくる。なぜ怒らせたのかさっぱり分からない。ハテ?
 朝になるのを待って、相手に電話をかける。なんだか分からないがとにかく謝っておく。学生時代にカミさんの兄貴と飲んだときは「まあ、こっちも酔っていたから」と寛容だった。さすがは仏道に仕える身、人間ができている。

 もう1回は40歳のころ。大酒飲みの少し年上の画家としたたかに飲んだあと、もう一軒行こうと誘われた。このときはさすがに翌日の仕事を考えて辞退したら「近ごろの若いやつは計算しながら飲む」と言われ、私の闘争心に火が点いた。こうなると負けたくない。3軒目の店に行ったまでは覚えているが、夜中に気がつくと布団の中にいて……。怒っていたのは画家ではなく、スナックのおばさんだった。

 同じパターンで画家の家に電話をすると、奥さんが出た。今度は義兄のようにはいかなかった。「忘れるはずないでしょ、覚えているでしょ」とチクチクいじめるので、以後この一家には近づかないようにした。

 その後肝に銘じたので失敗はない。台湾で向こうの人15人ほどとテーブルを囲み、1人ずつと紹興酒を乾杯したことがあった。サイズはウイスキーグラスほどだが、ひとくちであおって空になったグラスの底を相手に見せるのが作法だ。こっちはひとり、1巡してほっとしたらもう1巡請われ、受けて立って静かに微笑んでおいた。もっとも、後で聞いた話だが、中国人は相手が遠慮して飲み足りないといけないので、倒れるまで飲ませるのが歓待のマナーなのだそうだ。

それぞれの計画
2007 3/21
 
 昨年末に愛犬小次郎の子ども3匹が生まれ、2匹は引き取られたが、1匹は器量が悪いせいか家付きになってしまった。不憫だと思うと余計かわいくなるもので、その間抜けな風貌、大きな図体から熊五郎と名づけた。

 ヨチヨチ歩きのころはまだしも、動き回るようになると、間抜けな風貌と言ってもそこはジャックラッセルテリアの端くれ、少しもじっとしていない。コタツのコードをかじったり、部屋のあちこちでウンチやオシッコをするようになった。小次郎には厳しいカミさんだが、どういうわけか熊五郎には寛容で「これ、クマちゃん、いけまちぇん」などと幼児言葉で構い始める。孫の世話でも焼いているつもりだろうか。

 孫と言えば長男は26で、学生時代から付き合っているおネエちゃんを家にも連れてきたりするので、結婚するのだろうと思っているとそういうわけでもなさそうだ。ま、勝手にすればよいが、私としては子育てがだんだん終わり、これからは時々家を空けてカミさんと旅行に出かけたいのに、飼い犬が2匹もいたんでは厄介だと思っている。

 しかし、カミさんのコンタンは違うようだ。空(から)の巣症候群というのだろう、子どもたちが自立して行くのが寂しく、私に留守番をさせて彼らと旅行に行く計画ばかり立てる。息子たちも迷惑顔をせず、これも親孝行のうちと思って付き合うのはよいが、忘れ去られた私の存在はいったいどうしてくれるのだ。

 「暖かくなったら犬は庭で飼おう」と私は提案した。庭なら、夫婦で家を空けても隣家の母が餌と水の補給ぐらいはしてくれるだろう。だが、室内で育った犬を外に出してうまくいくのかどうか。庭の見回りに出たがる小次郎を外に出してやってもすぐに帰ってきて、入れろ入れろと網戸を引っかく。しばらくようすを見ていたら、網戸に大きな穴が開いてしまった。早朝からきゃんきゃん吠えたら、近所にも迷惑だ。

 カミさんに意見はない。私が留守番をして犬の世話をすればなんの不都合もないと思っている。そしてクマちゃん、クマちゃんと、かわいがっている。最近はクマちゃんの歌まで歌いだした。

デパートよ
2007 3/14
 
 3月の決算期を控え、大幅利益の出そうな会社は、節税対策に思案を巡らす。不良資産の処分、経費の立つ什器(じゅうき)備品の前倒し購入、損金計上できる生命保険の加入……。

 某社も「うれしい悩み」とつぶやきながら、いろいろ当たったが、これといったタマがない。死蔵在庫や遊休設備は知れている、一時しのぎの生保加入は税の先送りをするだけで、いずれ解約すれば返戻金は掛け金より目減りするので手を出さない。考えあぐねた挙句、目をつけたのが美術品。

 先代社長に美術収集の趣味があり、応接室や会議室にあれやこれやの絵画が飾られている。だが、これが玉石混淆。いい絵もあるが、凡作、駄作、はてはキャバクラの看板にするとよさそうな裸婦像まである。先代はすでに亡くなり、反対する者もいないので、現社長の命令一下、駄作を選んで売り飛ばすことになった。

 簿価は9点で500万を超えた。利益圧縮とはいえ、二束三文は避けたい。「美術品は作家が3割、画商が3割、デパートが4割というから、ま、それなりになってしまうがね」と社長が言うと、経理部長は「キャッシュの捻出が目的ではないので、足元を見られることはないでしょう」と強気の構えを見せた。

 かつて購入時にお得意様扱いを受けていた有名デパートに連絡すると「買い取りはしておりませんので悪しからず」と丁重な辞退。そこで美術商を2社選んで相見積もりをさせると――。

 2社の査定に大差はなかった。24万の書が千円、68万の静物画が5千円、120万の“大作”が1万円、9点合わせて4万なにがしと、散々な結果になった。社長は思わず「デパートが出てこないのも道理だ。これじゃまるっきり詐欺だものな」とつぶやいた。「どうしましょう、売るのをやめましょうか」と経理部長が問いかけると「4万の不良資産をいつまで持っていてもしかたないだろう」。

 買い取った美術商は、もちろん数十倍の値をつけて販売ルートに乗せるだろう。ヤクザな世界と言うしかないが、もともと生活必需品ではないのだから、次のカモが現れなければ人件費と保管維持費がかさむだけになる。

 美術品は恐い、デパートなら安心と思って先代は買ったのだろうが、審美眼に自信のない人は、そもそもこういうものに財布を持って近づいてはいけない。「そういえば、額縁ばかりが妙に立派だった」とは現社長の感想。

裁判員制度(4)
2007 2/28
 
 裁判員の審理のうち、被告が犯人なのかどうか、殺意があったかどうかなどを判断する事実認定についても、私には懸念がある。

 裁判員が扱うのは、強盗、殺人、放火、誘拐など「市民の関心が高い重大犯罪」が対象となる。これらはすべて逮捕や起訴の段階で大々的に報道されている。だから関心が高いのだ。とすると、裁判員は審理に入る前に、被告に対してすでに自分なりの見方を持ってしまっている。事実認定に偏見や予断をもってはならないが、この点をどう回避するのだろうか。

 たとえば、被害者が殺されて葬式が営まれる。のちに身内が容疑者として逮捕されると、テレビは葬式のときの映像を映しながら「何食わぬ顔で平然と参列していた」と説明を入れる。あるいは逮捕の翌朝、留置場で出された朝食を「ぺろりと平らげ」と記事が書かれる。すると視聴者や読者は、こいつはなんという極悪人だろうと思ってしまう。しかし、葬式でおどおどしていたら真っ先に怪しまれるし、朝食はのどにつかえながらやっとの思いで押し込んだのかもしれない。ぺろりと平らげるところをそばで見ていたんか、と言いたくなる。


 フォーラムで私は、司法主導の制度導入の仕方や、受け入れ態勢の不備について質(ただ)した。導入はもう決定しており、それも2年後と迫っている。いまさら、お化け屋敷の前で客と客引きが「恐い、恐い」「大丈夫、大丈夫」と押し問答している場合ではない。しかしフォーラムの展開の基調は依然として、パネリストたちが不安や負担を並べ、判事、検事、弁護士がそれをなだめすかす、あるいははぐらかす域を出なかった。

 不安や負担となるマイナス面をいかに小さく見せるかに汲々としていたのでは、方向を誤る。受け手の立場に立ってものを見て、マイナスを補ってあまりあるプラスは何かを受け手と一緒に考え、明確にアピールすべきだろう。それができていない。せっかくのキャッチフレーズ「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」が、言葉だけで上滑りしている。

 会場は370人満席で、抽選に外れた人が多数出るほど盛況だった。しかし、むしろ関心のない人、うっとうしいことをやらされると思っている人が、裁判員に魅力や意義を感じて、ぜひやってみたいと思うような姿を描いてほしいものだ。    (この項おわり)

裁判員制度(3)
2007 2/21
 
 勤労者が裁判員になった場合、主として2つの仕事上の問題が出る。ひとつは勤務時間を裁判に取られる点、もうひとつは仕事から離れた期間の減収。

 時間については、審理が3日程度なら調整がつけられる範囲だろう。どうしても調整がつかなければ、相当の理由をもって辞退できる。しかし、5日以上かかる場合も10%と想定されている。これは閑職にいないと難しい。

 次に収入面。裁判員に報酬は出るようだが、「具体的な金額は今後決まります」と言うにとどまっている。仕事の内容をこまごま説明しながら、いまだ報酬額を示さないのはどういうコンタンだろう。世間で通る話ではない。

 そもそも、裁判員の位置づけがあいまいだ。市民に対する社会教育なのか、ボランティアとしての社会参加を期待しているのか、裁判官と同格に扱って審理を付託するのか。それによって金額も変わってくる。

 ボランティアなら交通費ぐらいでいいかもしれない。「裁判官とチームを組んで一緒に取り組んでもらう」と言うなら裁判官の平均給与の日割計算分でなければならない。勤労者の減収に配慮するなら、サラリーマン、OLの給与水準に合わせる必要がある。

 勤労者の平均年収は、賞与を除いて380万円程度だから、日給換算で1万5000円になる。年間3600件と見込んで、この報酬額で各裁判に6人が3日取り組むと、毎年ざっと10億円になる。司法の側はその半分を少し上回るぐらいで考えているらしい。税収不足で財源にも限度があるのでと渋い顔をされそうだが、冗談じゃない、この国は政治家や役人が長年の特権意識で税金の無駄遣いばかりしているではないか。お上にばかり勝手をさせないで、こういうときに下々に税収を還元する発想ができないものか。

 私の質問に、フォーラム出席の裁判官は有給休暇による給与保障を口にしたが、ことはそう簡単ではない。自営業、自由業、パート、アルバイトなど有給休暇のない人たちにかえって不公平になる。

 企業がこの制度に理解を示し、従業員が裁判員に選ばれたら、不利益を蒙らないよう配慮すべきなのは当然だろう。それが法令順守、環境保護、人権擁護などと同様、企業の社会的責任というものだ。しかし、自分の財布は隠しておいて、他人の有給休暇制度を当てにするという発想には唖然とする。相手の立場を斟酌できない、いかにもお上の感覚と言わざるを得ない。(つづく)

裁判員制度(2)
2007 2/14
 
 一般人に人を裁けるのか、という不安に対して司法の側の答え方は決まっているようだ。「裁判員は一人だけで裁くわけではありません。他の裁判員や裁判官とひとつのチームを作り、一緒になって結論を見つけ出してゆくのです」。
これではまるで「赤信号、みんなで渡れば恐くない」と言っているようなものではないか。

 1994年に、アメリカのサンタモニカでOJシンプソン事件が起きた。元アメリカンフットボールのスーパースター、OJの元妻とその愛人が惨殺され、OJが逮捕された。動機、物的証拠、状況証拠からみて、容疑はきわめて高かった。ところが、12人の陪審員が下した結論は無罪。OJは黒人で、黒人社会のアメリカンドリームの象徴だった。そして陪審員のうち8人が黒人だった。つまりこの裁判は、誰が犯人かではなく、人種問題論争にすり替わってしまった。のちの民事裁判では、OJが負け、850万ドルの支払い命令を受けている。このときは白人が9人。

 日本に黒人、白人の問題はない。しかし、裁判員の価値観が審理に大きな影響を与えることはありうることだ。たとえば、死刑に賛成か反対か。賛成派も反対派も、実は感情論が多い。みんなで寄ってたかって死刑にしておいて、「ま、おれひとりで決めたわけではないのでいいか」ではすまないだろう。

 裁判員は事実認定をするだけでなく、量刑も求められる。懲役何年にするか、執行猶予をつけるかなど、一般人には判断が難しいという不安には、まず検察官と弁護士の意見が参考になるとした上で、「過去の同様な事件の判例が参考にできる」としている。一応順当な回答とは思うが、死刑か無期かが争点になっている山口県光市の母子殺害事件は、どうしたらよいのか。論点は現行の少年法と、永山則夫以後の4人殺したら死刑とする従来の司法判断で、まさに過去の判例の妥当性が問われている。

 世の中はどんどん変わっている。危険運転致死傷罪が法制化されたのはつい最近のこと。その後、ひき逃げや、アルコール検出量をごまかす事例が出て、早くも新法の不備が突かれている。法や判例は常に現実に後れをとる。

 さらに言えば、人の理解も現実に後れを取る。裁判員が理解できない犯罪の量刑は可能なのか。ネット心中と近松門左衛門の「心中天網島」とでは、心中の意味がまったく違う。私には江戸時代の心中は理解できるが、知らない者同士のネット心中は想像をはるかに超える。 (つづく)

裁判員制度(1)
2007 2/7
 
 先ごろ、地方ごとに開かれる裁判員制度全国フォーラムのパネリストに選ばれ、出席した。90歳になる母親が、ヘマをしないだろうかと心配してついてきた。耳が遠いのに、まるで小学校の学芸会の父母参観の気分ではないか。

 裁判員制度は、司法制度改革の一環として2004年に決まり、09年5月までに開始される。強盗、殺人、放火、誘拐などの重大犯罪の地裁での刑事裁判に、選挙人名簿の中から選ばれて参加し、裁判官3人、裁判員6人のチームで事実認定と量刑を評議し、判決を出す。審理の期間は3日か長くて5日程度。

 裁判を身近なものに、というのが趣旨だが、市民の側に抵抗感は強い。読売新聞の最近の世論調査でも、「参加したくない」と答えた人が75%で3年前より6%増えた。「参加したい」は20%。素人が人を裁けるかという不安や、仕事を休んだり、育児や介護に支障をきたす負担を心配する声が多い。

 市民の司法の場への参加は、従来、最高裁裁判官の国民審査があるが、これはほとんど意味をなさず投票用紙の無駄と言っていい。しかし、裁判への直接の参加ならば、市民がひと任せでなく、社会の一員として役割を担い、自分の手で自分たちの社会を作ってゆくという意味を持つ。逆に言えば、社会や他人はお構いなし、自分中心、勝手放題、モラルもルールも無視の世の中で、規範意識を養うにもちょうどよい。「美しい国、日本」なんてわけの分からないうわごとを言っているよりよほど具体的だ。陪審制や参審制に比べ工夫している点もある。

 というわけで、私は総論で賛成だが、その導入の仕方が気に入らない。「司法に対する理解と信頼を深める」と強調しているが、理解と信頼を深めたいのは司法の側であって、受け手の立場に立っていない。入り口からお上主導なのだ。そのくせ導入したいがきっと嫌がられるだろうなと、内心分かっていて、そのとおりになった。消費税の導入や税率アップの際の国の心理とよく似ている。これが、社会保険庁をどうしますか、年金制度をどうしたいですか、という提案なら、俺にも言わせろ、私にもやらせろと大変な盛り上がりになるはずだ。

 市民に負担がかかると思えば誰でも嫌がる。それを大丈夫です、心配ありません、平気ですとなだめすかしても、収まるものではない。そのあたりの対応ぶりを次回取り上げよう。 (つづく)