週刊コラムニスト(過去ログ2008年)

熟年おやじの大冒険
2008/12/27

 中国人女性のAさんは37歳。上海の大学を卒業後、日系企業に4年ほど勤めたが、日本語・中国語の通訳を目指して10年前に日本の大学に留学した。来日前には、留学経験者からいろいろ情報は得ていた。飛躍を求め希望に満ちていた。

 来日してみると随分事情が違った。勉強のかたわら生活費や学費を稼がねばならないが、留学生が働けるのは1日4時間と制限がある。繁華街の飲食店で仕事を見つけたものの、それだけではとても賄えない。来日にあたって300万円の支度金を業者に払っており、これ以上親元を頼るわけにもいかない。事前の情報は表向きの都合のよい話ばかりで、実際には水商売や風俗の誘惑に負けるケースもまれではなかった。

 「それは絶対にだめだ。なんのために来日したのか」と、身元引受人は厳しかった。でもどうすればよいのか。彼女は、着たきりスズメで化粧もせず、一日に食パン2枚でしのぎながら学業に励んだが、そんな生活をいつまでも続けられるとは思えなかった。
 
 民間企業で管理職を務めるBさんが、ふらりと入ったその店で彼女を見かけたのは、ちょうどそのころだった。それと分かる外国人訛りに、最初は「へえ、勉強しに来たの。感心だね」などと声をかけたのだが、だんだん事情を尋ねるにつれ、孤立無援の彼女にひと肌脱ぎたくなってきた。もちろんチョイ悪おやじの下心もないではなかった。

 実はBさんは長年連れ添った奥さんとうまく行ってなかった。わき目も振らず働いて家族を養い、ようやく子どもたちが巣立ってほっとひと息ついたとき、熟年離婚の話が持ち上がった。50を過ぎて家庭崩壊、自分の半生は一体なんだったのかと振り返る一方で、Bさんはもう一度人生をやり直してぽっかり空いた心の隙間を埋めたいと思い始めた。奥さんも同じ気持ちだったのだろう。

 それからのBさんの動きは素早かった。協議離婚して持ち家を奥さんに渡すと、Aさんと再婚し、子どもが生まれた。そしてさらに、Aさんの卒業を待って、勤めていた会社を早期退職し、中国進出していた日系企業の経営相談の仕事を見つけ、家族を連れて中国に渡った。仕事を通じて現地事情に精通し、人脈を作り、さらに転身の計画を進めている。22歳年下の奥さんも上級通訳の資格に挑戦中だが、60を目前にして1人息子はまだ7歳。あと10年はがんばらなければと思うと、一時不安を抱えていた体調も一気によみがえった。

 彼の大胆な選択は、若気の至りと呼ぶのがふさわしい。そう、彼は若いのだ。

忙中、ひと休み
2008/ 12/22

 11月末に中国出張、帰ってから人事考課、12月初めに米国出張、そのあと中長期計画の見直し、来年度の新入社員研修資料のチェック、ホームページの打ち合わせ、特許出願案件の検討、合間を縫ってMRI検査、インプラントの進捗と、土日もなくやたら立て込むスケジュールにうんざりし、ふっと思いついて週末、カミさんと次男を連れて息抜きの小旅行に出掛けた。

 知多半島の突端から船で15分の日間賀島に1泊2日。タコの魚場で有名だが、真冬はフグもうまいというからこれが目当て。愛犬2匹をペットホテルに預けて、昼前には早々と港に着いたが、釣りと散歩ぐらいしかやることのない小さな島で、まず慣れない釣りに挑戦してみる。

 貸し竿屋に3人分道具を借りて防波堤に出てみたが、ゴカイを釣り針に付けるのに5分もかかる。次男に付けてもらいたいが、いい歳をして「ゴカイが気持ち悪いから」とは頼みにくい。ようやくなんとかぶら下げて海に下ろしたら、しばらくして何も釣れないうちに岩に引っかかり、どうにもならないから中止。次男も釣れずにあきらめる。カミさんなどは島名物のまんじゅうを食いながら見ているだけで、それじゃあなんで竿を借りたのか。30分で切り上げて竿を返しに行ったら、店のおばはんに「早すぎる」と言われた。

 島巡りに切り替えて、途中、島の人に道を尋ねたら「わしも暇だから案内してやる」と先に立つ。なんだか怪しげな風体だったが、見かけによらず親切な人で、あっちこっち夕方まで付き合ってくれて宿に到着。

 昼食ったタコも、宿のフグもうまくてこれは大当たり。島巡りの疲れにひれ酒3杯が効いて、たまらず9時にさっさと就寝、3時に目が覚めて朝までまたやることがない。いやいや、やることがない時間もいいものだ。そう思って来たのだった。白々と明け行く海を見ながら風呂につかってのんびりしてみるが、8時の朝飯が待ち遠しい。

 朝食がすむとさっと宿を立って、帰路の途中、源義朝謀殺の地、野間大坊に寄って義朝の墓に参る。木刀をかたどった供養札1枚に願い事を6つも書いて奉納した。これでまた、この先なにかいいことがあるだろう――と思って仕事復帰。

 のんびりできたのか、せっかちにスケジュールをこなしたのか不明。


おやじの気持ち、娘の気持ち
2008/12/14

 車通勤の朝、時々スカイブルーのプレミオと一緒になる。3車線の広い交差点で、右折しながらすぐにハザードランプをつけて路肩に寄る妙な動きをするので気がついた。最初はなんだろうと思っていたが、停車するポイントが地下鉄の入り口なので、だれかの出勤を送っているのだと見当がついた。

 だれなのか――赤信号の交差点で後ろに付いた折に車内を観察すると、後部座席に若い女がひとり、運転手は初老の男。このコンビは親子に違いない。定年退職した父親が、毎朝出勤する娘を駅まで送っているのだろう。バスか自転車で駅に行かせればよいものを、重役出勤の手伝いかいと思ったが、おやじにしてみれば毎日の楽しみのひとつ、もっと言えば生活の張りになっているのかもしれない。

 娘の方は車内で化粧をするなどせっせと身支度をしてせわしない。朝、ぎりぎりまで寝ているのだろう。おやじとしては遅刻させてはならじと使命感さえ沸く。ひとときの時間と空間は、娘が嫁に行くまでなるべく長く続いて欲しいような、いつまでもそれでは困るような、なんともいえない気持ちなのだろうと想像する。降車するとき、娘が「ありがとう」と礼を言うかどうか分からない。私も右折して前進するので、そこまでよそ見しているひまがない。

 出張した金曜の夜、ひとりで居酒屋に入ってカウンターに席を取ると、しばらくして隣に初老の夫婦が坐った。だれかと待ち合わせをしているらしい。やがて娘とおぼしき若い女が現れた。

 刺身にホッケ、陶板焼きにオニオンリングと料理を山ほど並べて、やおらおやじが娘に本日の要件を切り出した。「ケータイがおかしうなってしもたんや。直してくれへんか。どないもならへんねん」。

 娘はケータイを受け取ると苦もなく直して返した。「こんなことで私を呼んだの」と言われ、おやじはしきりに言い訳を始める。たぶん娘は、夫婦とは別に住んでいるのだろう。同居していれば帰宅してから頼めばよい。「なんぞ予定があったんか」。おやじが気を回す。「カラオケに行こうと思ってたのに」と文句を言いながら、娘は大皿に残った刺身をコンロの火の上の陶板焼きに載せ始めた。「焦げたらアカン」とおやじは水差しの水を注ぎ足す。

 私にも娘がひとりいる。おやじのなんとも言えない気持ちがよく分かる。娘の気持ちは分からない。

ゴッホの絵
2008/12/05

 知人のAさんには美術品収集の趣味があった。よい絵もあったが駄作もあり、確かな審美眼があったとは思えない。死後、息子さんが駄作を売ってみたら、買値の100分の1になった。

 私にはそうした趣味はない。名画なら美術館に置いて公開するのがよい。個人で占有したのでは、その人が自慢するだけの慰みもので終わってしまってもったいない。といっても画家にも生活がある。力量を秘めた画家が育つのも、画商や収集家がいればこそだろう。

 名を成した画家の絵はやたらな値段になる。ゴッホは生前に1枚しか売れなかったというが、死後、「ひまわり」がオークションで53億円に、「医師ガシェの肖像」は124億円にもなった。こうなると原油やトウモロコシの投機と代わりない。天国のゴッホはどんな気持ちだろう。やっと評価を得てうれしいのか、他人の金儲けの道具にされて腹立たしいのか。

 贋作を手に入れて、この絵はきっと値上がりするとわくわくしている人がいる。そういう人は宝くじを買った方がいい。絵の力量を見定めて買ったのではなく、作家の偽の名前に釣られただけで、もともと見る目がない。絵とは縁のない人なのだ。

 逆に、絵はさっぱり分かりませんので、と最初からあきらめて素通りする人もいる。確かに実用品とは違う特殊な力学も働く世界なので、君子危うきに近寄らず、贋作わくわくの人のように怪我はないが、ちょっと心豊かに絵ぐらい楽しめばいいのにと思う。高けりゃ名画、有名なら大作家と、右にならえで有難がる必要もなかろう。美術館へ行って感動する絵もあれば、全く心を動かされない絵もある。それが自分の眼力だ。世間で評価の高い作家を鼻で笑うのは、無名の作家の密かなファンになるのと同じくらい楽しいものだ。ゴッホの絵は、彼の生前も死後も少しも変わりない。


寅さんの名乗り
2008/11/28

 このブログへのご意見の扱い方を、本欄の上にあるブログ紹介欄(表紙の部分)に掲げた。

 実名表記を求めているので面食らった方も多いだろう。ブログの世界ではハンドルネームが常識で、このブログ運営に定型で与えられたコメント記入欄も「ニックネーム」を書き入れるようになっていた。お互い面識のないやりとりが前提なので、個人情報保護に配慮するものだろう。それでなくても、インターネットの急速な発展、普及で予想を超える事態が頻発し、社会が追いついていけないのが現状だ。情報の発信や入手に便利この上ない一方で、犯罪の温床になったり、陰湿な中傷、悪質ないたずらに利用されて防御しきれない。私の身近にも、無防備でブログを開設し、炎上してしまった例がある。最先端のコミュニケーションの手段でありながら、善意であればあるほど悪意に侵されやすく、お互いおっかなびっくり、不用意に信用してはいけないのだから、なんとも大いなる矛盾のシロモノだ。

 ブログが一般にそういうものだとするなら、私のブログは単立コラムであってブログではない。私自身についてはプロフィールで正体を表明しており、アクセスし発言する方とは相互信頼の上に立って意見の交流を図りたい。実名表記で発言の所在を明らかにしていただくのがこの世界で非常識であろうとなかろうと、私を信用していだだくしかない。実名の扱いには慎重を期し、ご希望は厳守する。

 そもそもモノを言うのに匿名、偽名が流行りだした初めはラジオの深夜番組ではなかったか。10代の受験生がラジオのパーソナリティに他愛ないファンレターを送ったり、悩み事を打ち明けたりした。もう40数年も前のことだ。それがやがて一般化し、ラジオネームなどという新語までできて、今どきはいい歳をしたおやじやおばはんまでが臆面もなく使っている。彼らはかつての受験生で、偽名にすっかり慣れ親しんでしまったのか。

 一方今の若者たちは、かつて受験生が深夜番組への投書で孤独を癒したように、自らブログ(日記)を立ち上げ、ハンドルネームを使って見知らぬ人々に語りかける時代に様変わりした。若者はいつの世も孤独だ。しかし日記はもともと他人には見せない自分の内側の世界のものであって、孤独を癒すことにはならないだろうに。

 今でも実名が健在の世界がある。新聞の投書欄だ。私が実名にこだわるのも、新聞記者出身だからだろうが、フーテンの寅でさえ堂々と名乗りを挙げているではないか。「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」。


講演録「私の平家物語――清盛・義仲・知盛の最期」W
2008/11/21


物語が提起するもの

 これまでの3回で、平家の武将だけでなく、後白河、義仲、兼平、後藤兵衛、小平六、盛俊、義経など物語に描かれたさまざまな人間像を見てきた。東国、北国から西海、南海まで広範な地域を巻き込んで、貴族社会から武家社会へと大きく変革してゆく時代に、時流に乗って頭角を現す人、力ずくで押し通す人、流れに飲み込まれる人、翻弄される人、すり抜ける人、操る人、裏切る人、達観する人、それぞれが必死に選択した生き方を、平家物語は生々しくとらえている。

 これほどの激動期でなくとも、人は日々予測しない出来事に出会う。思ったように進めずに、不運を嘆くこともあるだろう。しかし、人生が「リハーサルなしでステージに上がるようなもの」であるならば、めまぐるしく移り変わる無常の世に、練習もやり直しもできない人生が思い通りになるはずがない。お互い表向きは平穏無事で悩みも心配もないような顔をしていても、それはむしろ滅多なことでは人に話せない厄介な事情を抱えているからという場合もあるだろう。

 ただ、思うに任せぬ一大事に直面した時こそ、自分がどんな生き方を選択するかが肝心なところだろう。チェーホフは「科学は問題を解決するが、文学は問題を提起する」と語っている。文学は解答をくれないから、提起された問いかけに、人それぞれが自分で答えを探さなければならない。だから享受者の答えはひとつではない。

 一大事に遭遇したら、ひるまずに生き方を全うする進路を取る。正念場、土壇場、修羅場で、まさにその人間の真価が問われる。いつも貫けるかどうかは少々心もとないが、これが、平家物語に提起された問題から探し当てた「私の平家物語」である。
(おわり)

講演録「私の平家物語――清盛、義仲、知盛の最期」V

2008/ 11/15

 

知盛が見届けたもの
 
 義仲が敗れると、平家は屋島から福原に動き、一の谷の合戦を迎える。大手の範頼は苦戦するが、搦め手の義経は鵯越の奇襲が奏功し、平家は総崩れになる。このとき重衡が生け捕りにされる。前回、義仲と乳母子、兼平との固い絆を取り上げたが、重衡の場合はまるで様相が異なる。重衡も乳母子の後藤兵衛盛長と二騎で逃げ、沖に待つ平家の舟に乗り移ろうと波打ち際を駆けるが、重衡の馬が追っ手の矢に射られて弱る。すると盛長は、自分の馬を重衡に取られてはかなわぬと、気づかぬ振りをして見捨ててしまう。

 もうひとつ、一の谷のエピソードを上げると、大手の守りの侍大将、越中前司盛俊は覚悟を決めて迎え撃つ。源氏方の猪俣小平六が挑むが、組み伏せられ返り討ちになりそうになる。小平六が命乞いをするので助けてやると、盛俊が目を離したすきにだまし討ちにして手柄を立てる。

 さて、平家は再び屋島に戻るが、ここで重盛の嫡男、維盛が、都に残した妻子が恋しく、前途を悲観して戦線を離脱、高野山に上って出家し、熊野で入水自殺を遂げる。屋島には義経が急襲して、内裏に火を放つ。平家は屋島も追われ、周防の壇ノ浦で最終決戦を迎える。この合戦では教経が義経を追って勇猛果敢に戦い、華々しい戦死を遂げる一方、清盛亡きあとの平家の総帥、宗盛は覚悟もなくぶざまな生け捕りになる。義経は目覚しい戦果を挙げて凱旋するが、後白河の画策や、確執のあった梶原平三景時の讒言もあって頼朝に冷遇され、やがて刺客を差し向けられる。

 物語は清盛―重盛―維盛―六代と続いた平家の興亡を、巻12で六代の助命、出家、処刑をもって「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」として終えている(巻12の後ろに灌頂巻を付している諸本もある)。

 これまで見てきたように、平家物語にはさまざまな人物が登場する。ところが平家一門の中に、いわば脇役で章名にも上がらず、つい見落としがちだが、清盛、重盛、頼盛、維盛、教盛、宗盛、そのいずれとも違う生き方をした重要人物がいる。石母田正氏が岩波新書「平家物語」で注目した平知盛である。

 巻11の壇ノ浦に限って、知盛の行動を追ってみよう。開戦時、知盛は「運命尽きぬれば力およばず。されども名こそ惜しけれ。東国のものどもに弱げ見ゆな。いつのために命を惜しむべき」と檄を飛ばす。しかし、教経が手当たり次第敵を倒していると「よい敵と言うわけでもないのに、そんなに無益な殺生をして罪作りをされるな」と使者を送って伝える。敗色が濃くなると、御所の舟に赴いて「世の中、今はかうと見えて候。見苦しからん物どもみな海へ入れさせ給へ」と言って、せっせと掃除を始める。女房達が戦況を聞くと、珍しい東男をご覧になるでしょうと、からからと笑う。そして、「見るべきほどの事は見つ」と言い残し、乳母子と手を組んで海に沈む。

 平家物語の原型は13世紀初頭に成立し、増補を繰り返しながら成長し、13世紀半ばに12巻本になったとされる。いずれにせよ、治承・寿永の争乱が収まった後に作られたもので、作者は滅亡の結末を見届けている。実は、滅亡を予知した人物として、物語は重盛に特別な役を与え、重盛は清盛より先に覚悟の病死をするのだが、知盛は結末を知らぬ渦中にあり、当然、滅亡は見通していない。人間の力の到底及ばぬ大きな歴史のうねりの中にあって、知盛はそれとしっかりと向き合い、都落ち以後も、ブレのない行動を貫いている。見るべきほどのことは見つ――彼は何を見たというのか。石母田氏は「運命をあえて回避しようとしなかった自分自身の姿を見たという意味であったかもしれない」と述べている。
(つづく)

講演録「私の平家物語――清盛・義仲・知盛の最期」U
2008/ 11/08

 

悲劇の義仲と乳母子(めのとご)兼平

 清盛の死後、北国で兵を挙げた義仲は、倶利伽羅落しで勝利し、怒涛の勢いで京に攻め上る。平家一門は安徳天皇と三種の神器とともに都落ちをするが、頼盛は頼朝を頼って離脱する。平治の乱の折、幼い頼朝を助命したのが頼盛の母だったいきさつがあるからだ。

 京を捨てた平家は太宰府で態勢を整えようとするが、重代の御家人、緒方維義に「昔は昔、今は今」と突き放され、讃岐の屋島に舞い戻り、粗末な皇居を設営する。一方、義仲は朝日将軍と称され入京するが、礼儀知らずの無骨な田舎者として疎んじられ、また飢饉続きの中、兵糧米や馬草を掠奪するので、平家よりも劣ると不評を買う。平家追討の水島の合戦で大敗すると、権謀術数に長けた後白河は義仲に見切りをつけ、頼朝に乗り換える。義仲追討令を受けた頼朝は範頼、義経の兵を京に差し向ける。頼朝と義仲はいとこ同士だが、史実によると父の代からの遺恨があった。南関東の義朝と、上野・武蔵の義賢(義仲の父)とは所領争いがあり、義賢は義朝の長男、義平(頼朝の兄)に討たれている。

 追い詰められた義仲は乳母子(めのとご)、今井四郎兼平と悲劇的な戦死を遂げる。この場面がなんともいたわしい。

 乳母とは、主君の子(義仲)の実母に代わって乳を飲ませ育てる人。乳母子(兼平)は乳母の実子で、主君の子と一緒に育つから、主従でありながら兄弟のような緊密な関係になる。京の六条河原で戦う義仲と、近江の勢田で敵を防ぐ兼平は、互いに互いが気がかりで討ちなされながら行方を追い、大津の打出の浜で行き逢う。ならばもうひといくさ、と散り散りの敗残兵を集めて三百余騎の勢を整え、数千騎、数百騎の敵を駆け破り、駆け破りしてついに主従二騎となる。

 ここで義仲は「日頃はなにともおぼえぬ鎧が、けふは重うなったるぞや」と弱音を吐く。すると兼平は「御身はいまだ疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず」と答え、鎧が重いと思うのは味方がいないからでしょう、私ひとりで千騎と思ってくださいと励ます。そしてしばらく敵を防ぎますから、あの松原でご自害を、と勧める。義仲は「都でいかにもなるべかりつるが、ここまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり」と、馬を並べて駆け出そうとする。兼平は今度は逆に「御身は疲れさせ給ひて候」、取るに足りない兵に討たれれば不名誉になります、と馬の口を取って押しとどめる。

 義仲は兼平の言を受け入れ、ただ一騎で松原に駆けるが、真冬の夕刻で薄氷が張った深田にそれと知らず馬を乗り入れ、人馬ずっぽりと浸かって身動きが取れなくなる。防戦している兼平を心配して振り向いた顔に矢を射られ、うつ伏したところを首を取られる。兼平ももはやこれまでと、太刀の先を口にくわえ、馬から逆さまに飛び降りて戦死する。
(つづく)

講演録「私の平家物語――清盛・義仲・知盛の最期」T
2008/ 11/03

 
 さる10月26日、多摩交流センターで行なった講演を抄録します。主催は東京雑学大学。

 東京雑学大学では3度目の講演になる。以前の2回は仕事を通じたテーマを取り上げたが、今回は、平家物語の専門家でも研究者でもない、一享受者の立場からこのテーマに取り組んだ。その理由から話を始めたい。

 私は、あと16年現役で仕事を続けようと思っている。16年の寿命は保証されたものではないが、設定してみると長いようで、毎年1年ずつ消えてゆく。残された16年をどういう姿勢でどんな生き方をするか、死を意識すると生の密度が高まってゆくように思う。さてそこで、いったん自分の過去を振り返って、私の価値観や人生観がいつごろどんな風に形成されたかを再確認してみると、3つのポイントがあり、その最後のものが平家物語になる。平家物語は私が20代のころに何度も読んだ愛読書で、その後は読み直す機会もなかったが、講演依頼を機にあらためて整理をかけてみることにした。

清盛の栄華と凄まじい死

 物語は平家の栄華と滅亡の顛末を描いているが、これは単なる源平の争乱ではない。当時の政治勢力には、長く貴族社会を支配してきた摂関家、その権力を院政に取り戻そうとする後白河法皇と近臣、台頭する武士団、そして武装化した寺院勢力と、二重、三重の抗争の構図があった。武士団の中でも、頼朝対義仲・行家、義仲対行家、平家内部の離反、頼朝対義経と、複雑な反目が表面化して行く。

 冒頭の「祇園精舎」で、物語は前半の中心人物、清盛を王法(政治のモラル、ルール)や仏法に背いた悪行の人とし、因果応報により平家は滅びた、諸行無常、盛者必衰としながら、作者も演者も聴衆もこれまでに経験したことのない革命期の出来事や、全く新しいタイプの人間の登場を目の当たりにし、驚嘆している。

 清盛の栄達、平家の栄華は、保元、平治の乱の勲功と、天皇家、摂関家との姻戚形成、荘園支配によるもので、武人でありながら王朝時代の律令貴族と同じ方法も併用しながら、宮廷官僚に成り上がってゆく。それが旧勢力には気に入らない。忠盛は、公卿の妬みによる暗殺計画を機転で切り抜けるが、その子清盛は、院の近臣による平家討伐の謀議が発覚すると、関係者を死罪、流罪にし、やがて法皇を幽閉する。

 清盛は太政大臣に上り詰め、一門は日本国66カ国のうち30余国を知行し、500余の荘園を支配する。平家に非ざれば人に非ず、専横な平家一門に対し、以仁王が挙兵、これはあっけなく鎮圧されるが、この以仁王の令旨を御旗に、東国で頼朝が挙兵、続いて北国で義仲が挙兵する。世の中が騒然とする中、清盛が熱病に侵され病死を迎えるのだが、尋常でない人の尋常でない、凄まじい最期が描かれる。

 病床の清盛には熱くて近寄れない。水風呂に入れるとすぐに湯になってしまう。水をかけると炎に変わって燃え上がる。妻、時子が遺言を求めると「すべてが満足な一生だったが、たったひとつの心残りは頼朝の首を見られなかったことだ。自分の死後は堂も塔も建てるべからず。頼朝の首を墓前に懸けることがなによりの供養である」と言い残し、悶絶死する。
 
 このあと物語は「さしも日本一州に名を上げ、威を振るっし人なれども、身はひとときの煙となって都の空に立ち上り、かばねはしばしやすらひて、浜の砂(まさご)にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ」と結んでいる。
(つづく)

おしらせ
2008/ 10/29

 
 11月から講演録「私の平家物語―清盛・義仲・知盛の最期」を連載します。
 なお、このブログは東興通信のホームページを経由してご覧になれましたが、同ホームページは10月末で閉鎖します。
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和解
2008/ 10/24

 
 「まさかのコピー創刊」の創刊紙発行人から、真摯に謝罪する手紙が届いた。私はもうこれで充分だと受け止めた。状況の展開を見守っていた方のために、あえて私からの返信の大略を掲載する。

 拝復
 よくここまで虚心に振り返ってくれたと思います。以前の誠実な君に戻ってくれて、私もうれしいです。

 君にもきっと言い分があると思います。私にも反省点があります。やむを得ぬ事情があったとはいえ、私が新聞の仕事に専念できなかったことが要因のひとつです。

 当然、後継は以前から考えていました。しかし、君の口から「取材先で、うちの新聞を知らない人が思ったよりいる」とか「記事広告で新味が出せない、広告主が裁量をくれない」などの話を聞くにつれ、新聞に対する情熱が冷めつつあるのかと感じていました。さらに今回と以前の2回、辞意が出たことから、経営を引き受けるには修羅場を乗り切ろうとする胆力が不足していると見ていました。

 だから今回は2つの点で驚きました。ひとつは隠密行動に出たことですが、もうひとつは1人でも頑張ってみるという決意をしたことです。実は営業スタッフから先行き不安の話が出たとき、私は「1人になってもやる気にならないと」と話したことがあります。経営者はどんな場面でも会社のすべての責任を引き受ける肝の据わり方が必要です。これは覚えておくといいでしょう。君が私に言い出せなかったのは、なんとかして理解を得ようとする勇気が足りなかったからです。これも今後の教訓になるでしょう。

 休刊を知った人たちの、あらためて新聞を惜しむ声が君の決意を促したのだとすれば、休刊も大きな意味があったのでしょう。しかし、前途は容易ではありません。誠実なだけでは乗り切れません。私も過去のことは水に流して、必要があればいつでも支援します。(中略) 和解できてよかった。
敬具
 それにしても、若い彼に「挨拶はちゃんとしておけよ」と忠告する大人はいなかったのだろうか。新聞を乗り換えて印刷を引き受けた大手印刷会社も口をつぐんでいたが、露見後の社内は狼狽していたようだ。私が、人間は正念場で真価が問われる、と言うのはこの事だ。

<おしらせ>
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卑怯者の身元判明
2008/ 10/21

 
 10月からブログを始めるにあたって、便利な反面、問題も多いと聞いていた。中でも、正体を隠して無責任な発言が可能な世界なので、コメント欄には充分注意するよう言われていた。

 さる20日、「まさかのコピー創刊」を掲載すると、さっそくそのテのコメントが来た。もちろん偽名で所在も隠し、このブログに対する闇からの攻撃だが、中身が的はずれも甚だしいものだった。

 相手は身を隠しているから抗議をしようにも方法がない。ここが卑劣なところだ。私はまず、「まさかのコピー創刊」に登場する創刊紙発行人に電話をかけ、こんなウソを触れて回っていたのかと尋ねた。彼は否定し、それは信用できるものだった。

 私もいったん彼に裏をかかれて、少し疑心暗鬼になりすぎていた。ブログの内容は真実で、私も東興通信休刊の舞台裏をきちんと説明しておく必要を感じて掲載したのだが、もうわだかまりを捨てようと思う。彼への影響も大きすぎるので、20日付けブログは削除した。

 なおその後、コメントの発信人が特定できた。こういう手合いは相手にするのもくだらない。今後はブログに入れないようにした。


まさかのコピー創刊
2008/ 10/20

 
 東興通信の休刊については、夏休み明けの8月18日に広告主や新聞販売店に通知を出し、読者には9月3日号で発表した。9月24日号を最終号とし、きちんとけじめをつけた終わり方を進めた。存続のための売却は考えなかった。怪しげな会社に渡したのでは読者に迷惑が及ぶこともある。それでなくても、従来と似ても似つかぬ新聞に方向転換したのでは、存続の意味がない。ただ、会社組織は維持して復刊の余地は残した。

 9月半ばになって、新聞を引き継ぎたいという会社が現れた。調査してみるとヘンな会社ではない。ちょっと似たようなこともやっている。これなら可能性があると2度打ち合わせをした。私としても、復刊できるなら願ってもないこと、全面的な協力をするつもりだった。ところがどうも新規事業に拡大するには資金不足で、リスクが高すぎると判断せざるをえない。題字だけ貸すにしても2、3号で行き詰まったのでは新聞の晩節を汚すことになるし、相手の将来も考えるとここは既存の基盤固めが先決では、と助言してこの話は断った。

 さて、10月からスタッフ2人を残し淡々と残務整理に入っていたら、15日、青天の霹靂(へきれき)が起こった。9月末まで社員だった記者が紙名を変えてそっくりの新聞を創刊したのだ。印刷所も発行部数も配布方法も配布先も発行曜日も全く同じ。編集方針も情報網も広告主も広告のデザインもそっくりそのまま。私にもスタッフにも寝耳に水の話だった。

 本人に電話してなぜ私に事前の了承を取らなかったのかと尋ねると、言い出せなかったと謝った。実は、休刊の引き金は彼が引いた。将来に不安があるので、転職したいと申し出た。会社の財務状況は、縮小均衡を図っていたから、まだ3年や5年は余力があった。しかし均衡を図るために1人になった記者が抜けたのでは記事が作れない。あわてて新人を入れても、半年、1年で育つものではない。そう説明し慰留したが、転職は若いうちでないと難しくなる、と50代半ばの他のスタッフを見捨てる形で翻意はなかった。私はせめてもと他の社員には規定の2倍以上の、パート職員にも多少の退職金を用意し、9月30日には和やかな慰労会を開いた。マッチ・ポンプ(自分で火をつけて自分で消す人)になってしまった彼は、どんな気持ちで談笑に加わっていたのか。

 相談してくれれば応援したのに、こんな裏をかくようなことをして、と言ったが、彼は謝るばかりだった。彼にもそれなりに言い分はあろうが、これまで50年、会社が脈々と受け継ぎ、築いてきた無形の財産を無断でごっそり持ち出すのは、中国のにせディズニーランドや火事場泥棒と変わらない。彼に言論を担う資格があるのだろうか。そういうことはきちんと教えてきたつもりで、人物的には信用していただけに、ショックは大きかった。人間は正念場で真価を問われる。  とまあ言いながら、彼の新聞が事実上の復刊になるならばと、思い直すことにしよう。土壇場で面白いドラマを見た。


自然の力と人間の欲
2008/ 10/13

 
世界経済が大変なことになっている。アメリカ発の世界同時株安で、日本を含む各国の株価が、あっという間に軒並み1年前の40%から60%も値を下げた。このまま悪夢の世界恐慌へ突入かという瀬戸際にある。高度に発達した文明社会で、一寸先が闇とはどういうことか。

 お天道さま相手の農業では、そういうことも時に起きる。台風だ、冷夏だ、干ばつだと言って、収穫直前に1年の丹精も空しく水の泡となる。あるいは豊作貧乏で経費倒れになり、せっかくの収穫を泣く泣く大量廃棄する。大自然相手の仕事はなんと厳しいことか、科学の力で台風の進路を変えたり、気候の調整ができるようにならないものかと、つい思ったりする。

 しかし今回の金融危機は最初からずっと人間のなせるわざで招いたものだ。サブプライムローンは、アメリカの金融機関が不動産市場の高騰を背景に、ムリな貸付を煽ったところから始まった。貸付をするには資金がいる。金融の一極集中を目論む彼らはこのための証券化を進め、それが複雑化して正体の分からなくなった金融商品が出回り、世界を巻き込んでカネを集めた。そして不動産バブルの崩壊、リーマン・ブラザーズの倒産。政府はあわてて公的資金の投入を決め、必死に食い止め策を講じているが、信用不安は収まらず、ぞっとするようなシナリオはまだ序章が始まったばかりだ。

 不動産バブルといえば中国も危ない。分かっていても、いったん勢いがつくと転落するまで止められない。日本がすでに経験済みで、こういうのを歴史は繰り返すというのなら、人間の欲はどこまで愚かでキリのないものなのか。サブプライムの破綻で行き場を失ったカネは、原油や食糧の投機に向かってここでも悲惨なことになっている。それを横目で見ながら、かつてない大儲けをしているやつがいる。

 戦争の構図もまた同じ。お天道さまの気まぐれぐらいなら、あきらめもつくのだが、人間の暴走は始末が悪い。


愚痴にあいづち
2008/ 10/08

 
隣家で1人暮らしをする母のもとへ顔を出すと、いつも同じ話を聞かされる。耳が遠くて不便だ、補聴器は不自然な音で聞き取りにくい、膝が悪くてよく歩けない、5分も歩くと息が切れる、指先に力が入らない、フタも簡単に開けられない、ほんとに情けない……。

 そう言いながら、間もなく92というのに炊事、洗濯は1人でこなし、新聞は丹念に読む情報通の上、編み物教室に通い、投資信託もちょっとやり、家計簿もコマゴマつけるのからしっかりはしている。歳なんだから、前と同じようにできなくてもしょうがないよ、できることをぼちぼちやることだね、と言ってはみるが、次に会うとまた同じ話で、どうも話題に新鮮味がない。いつまで生きるもんやらと嘆くので、いくつになっても人生に目標を持たないとね、これでも読んでみたらと平易な仏教の本を渡しても、少し読んで、こりゃちょっと幼稚だな、と返してくる。

 話題と思うからいけないので、愚痴を聞いてもらいたいのだろう。年齢とともに、体力や調子が落ちてゆくのは、私自身近ごろ実感することがある。ヤバイなと思う不安な気持ちを閉まっておけなくて、つい人に話したくなるものだ。

 カミさんも時々愚痴を言う。それが20年も30年も前の話だったりする。アホらしいから聞いてないふりをすると、いつまでもやめない。しびれを切らして、やり直せるものならやり遂げろ、いまさらどうにもならないことをぐずぐず言うな、と怒ると、喧嘩が始まる。そりゃそうだ、理詰めで解決しないから愚痴なのだ。カミさん自身は他人の愚痴を辛抱強く聞く方なので、私にも聞いてほしいと期待するのだろう。

私とこういう応酬を繰り返していると、カミさんもだんだん鍛えられてくる。私が何かの感慨や解釈を言ったりすると、そうじゃなくてとか全然分かってないね、と理屈を言い始めるのでまた喧嘩になる。私の言うことをいちいちひっくり返さなくても、そうだねとかそうなのと言っておけば何ごともなく収まる話なのにと思う。

いつでも見識を持つのがいいわけではないようだ。とりわけ家庭の平穏のためには。


ストレス障害
2008 10/1

 
 断酒会での講演を頼まれ、世話人の方と打ち合わせをした折に、アルコール依存症の話を聞く機会があった。

 この会は500人ほどの会員がいて、普段は支部ごとに運営している。運営と言っても会員が話し相手を求めて集まるだけ。しかしこれが大切なようで、毎日のように会が持たれる。いったん断酒して10年守れても、一杯飲むと元の木阿弥なので、仲間で支えあうことが必要なのだ。

 中には1日3、4升も飲んだ人もいるというが、アル中は酒なしでは暮らせない依存症であって、ただの大酒飲みとは違う。一般的に、生真面目で気の弱い人が陥りやすく、人間関係などのストレスに敏感で、気持ちの切り替えが下手な人が多いという。性格的なものに勝てず、酒に逃げ込んで紛らわせているうちに中毒になり、切れると不安で手が震えるなど禁断症状が出て、朝からでも欲しくなる。

 どこからが病気なのか気がつかないうちに依存症になり、飲んで仕事に行けない、仕事中にも酒を飲む、飲んで事故を起こすなどを繰り返すと、勤め先は当然クビになる。そして家族を巻き込んで生活が破綻するから深刻だ。入院して3カ月、教育という治療を受けるが、酒を断つ決意は自分次第なので、簡単ではないようだ。

 そういえば私にも昔、どうしようもないアル中の友人がいた。彼がその後キリスト教に入信してきっぱりと酒をやめたときには、私も驚いた。行き詰まった人に宗教の救いの力は大きい。

 精神不安からの病は、不眠症、自律神経失調症、統合失調症、うつ病などいろいろあるが、アル中患者と同様なタイプの人が陥りやすいようだ。近ごろはネット依存症、ケータイ依存症も増えているという。イラク侵攻で殺人を経験してしまったアメリカ帰還兵が重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ続ける報道もある。

 人間は強いように見えて、デリケートで壊れやすい生き物でもある。中には心臓に毛の生えたやつもいるが。


今後の活動
2008 9/24

 
 休刊のお知らせのあと、読者からたくさんの慰労があり、ありがたく受け止めた(1面参照)。FM西東京からも取材を受け、なにか圧力でもあったのかと深読みされたが、もちろんそんなものはない。ヒモがついてないから、妙なしがらみも、どこかに遠慮する必要もなかった代わりに、街の商店からの広告料のほかはさしたる収入源もなく、これまでやってこられたのは今から思えば不思議といえば不思議、身に余る幸せだった。

  と、過去の感傷に浸っているつもりはない。日々移り変わるのが世の習い。従来通りが難しくなったら、方法やスタイルを変えればよい。諦めずに志を貫くこと― ここが肝要。

  本紙が形を変えて復刊するのは容易ではないが、わずかながらまだその余地は残してある。これとは別に、10月から私のブログを立ち上げて、本欄を継続する。趣旨は「個人・家族・地域社会から地球の将来まで、虫瞰の視点できのう・きょう・あすを取り上げる。究極のテーマは〈生きるってなに?〉、目指すは志の通うネットワーク」。今後徐々に、家庭の崩壊、地域共同体、格差社会、南北問題、生涯教育、有機農業など、さまざまな社会的課題への取り組みや試みとのネットワークを広げてゆきたい。西東京とその周辺に限定はしない。暫定のアドレスはhttp://blog.syu-kora.jp/で、東興通信のホームページからも入れる。

  また10月26日(日)午後2時からは、京王線府中駅そばの多摩交流センターで「私の平家物語― 清盛・義仲・知盛の最期」を講演する(東京雑学大学主催)。貴族社会から武家社会へと、広範な地域を巻き込んで転換した源平争乱の世に、死と直面しつつ生きた武将たちの人間像を「平家物語」はどう描き、語り継いだか― 当日は、一享受者の立場から無常の世の生き方と死の選び方を読み解いてみる。

  まだまだ頑張るぞ。ご声援を。


休刊の経緯
2008 9/11
 
 本紙が9月末で休刊することになった。今月でちょうど満50年を迎える。

  本紙は一貫して読者と広告主によって支えられてきた。広告料が入れば次の新聞が出せる。読者の信頼があれば広告効果も上がる。どちらが欠けても成り立たない。ところが近年、本紙を取り巻く事情が大きく変わった。

  本紙は西東京全域と東久留米、小平、新座の一部に毎週無料配布してきた。20年前から積極的に部数を増やし、後半の10年は10万3千部を維持して地域限定・地域密着の姿勢を取り続けた。しかし、バブル期の求人難で求人専門チラシが輩出、その後一転して長引く不況に入ると、過当競争の中、本紙の求人広告が激減した。加えて各地で進んだ駅前再開発を機に、外域から参入してきた大手資本の量販店、チェーン店、フランチャイズ店が地元の個人商店を席巻し、旧来の飲食店、喫茶店、電器店、薬局、学習塾、書店、理髪店などがしだいに元気を失っていった。本紙を支えてきた広告主は主にこうした地元の個人商店であった。広域で多店舗展開する店の広告予算は店舗別にはなく、都心の本部一括の発注となる。

  一方で全国紙、ブロック紙を含め紙媒体からの読者離れも進んだ。とりわけ若い世代は新聞よりもインターネットから情報を取るようになった。また、本紙読者に人気のコーナーだった「茶の間情報」も、リサイクルショップやフリーマーケットが思わぬ競合先となった。

  本紙はかつて所沢支局構想を描いたことがあった。しかし、もともと長年の半NPO(民間非営利組織)活動のようなものでバックもない本紙が、20万部媒体を立ち上げるのはむりがあった。

  それでも電子編集システムを社内に取り入れて印刷経費を削減し、カラー化で一時収益を回復し、イベント情報を有料化し、出版業にも挑戦する一方、発行部数を見直して8千部削減し、人員もぎりぎりの態勢を組んだ。最強のスタッフが残り、経営の交代も考えたが、増収増益が見えてこない。そしてスタッフの一角が崩れた。このとき、静かに幕を降ろそうと決意した。時代の変化に後れを取った経営責任は、すべて私にある 。

  新聞の休刊に伴い、併設の不動産業は廃業する。しかし、まだ刀折れ矢尽きたわけではない。会社は当面温存し、別の形で、私の個人的活動から再起を図りたい。新たな“一隅にも五分の魂”で、地域の枠を超えて血気盛んに参戦する。

面食らう
2008 8/27
 
 A社の社長は毎年、自ら主催して「社員懇談会」を開く。

 部次長クラス、課長クラス、係長クラスと階層別にして10人弱を指名、午前の仕事が終わったら一旦自宅に帰し、私服に着替えて社外の貸し会議室に電車で出直させる。階層別にするのは上司と部下が一緒では気兼ねしてホンネが出ないから、私服着用や社外集合は仕事の延長の気分にさせないため、マイカー不可は懇談会の後で飲み会を用意しているからだ。

 最初の年はモチベーションと社員満足度がテーマで課長、係長クラスの2回、翌年は価値観を巡って部長、課長クラスの2回、今年は「夢―人生の目的」を設定した。本命とするターゲットは20代の若手の社員だが、上司に狙いを理解させておこうと、まず部署の長を集めた。

 冒頭であなたの夢は何ですか、と切り出す。いきなり聞かれた方は面食らってしまうが、フォローをしておく。子どものころは大きな夢を無邪気に描くのに、大人になるにつれだんだん描かなくなるのは、自分の限界を感じて否定的暗示にかかるからだ、伸び伸びと描いてみよう、と。

 そう言われても、40を過ぎて人前で夢を語るのも気恥ずかしかろうと、社長はそれぞれの思いを紙に書かせ、発表も紙の回収もないと安心させる。書く前に「私の場合は、年商××億円、利益率2ケタ。まずは利益を上げて社員への分配だが、それだけではつまらない。社員が働き甲斐の感じられる会社作り、さらに一企業の枠を超えてオピニオンリーダーとなり、社会への働きかけをしたい」と語り、プライベートな夢でもよい、と付け加えた。その後、夢を持つ大切さと実現させる方法を示しながら7つほど質問を続け、最後に「あなたの人生の目的は何ですか」と投げかけた。

 2時間半ほどですっかり雰囲気も和み、予定の時間が早めに進行したこともあり、内心各自の展開が気になっていた彼は、最後の回答をちょっと尋ねてみた。すると―。

 「日本の名山100を、定年までに30、残りを定年後に達成したい」「駐車場つきの家を持ちたい」「東海道53次を訪ねたい」。

 今度は彼が面食らう番だった。確かにプライベートな夢でもよいとは言ったが、それは外向きの建前を書かせても意味がないからだ。ホンネでこの程度のことが人生の目的になるのだろうか。社員にとって仕事は生き甲斐にはなりえず、所詮は生活保障の手段にすぎないのか。

 あまりの乖離に愕然としつつ、若手対象の次回はもう少し進行上の作戦を練らねば、と彼は考え始めている。

ギョーテン講座
2008 8/20
 
 仰天講座というから、どんなビックリする話をするんだろうと思ったら暁天講座というのが正解だった。毎年8月初めの早朝、浄土真宗の別院で5日連続の講演会が開かれる。私は真宗の檀徒ではないが、カミさんに誘われ3年前から聞きに行くようになった。

  午前6時半から1時間半、本山サイドの僧侶のほか、医師や作家、大学教授など在家の人も日替わりで講師になる。夏の真っ盛りなので陽は明るいし、まだ涼しい時間帯だ。暁天講座とはうまく考えたものだ。そんな早朝に聴衆が三、四百人も集まるのも仰天する。聴衆は見たところおおむね70代以上で、若い人は滅多にいない。お年寄りなら早起きも苦にならないだろう。年を取ってあわててほとけ心、と言えなくもないが、まあ善男善女。信心はいつから始めてもよい。

  講演のテーマは、命だの、み仏だの人生の意味だので、退屈なときもあるが、大きな感銘を受ける日もある。講演の前に正信偈、後で恩徳讃を斉唱する。さて、本当に仰天するのはすべてが終了したその後だ。

  帰りがけに寺院が用意したアンパンと牛乳が聴衆に配られる。これもまた宗教的な施しの意味があるのだろう、無料で徳の高いお話を聞かせてもらった上、合掌して戴くべきところだが、とてもそんな余裕はない。本堂の左右に準備された配給所に、数百人のジイさんバアさんがよろめきながらどっと押し寄せる。「危ないですから、押さないで、押さないで。数は充分用意していますから順序よく並んでください」とマイクの声。年寄りが転んで大ケガでもしたらの配慮もあるのだろうが「おひとり1個でお願いします」と言うところをみるとドサクサに紛れて2個ゲットするつわものもいるらしい。

  私はこの光景を見るたびに楽しくなってしまう。こんな人間の素(す)の姿は滅多に見られるものではない。これが一万円札のつかみ合いなら浅ましいが、わずか1個のアンパンに我知らず駆けつけてしまうはしたなさが、なんとも愛らしい。人間って面白いなと思えるのは、いま聞いた法話のおかげなんだろうか。

座右の銘
2008 8/6
 
 結婚した翌年だったか、カミさんと2人で九十九里浜に海水浴に行った。かなり派手なポンチョ風の服を揃いで着ていたので、宿には目立ったカップルと映ったようだ。おまけに宿帳に「職業・著述業」と書いたものだから、女将さんがなにか勘違いしたようだ。色紙を持って登場し「当館はその昔、芥川龍之介も投宿したことがございまして、お客様にもぜひ一筆残していただければ」と頼まれた。モゴモゴ言いながら断りきれず、一応サインして渡したが、なんともへたくそな字で、思い出すたびに赤面する。あの色紙はまだあの宿にあるのだろうか。

  その後、フリーライターの仕事で編集者と打ち合わせをした折、一段落したところで相手が唐突に「ところで小林さんのライフワークは」と聞いてきた。このときもいきなりで返答に詰まった。当時は、他流試合を重ねながら夢中で力を蓄えていたころで、ライフワークというほどの見通しをつけてはいなかった。

  ところが還暦も過ぎると残りの寿命を意識するようになり、あと16年(と勝手に決めている)でできることは何か、自分の生き方ぐらいは言葉にしておかなければ、と思うようになった。16年に何の根拠もないが、元気でいられたら80の手前ぐらいまで頑張れそうな気がする。

  で、練り上げたのが「森羅万象に生かされ、志をもって一隅を担う」。ちょっと大げさだが、このくらいの気合を入れなければ78まで持たない。森羅万象というのは、一切の宇宙、あるいは自然界のありとあらゆる存在のこと。人々や生き物、太陽、大地、水、空気、そうした一切のものに生かされているのだから、その端くれとしてほんの一隅でも志をもって役割を担おう、という我ながら殊勝な心がけだ。殊勝すぎて臨終のときまた赤面しそうだが、座右の銘なのだからそれでよい。それよりも、せっかくオリジナルの銘を用意したのに、だれにも色紙を頼まれないのが問題だ。

講演続き
2008 7/30
 
 ここ数年、夜12時を過ぎてから寝ても、朝6時か5時前に目が覚めてしまう。歳のせいかと嘆いていたが、布団の中でもぞもぞしているのも退屈なので、近ごろは着替えてコーヒーを沸かし、読書するようになった。いまは古典の「平家物語」を読み返している。10月の東京雑学大学で予定している講演「私の平家物語― 清盛、義仲、知盛の最期」の準備のためだ。

  当初は「世界19カ国放浪の旅 ― 青年よ荒野をめざせ」のテーマで話すつもりだった。東京雑学大学は、発足して13年、週1回という驚異的なペースで講演会を開き続けている。スタッフの努力には頭の下がる思いだが、高齢化が目立ち、この先大丈夫かと余計な心配をして、若い人向きの題材を選んだ。聴衆の中から後継者たちが出てくれればという思いがあった。

  しかし、40年も前の私の貧乏旅行の話をしても、面白いだけですんでしまう。それよりもと思ったのが、さる2月に東京都選挙管理委員会ほかの主催の場で話した「劣化の時代をどう生きるか」の続きだ。2月の講演の中で私は、藤原正彦氏の「国家の品格」に触れ、氏が日本人の精神的支柱として、いまさらながら武士道への回帰を挙げているのはどうにも無理があると話した。しかし、戦乱の世に常に死と直面する武士が、それゆえいつなんどきの死に際しても後悔することのない生き方を全うするには、高いモラルを示した武士道が必要であり、現代人はそうした覚悟を失っていると、氏は指摘したかったのではないかと考えた。

  平和の世にも武士はいた。取り上げるのは「平家物語」が、運命を見通した武将として描いた平知盛像がよい。清盛、義仲の最期の場面もなかなか印象深い。雑学大学での講演は「ローカルメディアの50年」「エッセイの書き方」に次いで3回目で、だんだんタネが尽きてくるが、仕込みに時間をかけておくことにしよう。

  ところで「世界19カ国放浪の旅」の方だが、企画倒れにしておいたら、アルコール中毒の人々の断酒の会での講演を頼まれ、蘇ることになった。楽しい話をテーマにと言われ、まさか「飲酒の楽しみ方」なんて話もできないが、この話なら聞いてほどよい気晴らしになってくれるだろう。

ひとり暮らし
2008 7/23

 かつては家族6人で食卓を囲んだのに、男の子3人は学校を卒業して家を離れ、末っ子の娘は美大浪人で予備校通い、これも家を出た。カミさんと2人暮らしになり、静かになったと思ったら、最近カミさんがよんどころない所用でときどき家を空けるのでひとりになる。留守の時は、自分と犬の食事の心配をしなければならないが、今回は2週間とちょっと長い。都度の外食もだんだん飽きて来るし、なによりどうも勝手が悪い。

  というのも、酒を飲むからクルマで出掛けるわけにもゆかず、歩いて行ける店となると数も決まってくる。家族連れでワイワイ行っていた店に、ひとりでぽつんと顔を出すと「おや、きょうは寂しいですね」と言われる。こんな店に2度、3度と出掛けると、とうとうカミさんに逃げられたか、と思われそうな気がする。

  で、今度はスーパー通い。学生時代には自炊をしていたときもあったが、いまはさすがに手料理を作る気にはなれない。近ごろはレトルトだの、惣菜だの、チンすればよいご飯だのと、何でも売っている。鍋釜どころか包丁もまな板もない家庭があると聞いたが、なるほどこれなら流し台もいらない。

  便利なようだが、何か足りない。犬にペットフードを用意してやりながら、そうか、早い話がペットフードと大して変わらないのかもな、と気がついた。食事は、空腹を満たせばよいというものでもなかろうに。

  ひっそりした部屋で、せめてテレビをつけ、もぐもぐ食っていると、独身時代を思い出す。やっぱり家族と家庭料理に勝るものはないな、と感慨にふけっていたら、珍しく娘から電話が入った。いそいそと電話口に出てみると、今度夏休みで帰るから、犬を風呂に入れてきれいにしといて、だと。腹を立てる元気もない。

付き合い方
2008 7/16

 親子でもこんなに違うものかと思う。

  犬の話だ。親の小次郎は器量よしの上に、犬にしておくにはもったいないほど頭がいい。常に状況判断ができ、次に何が起こるか、どう対処したらよいか選択ができる。一方、子供の熊五郎は目の前の物しか目に入らない。

  たとえば2人を散歩に連れ出す。クマは門を開けるとひもを引っ張って一散に駆け出す。小次郎もそれについてゆくが、やがて行く先々で立ち止まり、臭いを慎重に確かめ始める。小次郎に引き止められたクマは「あれ、どうしたの」といった態で引き返し、小次郎を押しのけて同じ場所の臭いを嗅いでみるが、特に感想はないようだ。排便も小次郎は心得て道の片隅、クマは他人の家の入り口だろうが道路の真ん中だろうがお構いない。近所を30分ばかりぐるりと回って戻ろうとすると、クマは自宅の前まで来て「あ、ウチだ。ただいま」と単純だが、小次郎は100メートル前からそれと察し、なんとか脇道にそれて散歩を長引かせようとする。

  ただ、小次郎は状況判断をしすぎて愛嬌がない。猫かと思うほどだ。クマの方がずっと犬らしい犬だが、いたずらが過ぎて困る。電気コードは引きちぎる、座布団はぼろぼろにして中の綿を出す、靴やサンダルは片方隠す、机の脚はかじる。私の服もだいぶダメにされた。ウチの中ならまだしも、隣りの母の家にも上がりこんで悪さをするので、とうとう「こっちに来ないよう柵をしてくれ」と言われてしまった。柵を作ったのを機に、ウチの方でも家の内と外の出入り自由だったのを、犬小屋を置いて外で飼うことにした。

  これで被害は改善されたが、どうしても触れ合いがなくなる。なんだか餌をやっているだけの関係になり、散歩には連れて行くが、毎日というわけにもゆかない。先日は買ってきた餌が間違って猫用のものと気づき、どうしようかと迷ったが、狼と山猫が違う獲物を食っているわけでもあるまい、と思うことにした。

  小屋から出すのは、平日は朝7時、土日は近所に配慮して8時。犬との共生もなかなかデリケートなものがある。

不慣れなこと
2008 7/9

 会社経営をしていた父は、お中元やお歳暮を貰うのが大嫌いだった。仕入先から贈り物が届くと「そんなお愛想をするぐらいなら、仕入れ品の値引きをすればいい」と不機嫌になった。
 家族の間でも、記念日に贈り物をしあった記憶があまりない。そういう家庭で育ったせいか、私はプレゼントには関心がないし、人から贈り物や接待を受けるとなんだか気色悪くてどうしていいか戸惑ってしまう。

 寺育ちのカミさんは全く逆のようだ。贈り先の相手の笑顔を思い浮かべながら、せっせとリストを作って楽しそうだ。ちょっとした訪問先にも、手土産を持って行きたがる。別に構わんのに、と私は思う。

 困るのは、母の日などに私の母になにかとプレゼントしたがることだ。母は「私はもう老い先短いので何にもいらないし、服には人の好みもあるしね」とそっけないが、カミさんは「そうは言いながら、貰えばうれしいものなのよ」と意に介しない。一方で、私がカミさんの誕生日に何も買ってこないのはあるまじき態度だと思っているらしい。

 そんなことをチャラチャラやりたがるのは若いやつらのすることで、と思っていたら、先日、学生時代の友人と話していて「おれは誕生日に花を」「おれは結婚記念日に服を」「おれは時には宝石を」と言われてしまった。私の方がヘンなのだろうか。

 別の機会に取引先の人からこんな話を聞いた。「私が生まれるときは難産でしてね。だから自分の誕生日には毎年、母に電話を掛けて、産んでくれてありがとうって言うんですよ」

 これはちょっと心改まる話だ。「あなたも奥さんにプレゼントをしたら」と勧められ、うーん、私の場合、結婚記念日は同棲を始めた日と、入籍した日と、結婚式の日とあって、いつだったかよく覚えていないし、カミさんの誕生日に突然、花でも贈ろうものなら、エッと驚いてなにか意図があるのかと真意を疑われそうだし、慣れないことを始めるのは難しいものだ。

9日発売開始  「一隅(いちぐう)にも五分(ごぶ)の魂」
2008 7/2

 前著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」に続いて「一隅にも五分の魂」を発刊することになった。

  前著は地元を始め全国の書店に置いてもらうとともに、講演したついでに即売したり、友人に販売依頼をしたりした。図書館や新聞社に贈呈して、ちょっとした紹介記事も載せていただいた。本にアンケートカードを挟んでおいたので、見知らぬ読者から回答をいただいたほか、お手紙もいただいた。それをきっかけにお付き合いが始まった方もある。

  前著は1999年6月以降の本欄「きのう・きょう・あす」に掲載したものの中から100話を選んでまとめたものだが、今回はそれ以前の中から130話を選んだ。やや古い話になるが、むしろそこに発刊の意図を置いた。前著が、劣化の進む現代社会への批判を前面に打ち出しているのに対し、今回はそれとは趣を異にし、虫瞰の視点は同じでも、まだモラルや人情がしっかり根づいていたころの市井の人々の営みと“百人百色”の人間模様を描いている。

  まとめてみて我ながら驚いたのだが、90年代半ばから相次いで進められている駅前再開発を契機に、街並みも街の人々のコミュニケーションのあり方も大きく変貌した。発刊にあたり、決して懐古趣味でなく、いま日本の各地で危うくなりつつある地域共同体をもう一度見直す機会になればとの願いを込めた。

  前回は出版に慣れないこともあって、発売元に姑息なごまかし方をされたので、それもよい経験とし、今回は本紙単独で書店の協力を得ることにした。四六判、並製、224ページ、1260円で、発売は9日から。取り扱い書店は来週号でお知らせします。  

過酷な領域
2008 6/25

 友人のA君は、事業家としてはかなりの成功を収めている。従業員70人ほどだった親の会社を750人に成長させ、中国、タイにも進出して工場を作り、いまや年商250億、彼の年収は数億円と聞く。事業欲はとどまるところを知らず、次はロシア、インドへの展開を計画中だ。

  いわずと知れたワンマンタイプ。それを家庭にも持ち込むのか、会社にいた妹の婿は気に入らず追放、娘の婿も離婚させ、ついには自分自身が離婚してしまった。表向きは特に変わったようすもなく、平然としていたが、内面はどうだったか。

  彼は酒が一滴も飲めないのに、週に何度もあちこちのクラブに出掛け、ウーロン茶のお代わりをしながら閉店まで遊ぶ。彼の女好きは友人仲間では有名で、それも離婚の原因のひとつなのだが、彼自身は「仕事のストレスがなければ、こんなところには来ないよ」と漏らしたことがあるという。確かに、仕事は至って厳しく、遊びが過ぎて仕事に穴を開けるようなタイプではない。

  家庭を破壊してまで強欲に自分を追い込むとはどういうことなのか、よく理解できないでいたが、最近読んだ本にこんなことが書いてあった。

  「マイクロソフト社のビル・ゲイツ社長は、貧しい国の子どもたちのために770億円もの寄付をしたのはなぜか。大きく稼ぐ、突出した金持ちになると、せっかくかき集めたものをどんどん吐き出さずにいられないほど苦しいからだ。どれだけ多くの成功者がその苦しさに足をすくわれたことか」(要旨。西田文郎著「ツキを超える成功力」)。

  そして苦しさのあまり正常な判断力を失って経営判断を誤ったり、体や心の健康を損なったりするほか「女性やアルコールに慰安を求め、家庭を破壊する」としている。

  彼はその過酷な領域まで入り込んだのか。そういえは、アンチエイジング(不老長寿)に強い関心を持ったり、中国の植林運動を支援したり、どこか突き抜けた世界を描いている。

  同書は、強欲をさらにどんどん突き抜けてゆくと、最後は無欲になる、というのだが。

覚悟ということ
2008 6/4

 世の中は思うに任せぬものと、かねてから心得てはいたが、こう次々と厄介なことが起こると、ハテ、今年は厄年だったかなと思ったりする。

  なにが起こったか、ここでは言うまい。それより、どう受け止めてどう切り抜けるか、そこが大事なところだ。

  少々の心配事、困り事なら年に何回も起こる。その場合は、最悪のシナリオを想定して、悪くてもここまでだと思えば腹も決まる。むしろクヨクヨせずに気持ちの切り替えをした方がうまく行く。そんな時私は、昔はやった植木等の歌を口ずさんで気を取り直す。「そのうちなんとかなるだろう」と。しかし今回はそういうわけにも行かない。

  のるかそるか先が読めない、という岐路に私は過去3度立ったことがある。いずれの時も自分の選択した道に迷わず突っ込んで、切り抜けた。おかげで度胸と負けん気が身についた。しかしあのころは若かった。それに、自分のがんばりだけではどうにもならないこともある。

  近ごろは、ZARDの「負けないでもう少し、最後まで走り抜けて」で景気づけをしているが、美空ひばりの「でこぼこ道や曲がりくねった道、地図さえない、それがまた人生」の方がしっくり来る。思えば久しぶりの試練で、しばらく平穏だったことをありがたく思うべきだろう。時に葛藤あってこその感動、葛藤も感動もない人生なんてつまらない。

  先日、思いついて、学生時代に読んで感銘を受けた石母田正氏の「平家物語」(岩波新書)を読み直してみた。氏は「平家物語」に登場する平知盛の人物像に注目し、戦乱の時代にいくつもの修羅場を潜り抜け、少しも揺らぐことなく天命を全うした武将像を検証している。凡人の私も、こういう生き方をしたいものだ。

おうちはどこ?
2008 5/29

 カミさんが留守で、晩飯は近所のそば屋ですませた。

  店を出て、バス通りの歩道を歩いて帰りかけたら、パジャマ姿の小さな男の子が半泣きで小走りに駆けて行くのとすれちがった。どうしたの、と声をかけると振り向いて「お母さんとこに行くの」と言う。

  「お母さんはどこにいるの」
  「カジカワイイン」

  梶川医院? どこかで看板を見たことがあるような気がする。場所は分かっているのか聞いたが、はっきり答えのないまま、気がせくのかまた駆け出した。しばらく後ろ姿を見守ったが、夜の8時とはいえクルマの往来もあり、どうも危なっかしい。大丈夫かあ、と声をかけると、振り向いて何か言うが、よく聞き取れない。少し走ってまた振り向く。どうも行く先が分からない上に、心細いので振り返るようだ。

  「こっちへおいで」と呼び寄せると、私の手をしっかりと握る。ちょうど電器屋が店じまいをして出るところだったので、カジカワ医院を知らないか聞いてみた。首をひねりながら店に戻り、電話帳で調べてくれるので、こっちは本人の名前や年齢を聞き出す。2歳のようで、お母さんに会いたいと泣き止まない。お父さんはと聞くと「おうちにいる」。そりゃ心配しているだろう、と今度は親の名前を聞き出したが、医院も自宅も電話帳で見つけられない。

  結局、店の人の提案で警察を呼ぶことになった。パトカーで2人駆けつけ、事情聴取。第1発見者として私の住所、氏名、年齢、電話番号も聞かれる。おいおい、誘拐犯と違うぞ。

  警官はその子に案内させて自宅に戻す作戦に出た。ひとりが手をつないで歩き、もうひとりがパトカーで後につく。私も途中まで見送って家に戻った。ほどなく、親元に届けたと、連絡が入った。

  父親は心配していたのか、気がつかずにいて驚いたのか、ほったらかしだったのか。その後、親から電話一本あったわけでもない。

粗大ゴミ
2008 4/23

 ひとくちに整理整頓と対句にして言うが、整理と整頓の違いをご存知だろうか。国語辞典ではあまり明確な区別をしていないが、工場や職場で言う2Sでは整理は必要でないものを片付けること、整頓は必要なものを必要なところに納めておくこと、としている。2Sや5S(2Sに加え、清潔、清掃、躾)を進めている会社では、粗大ゴミの放置などあってはならないことだ。

  ところが家庭内の話となると事は理屈どおりには運ばない。隙間家具、パネル暖房具、ジューサー、ゴミ箱セット、パソコン台……。あってもなくてもよいような物のその後の運命は、不用になって納戸に押し込まれたり、家の外に放り出されたり、行方不明になったりと散々だ。カミさんには必要なもの以外は買うな、と言ってあるのに、ふと気がつくと妙なものが増えている。

  庭には甕(かめ)が3つもあって、幅を利かせている。なんでこんなものを買ったんだと聞いたら、ハスの花が咲くのを見るのだと言う。ボウフラが湧いて大変だぞと脅かしたら、メダカを飼っておけば大丈夫、あんたって生活を楽しむことができないかわいそうな人だね、と鼻で笑う。で、どうなったか。ハスの花は一度も咲かないうちにメダカもいなくなり、今は飼い犬の水飲み場になっている。

  こうしたものを、カミさんは通販で物色することが多い。通販雑誌も心得たもので、どこにでもありそうな、店頭で現物を確かめなくても安心な物でありながら、ちょっとした機能や特長をプラスして巧みに買い気を誘う。カミさんのように先々まで考えが及ばない者は、あらいいわねえとつい手が出るようにできている。

  このまま放っておくと、家の中全体がゴミ箱になる。まず、不用なものは思い切って整理する、そもそも滅多な物は買うな、と言ってもラチが明かないので、休日には自らクリーン作戦を展開することに決めた。それと、忘れてならないのは、なんとかして各種通販雑誌の送付を食い止めることだ。

  見渡せば/花も紅葉もなかりけり/浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)

  私の理想のシンプルライフはいつ実現するのだろう。

年金処理の解決法
2008 5/21

 昨年末、私のもとへねんきん特別便が届いた。厚生年金には342カ月加入しているが納付記録は325カ月、国民年金は109カ月加入しているが納付記録は101カ月、ということらしい。記録が漏れている可能性があるので、回答せよとある。国民年金は、私が本紙の社員だったころのものだ。経営を引き受けて半年後に厚生年金に切り替えた。さらにその後、別会社の厚生年金に切り替えた。

  加入記録を充分に確認の上回答を、とあるが、前の資格喪失日と次の資格取得日はすべてつながっており、空白はない。それ以上なにを確認しろと言うのだ。こっちで分かるわけがない。

  ところが回答は・訂正がある・訂正がない、の2つしかない。舛添大臣の立派な署名入りの通知だが、どうせ形だけでやる気のない社会保険庁のやることだ。付き合っているひまもないので、「訂正がない」で返信しておいた。

  もういいよ、と言っているのに春になってまた特別便が来た。「すでに訂正がないと回答した方の中に、その後の調査により、その記録の持ち主と思われる方が多いことが確認できた」のでとある。確認できたのなら、これがアンタではないかと書いてくればいいのにそれはなく、社会保険事務所に来るか、専用ダイヤルに電話しろと言っている。

  テレビや新聞では、そう言われた人たちが社会保険事務所に出向いたら、数時間も待たされた挙句、よく分からずに帰されたり、待ちくたびれて出直しになったりしていると報じていた。冗談じゃない、こっちは山ほど仕事を抱えているんだぞ。

  来所できない場合は専用ダイヤルへ連絡すれば郵送による手続き方法を案内するとあるので、この手を使ってみたが、いくらかけても「ただいま大変込み合っています。しばらくしてもう一度おかけ直しください」ばかり。よくまあここまで間抜けに徹しられるものだ。

  もう意地でも訂正があるにしてやる。会社の住所を書く欄があるので、ご丁寧に新旧並べて送り返してやった。

  破綻した年金処理のつじつま合わせに金と時間をかけるのはもうやめたらどうか。宙に浮いた5千万件をすべて認めるか、いっそ年金制度を廃止して、受給中の人には引き続き支給する、受給前の人にはこれまでの保険料に利息をつけて10年がかりで返却する―これでよい。支給費や返却費は、制度が廃止になるのだから今後は保険庁のボンクラ役員や職員の人件費、天下り費が浮き、これで賄う。保険庁から大量の失業者が出るが、社会を混乱させてきたのだから、そのくらいの責は甘んじて受けるべきだろう。

講演を終えて 劣化の時代をどう生きるか
2008 3/26

聴講者からのメールと回答
  劣化に歯止めは可能か


  阿部賢一(西東京市新町 70歳)

  劣化の時代は、自己完結の生き方が多くなったからだとのご指摘、そして目指すは自己実現であるとのお話、また、暗いことばかりを並べるのではなく、明るい前向きな生き方を目指そうというお話は、本当にその通りだと思いました。

  私も社会に出てからほとんど海外関係ばかりの仕事でしたが、「個人」を強く意識する外国人に比べ、わが日本人はどうも「個」とは何かをじっくりと考えずに来た、それが大量の自己完結人間に行き着いたのではないでしょうか。

  本日出席された方々は60代、70代が多く、私も昨年古稀を迎えましたが、出席されていない自己完結人間とはどうコミュニケーションを取り、働きかけたらよいのか模索中です。お話の中で、自己完結人間をどのように自己実現人間に志向させればよいのか、もう少しお聞きしたかったと思います。

  新渡戸稲造の「武士道」は、敬虔なキリスト教徒が外国人向けに英文で書いたものを、のちに邦訳したものです。武士道は賛美すべきものなのかどうか、果たして日本人は武士道を自覚して行動したのだろうか、日本人の生き方の原理原則を深く考える必要があるように思います。

  講演のレジメの最後にある「社会の劣化は政治家や役人の責任か」、この問いが、現在の日本人各自、若者から我々老人にまで問われているのだと思います。(要旨)
  お答え
 
  お便りをありがとうございました。ご質問のいくつかにお答えします。

  まず、個人意識や個人主義と自己完結型生活観との関係ですが、ちょっと面白い統計を引用してみます。

  少子化問題はどこの先進国でも深刻ですが、フランスでは出生率が、一時の落ち込みを回復して最近は2前後に上がる一方、未婚の母も増え、婚外子が新生児の半分を占めるようになりました。個人意識の強いフランス人は、家庭で子どもを育てる喜びを積極的に享受しつつ、未婚の母や婚外子だからといって不利益を蒙らないよう、法的保護や社会的信用を認め合い、個人の自由を上手に使えていると言えます。

  他方、日本と同様に出生率が1・2前後のスペイン、イタリア、韓国などは、婚外子も2〜S%程度です。スペイン、イタリアはカソリックの国、韓国は儒教の国で、個人主義が育ちにくかった風土のもと、自由と言われてもうまく使いこなせないのではと思います。日本では、夫婦別姓にも大きな抵抗がありますが、そんなことを認めたら家庭がますます壊れるとする保守派の危惧にも一理あります。身についた自由でなければ、自由もまた両刃(もろは)の刃です。

  次に、世代間の問題で言えば、私は必ずしも劣化が若者に特有の現象とは見ていません。近隣に騒音を撒き散らして捕まるのは中年のおばさんで、ゴミ屋敷の主は1人暮らしの男の老人です。劣化は世代を超えて広がり、今やこの世代ならばと安心できるのは、70代以上ではと思います。

  どう生きるかという問題は、どう死ぬかという命題でもあります。誤解を恐れずに言えば、70代とはその命題に現実的に直面し始める年代ではないでしょうか。藤原正彦氏が武士道に解決を求めた意図は分かりませんが、武士道は、武士が常に死を意識し、死に際して後悔することないよう、日々見苦しくなく正道を外れずに生きることを教えたものと思います。振り返って長寿大国日本では、私も含めいい歳をして覚悟もなく、馬齢を重ねるようになりました。

  ただ、私は悲観してはいません。人間は一人では生きられません。自分勝手に生きようとすることがどんなに虚しいか、家族がどんなに心の支えになるか、他人や社会との前向きの関わりがどんなに面白いか、いずれ気がつくときが来るはずです。ひと足先に気がついた人は、まだ気がつかない人に自分の真摯な姿を見てもらうだけでいいのではないでしょうか。 

講演録 劣化の時代をどう生きるか4
2008 3/19

民主主義は両刃(もろは)の刃
  一人ひとりに重い責任

  日本には「情けは人のためならず」という言葉がある。これを自己実現の段階でいう「自分の欲求の中に他人を矛盾することなく取り込む状態」の理解に使ってみよう。この場で情けとは、武士道で言う惻隠(そくいん)の情やあわれみといった上から下に施すものではなく、思いやり、人情、慈愛、気配りといった意味に取ることにする。

  さて、思いやりは人のためにしてやることのように見えるが、世の中には実はそうすることによってしか自分に得られないものがある。それは他人という反射体があればこそ確認や獲得ができるもので、だから「人のため」は対立することなく自分の最高位の欲求の達成になる。仏教で言う利他の精神にも通じることで、早い話が無人島暮らしではこの欲求は決して叶わない。尾崎方哉は孤独な境遇の中で、それにも似た荒涼とした精神世界を句に残している。

  咳をしてもひとり

  自己完結が勝手気ままで快適に見えて、結局は虚しい自己満足や錯覚に過ぎないことを、私たちは少しずつ気がつき始めているのではないか。自己実現の欲求の中に他人との関係を探る道が、「次は何か」を示唆するひとつにならないだろうか、と私は思っている。

  劣化の時代をどう生きるかについて、私は▽中途半端に利口な人間の理性に頼るのでなく野生動物の本能に学ぶ▽救済と悟道を真摯に求める宗教の復権― なども挙げたいが、詳しくは自著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」(東興通信社刊)に譲り、最後に主催者の選挙管理委員会のご希望もあり、これまでの話と選挙との関係に触れて締めくくりたい。

  選挙で棄権する人はよく「適当な人がいない」「誰がなっても同じ」などと言う。自己完結型価値観では、選挙も面倒でそんなの関係ねえということにもなるが、それは、医療も年金も教育もみんなダメにしてしまったこんなろくでなしの国を再生する責任を負わないことを意味する。ダメな国にしたのは無能な政治家や保身第一の役人であっても、彼らを正しく選べなかった、あるいは放置した責任は選挙民にあるはずだ。

  そもそも民主主義だ、主権在民だなどといって選挙民が自らをお客さん扱いすることからして間違いだろう。民意が常に冷静で賢明でなければ、民主主義は簡単に道を誤り、凶器にさえなる。よい例が9・11以後だ。扇動する指導者に熱狂し、付和雷同した国民が、他国に累々たる死人の山を築いた。

  戦後の長きにわたって、自由や民主主義を無批判、無条件でよしとしてきた受け止め方を、このへんでしっかりと整理し直さなければならない。核の傘の下にありながら平和国家と称するまやかしも同様で、ごまかしと引き換えに日本はアメリカのポチになり下がり、独立国家としての誇りを捨ててしまった。これもまた、この国の劣化の要因のひとつなのだ。

  このまま劣化を加速させるのか、歯止めをかけて再生に向かうのか、私たち一人ひとりが問われているのだろう。
(おわり)


  聴講者からメールを頂きましたので、次週はそのメールと回答を掲載します。  

講演録 劣化の時代をどう生きるか3
2008 3/12

自己完結から自己実現へ
   他人あっての究極の充足

 前回までで、戦後日本は豊かさを追求し、モノは手に入れたが次は何かが出てこないまま行き詰まり、さまざまな矛盾が噴き出してきたことを見てきた。藤原正彦氏の「国家の品格」は、そうした曲がり角にあって、日本独自の価値観をあらためて見直そうとする試みであろうと思う。

  この本を私は多くの共感を持って読んだが、氏が結局、日本人の精神的よりどころを再び武士道に求めている点には、どうにも戸惑わざるを得ない。ただ、念のため新渡戸稲造の「武士道」を読んでみて、ひとつ気がついたことがあった。

  「武士道」は明治32年に書かれたもので、武家社会が終わってから1世代経ている。明治維新は日本史上の大転換期であり、世の中が一気にがらりと変わったが、武家社会で生きてきた日本人の価値観が一夜で変えられるわけもない。激動期であるからこそ、人々は失ってはならないものを必死に見分けようとする。そしてそれがまだ可能だった。明治32年はそんな時代ではなかったか。振り返って平成の世は、同じく激動の大戦を経て、戦後生まれの団塊の世代、その次の団塊ジュニア、さらにその次の世代が育ちつつある。世代が代わるにつれ過去は影を薄くしてゆく。今がまさに「次は何か」を問われる時期にあるといえよう。

  劣化した日本を武士道で引き戻そうとするのは至難の業だと思われる。では新たな精神的支柱はどこに求めたらよいのか。自己完結する快適な生活などありえず、足元から破綻が始まっていることはすでに述べた。ならば、他人との関係はどう持てばよいのか。

  他人を視野に入れた途端、人は自分本位には動けない不自由を受け入れなければならない。横断歩道を渡りたいのに、信号が赤なら青の人のために待たなければならない。待たされるのはお互い様でそれがルール、ルールを守るのがモラルだが、そうした他人との関係を煩わしく不自由だと見るのをやめ、肯定的で積極的にとらえなければ出口はいつまでも見つからないのではないか。自分がどれだけ勝手にできるかという幸福論ではなく、自分は他人とのあり方によってどんな充足感を得られるか、という視点に立ってみよう。キーワードは自己実現。

  アメリカの心理学者マズローは人間の欲求を5段階に分け、低い欲求が満たされるとより高い欲求を求めるとし、最も高い欲求を自己実現と位置づけている。第1段階は食欲や睡眠などの生理的欲求、第2段階は安全や安心、安定の欲求で、まだ自分のことで精一杯の状態。第3段階になると人からよく思われたい、嫌われたくないとする集団帰属や愛情の欲求、第4段階は社会的に評価を得たい承認の欲求で、他人との関係が具体的に意識されてくる。ただこの段階でも、他人と対立したり矛盾することがある。いじめの側に帰属しないと自分が嫌われると考えたり、人を蹴落としてでも評価を得たいといった場合がある。

  しかし第5の自己実現の欲求は、自分はこうありたいという欲求で、それを満たすのに他人との対立は消え、むしろ自分の欲求の中に矛盾なく取り込んでいるとしている。

  この、他人と矛盾なく内に取り込んでいる状態というのはなかなか分かりにくい。次回で、もう少し読み解いてみよう。
(つづく)


講演録 劣化の時代をどう生きるか2
2008 3/5

行き詰る自己完結型社会
     一方で、荒廃進む格差社会

 後日本は、精神面では軍国主義、戦争への反省から出発した。アメリカが日本を武装解除させて持ち込んだ自由、平等、民主主義はもちろん占領政策の一環には違いないが、国民は重苦しい時代からの解放感に満ちて、この3点セットを疑わずに受け入れた。だが、アメリカの言う自由とは、彼らが自画自賛するほど素晴らしいものなのか。

  9・11以後、アメリカはアフガンとイラクに侵攻し、これはテロリストや独裁者の国を解放し、自由と民主主義をもたらす正義の戦いであると宣伝した。そしてかつての成功例として、戦後日本を引き合いに出した。しかしきれいごととは裏腹に、この2つの戦争の端緒から、ベトナム戦争泥沼化の二の舞いを演じることは明らかだった。当時、熱狂的に大統領を支持したアメリカ国民も、ようやく今頃になってそのことに気がつき始めた。

  さて、日本に持ち込まれた自由はその後どうなったか。

  「あっしには関わりのねえことで」(木枯紋次郎)の決めぜりふがはやったのは1970年代の初めだった。80年代には「カラスの勝手でしょ」(志村けん)、昨年は「そんなの関係ねえ」(小島よしお)が流行語になった。この系譜は、他人との関係が煩わしく、他人に対してフリーで責任のない生き方を求める自己完結型の生活観が深まりゆくことを物語っている。

  前回述べた豊かな社会は、それをある程度可能にした。たとえば、電話が一家に一台なかったころ、呼び出し電話で隣近所が相互に気を使いながら助け合ったが、一人一台のケータイ時代にその必要はなくなった。

  しかし、自由な、いや身勝手な自己完結型社会は、個人がばらばらになり、孤立化し、共同社会として機能しない結果を招く。少子化、年金破綻はその典型だ。

  事情あって子どもが産めない人の場合を除いてここでは論じたいのだが、2002年の厚労省の調査によると、子どもを産まない理由の第1位は「自由な時間が持てない」、2位は「体が疲れる」、3位は「お金がかかる」となっている。確かに、子どもを育てるのは面倒で時間を取られ、養育費、教育費もかかるので、ラクな方を選んだらトクなように思う。しかし「アリとキリギリス」のキリギリスには落とし穴があった。

  年金受給は後の世代が前の世代を支える相互扶助を前提としている。若く元気なうち、キリギリスの生活を満喫した人が、やがて老齢化して支えてもらうのは、アリがせっせと育てた他人の子どもたちということになる。自己完結する社会などありえない。それどころか、アリが絶滅危惧種になるおそれさえある。

  話を戻そう。そもそもアメリカはほんとに自由と民主主義の国なのか。ひとたびハリケーンに襲われると、ニューオーリンズの低地に住む低所得者層は、避難するクルマも持たず、置き去りにされた。アメリカの自由とは市場競争原理で「自由」に戦い、勝った者が総取りする弱肉強食の論理で、それをグローバルスタンダードと称して、お節介にも世界に広めている。

  おかげで日本では、拝金主義のホリエモン、村上ファンド、ハゲタカファンドが横行する一方、年収200万円以下のワーキングプアが1200万人にも膨れ上がっている。格差社会で深刻なのは、チャンスもつかめず、出口の見えない生活からどうにも抜け出せない人々が、やがて諦め、希望や誇りを失い、人間として荒廃してゆくことにある。
(つづく)

講演録 劣化の時代をどう生きるか1
2008 2/27

 さる9日、西東京市コール田無で「劣化の時代をどう生きるか」をテーマに講演を行いました(西東京市選挙管理委員会ほかの主催)。今回から4回に分け、当日の内容を抄録いたします。

何が失われたのか
  戦後日本の光と影

 最初に、このところどんな劣化がどんな風に起きているかに触れておきたい。

  昨年末、新聞各紙が発表した10大ニュースを見ると、宙に浮いた年金5千万件、食品偽装、防衛庁汚職、薬害肝炎訴訟、銃犯罪の続発、と社会不安、モラルの欠如、危うい国の将来を物語る事件が半分を占めている。この中で、役人や政治家の犯罪や事件は今に始まったものでもないが、近ごろは警官や教師による殺人やわいせつ行為、消防団員の放火、マスコミ関係者の不祥事なども頻発するようになった。かつての“聖域”はいまや何の根拠もない神話となり、いまさらなにが起こっても一向に驚かない時代に変わった。

  流行語大賞は「(宮崎を)どげんかせんといかん」だが、地方の閉塞感は宮崎に限らず全国に広がっている。「今年の漢字」は食品偽装を示す「偽」だが、その前には耐震偽装が騒ぎになった。

  出版界では「国家の品格」がベストセラーになり、その後「女性の品格」「親の品格」「男の品格」など、失われたものを見直そうという品格ばやりの1年でもあった。

  過去10年ぐらいの新語、流行語を遡ってみると、ニート、パラサイト、援助交際、不倫、熟年離婚、引きこもり、虐待、いじめ、学級崩壊、給食費未払い、ネット心中、ワーキングプア、格差社会など、マイナスのキーワードが次々と噴き出している。

  こうして見てくると、社会の規範やモラル、人々の精神的支柱やよりどころが居場所を失い、そのため家族や地域社会、国家が壊れ、行き着くところ人間の誇り、希望、目標、他人との信頼関係、愛といったものが喪失、崩壊の道をたどり、つまりは心地よい人間関係やわきまえのある常識がどんどん劣化している。

  ではなぜ劣化したのか。戦後日本のたどった道を振り返ってみよう。

  敗戦により再出発した日本の目標は、経済復興、豊かな社会、GNPの成長だった。松下幸之助の「水道哲学」は、この時代の要求にぴたりと対応している。通行人が道端の水道の蛇口を捻って水を飲んでも、だれもとがめない。水が安くて大量にあるからだ。水と同じように、便利な電化製品を大量生産し、安くて大量に消費できるようになれは、豊かな社会が実現できる― 。やがて白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器となり、それが普及すると次にカー、クーラー、カラーテレビの3Cが行き渡り始める。「水道哲学」の実現である。

  人々が手に入れたモノの中には高学歴もあった。1970年代半ばには高校進学率が90%、大学進学率が40%にも達した。この高学歴化は一方で受験戦争、偏差値教育、おちこぼれ、ゆとり教育、学力低下と、矛盾を生んでは迷走を続けるが、ともあれ、60年代、70年代の日本は、高度成長、列島改造と突き進み、経済大国として成功を収めた。これが戦後の光の面と言えよう。

  しかしやがて、豊かさが価値にならなくなった。ないモノが欲しいから夢中になったのに、ひと通り手に入ると欲しいモノがなくなってくる。自分の欲しいモノは何か、欲しいモノが欲しいが見つからない。ここから、精神の荒廃、影の面が広がり始める。
(つづく)

劣化の時代
2008 1/30

 近ごろ、講演を時々頼まれるようになった。

  私は、人の長話をじっと聞いていると、じりじりしてくる時もあるが、話す方はそう嫌いでもない。若いころは落語家になったら面白かろうと思ったこともあるし、いずれ歳をとって閑になったら、路上で辻説法でも始めたらどんなものかと考えたこともある。もっとも、辻説法では変人扱いされて石が飛んできそうなので、僧籍に入って寺々を回り、法話をしたいがと、住職の義兄に話したが、真(ま)に受けてはくれなかった。

  頼まれ講演のたぐいは、昨年2度、一昨年も2度行なったが、だんだんネタ切れになってくる。寺々の法話なら旅芸人よろしく同じネタを何度も使えるが、講演は地元が多いのでそうもゆかない。2月予定の次回は、考えあぐねた上で「“劣化の時代”をどう生きるか」に決めた。

  家族の崩壊やモラルの喪失、格差社会の深刻化など、世の中の“劣化”がひどくなってきたのはここ10年ぐらいの間だろうか。かつて存在していた心地よい人間関係やわきまえのある常識が、いつの間にか予想外の速さで劣化を進め、いまや私たちの生活の至る所で矛盾が噴き出し、歯止めのかかる気配がない。そうした現象のいくつかは本欄でも取り上げ、近著「虫瞰(ちゅうかん)の風景」にも収録したが、加速する劣化はなぜ起こるのか、将来に向かってどう生きればよいのか、最近気になっていることを、自分なりに見つめてみるよい機会になるのではと思った。

  社会学者でも宗教家でもない私が取り上げるには、このテーマはかなり手ごわいが、一生活者の視点から、手に負えない課題の出口を模索してみたい。

  講演は2月9日午前10時から、西東京市コール田無(田無町3丁目、田無駅北口徒歩7分)で。入場無料。主催は西東京市選挙管理委員会ほか。問い合わせは同会(TEL:042-438-4090)へ。