さる10月26日、多摩交流センターで行なった講演を抄録します。主催は東京雑学大学。
◇
東京雑学大学では3度目の講演になる。以前の2回は仕事を通じたテーマを取り上げたが、今回は、平家物語の専門家でも研究者でもない、一享受者の立場からこのテーマに取り組んだ。その理由から話を始めたい。
私は、あと16年現役で仕事を続けようと思っている。16年の寿命は保証されたものではないが、設定してみると長いようで、毎年1年ずつ消えてゆく。残された16年をどういう姿勢でどんな生き方をするか、死を意識すると生の密度が高まってゆくように思う。さてそこで、いったん自分の過去を振り返って、私の価値観や人生観がいつごろどんな風に形成されたかを再確認してみると、3つのポイントがあり、その最後のものが平家物語になる。平家物語は私が20代のころに何度も読んだ愛読書で、その後は読み直す機会もなかったが、講演依頼を機にあらためて整理をかけてみることにした。
清盛の栄華と凄まじい死
物語は平家の栄華と滅亡の顛末を描いているが、これは単なる源平の争乱ではない。当時の政治勢力には、長く貴族社会を支配してきた摂関家、その権力を院政に取り戻そうとする後白河法皇と近臣、台頭する武士団、そして武装化した寺院勢力と、二重、三重の抗争の構図があった。武士団の中でも、頼朝対義仲・行家、義仲対行家、平家内部の離反、頼朝対義経と、複雑な反目が表面化して行く。
冒頭の「祇園精舎」で、物語は前半の中心人物、清盛を王法(政治のモラル、ルール)や仏法に背いた悪行の人とし、因果応報により平家は滅びた、諸行無常、盛者必衰としながら、作者も演者も聴衆もこれまでに経験したことのない革命期の出来事や、全く新しいタイプの人間の登場を目の当たりにし、驚嘆している。
清盛の栄達、平家の栄華は、保元、平治の乱の勲功と、天皇家、摂関家との姻戚形成、荘園支配によるもので、武人でありながら王朝時代の律令貴族と同じ方法も併用しながら、宮廷官僚に成り上がってゆく。それが旧勢力には気に入らない。忠盛は、公卿の妬みによる暗殺計画を機転で切り抜けるが、その子清盛は、院の近臣による平家討伐の謀議が発覚すると、関係者を死罪、流罪にし、やがて法皇を幽閉する。
清盛は太政大臣に上り詰め、一門は日本国66カ国のうち30余国を知行し、500余の荘園を支配する。平家に非ざれば人に非ず、専横な平家一門に対し、以仁王が挙兵、これはあっけなく鎮圧されるが、この以仁王の令旨を御旗に、東国で頼朝が挙兵、続いて北国で義仲が挙兵する。世の中が騒然とする中、清盛が熱病に侵され病死を迎えるのだが、尋常でない人の尋常でない、凄まじい最期が描かれる。
病床の清盛には熱くて近寄れない。水風呂に入れるとすぐに湯になってしまう。水をかけると炎に変わって燃え上がる。妻、時子が遺言を求めると「すべてが満足な一生だったが、たったひとつの心残りは頼朝の首を見られなかったことだ。自分の死後は堂も塔も建てるべからず。頼朝の首を墓前に懸けることがなによりの供養である」と言い残し、悶絶死する。
このあと物語は「さしも日本一州に名を上げ、威を振るっし人なれども、身はひとときの煙となって都の空に立ち上り、かばねはしばしやすらひて、浜の砂(まさご)にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ」と結んでいる。
(つづく)