週刊コラムニスト(過去ログ2009年)

幼なじみの忘年会
2009/12/28

 暮れも近い土曜の夕方、趣味の休日出勤をしていた私のもとへ、カミさんから電話が入った。「忘年会を5時から始めると、かどやさんから連絡があったよ」。

 かどやというのは近所の定食屋で、私の子どものころからある。道路の角にあるからかどやという屋号のようで、私の小学校の同級生が2代目店主を務めている。ここで毎年、同級生が連れ合い同伴で集まり、忘年会を開くようになって10年になる。学年の同窓会を立ち上げた時に、6年3組のクラスメートの消息掘り起こしのため、彼の店が準備室に当てられたのがきっかけで、同窓会とは別に春の花見会、暮れの忘年会をこの店で開くのが恒例となった。
 
 店の客席がそのまま会場になり、料理も厨房から運べばよいから手軽だが、なんといっても気のよいおやじ夫婦の人柄が長続きの理由だろう。奥さんにしてみれば縁のない同窓だがすっかり溶け込んでいて、いまでは他のクラスの事情や消息にもかなり詳しい。私は、店の営業日に家族を連れて食事に行ったり、閉店後に一緒にカラオケに出掛けたこともあるが、カミさんや娘は「あの夫婦は、世間でまれに見る徳の高い人格者だ」と褒める。たぶん、徳の低い私と比べているのだろう。
 
 忘年会は一応会費制だが、飲み放題食べ放題だから商売になるとも思えない。気を使って手製のパンや酒を持ち込む者もあり、持ち込まない者もあり、そこはもう勝手。10数人が勝手、勝手にしゃべり、話題が脈絡なく飛び、しゃべり疲れて解散となる。

 さて、5時開始とは言いながら三三五五の集まりだろうし、私は6時のつもりでいたから「仕事を片付けてから遅れていくよ」と答えた。5時半ごろ家に戻り、ちょうど新しいオーディオセットが届いたので説明を受けていたらまた催促の電話。「きょうはすき焼きだから、早く来ないとなくなっちゃうぞ」と言う。

 それはいかん。「食うな! 食うな!」と電話口で叫んで駆けつけると、面々は箸を置いたまま、お預けを食らったワンコのような面持ちで待っていた。かわいそうなことをした。

 すき焼きを食いながら下仁田ネギの話になり、あれをすき焼きに入れるとうまいんだ、と言ったら、向かいに座った薬剤師が「うちの家庭菜園で作っているよ」。そういえばしばらく前、自宅で柿が生ったのでおすそ分けに届けたら、採りたてのチンゲンサイや春菊をお返しにくれた。

 翌日、早々と下仁田ネギが届き、二晩続けてすき焼きになった。それはいいけど、カミさんが間違えて事もあろうに「下ネタネギ」と呼んだ。どんなネギだ。

顧客満足2
2009/12/24

 
 カミさんの憤懣は収まらず、日を改めて上司の所長を呼んだ。私も同席し、取りなし役を務めるとともに、どうしてこんな事態になったと思うか、状況悪化は把握していたのか、どう対処すべきだったか、と尋ねた。

 こういう場合、上司は平身低頭してなるべく余計なことは言わないのが上策となる。私は自分の解釈を説明した。

 今回の経緯はどっちもどっちの面があり、客だからと言ってすべての非を相手に押し付けるつもりはない。しかし私が上司なら、お互いがそっぽを向いて険悪になる前に、スムーズな進捗が図れるよう部下を指導するか、早めに交代させるなりしただろう。

 着工の1カ月前に仕様決定するのが決まりと言っても、その後に再三変更が起きるのが通例で、契約書は何通もになりますと、営業マンからは前もって聞かされていた。うちの会社でも扱う品物は違うが、機械の仕様変更は、据え付けした後でさえ起きることがある。使う側と造る側のイメージの一致はそれほど難しい。まして家のリフォームは、夢を売る仕事ではないか。

 コーディネーターが自分の言い分を堂々と言い返したこと、電気工事担当者が返品はカミさんに非があると口を出したことは、社内や下請け先にまで彼女に都合のよい情報が広がっていたことを裏付けている。人間はだれしも自分を正当化して話したがるものだ。上司はそれを差し引いて報告を受けなければいけない。

 工期を守るという点では、彼女の責任感は強かった。しかし、自分のペースで事を進めようとするあまり、肝心なはずの客の思いを置き去りにしてしまった。そして、2人の反目が進捗をさらに遅らせた。顧客満足を忘れてなんのための工期なのか。工期死守は顧客のためでなく、ひょっとして下請けの作業日程管理のためだったのか。

 私の話をじっと聞いていた上司は「ご意見を今後に生かすとともに、本人を連れてあらためてお詫びに伺いたい」と言った。私は、彼女の性格からして形だけの謝罪になるので、再訪は必要ないと答えた。

 ごたごたはあったが、リフォームで住空間は生まれ変わったし、工事責任者も営業マンもよくやってくれた。コーディネーターの特異なキャラクターも、私から見れば新鮮な驚きだった。「人を嫌悪するとエネルギーがたくさんいるね」とつぶやいたカミさんも、そう思って切り替えるとよい。(おわり)


顧客満足1
2009/12/19

 
 正月を目前にして、自宅のリフォームが大体終わった。当初、リビングとダイニングの改修のつもりだったが、キッチンを追加したら予算が倍に膨れ上がった。私としてはこの不況下にと思ったが、今回はカミさんの主張に従った。

 というのも、元の間取りは私の意見で設計したもので、使い勝手が悪いと家族には不評だった。結婚して30余年(何年になるかよく分からない)、特にプレゼントをしたこともなく、アメリカ人の夫婦ならとっくに離婚だろう。あたしゃアメリカ人ではない、というものの、このままではどちらが先に死んでも死に目が悪い。一度好きなようにさせて印象づけ、無罪放免にしてもらおうと企んだ。

 カミさんは床材の材質、壁紙とカーテンのカラーコーディネート、照明効果、キッチン収納などに凝り始め、夢中になった。私は機能を満たせばそれでいいのにと思ったが、予算管理だけしてあとは口を出さなかった。

 ところが、カミさんと業者の女性コーディネーターが打ち合わせを重ねるうち、女同士の間がだんだんギクシャクしてきた。年内完成のスケジュールなので、コーディネーターはさっさと決めてゆきたい。見本を持って来ました、これにしますか、あれにしますか、どれにしますか、と迫る。カミさんは迷いながら選ぶが、本当はどれも気に入らず、自分で他のメーカーを探し出して、見本以外のものを物色する。もともと迷いたがりで決断の遅い方だが、ああでもない、こうでもないと言っているうちに相手がイラつき始める。

 そのうち、これに決めたとメールを送っても返事が来なかったり、届いた品物を取り付けてみると指定したものと違っていたりし始めた。コーディネーターは大して謝りもせず、挙句の果てに、照明を取り替えて欲しいというと、電気工事の男が、自分で決めたものは返品できないんですよとカミさんに説教するに及び、カミさんは完全にキレた。

 検収立ち合いの日に、カミさんは証拠のメールを見せ、なんでも私が悪いように言うけど、あれもこれもどれもそれも業者の不手際だと不満を並べた。私は、毎日カミさんから文句を聞かされていて敵わなかったので、気のすむまで言わせて、まあお互い人間だから行き違いやミスもあることで、と柄にもなく間に入って取りなした。関係者はかしこまって聞いていたが、例のコーディネーターが一応謝った上で「ひとこと申し上げると」と、着工の1カ月前に仕様決定するのが当社の決まりですと言い返した。(つづく)


コンサートの雑念
2009/12/15

 
 ゲルギエフ指揮のコンサートの招待券をもらい、久しぶりにカミさんとチャイコフスキーを聴きに出掛けた。曲目は悲愴、ピアノ協奏曲第一番ほか。

 私はクラシックのコンサートにはあまり行かない。楽章と楽章の間のほんの小休止に、客席のあちこちでコホン、コホンと遠慮がちな咳をされるのが、どうにもわざとらしくて気に入らないからだ。咳やくしゃみは思い切りするのでなければ気分が悪い。演奏中なので配慮するのは当然のマナーだが、がまんしていて小休止にコホンですむとも思えない。あれは、出もしない咳を気取って出してみるコホンではないか。

 しかし聴いてみると、一級のコンサートホールでの生演奏は、やはりCDやレコードとは迫力も音の深みもまるで違う。指揮者や演奏者が曲に感情移入した表情も読み取れて楽しい。コホンがいやだと言って行かない私もかなり偏屈だ。

 オーケストラは総勢70〜80人。これだけの人数がロシアからやってきて各地で演奏するのも大変だろう。半年ほど前、ブルガリアのオペラ団が来日した折、通訳を務めた人がカミさんの高校時代の同級生だった縁で、演出家以下数人がわが家に立ち寄ったことがあった。アメリカの原爆投下を日本人はどう思っているかなどと聞かれ、私の見方も話したが、それはそれとして、この時の旅行は演奏者のほか、オペラ歌手、大道具小道具、照明係、音響係までいるから200人にも及んだ。飛行機も2便、3便に分かれて乗り、空港の搭乗手続きでは読み慣れない名前に混乱も起こり、迷子になる団員もいて通訳はてんてこ舞いだと言う。なるほど楽屋裏にはいろいろと事情がある。

 そんな話を思い出しながらコンサートを見ていると、この中にも迷子はいたのだろうかと、あらぬ方向へ思いがよぎる。芸術で飯が食えるのはほんのひと握りの厳しい世界だ。テレビ局がスポンサーに付き、海外公演で満席にできる粒ぞろいのメンバーだが、この地位を勝ち取るのに、バイオリンやビオラは数が多いからピアノほど競争が厳しくないのだろうか、出番の少ないティンパニーは、なり手が少ないのを狙って、途中でピアノから転身した人もあるのだろうか、と思いが広がる。娘が美術の道に向かっているからよけいそんなことを考えるのだろう。

 コンサートは聴きながら情景が見えるから、雑念も起こる。


娘の心配、景気の心配
2009/12/10

 
 美大受験で浪人中の娘が、予備校の冬期講習前の休暇で4、5日帰省した。みんなで外食しようというので、しばらく前に開店した近くのトンカツ屋に連れて行った。近ごろは飲酒運転が厳禁なので、歩いて行ける店かタクシー利用になる。

 トンカツ屋を提案したのにはワケがある。その店がうまかったこともあるが、実は昨年、そば屋で娘がゲンかつぎにカツどんを注文した時、私が半分取り上げた。娘は一人前食べたかったのだが、見ていてうまそうなので私のそばと分け合ってもらった。その後、受験に落ちて、私はどうも半分取った後味の悪さが残った。娘は気にしなかったが、これはどうしても出直ししなければならない。

 私は自分のことならゲンなどかつがない。私が受験した時は、母が神社にお参りに行くというのでやめてくれ、と止めた。神頼みなどせず、自分の実力で入ると言った。そのくせ先月、外注先と伊勢方面に研修旅行に行った折、私は伊勢神宮で学業成就のお守りを買って娘に贈っておいた。

 娘は、西田文郎のメンタルトレーニングの本など読んで、すっかり鼻息が荒くなっている。合格した後の生活イメージまで出来上がっていて、なんの不安も持たない。それがまた、親としては大丈夫なのかと心配だ。

 ともあれ、お父さんが気にするなら付き合ってあげてもいいよといった風情で、娘とカミさんがついてきた。

 このトンカツ屋は食材をよく吟味していて、ソース、味噌ダレ、ゴマダレのどれに浸けてもおいしく、娘もご機嫌だったが、客の入りがイマイチだ。前に行った時は「なんとかホソボソとやっています」と言っていたが、その日は他に先客もなく、後からやっとふた組入っただけだった。3人で店の経営を心配しながら勘定すると「ぜひまたお越しを」と割引券を3枚もくれた。

 「不況のせいなのかね」と話しながら、いつも予約で満席のすし屋の前を通りかかり、客数当てを試みた。カミさんが2人、私が4人、娘が5人。歩きながら一斉に屈んでのれんの下からガラス戸の中をのぞくと、がらーんとしてひとりもいない。食事時を過ぎた夜の住宅街の店ではあるが、それにしても景気は深刻だ。


死後のあいさつ
2009/12/3


 葬儀の案内が来ると、私はなるべく参列するようにしている。人間だれしもいつか命が尽きるもので、その意味ではごく自然なことだが、当人や遺族にとっては滅多にない一大事だから、関係ある先には哀悼の意ぐらいは伝えに行きたい。ただ、亡くなったのが自分の直接の知り合いなのか、知り合いの親族なのかによって、随分違ってくる。
知り合いの死であれば、最後に会ったときは元気そうだったのにとか、療養中とは聞いていたがダメだったか、という思いとともに、生前の思い出も蘇って来る。突然の知らせはショックも大きい。

 ところが、仕事上の関係先の人の親などが亡くなった場合だと、当のほとけさまに生前一度も会ったことがないことも多い。もちろんこの時は遺された知人に対し、心中を察して慰労に行くのであるが、どこかピンと来ないところがある。

 棺に蓋をする前に進行役が「どうぞお花を添えて最後のお別れを」と促すが、初めて会う人の死に顔をまじまじ見つめる気にもならない。本人も、知らない人に死んでからじろじろ見られたくはないだろうと思う。といって、花を受け取らずに遠巻きにしているのもよそよそしく、遺族の気持ちを思えば棺の周りを取り巻く一員に加わっておくぐらいの配慮はした方がよいことになる。

 故人への思いや、つながりが薄いと、それでなくても型通りの葬儀がますます形だけのものになる。大きな社葬が大きければ大きいほどどこか空々しくなるのはそのためだ。義理で顔だけは出しておかないとという人同士が、後ろの方で「このあいだのゴルフコンペでドラコン取ってね」などと囁いていたりする。

 そもそも葬儀の主役は故人なのか喪主なのか。どちらとも言えそうだが、そうなると喪主は会葬者にあいさつをするのに、故人がしないのは礼を失する。死んだ人がどうやってあいさつするんだと思うから、だれも疑問にしないが、生前に声を残しておけばよい。

 「えー、本日は私の葬儀にお運びいただきまして、まことに恐縮に存じます。○○さん、来ていただいていますか。いや、どうも。私もね、もうしばらくは大丈夫と思っていたんですが、いざとなるとあっけないもので。みなさんも、他人事じゃありませんよ。後悔のない毎日を送ってくださいね。あ、それから、きょうお初にお目にかかる方もいらっしゃいます。生きているうちにお会いしたかった。存じ上げない方のために、少々私の生涯をお話しさせてください。私は子どものころは内気な方で……」

 これで葬儀の内容がぐっと濃くなる。この方法で、一周忌用、三回忌用の声も残しておいてはどうか。名案だと思うが。


夜明けの車上荒らし2
2009/11/25


 思えばいつもと違う状況が重なった。工事車両がカーポートを塞いでいたこと、カミさんに入れ替えを頼んだこと、そのため慣れないクルマで窓を閉め忘れたこと、しかしなによりクルマにバッグをつい置き忘れた自分が悪い。実は、置き忘れたのはこれで3度目だった。ぼんやりしていたから厄介なことになった。

 警官は丁寧に対応してくれた。免許証再交付の要領まで教えてくれたが、交付を受けるまでは免許証不携帯になるからクルマには乗れないと言う。それでは身動き取れないから早速困る。とにかく出社して予定の仕事だけでも片付けなければいけないから、ファイルの入った手提げ袋を持って、カミさんのクルマで送ってもらった。ふだんは私を粗末に扱うカミさんも、弱り目で困っている時は妙にやさしい。

 午前中に仕事を済ませ、昼食のあと、とにかく運転試験場に行って免許証交付を、と手提げ袋を手にしたら……あった。盗られたと思ったバッグがあった。

 よかった、と思うと同時に、これだけ大騒ぎしてなんたること、全身これ愕然のカタマリになってしまった。自分でファイルと一緒にバッグを手提げ袋に入れ、玄関から出かけようとした時に「バッグは」と聞かれてもう忘れている。手元にありながらどこだ、どこだと探し回り、気付かぬまま会社まで持ち運んでいる。

 人間、手馴れて無意識にした行動は記憶に残らない。たとえば毎日の通勤コースは、いちいち考えることなく目的地にたどりつく。今回の場合、バッグを持って出ようというところまでは無意識で、ファイルがあるから一緒に手提げに入れたのがいつもと違っていた。もうひとつ分析すると、うっかりするのは注意力が散漫だからではなく、なにかに気持ちが集中していると他のことがノーガードになる。私もこのとき懸案事項が頭にあった。

 とまあ言ってはみても、この先まだ10数年も第一線で仕事を続けるつもりだったが、ほんとにやれるのだろうかと気持ちが揺らいだ。


夜明けの車上荒らし1
2009/11/20
 
 朝食を済ませて出社しようと玄関に下りたら、カミさんが「バッグは」と聞いた。その日は、前日に会社から持ち帰ったファイルを手提げ袋に入れて手にしていたが、財布や運転免許証を入れていつも持ち歩くハンドバッグがない。あら、いけないと部屋に戻ったが見つからない。ほかの部屋も探して見たがどこにもない。昨晩クルマの中に置き忘れたかとカーポートに出てみると、運転席の後ろの窓が開いている。アレレ……。助手席に置いたバッグもない。

 退社のとき持ち帰らなかったのかもと、念のため会社に電話を入れて早出の社員に探してもらったが、そこにもないという。うーん、これはいよいよ車上荒らしか。早速、警察とカード会社に盗難の連絡を入れる。

 しばらくして近所の交番から警官が2人、自転車でやってきた。雨の中、雨合羽姿の2人と立ち会って状況を説明する。クルマは施錠してあったし、防犯警報もセットしていた。クルマに触ると警報音が出るが、寝ていて気がつかなかったのだろうか。それにしても、窓が開いているのも変だ。電動ウインドーなのでエンジンを掛けなければ開けられない。車上荒らしなら窓は乱暴に割るところだ。

 そういえば、このところ家のリフォーム中で、昨夜は工事車両がカーポートを占領していたので家の前に止め、あとでカミさんに車庫入れしてもらった。バックした時に窓を開けて車を止め、窓を閉め忘れて施錠、警報セットをしたようだ。しかし後ろの窓から助手席には体を乗り出しても手が届かない。警官が「開錠して乗り込んだのでしょう」というが、盗ったあとわざわざ施錠して立ち去るだろうか。どちらにせよ、警報がピーピー鳴るはずだ。

 若い婦警が指紋を取ってみたが、雨のためよく映らない。家に入って調書を取る。バッグには財布、メガネ、ボールペン、財布の中には現金、クレジットカード、ETCカード、エクスプレスカード、健康保険証、運転免許証。幸いカードは、番号と連絡先の電話番号が控えてあったので、届け出に手間は掛からなかったが、大事なものばかりがみんななくなったかと思うとため息が出る。(つづく)

市橋報道に表れた連座社会2
2009/11/16

 マスコミや視聴者が、市橋容疑者の両親に対する報道を許されると判断する背景には、日本の因習的な村社会の残滓がいまだに生きているからではないか。村のおきてを破った者には、一族が連座して村八分の制裁を受ける。戦前の軍隊では、ひとりのミスが班全員の連帯責任となり、整列して上官の体罰を受けるのが日常の風景だった。1人のせいで全員が、の恐怖を逆利用したのが戦時中の隣り組で、これは反戦異分子をはじき出すための巧みな密告制度になった。家族の中にハンセン病患者が出ると、遠い隔離所に送って本人の戸籍を消したのも、残された者が村八分を受けずに生き残る苦し紛れの防衛手段だった。

 いまもスポーツ界でしばしば起きるのが、たとえば2、3人の野球部員の不祥事が起きると、チームの全員で甲子園出場を辞退する責任の取り方に見られる。これでは無関係な部員はたまらないだろうし、自分のせいで仲間の夢を奪うことになってしまった不祥事の当人はもっとたまらないだろう。一生、心の傷となって残ると思えば残酷な話だ。

 組織上で上下関係がある場合だけは例外だ。部下のミスは指示命令権を持つ上司が連座して負う。上司がそのミスに関与していようとなかろうと監督責任は免れない。船が難破したら、それが操舵手のミスであっても、船長が船を離れるのは全員が退去した後でなければならない。途中で沈めば、船と運命を共にする。

 連帯責任は、厳しい社会規範のように見えるが、前述の場合を除き、実は幼児的ないじめに過ぎない。報道番組ともあろうものが、あるいは逆の言い方をすれば、テレビふぜいが集団リンチの先頭に立って、免責であるべき周辺者を吊るし挙げてよいものか。こうした幼児性が、責任を問うべきものをかえってあいまいにし、日本をますます幼児社会に仕立ててゆく。(おわり)

市橋報道に表れた連座社会1
2009/11/12
 
 英国人会話講師の死体遺棄の容疑で市橋達也が逮捕された夜、市橋の両親が報道陣に取り巻かれて会見している映像がテレビに流れた。両親は「逮捕されてほっとしている」「被害者の両親には申し訳ない」「事実をすべて話して罪を償ってほしい」などと答えた。2人は翌朝も記者会見に応じ、このときは顔を映さず声も変えてあったが、最初の会見の時はそうした配慮がなく丸出しだった。

 容疑者は30歳にもなる一人前の大人である。社会的な責任はすべて本人が負うべきもので、その親を引っ張り出してさらし者にする意味や正当性がどこにあるのだろうか。指名手配された2年7カ月前から、両親や家族はずっと針のむしろの上に置かれていただろう。マイクを向けてコメントを求められてもどうにも答えようがない立場にある。報道に「元医師」「元歯科医師」とあるのは、すでに両親ともに職を失い、まともな社会生活を送れない状態にあると思われる。被害者の両親でさえ、自分たちと同様、加害者の両親の苦しみもいかばかりかと語り、気遣っている。

 報道陣が大挙して両親の自宅に押しかけ、会見に応じるよう執拗に迫ったのは想像に難くないが、両親も他人事とは言えない責を感じたのだろう。きちんと受け答えをしたのは立派でもあり、「私たちには優しいよい子でした」とかばう親心は哀れでもあった。

 話題になった事件の容疑者の親が、インタビューに引っ張り出され心境を吐露させられる例は、これが最初ではない。視聴者ののぞき趣味に迎合した報道姿勢は今後ますます強まりそうだ。見世物になればなんでも放映するという、節操なきテレビは自らの将来を凋落させてゆくことになるだろう。かつて斜陽化を始めた映画が、ピンク映画を連発して食いつなごうとした時のように。

 犯罪の報道は無制限に自由というわけではない。犯罪者本人に対しても、それが未成年の場合、実名や住居、容貌など、本人であることが推知できるような記事、写真を報じてはならないとしている(少年法61条)。本人の将来を壊してしまわないよう配慮した報道規制である。今回の報道は、犯罪者でない者までカメラの前に無防備で引きずり出し、家族もろともに破壊する暴挙と言える。(つづく)

衣替え
2009/11/8
 
 私が子どものころ、中学、高校の制服は6月1日と10月1日に一斉に衣替えするので、教室の雰囲気ががらりと変わった。衣替えはこの日にするものだと決まっていて、確かに目で感じる季節感は大きかったが、ひと晩明ければ気温が一気に変わるわけでもなく、実際にはまだ暑かったり寒かったりだった。近ごろのように気候がずれたり不安定になるとなおさらで、夏服、冬服の変わり目はしばらくどちらでもよいとしている学校もあるようだ。

 私は家事を手伝う方ではないが、自分の衣替えは自分でする。いっぺんに総入れ替えするわけではなく、冬支度なら10月に入ってから半袖に長袖を加え、10月末に半袖を仕舞い、11月にセーターを出し、全部冬物に変わるのは12月になる。

 入れ替えの時に、どの衣類も適度に揃っているわけではないことに気付く。スーツは大丈夫だが、たとえばカーディガンやガウンはやたらに多いのに、靴下が足りない。半袖の下着は不足気味で、パジャマは山ほどある。どうにもバランスが悪いので、いったいどうしたことか考えてみると、いろいろ理由が出てくる。

 そもそも私はショッピングが面倒で、デパートなんぞはよほど困らないと自分では行かない。カミさんが見かねてちょいちょい補充しているが、これがアバウトでその時の気分によるから、必要なものが埋まらず余分なものが増える。見かねてというより、目的もなく売り場を通りかかったら、目が止まってなにげなく買いたくなったのかもしれない。

 ガウンは父が愛用していたものが何枚もあって、亡くなってから母が「仕舞っておいてもしょうがないから」というので引き取った。もったいないことが嫌いな母としては、リユースされて晴れ晴れした気分だろうが、こちらとしては大して着る機会もなく、場所を取るばかりだ。モモヒキやステテコが売るほどあるのも同じ理由による。私は、こんなカッコの悪いものは穿(は)かない主義だったが、穿いてみると重宝するので最近は抵抗せずに使うようになった。

 靴下は片方がなくなってよく補充する。この秋は6足の片方がなくなっていた。どこでなくなるのかよく分からないが、いくら身なりにこだわらない私でも、まさか色違い、柄違いの片方ずつで1足間に合わせるわけにもゆかない。カミさんには、全く同じ靴下ばかり何足も買えばいいと改善策を提案したが、採用には至っていない。

言わせてもらえば
2009/11/1
 
 長年、文芸同人誌を続けている友人から「今度17号を出すので、巻頭言を書いてくれ」と依頼が来た。私はちょっといきさつあってこの同人誌の会友ということになっている。

 彼にはこのブログを毎回愛読してもらっていて「よく続けてどんどん書けるね」と言われるが、実はここ1カ月ばかりは大きなテーマがなく、都度のネタに苦労している。ブロガー(という言葉があるのかどうか知らないが)は、文字通りブログ(日記)感覚で、独り言を毎日更新する人が多いが、私はあまり独り言をつぶやかないので、コラムとしてネタを構成してオチをつける。

 ネタがあればいくらでも書けるが、ない時はむりをせず、しばらく休筆でもしたいところだが、ブログ村のランクを維持しようと思うと、そうもゆかない。特に最近、「生き方」のカテゴリーに、よそのカテゴリーから「山人参を食って120歳まで生きるぞ」と叫ぶヘンなじいさんが突如移って来て、半年あまり維持してきたトップの座を取られた。

 人間は生きている間に何をするかが大事なのであって、意味なく長生きを目的にしたところで時間をもてあますだけだと思うが、人それぞれの人生だから好きにすればよろしい。もうひとつヘンだと思うのは、順位を稼げるブログ村へのインのポイントに比べて、不特定の人が村から個別ブログに立ち寄ってカウントされるアウトポイントが極端に少ないのは、なにか組織票のからくりでもあるのだろうか。この人はあちこちのカテゴリーを物色しては渡り歩く性癖があり、そうまでして人を押しのけるのは、いい歳をしておとなげない。

 私としてはもうひとつの参加カテゴリー「シンプルライフ」との按分をやめて「生き方」にインポイントを集中する防御手段があるが、ま、ブログが老後の生き甲斐のじいさんと張り合うこともない。せいぜい嫌われないように長生きを。

 ブログ村は、つい順位を競いたくなるようにできているが、私の場合、生き方をテーマに、読者に多面的なメッセージを送るのが本旨で、これを忘れてはいけない。先日、階段の途中に腰を下ろして新聞を読んでいたら、2階から降りてきたカミさんが私の頭を見下ろしながら「立派なハゲになってきたね」と言った。「世の中には薄毛やハゲで悩む人が多いから、ハゲでも気にせず隠さず生きられると書いたら、みんなの励ましになるよ」と勧める。あの人は私の本旨が分かっているのかいないのか。

イヌの生存領域
2009/10/28

 イヌにとって散歩は、飼い主が思うよりはるかに重要な意味があるように思う。

 ウチにはジャックラッセルテリアの親子がいる。メスの小次郎からオスの熊五郎が生まれた。生まれたのは4匹だが、熊五郎だけ器量が悪いので引き取られずに残った。器量だけでなく知恵も回らず、その上乱暴だ。アホな子ほどかわいいとは言うものの、小次郎がイヌにしておくには惜しいほど聡明で気配りが利くのに、父親がよほどヤクザなイヌだったのだろうか。室内で飼っているとところ構わずかじったり破ったり引っかいたりするので困り果て、その後は2匹とも庭で飼うことになった。
 
 早朝からカラス相手にキャンキャン吠えると近所迷惑になるので夜は小屋に入れるが、昼間は放し飼いだからそれなりに自由だ。それでも、散歩に行くよと言うと2匹とも興奮して大変な騒ぎになる。リードを付けなければ出掛けられないのに、早く行こうと門に突進する。コラッ、オイッと叱りつけないと収拾がつかない。やっとリードを付けて門を開けると、猛烈な勢いで引っ張る。小型犬でも侮れない力だ。リードは肩をたすきがけにして首の負担を緩和するタイプだが、それでも首が絞まってゲボッ、ゴボッと変な声を連発するので、道行く人が何ごとかと振り向く。

 途中でオシッコをしてマーキングしたり、電信柱に残した先客のマーキングを嗅いだりしながら、ひたすら前進してゴボッ、ゲボッは20分も続く。これはとても気分転換の散歩というような穏やかなものではない。

 ビジネスマン風に言えばドメイン(生存領域)の見回り、管理なのに違いない。もっと言えば狩猟本能の名残りなのか。野生の動物は獲物を捕るのが一日の、あるいは一生の仕事だから、縄張り管理が最重要課題になる。飼い犬には朝晩の食事が用意されるが、それはこの先保証の限りではないと、イヌなりに思っているのではないか。その証拠に早食いの見事なこと。だれかに横取りされないうちに飲み込んでしまおうという食べ方だ。余分に与えると、飢餓に備えて食いだめもする。

 本能の残り方は犬種にもよるだろうし、贅沢に慣れて寝てばかりいる肥満犬もいる。ただ、ふと疑問に思うのは、動物園の猛獣は散歩をしなくても大丈夫なのだろうか。

ミイラ取り
2009/10/24

 読もうと思っている本が6、7冊溜まってきて、ちょっと焦っている。この中には仕事で読む必要のある本と、楽しみで読みたい本があり、この2つは選び方も読み方も随分違う。

 仕事がらみで読む本は、最初から目的がはっきりしている。自分になにか発想や着想があって、それを形にする方法やヒントを探っているうちに、ウエブなどで著書に行き当たり、読んで企画に取り込むことが多い。目的もなくなにげなく読み始めたら参考になったということはまずない。

 この種のビジネス書は、読みながらマーカーでキーフレーズに線を入れておき、すぐにもう一度読み返す。2度目はマークしたあたりを中心にかなりハイペースで読むが、要点はノートに書き取ることにしている。ノートのメモを後で読むことはなく、書きながら記憶し、すぐに使う。

 好きで読みたい小説や古典、評論などは、書店や広告、自宅の本箱から見つける。自宅でしばしば見つけるのは、読もうと思って手に入れたままツンドクの憂き目に会っているものが再浮上するからだ。カミさんや娘が買った本に手が伸びることもある。

 こういう本にはマーカーなど使わない。面白いと3時間ほどで一気に1冊読み切る。読みながら余白にこまごまと感想を書き込む高校の教師がいたが、読書がいちいち中断するし、あとで使い道もなかろうにと思う。本を汚すのも著者に失礼だ。

 つまらないと最後まで読まずに途中で終わりにする。好きで読む時間だからがまんすることはない。

 一気に読み切るときはそうはない。読みたい本でもじっと読み続けるのはくたびれる。むしろ自室やリビング、会社、喫茶店、電車の中や銀行、病院の待ち時間などに持ち歩いて読み継ぐことが多い。朝5時に起きて、30分ほどぼんやりしたあと、朝食、出勤までの1時間あまりを読書に当てるのも悪くない。

2冊並行して読むこともあるが、どうしても仕事の本が優先になる。かくして趣味で読みたい本がまたツンドクになる。速読法の本でも読んでみようか。するとまた読む本が増える。

亀にいちゃんの正念場
2009/10/20

 友人とゴルフに行った帰りに、彼の娘婿が始めたという雑貨店に案内された。雑貨と言ってもあるのはすべて亀をデザインしたグッズ、小物、アクセサリーの類だけ。亀の置き物、亀のシール、亀のストラップ、亀のコースター、亀の箸置き、亀のTシャツ、亀の専門誌、亀の……。

 本物の亀も3匹いた。ギリシャ産とどこやら産の陸亀で、これは売り物ではなく、愛するペットと一緒に店番をしたいらしい。木箱の中に温度計、湿度計、扇風機を完備、なにやら赤い照明は日光浴の代わりをさせるのに必要で、かなりの気の使いようだ。べっ甲細工や剥製なんてとんでもない。すっぽんを食ったと言ったら店をつまみ出されたかもしれない。

 どうしてそんなに亀が好きなのか。亀はじっとしていることが多く、動作も鈍いし、表情も豊かではない。「喜んだり怒ったりするの」と聞いたら「そりゃあもう、性格もみんな違いますし」とうれしそうに話す。人のよさそうな人物だ。「亀は50年も長生きするのがいますしね」。そうか、ペットの死に目に会う辛さの回避まで考えているのだ。
 
 それはいいけど、こんなにマニアックな店でやって行けるものなのか。店は閑散としており、友人も心配している。世間に亀マニアはいるだろうが、かなりの広域から集客できないと経営はむずかしい。集客に限界があるなら、自分から売り込んだらどうか。亀は長寿のシンボルだから、敬老の日や誕生日の記念品として、自治体や老人ホームを回って、セールスしてみたらと話しておいた。

 趣味は趣味、仕事は別と割り切るよりも、好きなことを仕事にできればその方が幸せだ。ただ、好きなことでも仕事になれば忍耐も生まれる。好きなことなら辛くはないはずだが、趣味に忍耐を持ち込みたくなければ、仕事にはしない方がよい。

 若い人の中には、仕事は仕事と割り切ったつもりでどうもしっくりせず、どこかに自分の天職があるはずと漠然とした夢を描いて転職を繰り返す人もいる。まだ出会わぬ、自分にぴったりの天職など、いつまで探してもどこにもない。あるとすれば実は目の前にある。しっくりしないと感じている今の仕事こそを、自分でモノにして初めて天職になる。

 大手書店の社員から転身した亀のにいちゃんの夢は漠然とはしておらず、実現もさせたのだが、どうもまだ趣味と仕事の認識があいまいなようだ。知恵を絞ってなんとか成功してほしいものだ。

酒飲みの話3
2009/10/16

 酒は世界の至るところでそれぞれに造られ、広まってきた。ドイツのビール、フランスのワイン、コニャック、イギリスのスコッチ、オランダのジン、ロシアのウオッカ、中国の紹興酒、白酒、沖縄の泡盛、アメリカのバーボン、メキシコのテキーラ、西インド諸島のラム……一杯飲んで気持ちよくなるものはないかと、人間だれしも同じことを考えたようだ。

 こんな重宝なものも、度を越すとなにかと具合が悪くなる。イスラム教で酒を禁止しているのは、酒は神を忘れさせ、礼拝を怠らせるサタンの業とコーランに記しているからだ。この教えを破ると鞭打ちの刑に処せられる。少しは飲んで、ジハード(聖戦)を忘れたらよかろうに。

 仏教でも5戒の中に不飲酒戒があり、他の4戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒)を犯しやすくなるので戒めている。ごもっとも。禅寺の門前には「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と書かれた石柱が立っているのをよく見かける。ただこの戒律は全然守られていない。仏教界には般若湯というもっともらしい隠語まであって、今やその隠語を使うまでもなく、大っぴらに大酒飲みの坊主は山ほどいる。

 これは神道の影響らしい。神道では酒を御神酒(おみき)と呼んで、神社へのお供えには欠かせないものになっている。祭礼の時には人々も神と同じように酒を飲み、神との交流を深めるというぐらい酒には肯定的な考え方がある。日本では、もともと酒におおらかな神道に、あとから仏教が伝来して共存するようになったことが影響し、坊主が酒を飲み、葬式でも酒を出すのが平気になった。もっとも最近は飲酒運転厳禁だから、葬式に酒が出ることはない。他律の法は自律の宗教心に勝る。

 というわけで酒は功罪両面ある。酒飲みは、酒の飲めない人が常にしらふで生涯一度も酔うことのないのを気の毒がる。とりわけストレスの多い現代社会で、寝付きが悪い夜や忘れてしまいたいことがあるときはどうするのだろうと思うが、飲んで忘れるために深刻なアルコール依存症の罠に落ちる人も多い。酒飲みは、飲めない人に余計なちょっかいを出さず、しみじみ味わうのがよい。(おわり)

酒飲みの話2
2009/10/12

 私が家で毎晩酒を飲むのは、父がそうしていた姿を子どものころから見ていたからだろう。夕食時、父は実にうまそうに酒を飲んだ。私も早くおとなになって同じように飲みたいと思って眺めた。酒がうまいというだけでなく、きょうも一日しっかり働いたという充実感と、仕事からの解放感が体に溢れていた。高齢で医者に酒を止められてからも、父は88歳で亡くなるまで酒を飲んだ。それほど好きな酒だったが、正月3ガ日を除いて陽の明るいうちから飲むことはなかった。

 気が付いてみれば、私も父と同じ飲み方をする。違う点といえば、父は家でも飲みながらよくしゃべった。私が家ではあまりはしゃぎながら飲まないのは、昔見た時代劇の影響かもしれない。たとえば市川雷蔵が、手酌でひとりぽつねんと酒を味わうシーンがとても好きだった。

 というわけで、私は仕事が終わると一目散に家を目指す。何年か前、「早くおうちに帰ろう」の歌に乗せて真田広之が空をぴょんぴょん飛びながら帰るウイスキーのCMがあったが、まさにその気分だ。

 仕事帰りに飲み屋に寄り道しないのはクルマ通勤のせいもある。学生時代にはよく友だちと焼き鳥屋や居酒屋に行って飲んだ。しかしそれは、そそくさとアパートに帰ってもだれも待っていないし、晩飯が用意されているわけでもないからだ。私には、家族持ちのおやじが帰宅の途中で寄り道する気持ちがどうもよく分からない。職場とマイホームの間で一度気分を切り替える必要があるのだろうか。会社で忍耐、飲み屋で気を取り直して、家でもまた忍耐というわけでもなかろうに。

 部下や後輩を連れての飲み二ュケーションを重視する人もいるが、上司はどの部下とも常に等距離にあるべきで、私的なアフター5が人事考課に影響したのでは公正を欠くことになる。部下にしてみれば、いくら職場を離れた人間づきあいと言われても、上司との上下関係を忘れるはずがない。

 寺の多い浅草あたりのすし屋に入ると、電線に止まったムクドリの群れのように、坊主の常連客ばかりでカウンターを占領している店があるが、これにはもっともな事情がある。坊主はいつ葬式が入るか分からないので、ひまでも寺を留守にするわけにはゆかない。一日中家でごろごろしているとゲンナリして日が暮れるとそぞろ夜の街に出かけてみたくなるらしい。店のおやじも心得ていて、宗派を見分けて客の受け応えする。(つづく)

酒飲みの話1
2009/10/8

 私は一年中、ほとんど毎晩酒を飲むが、量は大したことはない。日本酒、焼酎ならグラスに1、2杯、ビールならレギュラー缶1本。それですっかりいい気分になり、本を読もうと思っても面倒で、大抵はテレビを見ているうちに寝てしまう。ただ、だれかと会食したときは、奨められれば断らない主義なので、かなりイケると思われている。

 断らないのは、相手の意向を無にしたくないというよりは、もう飲めませんなどと弱音を吐きたくないからだ。酒に強くても弱くてもどうということはないのだが、酒飲みとして降参したくない気持ちになぜかなる。どこまで飲めるかと言うと底なしではないが、若いころ2度失敗してからは正気を失ったことはない。

 失敗したときは、相手がひどく怒っていた。一度は一緒に飲んでいたカミさんの兄貴、もう一度は飲み屋のおばはんで、帰宅して夜中に目を覚まし、怒っていたのはとことどころ思い出せるが、なぜ怒らせたのかとんと記憶にない。そもそもどこをどう歩いて無事帰れたのか、それすら分からない。

 以後、懲りて失敗はないが、いくら飲んでも正気でいられるかというと、崩れない気持ちをしっかり持っていればできる。酒を飲む、飲まれるは、強い、弱いによるものではないようだ。

 目が回り始めるとかなり危ない。大学の空手部の寮にいたAさんからこんな話を聞いたことがある。泥酔して帰ってきた先輩に大声で呼ばれて部屋に入ると、畳に大の字になった先輩が叫んだ。「天井がぐるぐる回っているぞ。すぐに止めろ!」。回っていませんよとは言えないので「オス!」と答えて脚立を持ち込み、天井を押さえる。「しっかり押さえんか、お前が一緒に回ってどうする!」と叱咤され、結局Aさんは先輩が寝入るまでじっと押さえていなければならなかった。

 一方、いくら飲んでもしらふと全く変わらない人がいる。こういう人を強いと言うのだろうが、なにも変わらないならお茶でも飲んでおけばよかろうにと思う。私はふだんからおしゃべりだが、外で数人または大勢と飲んで気分よく酔ってくると、輪をかけておしゃべりになる。この状態をカミさんは“小林ワールド”と呼ぶ。そう言っただけで、その場にいなかった子どもたちにはありありと情景が浮かぶらしい。「ははあ、またやってたのね。まあいいけど」と言いたそうな顔をする。(つづく)

食は中国にあり2
2009/10/4

 中国人は四つ足なら机以外の何でも食べると言われるぐらい、食材は豊富だ。イヌ、ヘビ、カエルは言うに及ばず、アヒルの水かきやウコッケイの頭、ブタの脳、サンショウウオ、昆虫系ならサソリ、ゲンゴロウなど、日本人から見て山海の珍味を通り越したものもある。クマの掌は宮廷料理として珍重されている。クマの掌は右手に限り、そのわけは左手だとクマが尻を拭く手なので臭いからだというのはもちろんジョーク。インド人は左手で尻を拭き、右手でカレーを食べて両手を使い分けるというから、そこからの着想なのか。左利きのクマもいるだろうに。

 中国人の食べ物への意欲、関心、好奇心は、他のどの国と比べてもずば抜けていて、脱帽するしかない。逆に、これといった料理がないのがイギリスで、かつては7つの海を股に架け、世界を制覇した国なのに、どうしてこう食文化が貧困なのだろうと私には不思議だ。カミさんの同級生で長らくイギリスで暮らしている日本人は、ピザばかり食っているうちに別人のように太ってしまった。中国には4000年の歴史がある。イギリスはローマ帝国のころ北の辺境地だった。そういうことなのだろうか。

 さて、中国料理は食材も豊富だが、出てくる皿の数も7品や8品どころではない。ターンテーブルに載せる隙間がなくなって、しまいには皿の上に皿が詰まれる。当然、食べ残しが出る。もったいないから、ムリをしてもなんとか全部食べようと思うと、これがいけない。中国では、皿をカラにすると接待が不足なのではと考える。満腹させてなお有り余るのが歓待なのだ。

 それは酒も同じで、乾杯に次ぐ乾杯で相手が意識を失うまで飲ませると大成功なのらしい。酒の飲めない人はコップを伏せれば強要はされないが、乾杯を求められれば受けて立つのが礼儀で、だんだん倒すか倒されるかの勝負になってくる。といっても接待する方が先に潰れるわけには行かないので、酒の奨め方は手馴れている。10人、15人が束になって1人を潰しにかかることもあれば、度数60度の強い酒をどんどん注がれることもある。酒豪を自認していた知人の日本人が、中国では地方役人相手に何度も沈没したと私に語った。幸い私はさぼどの強敵に出会っていないので、返り討ちにしたことはあるが今まで潰されずに済んでいる。

 なにはともあれ、中国料理は世界のどこへ行っても、大都市ならばたいていいくつも店がある。華僑は国を選ばぬ生活力があり、日銭の入る飲食店が手っ取り早いので、あっちこっちで寄り集まってチャイナタウンを作る。その前提には、中国料理が世界のどこでも客を呼べるという強さがある。

 ただ、味は同じではない。各国の中国料理の多くは広東料理がベースのようだが、アメリカではアメリカ風に、シンガポールではシンガポール風に味付けされているので、それぞれ別物と言ってよい。私は日本の中国料理、つまり中華料理の方が、本家中国の料理よりうまいと思うが、以前、中国人が来日したとき、彼と同郷の中国人の店に連れて行ったら、本場モノとは違うねとやや落胆していた。世界に散った中国人は、本場の味にこだわらずにその地に合うようアレンジする。そこがまた、中国人がどこでも生きてゆけるしたたかさなのだろう。(おわり)

食は中国にあり1
2009/9/30

 中国で何度も晩餐会に招かれると、中国人の食事に対する考え方が見えてくる。

 テーブルに着くと皿やカラの小鉢は真ん中に重ねて置かれ、箸は右側にタテに置かれる。小鉢はスープやチャーハン用でレンゲがついている。箸は日本式にヨコに置いた方が収まりがよいが、タテの方が取り上げやすいことに気付く。ヨコ置きの箸を取るには、右手の甲を上にして箸をつまみ上げ、持ち換えなければならないが、タテ置きなら1回で持てる。

 箸はプラスチック製が多いが、近ごろは割り箸も見かける。15年ほど前は使いまわしの竹製が多く、飲料用のコップに突っ込んであることもあった。割り箸は日本の影響だろうが、本家の日本では最近はリサイクルに配慮して、むしろ逆にプラスチックなどを使い始めている。

 当時、コップには箸とともに紙ナプキンも入っていた。コップが曇っているので、これを磨くのにナプキンが必要だった。ビールを注ぐ前に、みな一斉にコップを拭くので、なにか定番の作法のようにも映った。ただし、ナプキンの方も純白、清潔というわけでもなく、まあ気休めの範囲だった。改革開放経済の熱気に満ちたケ小平時代の懐かしい光景だ。

 料理は銘々皿でなく大皿にひと盛りにして、みんなでつつく。和食や洋食では、銘々皿で7品も8品もの料理を人数分運ぶので、行ったり来たりのサービスが大変だ。近ごろ日本の旅館も省エネで食事を部屋には運ばず、食堂に客を集めるようになったが、中国式なら合理的だ。合理的なだけでなく、ひとつの皿をつつき合っているとヒューマンコミュニケーションも深まる。その狙いの方が大きいのではないか。日本でもすき焼きや鍋物をみんなで囲むと親近感が高まる。中国では宴会が接待の基本で、昼夜を問わずなにかというと一緒に食事を、と誘う。

 大皿方式で効果を上げるのが真ん中に置いた赤いターンテーブルだ。くるくる回せば、遠い料理も手元に引き寄せられる。さらに、つぎつぎ大皿が運ばれてターンテーブルがいっぱいになると、熱烈歓迎の雰囲気も盛り上がる。これは大した発明だと感心していたが、このターンテーブルを考案したのは、日本人なのだそうだ。(つづく)

ゴキブリの生涯
2009/09/25

 カミさんはゴキブリをひどく怖がる。家の中で見つけようものなら大声で叫ぶので、なにごとが起こったかと思う。最初は、いい歳をしてかわいぶっているのかと疑ったが、本心で苦手のようだ。アース製薬の殺虫剤のCMでリアルなゴキブリのCGが出てくると、やり過ぎで不快だとメーカーに苦情の電話を入れるほどだ。

 カミさんはカナブンが家の中に紛れ込んできても騒ぐ。カナブンぐらいでなんだと思うから「お友だち!」と冗談交じりにたしなめるが、ゴキブリのときはさすがにお友だちという気にはなれない。私もゴキブリは苦手だし、そもそも家の仕事はほとんど手伝わないが、カミさんがこれだけ騒ぐとゴキブリだけは私が退治するしかない。CMの苦情は苦情として、アースジェットは抜群の威力がある。

 先日、カミさんが私の留守にゴキブリを見つけ、決死の覚悟で仕留めたが、死骸を始末することができない。私の帰宅を待ってなんとかしてくれと言う。あっち、あっちと指差すところへ行ってみると、たしかに一匹ひっくり返ってオダブツになっている。ティッシュ3枚で掴んで分別ゴミのポリバケツにぽいと捨てたが、ここまで嫌われるゴキブリがふと気の毒になって思わず「かわいそうに」とつぶやいた。

 相手もひとつの命なら、殺虫剤を全身にかぶり、苦し紛れにのたうちまわる姿を見てイヒヒと快感を覚える人間のなんと冷酷なことか。同じ虫の同じ命でも、スズムシやマツムシなら人はその鳴き音(ね)に秋の風情を感じて愛でるのに、人目を避けてびくびくしながら露命を繋ぎ、運悪く見つかると命懸けで這いずり回って絶命するゴキブリのゴミのような生涯とはなんなのか。

 ゴキブリが嫌われる理由はいくつもある。許可なく家の中に入り込んで来て、不潔な上に脂ぎっていて見るからに醜い。おまけに繁殖力も生命力も強く、人類よりもはるか昔から生き残ってきて憎たらしい。コンクリートを食っても、砂漠でも生き延びると聞いたことがある。

 そうであっても、ゴキブリにも五分の魂があるだろうに。ゴキブリの生涯に同情するなんて、私はかなりヘンなのだろうか。

母子一体感の謎3
2009/9/21

   陣痛はかなりつらいものらしい。「終りのないトンネル、見えない頂上への登山、そういうものにとてもよく似た痛さだった」「ほんの少しでも先のことを考えると、痛さに耐えられなくなるし、エネルギーが奪われるのである」「今のことだけしか考えないように集中する。それが全てだった」。痛みに耐えてなにかの治療や手術を受ける時に似ているが、なんといっても命をもうひとつ抱えているところが大きな違いだ。

 「このお腹の中身が何をしたって出るわけがない」と思うが、破水して急に体が軽くなる。さらにわめく騒ぐ足はつる痛み止めを打つ、と七転八倒のひと山を越して「頭が出てからは、あっという間だった」。修羅場を乗り越えてようやく平和と充足感が訪れる。「相手は泣いているのに、こっちは会えて嬉しくて仕方なかった。さっきまでお腹の中にいて十ヶ月もいっしょにいたのに、顔をみることだけはかなわなかったのだから」

 キミコは妊娠した頃のことを思い出す。「今はまだこの中にいて、いろいろな臓器をわかちあっているのに、もう別々の生き物になる。なんと不思議なことをあたりまえのこととして、生物は生きているのだろう」。

 人間も他の動物と同じように物を食い、排泄し、セックスをする。しかし獲物を襲って生肉をむさぼり、口の周りを血だらけにすることもないし、排泄やセックスも用意周到に人目を避け、なにかとカムフラージュして何食わぬ顔をしていられる。ただ、妊娠と出産はそうはゆかない。人間もまた生々しくむき出しの生殖を経ることを、ここまで実感することは男にはない。男はちょいと精子を貸すだけで、女はその後の10カ月の間に、子どもをすっかり自分のものだけにして、それを当然だと思い込むようだ。

 「おしめを換えて、乳をあげた。そのくりかえしでぼろぼろだし、体はあちこち痛いし、出血は止まらないし、全身がとにかくめちゃくちゃなのにアカネちゃんを見るとにこにこ笑ってしまう。親になるとはすごいことだ、と私は思った」「これから何があっても、私はこの子供を嫌いになることはなく、この子もきっと私を好きなままであろう。そんなすごい人物が突然この世に肉体を持って出現したのだから、強くなるに決まっている」

 これはもう理屈抜きの世界だ。私がいくらカミさんに、子どもは別人格だと言っても、そんな理屈が通じるはずがない。(おわり))


母子一体感の謎2
2009/9/17

 妊娠、出産と、母親の感情、行動との関係についての解明は、男の私にはできないとずっとあきらめていた。ところが、だれが買ったのか、よしもとばななの小説「イルカ」が家にあるのを見つけて読んでいたら、ああそういうことなのかと妙に納得できてしまった。

 もちろん「イルカ」は、その謎の解明のために書かれたものではない。ちょっと入り組んだ男女関係を描いた恋愛小説で、フィクションには違いないが、妊娠や出産時の心理の動きは、実体験を下敷きにしていると思われる。

 主人公のキミコは、過去何人かの男と付き合ったり別れたりして、今は五郎を恋人にしている。五郎にはキミコと知り合う前から10歳以上年上の女性と関係を続けていて、キミコはその存在が気にならないわけではないが、取るとか取られるとかと言う気持ちはない。だれかと結婚する気も子どもを産むつもりもなかった。「自分はいつでも静かで、何も育まず、誰の役にも立っていない。そのことがつい最近までは誇らしかった」。

 それでも五郎に会ってから「突然にそれが虚しさに変わった気がするのだ。恋のせいだけではない。生物学的なものだという感じがした。このところの数年で、なにも生まない贅沢な時間が、じょじょにその豊かだったエネルギーを失っているように思えた」。「そう、私は子供を産む気なんて全くなかった。子供がいなくてもいられる人生のやり方ばかり考えていた。だからこそ、体の内側からのサインのあまりの赤裸々さにとまどっていた」

 キミコは妊娠しにくいたちで、避妊もしていたが、思いがけず妊娠したことを知る。「まあ深刻になってもしかたないやと思った。別に子供は好きではないけれど、なにか別のものがここで生きていると思うとおもしろいし、ただ嬉しい」と最初は思ったのだが、しだいに胎児と一体の生活感覚に引き込まれてゆく。

 「私でもない、赤ちゃんでもない、なにかが私の奥底から私をコントロールしている」。妊娠に気づく前、暑苦しくて裸で寝ていても、気がつくとお腹には無意識にタオルケットを掛けていたことを「本能はとっくに察知していたのだ」と振り返る。産院に通うようになって「歩いているときの意識もすでに違ってきていた。ひとりで歩いているというよりは、いつでもゆで卵を大事に持って歩いている感じだった」「「あれこれ他のことが考えられないように、脳が勝手に調整されている。全く人間はよくできていると思った。このことだけに集中し、そのためだけに生きろと指令が天から下っている感じだった」

 なんだかよく分からないけど、なるほど自分の胎内で命が育ってゆくのだから、そう感じるのももっともだと思ってしまう。そしていよいよ出産を迎える。(つづく))


母子一体感の謎1
2009/9/13

 カミさんを見ていると、母親が子どもに対して持つ本能的な感情が一体どんなものなのか、なぜそうなのか、私にはさっぱり分からなかった。

 子煩悩というなら私も同じだ。他人の子は別に好きでも嫌いでもない、要するにほとんど関心がないが、自分の子どもは無条件でかわいい。かわいい子どものためならなんでもしてやろうと思うが、それはなんとか一人前の社会人に育てるのが親の役目だと思うからだ。だから子どもの前では、いつも無謬(誤りのないこと)でなければならなかった。時には厳しく叱る。やりすぎたこともあった。
 
 これはなかなかつらいことで、ようやく大人になって親元から離れてゆくと、やれやれやっと肩の荷が降りるという気持ちになる。あとは知らんぞ、これから先は自分でやって行くんだぞ、と背中を向ける。向けながらチラチラようすを見る。

 だが、カミさんは違う。子どもたちが家を出ると、食料品や日用品をせっせとダンボールに詰めて送る。手料理を冷凍にして送るときもある。大した用もないのに電話を掛けて長話をする。そのうち寂しくなって、新幹線で子どもの家まで出掛ける。なにしに行くんだと聞くと、部屋の掃除をしてやらないと、と真面目な顔をして言う。これじゃあ自立を妨げているようなものだと小言を言っても、やめる気配がない。

 子どもがたまに帰って来ようものなら、朝からいそいそと部屋を片付け始める。気合を入れて食事を作る。デザートの用意も怠りない。2人暮らしのふだんとは大違いだ。久しぶりのだんらんでは、子どもとの話に夢中になって、途中で私が口を挟んでも無視して聞く耳を持たない。彼女の意識の中で、私の存在は2%ぐらいしかないのだろう。

 母親と父親の違いが、妊娠や出産の経験を経る、経ないと関係があるのだろうということは想像がつくが、それ以上は理解を深めようにもどうにも踏み込む手立てがない。出産時は相当つらいものらしいが、ひょっとして便秘のようなものなのか。私は胃腸が丈夫で便秘や下痢はしたことがないので、定期健診でバリウムを飲んだ後を思い出してみると、白いウンコがやっと出たときは心底ホッとして、ホヤホヤのウンコにしばし見とれたりする。でもたぶん全然違うのだろう。我ながらバカバカしい擬似体験を考えたものだ。(つづく))


選挙のあとさき2
2009/9/9

 民主党は参議院では単独で過半数に満たないので、社民や国民新党との連立を組むことになるが、政策の違いを乗り切れるのだろうか。もともと民主自体が元自民党や元社会党、市民団体や労組出身だのの寄り合い所帯だから、以前から党内にも同床異夢を残したままではある。しかしいったん与党になれば、権力を離したくないのが各党のホンネだから、互いにタテマエを引っ込めて大同という名の妥協につく例は、村山政権時にも見られた。妥協と言えば聞こえが悪いが、単独政権のような独走に牽制力が働くなら悪いことではない。

 とは言いながら民主党内と党外では異夢の抱き方が違う。発言力の弱い与党内少数党が妥協を重ねて存在意義を失えば、次の選挙で消滅の危機を招く。それでなくても比例代表の定数を80減らすなどという改革案は少数党に飲めるわけがない。みんなの党や新党日本が民主と共通項を持ちながら加わらないのは、多数党に飲み込まれては敵(かな)わないからだ。
 
 民主主義はいいように見えて、その実態は数の優劣で有無を言わさずすべてが決まる暴力性を同時に備えている。数さえ読めればこれから先の政界は、なんでもありになる。民主の単独政権、あるいは社民、国民新党に代わって公明が与党に加わる、みんなの党が平沼グループと合流して第3極を狙う、大きくなりすぎた民主が分裂して自民を誘い政界再編が起きる……。右に左に票が大きく動く小選挙区制では、民主失政による自民復権の可能性もある。

 大事なことは、どんな政権抗争であれ、国民はもううんざりしている、永田町の外をしっかり見て財政危機を乗り切り、社会保障を建て直す急務に取り組んで欲しいということだ。脱官僚を掲げた民主党には、省庁の概算要求をどう見直すのか早速手腕が試される。これで財源がどれだけ見えてくるのか。相手は伏魔殿(小泉政権下の田中真紀子外相の指弾。結局彼女は撥ね返されて悔し涙を流した)だ。かなり手ごわい。
 
 これで財源が賄えなければ、選挙の目玉だった子ども手当ても高速道路無料化も潔く引っ込めるべきだ。それでも不足なら消費税に手をつける。橋本政権の参院選惨敗のとき以来、選挙が怖くて消費税を口にできなくなったのなら、4年後の選挙でも言い出せるわけがない。やるならいまだ。公約違反と日本沈没のどちらに目をつむるのか。

 消費税は一律に上げる必要はない。生活必需品は据え置き、高級ブランド品、宝石、別荘などの贅沢品に10%課す。そして増税分を年金や医療に回し、どこまでの社会保障ができるか日本の未来を明示する。国民は、税金が省庁の無駄遣いで消えるから怒っているのだ。(おわり)


選挙のあとさき1
2009/9/5
 民主党がここまで圧勝するとは思わなかった。衆院選の40日前に解散が決まったとき、民主が勝つにしても、単独過半数の241には届かないと見られていた。ところが公示後2、3日で各紙に「民主、300超の勢い」の見出しが躍った。信じがたい数字だったが、結果はその通りになった。

 自民は激減の119。この数字は有権者の心理が、自民に愛想が尽きた、嫌気が差したという以上の、憎しみ、恨みの域に達していたことを示している。政権のたらい回しで選挙を待たされ続けている間に、格差社会、年金破綻、高齢者医療のうっぷんが積もり積もったところへ、麻生さんのおバカなキャラクターが火を注いだ。連立与党だった公明党も一緒に沈み、とばっちりを受けたような気分らしいが、年金を「百年安心」などと触れ回っていたのを忘れては困る。定額給付金も、ためらう自民の背中を押して実施させ、これがバラマキ行政の始まりだった。

 民主と自公の政権交代が選挙の最大焦点となり、他党はどうしても分が悪い。共産は反大企業優遇、社民は護憲、国民新党は郵政事業の見直しで独自色を訴えたが、小選挙区制ではいかんともしがたい。2人の立候補で接戦になれば49%取っても落選する。3人なら66%が死票になることも理屈上ありうる。有権者は自分の票を死票にはしたくないから、自民が嫌なら民主にしておこうかの流れになる。つまり、積極的に民主ではないのに、非自民の消去法を使うと民主しか残らない。

 無党派の私も、小選挙区は自公政権を止められる民主にしたが、民主のマニフェストにも批判があり(8月9、13、17日更新ブログ参照)、比例代表も民主一辺倒にしたのでは思いが違うので、脱官僚政治、行政改革を謳うみんなの党に入れておいた。結果は比例で復活当選の権利を得ながら小選挙区での得票数が規定に届かず失格し、民主に議席が回った。なんのこ