週刊コラムニスト(過去ログ2011年)

危機下日本、再生の道4
2011/12/30

 
 企業の寿命30年説というのがある。歌手は1曲ヒットすると10年食えるというが、企業はどんな業種でも同じことをやっていたら30年で終わりが来る。だから「きのうと違う明日を創る、変革は行き詰まりが出発点」になる。中国や韓国が、日本の技術や技術者やブランドまでも買いあさっているが、行き詰まって持っていた技術やノウハウを売ったら食いつぶしておしまいになる。メイドインジャパンでなくても、メイドバイジャパニーズを手放したらやることがなくなる、生きる道がなくなるということ。

 メイドバイジャパニーズの成功事例をひとつ挙げよう。今、中国で日本から進出したラーメン店がブームを起こしている。元祖中国のラーメンは、私も食べたことがあるが、スープがぬるく、麺に腰がなく、決してうまくない。日本仕込みのラーメンはスープにコクや深みがあり、麺も腰が強く、中国人が開店前から列を作る人気を集めている。日本のラーメンは、北は北海道から南は鹿児島まで群雄割拠してしのぎを削っている。その環境の中で、日本人がラーメンのイノベーションに成功した。

 海外展開すれば、技術の流出は防ぎきれないが、丸裸にされないためには必ずブラックボックスを作っておかねばならない。コカコーラの原液の配合は、マル秘中のマル秘で、社長と副社長しか知らないという話はかつて有名だった。だから2人は決して一緒の飛行機には乗らない。飛行機が落ちたらコカコーラが作れなくなるからだ。

 ただし、よいものなら売れるかというと、技術だけでは勝てない。現地の市場をよく知って、価格、仕様、売り方を現地に合わせることも必要になる。先ほどのラーメンの話とは逆に、中国人は昔から海外へ出てゆくことに積極的で、抵抗感がなく、日銭の入る飲食業で生計を立て、同胞と中華街を作ってきた。中国人は世界各地に中華街を作って、中華料理が広まったが、国によってそれぞれみんな味が違う。

 アメリカではアメリカ人好みのアメリカ風中華料理または、中華風アメリカ料理にカスタマイズされている。だからメキシコにはメキシコの中華料理があり、シンガポールにはシンガポールの中華料理がある。ところ変われば品変わる。そのへんの呼吸を中国人はよく心得ている。

 これは日本のある家庭用ガスコンロメーカーの話だが、インドネシアで1台2000円のコンロを売っている。それが市場価格だから価格を合わせなければ売れない。現地生産なので生産コストは安いが、それだけで2000円は実現しない。価格を抑えるためにできるだけ機能を簡素にして、ガス漏れ防止装置などは付いていない。そんなコンロは機密性の高い日本の住宅事情ではとても使えない、売れないが、開放性の高い現地の家屋では充分安全で、余分な装置を付けるのは過剰仕様ということになる。(つづく)


危機下日本、再生の道3
2011/12/26

 
 ではこの危機下で、どう新しいものづくりをしてゆくか。当社では、現在進めている5カ年計画で次の全社方針を掲げている。

 「前後、左右、上下、内外へ生存領域を広げる」

 前後というのは、当社の製品がお客様のもとで稼動している研磨工程の前工程、後工程にも領域を広げる。前工程がどうなっていなければならないか、後工程をどこまでどうしなければならないか、お客様の悩みに私たちの長年培った経験やノウハウが生き、その解決策を引き受けて、そこにまた新たなビジネスが生まれてくる。

 左右というのは、当社のコア技術を応用したり転用して、新しい顧客、新しい市場を見つけること。たとえば、当社は食品のコーティング機も作っているが、創業以来研磨の分野に携わってきた企業が、削るとは逆のコーティング、しかもたとえばアーモンドチョコといったお菓子の分野を相手に、くるむ機械がなぜ作れるのか。実は、削るのもくるむのも、与える運動の原理は同じというちょっとしたサプライズがある。

 アーモンドや柿の種にチョコを掛けたり、干しブドウを核にしてヨーグルト味でくるんだり、ガムやキャンディ、豆菓子やグミでもできる。もちろん、研磨機がそのままコーティング機に転用できるわけではない。そこはトライアンドエラーを繰り返す執念による開発が必要だが、この10年で最初は振動機、それから渦流機へと発展し、さらに渦流機に回転運動も加えた次世代機の開発へと進化して適用範囲が大幅に広がっている。麦パフは、麦の自重が軽いので結構難しかったが成功した。今後は健康食品や医薬品の分野にも入ってゆく。

 同じ製品が、用途開発によってそのまま他分野で生きるケースもある。石油精製用のセラミック製品が、鉄の圧延やバイオ燃料で水素を生成するのに、いったん使った熱エネルギーを再利用する蓄熱体として省エネ、リユースの分野で迎えられ販路が広がっている。

 上下というのは、当社商品の従来の価格帯の1/3〜1/5のかなり安い、シンプルだが一定の品質は維持した低価格帯と、3倍から5倍の高付加価値高品質の価格帯を用意して、多重価格帯を作り出して顧客層を広げる。

 内外というのは、国内とともに海外展開をもっと伸ばそうとするもの。生産にせよ販売にせよ海外展開は今後ますます重要になってくる。そうすると産業の空洞化や国内市場の縮小を心配する向きがいるが、国内でも海外でも縮小したら新市場を作ればよい。潜在する顧客要求を形にして新たな顧客満足へ繋げればよい。というよりもそれしかない。(つづく)


危機下日本、再生の道2
2011/12/19
 
 地震や津波は天災、原発事故は人災だが、いずれにせよ、これまで見てきたように、危機は少なくとも見かけ上、前触れなく突然何度でもやってくる。危機の予防、回避ができればよいが、人間の浅知恵ではどうしたって防ぎきれない。

 今度の原発も、高さ50メートルの頑丈な防波壁で施設を囲んでいれば安全だったかもしれない。それが実現可能かどうかは別として、そこまで考えないであとになって想定外だったというから、無責任な安全神話をばら撒いただけかということになる。

 絶対に落ちない飛行機は理論的に可能だそうだ。飛ばない飛行機ではなくちゃんと飛ぶのだがそれを作るには莫大なコストがかかるので、作ってもエアチケットが高すぎて乗る人がいない。

 だから一定の危険は常にはらんでいる。そういう危うい中で私たちは生きて、日々生活している。となると大事なことは、不幸にして想定外の事態が起こっても、起こった後の対処がきちんとできるかどうか、その覚悟や気概ができているか、ビジョンが描けるかになってくる。

 日本人には古くから無常観という世界観が根付いていて、世の中に永久不変のものはなく、常に変化して、何が起こるかわからない、何が起こっても不思議はないという中で、それを受け止める、受け流す、かいくぐる、乗り越えるといったしたたかで柔軟な生き方を身に付けてきたはずだった。それが今の日本は大変心もとない。

 視点はちょっと違うが、尖閣は中国に取られ、竹島は韓国に取られ、北方領土はロシアに取られ、沖縄も普天間移転で国外だ、県外だと口先では言っていたが、にっちもさっちも行かなくなって、これじゃあ沖縄が日本に返っていたとはとてもいえない。交渉力もなく、うろうろしているだけで、主権を備えた国家の体をなしていない。外国から見たらよく理解できない不思議な国だろう。

 ここまで劣化した国を建て直すのは大変だが、モノの見方をひっくり返して見れば、案外ヒントになりそうだ。当社には発明5訓というひっくり返しの社訓がある。

 発明はだれにでもできる生きる道
 発明は行き詰まりが出発点
 発明の執念が行き詰まりを突破する
 発明は発明を呼んで発明する
 発明は社会に還元奉仕する

 ここでいう発明は、新製品開発や特許といった工業技術の意味に限定せず、広い意味で変革と捉えている。新しい人事政策を考えるのも、新しい販売手法を作り出すのも発明であり、変革だ。

 変革は行き詰まりが出発点。行き詰まりがなければ、きのうと同じ明日が来るから苦労はない。苦労は買ってでもせよ、というが、苦労しなくてもよいのに、わざわざ苦労を買いたがる人はいない。人間はなるべく楽をしようと思うもの。しかし、火事場のバカ力、これは本当にそうなる。ピンチの時には思わぬ底力が出る。だから実はピンチとチャンスは表裏一体で、進退窮まった時こそ変革のチャンスになり。

 しかも、変革は執念さえあればだれにでもできる、それが生きる道だと私たちは考えている。なんだ、根性論かと思う人がいるかもしれないが、先日亡くなったアップル社のスティーブ・ジョブズ氏は、同じようなことを言っている。「成功する人と成功しない人の違いは、途中で諦めるかどうかだ。諦めない気持ちを支えるのはパッションだ」と。(つづく)

危機下日本、再生の道1
2011/12/15
 
 名城大学で、今期は「危機下日本の新しいものづくり」の全体テーマで行なわれた連続公開講座で、さる11月16日「きのうと違う明日を創る/変革は行きづまりが出発点」を講演したので、7回連載で抄録します。

全体テーマでいう「危機下」とは何か。ここから話を始めたい。

当初の仮テーマは「日本の新しいものづくり」だったが、その後「危機下日本の」と3文字を加えて決定されたので、当然、主催者は3・11の大震災を意識したものと思う。危機下とは、大震災、大津波、福島原発事故そのものを指すのか、その後の復旧、復興の遅れや円高、株安、増税案の浮上といった経済的側面から捉えるべきか、あるいはもっと大局的に国のガバナンス、統治力の著しい低下を問題とすべきか。ただ、この3番目の問題は単なる昨今の政治的側面という以上に、ここ20年、あるいはそれ以上の間にしだいに劣化してきた日本が抱えている根深い問題がある。

1番目と2番目、つまり大震災以後の事象に限定して考えるならば、これまでにもこの程度の(と言ってはいけないが)これに類する危機は何度もあった。3年前のリーマンショック、その前のバブル崩壊と失われた20年、その前のプラザ合意による円高、さらにその前には2度のオイルショック。その都度、大変な騒ぎになった。震災後の半年の間にも、アメリカのデフォルト不安、ヨーロッパの信用不安による円高の加速、タイの洪水、TPP と次々起こってくる。大騒ぎの連続だ。

もっと前に遡るともっとすごい国難を日本は経験している。150年前の明治維新。「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった4ハイで夜も眠れず」という狂歌が残っている。ハッと気がつくと、周りのアジアの国々は欧米の列強の植民地になっている。開国を迫られ、このままでは日本も同じ運命をたどって帝国主義の食い物にされるしかない。その慌てぶりが想像できる。

植民地か帝国主義か。そこで国運を賭けて日本が取った選択が富国強兵、殖産興業だった。当時、国家予算の半分を軍事費に使ったそうだ。で、奇跡の急成長を遂げ、日清戦争でまぐれ勝ち、日露戦争でもまぐれ勝ち。調子に乗った陸軍の暴走で太平洋戦争に突入した。

敗戦も大変な国難だった。原爆を落とされ、無条件降伏し、一面焼け野原の焼け跡、闇市からの再出発だった。食うや食わずの大変な苦労と努力を重ねて、しかし、15年後には高度成長に入り、奇跡の復興を遂げた。

今度の3・11以後を、維新後、敗戦後も立ち直ったのだから、3度目の奇跡をと願う人がいる。しかし、話はそう簡単ではない。この国にもう一度奇跡を起こすだけのガバナンスが残っているのかどうか。そこが問われているが、この国に先を見通した国家戦略もなく混迷を深めるばかりで、これこそが日本の危機だと考える。(つづく)

未病息災?
2011/10/30
 
 秋になると、毎年会社から定期健康診断を受けに行かされる。ひょっとして何か重大な病気でも見つかるかもしれないので行くには行くが、近ごろはだんだん面倒で億劫になってきた。

 というのも、健診当日は朝食を抜かなければならない。胃腸が至って丈夫で、大好きな3度の食事を抜いたことのない私には、まずこれで調子が狂う。

 受診着に着替えて検尿したり、採血したり、レントゲン撮影、聴覚、視力の検査、超音波エコーと、あちこち回されいじられて、終わりかけにバリウムを飲まされる。これで空きっ腹を満たす一時しのぎになる、と思うのは私ぐらいらしい。

 近ごろは1時間ぐらいで終わるが、受診者がつかえて待たされされたりすると、だんだんイライラして血圧が上がる。全部終わってやっと帰れる、やっと食事だと思うとホッとするから、かなりストレスが溜まるのだろう。だが、解放されたあとも、バリウムのせいで、このあと排便がしにくくなる。私は、毎日快食快便で、便秘や下痢などしたことがないから、そういうイレギュラーな状態に慣れていない。下剤を渡されて半日出ないと、それだけでこの先どうなってしまうのかと不安が募る。

 健康のために健診を受けるのに、受けている間に病気になってしまいそうだ。数週間して結果が届くが、γGTP、高脂血症、高尿酸に要注意と、たいていいつも同じになる。要再受診のときもあるが、行っても酒を減らせ、タバコをやめろ、食事は腹八分目に、と言われるだけなので、その後は行っていない。

 東洋医学では、病気でもないが健康とも言い切れない状態を未病というらしいが、酒を飲まず、煙草をやめて、飯も食うなでは、いくら健康でも生きている甲斐がない。活力のない長生きを薦めるのは、病院も経営上リピート客が欲しいのだろうと解釈することにしたが、再受診する気がないなら、健診を受けるのも意味がないことに最近気がついた。

 ま、そこはガンや脳梗塞などの早期発見てなことになるなら手遅れにならないうちにと思うからだが、ほんとに発見されたら怖いのに、なにもないとなーんだという気になる。このぐらい勝手なら、病気の方で呆れて近寄ってこない、ということはないのだろうか。

生死の境
2011/10/7
 
 自宅の庭に柿の木が2本あり、秋になると実がなる。小ぶりだが味がよく、柿が好物の母は毎年楽しみにしている。年によってたくさん採れない時もあるが、豊作の年は食べきれなくて知人に配って回るほどになる。

 そのうちの1本が芝生の方にせり出していたのを、西の隅に移し替えた。そこは小さな家庭菜園用に作ってあったが、力仕事が苦手な私には農作業が思いのほか重労働で、2、3年いじったあとは雑草が生えるに任せていた。

 木の生命活動が鈍い冬の終わりに庭師が来て、根や枝を間引いて切り、移し替えた幹の回りに土盛りをして遣り水を溜める堰を作った。その後、この庭師が6月に庭木の手入れに来たときは、順調ですねと言って帰ったのだが、夏になって枯れかけていると指摘された。回復の可能性は2割と言う。

 柿の木は家の中から見えないため気がつかず、水を遣るのを忘れていたのがいけなかった。今年は梅雨明けが早く、猛暑が続いたのですっかり弱ってしまったようだ。根や枝を落とす大手術のあと、健気にもわずかな実をつけたが、硬く青く小さいままで、葉もほとんど落ちていた。

 これはかなりまずい。あわてて堰の中に水を溜めるのを会社帰りの日課にしたが、もう手遅れかと思うと柿の木が気の毒で、後悔ばかりが先に立った。人間で言えば包帯でぐるぐる巻きの子どもに点滴を施すような気分だった。

 変化が表れたのは2週間ほどしてからだった。小さな若葉がしょぼしょぼと生えている。生き還ろうとしているのだ。

 それからは水遣りが楽しみで気合も入る。先の方のの細い枝まではムリだが、太い枝から少しずつ少しずつ若芽が増えてゆき、やがて驚く勢いで伸び始めたものも出てきた。少しほっとしたが、まだ気は許せない。もう一本の柿の木の茂り具合と比べると葉の数は少なく、やっと流動食が口に運べる程度で、それにこれから秋が深まれば葉は落ちてゆくのだろうに、いまごろ黄緑色の若葉を伸ばしてどうなることか。

小さな実はそれ以上変わるようすはない。そこまで栄養を回せないのだろう。まず術後療養に専念し、元気になるまで来年でも再来年でも待つことにしよう。収穫をしたいというよりも、実をつけたらやっと、よかったねと言える気がするのだ。

人の心に地雷あり、要注意
2011/9/30
 
 性格の不一致が許容範囲を超えると収まりがつかなくなってくるのは、夫婦に限らず人間関係一般について言える。

 AさんとBさんはゴルフ仲間で、Aさんがリタイアして暇になったのを機に、以前にも増してBさんをコースに誘うようになった。Bさんも毎週のようにコースに出るとスコアが上がってくるので、梅雨入りの雨の中、また梅雨明けの酷暑にもめげず、2人はせっせと出かけていた。

 2人の仲はもちろん悪いわけはなかったが、実はAさんは内心、相手に気を遣わず自分本位でものを言うBさんの性格を多少ガマンしていた。交友関係を広げるには、仲間を大事にし、なにかと気配りをするのがAさんの流儀だった。一方Bさんは、言いたいことは腹にためず、その場で吐き出すのが健康によいと思っているから、改める気がない。おまけに毒舌家で、適度な毒は会話を楽しくするし、率直なのは親しさの表れぐらいに思っていた。

 BさんはBさんで、Aさんの対外的なマナーの悪さやモラルの低さが本当は気に入らなかった。Aさんは仲間内には気配りをするが、それ以外の対人関係では旅の恥はかき捨てスタイルで押し通すところがあり、口は悪いが根はマジメ人間のBさんは、内外を使い分けるAさんの態度に感心しない思いを抱いていた。2人は互いに互いの欠点を指摘することがあったが、2人ともそれで変わることはなかった。

 事件は8月の終わり、共通の友人のCさんを加え、3人で涼風渡る高原ゴルフに1泊で出かけた夜の食事時に起こった。いい歳をして食べ物を粗末に扱うAさんをBさんが見過ごせず、ソマリアの飢餓を例に上げて説教をすると、その場では黙って聞いていたAさんの許容範囲が限界に達し、あからさまに不快な態度を表した。そのAさんに、状況が飲み込めないBさんも不快感を募らせた。翌日の2ラウンド目は互いに押し殺したような関係になり、それぞれCさんとしか会話が続かなくなった。Cさんは平静を装っていたが、険悪な雰囲気にさぞかし閉口したに違いない。

 マズローの5段階欲求説に基づいて分析すれば、Aさんは「生理的欲求」、「安全の欲求」に続く「所属とそれによる愛情の欲求」が高く、さらに「承認と尊重の欲求」を強く求めていると思われる。ところが何事もマイペースのBさんは、何かに所属して他人にどう思われたいという欲求に興味がなく、いきなり「自己実現の欲求」に跳んで、そこに存在動機を置いている。

 つまりはBさんがAさんの地雷をうっかり踏んでしまったということか。ただ、その前にAさんもBさんの地雷を踏んでいた。くわばら、くらばら。

愛別離苦と怨憎会苦2
2011/9/16

 たとえばよくある不倫。一夫一婦制を法律で決めてみても、オスが子ダネを撒き散らすのは動物界の習いだから、どうしたってこの問題はなくならない。動物どころかタンポポが風に乗せて綿毛を撒き散らすのも同じ摂理だ。女が男の浮気をタンポポのようなものだと許容できればよいが、なかなかそうはゆかない。もっとも、近ごろは女もタンポポ化して男を渡り歩くのがいる。

 もともと夫婦は他人だから、育ち方も価値観も生活習慣も違う。おまけに女もタンポポ化ともなれば、ひとくちに離婚理由は性格の不一致なんて言ってみたところで、そんなことは結婚する前から分かっていること。一致するほうがむしろおかしい。人は誤解とともに結婚し、理解とともに離婚するのだそうだが、不一致の許容範囲を超えたときは、自分が範囲を広げて容認してやるか、相手が範囲の中におとなしく収まるか、もうどちらかしかない。それができない。

 日本の家庭はアメリカ社会のようになってゆくのだろうか。2度、3度結婚するアメリカ人はざらにいて、たとえばA男には6人の子どもがいるが、上の2人はA男が初婚のときB女との間にできた子で、中の2人は再婚相手のC女が前夫との間の子を引き取ったもの、下の2人はA男とC女が結婚してからできた子、といった具合だ。

 両親をパパ、ママと呼ぶのは下の2人だけで、上の2人はママを「C女」、中の2人はパパを「A男」と名前で呼ぶ。親が離婚した相手にも共同親権があるので、彼らは定期的に実父、実母に会って「パパ」や「ママ」と呼ぶ。実父、実母には引き取られた実子に会う権利を持ち、子どもの進路にも意見を言う。

 なんだかややこしくて目が回りそうだが、いやな相手にガマンして一生を送るより、やり直したほうが早い、という割り切り方で、子どもも割り切れば親の勝手で犠牲になるわけではない、という考え方なのか。

 肉食動物には愛別離苦も怨憎会苦も堪(こた)えないらしい。そういえば日本人の食生活もどんどん肉食が増えてきた。(おわり)

愛別離苦と怨憎会苦1
2011/9/9

 厚生労働省の統計によると、2010年の離婚件数は25万件なのだそうだ。同じく婚姻件数が70万件というから、単純に言えば離婚率は36%に上るということか。ちょっと驚く数字だ。

 盛大に式を挙げて1年も経たないうちに、あら、間違えたというのもあるだろうし、数十年もガマンにガマンを重ねて、おやじに退職金が入るのを待って熟年離婚のケースもあるだろう。生保の保険金支給待ちだと離婚件数にはカウントされないが、計画離婚の中身は同じだ。1人で3回、4回とカウントを稼ぐやつもいる。

 統計では2002年以降の離婚件数は微減だが、婚姻件数も減っているので、傾向に変化が見られるというわけではない。離婚はいまや日常茶飯事なのか。

 私には、離婚したあと死亡した兄がいたので、厄介な後始末を引き受ける羽目になった経験がある。離婚するのは本人の勝手だが、周りがとばっちりを受けて迷惑する。そういうことを一人前の大人が軽々しく、いや、よほどのことがあってもするものではない。

 というわけで、破(わ)れ鍋に綴(と)じ蓋の私とカミさんはよく喧嘩をするが、大喧嘩をしても私から離婚しようと思ったことがない。カミさんはすっかり安心して、ときどき調子に乗って言いたいことを言う。私は激怒してそれでも「離婚だ!」と言わずに「死んでやる!」と言い換えるが、迫力も効果もない。なにかよい捨てゼリフはないものか。

 長男と3男が相次いで結婚することになり、それぞれのカップルを目の前に並べたときも、あとで離婚するぐらいなら結婚するな、結婚する以上は離婚するな、と念を押した。なんだか「呑んだら乗るな、乗るなら呑むな」みたいな話だ。

 離婚は周りも迷惑するが、一番エネルギーを消耗するのはやはり本人だろう。仏教の四苦八苦のひとつに怨憎会苦がある。同じ四苦八苦の愛別離苦(愛するものと死別する苦しみ)の辛さも耐え難いが、怨み憎しみ合う苦しみに比べるとまだ救われ方がある。泥沼の愛憎劇にさらりとしゃれた終結などありえない。

 そうまでして人はなぜ離婚に踏み切るのか。どうしても一緒には暮らせない、ということはつまり、相手が自分の許容範囲を超えてしまって調整ができない状態に陥るのだろう。(つづく)

うまいけどまずい
2011/9/1

 私の家の南面はバス通りになっていて、道幅は広いが住宅街なので交通量はそれほど多くはない。子どものころは坂の下に市場が2つあるぐらいで、表通りでもところどころ空き地があり、飲食店は数えるほどしかなかったが、外食時代の近ごろはそれなりに増えた。徒歩圏でうまい店というと、寿司屋、そば屋、フランス料理店、天ぷら屋、ステーキハウス。あと、中華料理と気の利いた居酒屋があるといいのにとかねがね思っていたら、もってこいの中華店がリニューアルオープンした。

 この店はビルの2階にあり、以前も中華の店だったが高くてうまくもなく素通りしていた。最近、閉店に追い込まれて経営が変わり、カミさんが友達と行ってみたらおいしかったというので、家族で出かけてみた。

 中国人の経営らしく、ウエイトレスの話し方に外国訛りがある。食べてみるとなるほどうまい。品揃えも多く、おまけに値段がバカ安い。2度目に6人で出向いたときは、みんなでビールを飲みながらあれこれ注文して1万円しなかったので、勘定を付け落としたのかと思ったほどだ。
 よい店ができたと喜んだが、だんだん心配になってきた。立地は東西と南北のバス通りが交差する角地で、店内も広い。70席近くあろうか。家賃はかなりするだろう。なのに、土曜の夜でも客の入りはいまひとつだ。店が替わったことに気づかれず、以前の店の不評を引きずっているのだろうか。このままでは赤字続きで長くはもたない。

 業績向上にはまず、単価を上げること。料理はひと皿700円ぐらいだが、1.5倍までなら充分いける。ラーメンなどは480円なのだから、並のラーメン屋が唖然とする値段だ。薄利の苦しさから人件費を抑えているのだろう、ウエイトレスはおばさんと姉ちゃんの2人しかいない。家族経営なのかもしれない。客が少ないうちはよいが、重なって来たらとても回らない。厨房にはおやじと兄ちゃんか。忙しいだろうが前菜があとから出てくるようではいけない。

 そもそも店のコンセプトがちぐはぐだ。店の内装と料理はいい線行っているのに、わざわざテレビなんかつけて雰囲気を台無しにしている。テーブルはもう少しゆったりと大き目がいい。メニュー表も高級感に欠ける。そしてリニューアル周知のために、大衆店ではないがリーズナブル価格をアピールしたちょとしゃれた広告を打つ。費用がかかるが、ここは思い切って先行投資。

 できれば経営相談に乗りたい気分だが、しばらくはせっせと通いながら、クチコミを広げることにしよう。

非力なのか怪力なのか
2011/7/12

 隣家で暮らす母から時々呼び出しがかかる。電球の取り替え、銀行の引き落とし、家の修理の相談……。94歳にして食事の用意や片付け、洗濯など身の回りのことは人の手を借りずに自分でやるから立派なものだが、耳が遠い、少し歩くと息が切れる、指先に力が入らないから調味料のふたを開けるのもひと苦労など、難儀なことも増えてくる。首が痛くてよく回らない、足がむくんで具合が悪い、医者へ行った方がいいだろうか、と聞くので、そりゃ、行った方がよいと答える。外出は大抵カミさんがアッシー君を務めてくれる。

 先日も呼ばれて行くと、和歌山に住む92歳の妹が家庭菜園で採れた野菜を送ってきたので、おすそ分けだという。せっかく収穫しても、嫁が料理に使ってくれないので、腹を立てながら母のもとへ回るのだと言う。大きくて曲がったキュウリを手に「あの子もな、こんなに大きくなるまで放っておかなけりゃおいしいのに」とコメントしながら私にくれる。耳は聞こえなくても口は達者だ。この妹も耳が遠く、電話では話が通じないのでケータイのメールでやりとりしているらしい。

 ついでに寝室のエアコンのリモコンが効かないので見てくれと言う。「運転」のボタンを押しても反応しないのは、自分の指の力が弱くなったためで、こんな簡単なこともできなくてほんとに情けない、とまたひとしきり嘆く。「しまいにドライバーで押してみたけど、それでもダメなんだわ」。え、ドライバー?

 よく見ると、シリコン製の運転ボタンがリモコンケースにめり込んでいる。なんたる怪力、とあきれながら、ようやく元に戻す。これでちゃんと作動した。

 こんどメールが使えなくなったと言ってきたら、まず最初にボタンがめりこんでいないかチェックすることにしよう。

企業理念を掲げる
2011/6/29

 東日本大震災から100日を過ぎたというのに、いまだに遺体の見つからない行方不明者が7300人、家を失って、一時しのぎのはずの不自由な避難所生活を続ける人が1万1000人、ガレキを撤去できたのは35%止まり、義捐金も滞留して被災者に届かず、そしてなにより原発事故収拾のめどがまったく立っていない。私は10年も前から、日本人の劣化が深刻なほど進んでいると言ってきたが、ここまで統治力を失った国政を見るのはかつてない。

 国も政治も落ちるところまで落ちて、ある日突然はたと目覚めるのか、それともこのまま歯止めなく衰退してゆくのか、いずれにせよこの国のやることは当分信用しないほうがいい。首相が交代しようがしまいが、そんなことで何がどうなるものでもない。

 1980年代から中国経済が台頭し、日本の製造業の空洞化が進んだが、この先空洞化はさらに加速するのではないか。なにしろこの国は、国際競争力を失うほど法人税がバカ高い上に、他国の食い物にされるほど円高と来ている。財政赤字が逼迫しているのに、高度成長のころせっせと貯め込んできた米国債をアメリカに睨まれて売ることもできない。敗戦後ずっと飼いならされ続け、見識や戦略を持たないこの国から、企業はみんな海外へ逃げ出したい気持ちだろう。

 海外生産、海外販売の比率をさらに上げる方針を採ったA社が、新たな企業理念を打ち出した。これまで経営理念は掲げていたが、それは主に社内向けに企業姿勢を示したもので、これからは文化の違う外国の取引先にも、もっと理解を深めてもらう必要を感じたからだ。それにはきっかけがあった。アメリカのB商社と新規の取引を始めようとしたとき、中国のCメーカーが競合先として現れた。仕入れ価格はC社の方が安かったが、B社は両社に社歴や企業姿勢、企業価値観などを詳しくインタビューして信用度を比べ、A社を選んだ。

 理念などというと、どこの企業も一応掲げてはいるが、別に腹の足しになるわけでもなく、従業員に意識されることもないまま作って終わりのケースが多い。事実、A社が、優良企業の企業理念を参考までにいくつか調べてみたが、どれも真面目くさってきれいごとを並べてあるが、通りいっぺんでうそっぽく、あくびが出るほど退屈だった。立派なことが書いてはあるが、言いっ放しで裏づけがなく、納得には至らないからだ。

 しかし、中には優れたものもあった。リッツ・カールトン、ジョンソン&ジョンソン、日本企業では大洋薬品工業。これらはなかなかのできばえだった。

 こうしてA社が作り上げた企業理念は、志を格調高く謳いあげ、47行に及んだ。これを外部業者に依頼して英訳文にするにも、2度、3度のやりとりを重ねた。「森羅万象」は単なる「自然」ではなく、仏教観に深く根ざしたもの、「世界観」は将来の見通しというより現在の視点、「生きがい」を「仕事の目的」に訳したのでは台無しになる、など。ようやくにして合意を見たが、この先、第三国語に転訳するとなるとチェックも難しい。

 A社の社長はふと思った。「この企業理念を政局に明け暮れる日本の政治家に読ませたいが、もはや和文でも読解不能だろうな」。

非組織型人間
2011/6/16

 20代にバックパッカーをしていたころ、私は大抵いつも一人旅をしていた。目的地(といっても大体の方角だが)を決めると、安宿を経由しながらヒッチハイクを続ける。目的の国に入ると仕事を探し、仕事が見つかると下宿先や居候先を決める。しばらく働いて小金が貯まるとまた旅に出た。

 就労情報は安宿で知り合った“同業者”と交換する。同方向へ出発すると言う者と一時的に行動を共にすることはあったが、途中で「じゃあ元気でな」とそれぞれの進路を取った。ベネチアの宿で別れた男と1年後にメキシコシティで再会したこともある。気ままに行き当たりばったり、それが何より優先で、相手と意見調整を図ったのでは台無しになることをお互いにわきまえていた。

 他人に頼ったり、後ろから付いて行くつもりでは、バックパッカーは務まらない。マイペースといえばまだ聞こえはよいが、人に合わせることがストレスになる非組織型人間で、まあ、野良猫タイプといっておけば分かりがよいか。

 私のそうした性向は子どものころからあり、いまでも本質的には変わらないように思う。他人にどう思われたいとか、どう思われているだろうかとか、つまりは他人に関心が薄いから、カミさんには「あんたみたいに自分のことしか関心のない人が、なんで結婚なんかする気になったの」と真顔で聞かれる。

 他人を自分と比べてうらやましがったりねたんだりするやつの気が知れない一方、自分の考えや都合が邪魔されると一気に血圧が上がる。カリカリしていると「お父さん、言ってることが正しくても言い方を考えないと相手に伝わらないんだよ」と43も歳が下の、親に似ず気配りに申し分のない娘にこんこんと小1時間も説教される。

 少しは反省があるから、近ごろはなるべく人に合わせようと努力している。接待はするのもされるのも苦手だが、親しい取引先から会食のお招きがあり、せっかくの配慮だからと受けてみたら、これは楽しめた。友人からのゴルフの誘いも、目下絶不調でくたびれるだけなのに、この梅雨の最中に朝5時起きの早朝ゴルフかいと思ったが、「ちょっとコツを掴んだので試したいんだ」と声の弾む相手を無下に断れず付き合うことにした。

 だが、異業種交流の団体から行くカンボジア・ミャンマー7日間の工場視察旅行は話がもつれた。7月末の出発で、帰国すると程なく夏休みになるため、そんなに会社を空けられないといったんは不参加にした。しかし、後半のミャンマー行きの人数が減ったので訪問先の手前具合が悪いと、前会長から動員の電話がかかってきた。彼は高校の同級で強く押してくるので、じゃあ、ミャンマーだけ2、3日なら、と顔を立てるつもりで応諾したが、送られてきた日程表では火曜から金曜までつぶれる。考えてみたら往復するだけで2日かかるから、土日が入っていないと、もともと無理な話だ。インドやインドネシアなら見ておきたいが、ミャンマーには用もない。

 現会長に電話し、事情を話してキャンセルすると、ケータイに前会長からのコールが入った。翻意を促すに決まっているので、面倒だから出ないでおいた。うーむ、これでまたひとり友達が減ったかも。

働かざるもの食うべからず
2011/5/23

 車を運転しながらラジオの音楽番組を聞いていたら、リスナーからのハガキが紹介された。「私も定年になり、晴耕雨読ならぬ晴れの日はゴルフ、雨の日はクラシックを楽しむ毎日をと……」。

 「晴耕雨読ならぬ」だなんて、どうもよく分かっていないようだ。晴耕はちゃんと働いているし、雨読は次に向けてのインプット作業だ。一方、晴れゴルフ、雨クラシックでは働きもせず遊び三昧ってことで、生活の姿勢が似ても似つかぬ。こんなところで「晴耕雨読」を引き合いに出すのは地道でまじめなこの語に対して失礼だし、わざわざこのハガキを選んで読み上げるラジオ局もわきまえがない。

 近ごろの年寄りはすぐに楽をしたがるが、仕事もせずに自然の恩恵を受け、生き物を犠牲にして3度の飯を食うのは、すなわち無為徒食、お天道様に顔向けできないほど恥ずかしいことだと知っているのかいないのか。飯を食うのは自分の命をつなぐためで、つなぐ以上はなんのためにつなぐのか、自覚ぐらいはしておかないと。

 「いまどき、そんな考え方する年寄りなんかいないよ」と3男が言う。豊かな時代になって死ぬまで働かなくても食ってゆけるようになったし、現役時代に充分働いたので、自分にご苦労さんという人は、私の同年代にもたくさんいる。

あるいは、働きたいが体力が弱って働けないならしかたがないか。健康でも働き口がないならやむをえないか。いや、それでもなにかできることはあるだろう。働く意味は2つある。報酬を得て生計を立てることと、社会の営みに加わって一隅を担うこと。報酬が必要ない場合でも、得られない場合でも、働いて多少でも人の世の役に立つ方法はある。その上でなら大きな顔をして飯を食ってよい。

 と思っていたら、市役所から敬老パスなるものが届いた。65歳になると、だれでも千円から数千円払えば一年中無料で市バスや地下鉄に乗れるんだそうだ。この種の制度は以前からどの自治体でもやっており、まあ、近ごろはやりのばらまき行政のハシリだろう。その結果、収益が上がらず赤字路線になり、赤字なので運行本数を減らして料金を上げ、不便で高いから有料の客が見放し、いまやまばらな昼間の乗客はタダ乗り老人ばかりになった。これではバスの運転手も働き甲斐をなくすだろうに。

 悪循環で見込みの立たない運営も問題だが、年寄りに貰い癖、甘え癖のつく方がもっと問題だ。小金を貯めた年寄りを優遇する財源があったら(ないが)、格差社会のあおりを受けたワーキングプアの通勤に適用した方がまだ経済効果が上がる。

 と言ってはみたものの、能のない行政なんかに敬老扱いされたことの方が私にはよほどショックだった。「しゃしゃり出すぎて老害と呼ばれないように気を付け、でも死ぬまで働く意欲を持ちましょう」と言うぐらいの気の遣い方ができないんか。

恩師訪問
2011/5/18

 毎年この時期になると、各地の主力代理店を訪問して今年度の売上目標をお伝えする。木曜に東京地区3社、金曜に富山地区、新潟地区に各1社回って、茨城に入った。土曜は週末を利用して神奈川に寄って私用を済ませて帰宅、週明けには三重と大阪を日帰りで回る。私はせっかちな上に貧乏性で、スケジュールを詰め込めるだけ詰め込むので、本音のところかなりくたびれる。

 土曜の私用というのは、35年前に仲人をしてもらった大学院時代の恩師宅を再訪するのが目的だった。

 横須賀のお宅には、学生時代に同学年や後輩の6、7人と何度も横須賀のお宅に押しかけては、1日中語り合った。別の研究室の者も半分ぐらい混じっていたので、話題はいつの間にか軍記物の研究テーマからはずれていった。松川事件や陪審員制度、キッシンジャーや佐藤栄作のノーベル平和賞受賞の政治的背景から、高橋真利子の「ジョニーへの伝言」と「5番街のマリー」との関連性、ブルース・リーの怪声効果、果ては栃錦が尻の吹き出物に丁寧に貼ったバツ印の絆創膏の話までと、どこへでも飛んだ。話が飛んでも先生はにこにこと笑って聞いていた。笑うとえくぼができた。学究としての緻密さは徹底していたが、決して人を謗(そし)らず、小柄で、穏やかな人柄だった。奥さんが台所から次々と料理や酒を運んでくる。それをだれもが遠慮もなく平らげて、後片付けもせずにすっかりいい気分で引き上げた。手土産を持って行った記憶もない。

 今から思うと礼儀知らずであつかましいだけの若造たちだったが、先生も奥さんも学生がにぎやかに集まるのを楽しみにされていたようだ。学部の学生が23人も集まったこともあるという。お宅訪問だけでなく、春や秋には一ノ関や軽井沢、近いところで三浦半島まで旅行を兼ねて合宿も行った。幹事はいつも私だった。

 その後、私の結婚にかなりのごたごたが起こり、相談に乗っていただいた上に仲人をお願いした。私が学校を離れたあとも、子どもが産まれるたびに、こちらで勝手に親代わりのつもりで、子どもを連れて挨拶に伺った。ところが4人目の娘だけはその機会を得ないうちに、13年前、先生が亡くなってしまった。

 私の引越しや娘の進学で延び延びになっていたのを、今回ようやく娘とカミさんを連れて実現でき、仏前でお参りをさせていただいた。奥さんとお目にかかるのは大学葬の時参列して以来で、すでに81歳、手料理の準備も大変だろうし、こちらもさすがに分別をわきまえ、昼食を済ませて訪ねたのだが「まあ小林さん、用意してあるのに」と残念がるので、ズボンのベルトを緩め、カミさんと娘にも目配せして覚悟を決める。

 奥さんはとても喜んでくれて、4時間近くの滞在の間、ほぼ7割はひとりで話し続けた。初めて会った娘を自分の孫のようだと大変気に入ってくれて、「今度鎌倉へでも遊びに来た帰りにうちへ寄って、泊まるといい」と、来客用の寝室まで案内された。

 もともと教授婦人らしからぬ飾らない人だが、こんなに歓待されるとは思わなかった。私も学生時代がよみがえって楽しかった。この次は、酒と料理を下げてお訪ねしよう。

世の中が違って見える
2011/4/22

 A子が東京芸大の油画科に合格した。なにしろ3浪の末やっと念願を果たしたのだから、その喜びようは尋常ではなかった。一日中口元の緩んだ締りのない顔で、「芸大なんだよね」と独り言をつぶやいたりした。

 この世界では現役合格が4分の1、1浪が4分の1、残りが多浪で、4浪、5浪も珍しくないそうだが、A子の場合、昨年は第2志望の私立でもケリをつけるつもりでいて、その私立に次点で蹴られ、夏ごろまでかなり落ち込んでいた。結果から見れば、その時落とされたから今年の第1志望校合格につながったのだが、どうなることかと親は気が気でなかった。

 この世の春を遊泳しているような娘に、父親が「合格なんてただ入り口に立っただけなんだぞ」と気合を入れると「そんなこと分かっているよ」と弾き返しながら、すぐにまた夢見心地に戻る。

 やがて入学式の案内が来て、兄たちのときは「子供の入学式ごときに親がノコノコ付いていくなんてみっともない」と言っていた父親が、芸大なら行ってみようと乗り気になった。ところが会場に入れるのは新入生だけで、付き添いの方は隣りの校舎で中継画像を見てもらうと書いてある。「分かってないなあ、学費を出すのは親だぞ」と残念がりながら「付き添いと言わずにせめて“金づるの方”と書けってもんだ」と文句を言う。

 それでも彼は会社を休んで出かけるつもりで手帳の当日欄に「入学式」と書き込んだのだが、その後さらに不運の案内が届く。「震災のため入学式は取り止めのやむなきになりました」。うーん。「大丈夫だよ。校内展の時に来ればいいよ」と娘が慰める。

 学校が始まり娘は勇んで通学する。1年生は取手キャンパスなので、父親は地震情報が入ると心配で電話をかける。夏休みまでようすをみた方がいいぞと言ってみたが、むろんそんなタワゴトに耳を貸すわけもない。

 喜んで行くのはいいが、この先絵で飯を食ってゆくのは至難の業だ、と父親の心配は絶えない。母親は「あの子は実力があるからね。きっと上位で入学したんだよ。授業料も私立に比べると安くていいね。浮いたお金でなんか買ってもいいかな」。性格によって世の中の見え方が全然違うらしい。

会長の境遇
2011/4/3

 高校の同窓の友人から電話がかかってきた。このごろ寂しいんだという。彼とはゴルフ仲間で、スコアはそっちのけで始終悪態を付き合う間柄なので、そんなことを言い出すのは意外だった。自分の会社で居場所がなくなったというのだ。

 彼はエクステリアの会社を興し、従業員は50人ほど。5年前に社長の座を娘婿に譲り、いったん名ばかり会長に退いたが、リーマンショックで経営状況が一変し、若社長に任せておいたのでは心もとないと、営業の陣頭指揮を執るべく第一線に立った。

 ところが、復帰してみると何かと勝手が違う。数年のブランクだが、若いお客様相手だとどうもセンスがずれる。下手をすると相手の方が新しい素材に詳しかったりする。社内でもスタッフがかなり入れ替わっており、社長の方ばかり向いて、自分にはなじみが薄い。

 社長を立ててやらねばという気遣いはするものの、新顔の女子事務員が挨拶もしないと、影の薄くなった自分に愕然とする。「俺のことを、毛虫を見るような目で見やがる」。

 「それはお前が悪い。毛虫のような顔なんだから」とツッコンだ上で、それは無視されたというより、扱いが分からなくて遠巻きにしているだけなんじゃないかと慰めた。ま、微妙な話ではあるが、中途半端な存在になっているのがよくない。若社長に心配はあっても、任せるつもりならすべての経営責任を取らせて自分は降りてしまうか、株の譲渡は先延ばしにして実権を握るか。「実権掌握なら、事務所の神棚の横にでもお前の写真を額に入れて掲げるんだな。毎朝朝礼で社長以下全員に礼拝させたらどうだ」と、またツッコミを入れた。

 彼はアハハと笑って少しは気が晴れたようだ。

 話のついでに今月一緒にゴルフに行く約束をした。いつだったか、私は彼に聞いたことがある。「いくらやってもうまくならないので、アホらしいからもうやめようといつも思うが、俺より下手なお前はどうしてゴルフをやめないんだ」。彼の答えはこうだった。「いや、それはな、ゴルフをやっている時は、その間だけでも日常の厄介ごとを忘れることができるからだよ」。

 なるほどその通りだ。してみるとゴルフ場には毎日、抱えきれない悩みを背負った人たちがやってきては、しばしの安息を求める心療内科のようなものなのか。これでスコアがよければ、もっと治療効果が上がるだろうに。


多弁シンドローム
2011/2/16

 うちのカミさんはよくしゃべる。話の中身はたいして重要とも思えない。どうでもいいようなことを長々としゃべるので、アポらしいから聞いている振りをする。そのうちやめるだろうとしばしガマンしていると、カミさんには私が注意深く聞き入っている姿に見えるらしい。いつまでもやめないので、聞き流し始めてから数分後、どんな話に展開しているかちょっと意識をそっちに戻してみると、たいてい自分の自慢話に変わっている。ほんと、アホらしい。

 テレビでちょうどヤマ場のところでこれをされると、口をガムテープで塞いでやりたくなる。「うるさい、聞こえないだろ」と怒ると、そこから収拾のつかない口喧嘩に発展する。どうすりゃいいんだ。

 カミさんは昔こんなにおしゃべりだったっけ。私が、相手に口を挟むスキを与えないほどしゃべりまくるので、悔しくてだんだん鍛えられたのだったら、私のせいだ。そういえば子供たちも、比較的静かな次男を除いてみんなおしゃべりだ。だれかが話し始めて譲らないと、他のだれかが間隙を縫って割り込む。発言の奪い合いになって二重奏になっているところへもうひとり参戦すると、信号の壊れた交差点のようになる。次男がそれを見て「よくしゃべるなあ」とあきれ顔で慨嘆する。

 この状況には、もっと遡った血筋の影響があるのかもしれない。私の父も、カミさんの父親も人前で話すのが大好きだった。父にはこんなエピソードが残っている。意見交換会を主催し、発言時間は1人3分、時間になったらチーンと合図を鳴らす、と自分でルールを決めておいて、自分の番になって時計係に合図を鳴らされるや、「ひとの話の最中に邪魔をするな」と怒ったという。カミさんの父親もなにかと会を取り仕切ってはひとこと挨拶をするのが楽しそうだった。もちろん、ひとことで終わったためしがない。

 近ごろは会話の少ない家族が多いというから、にぎやかなのはいいようなものだが、実は私、ところ構わず多弁な自分を持て余すようになった。業界の集まりで会食ともなれば、お互い距離を測って粗相のないよう気を配るもので、私も最初は隅の席を選んで目立たないよう自制するつもりでいるのだが、ふと気が付くといつの間にか自分の話にその場を集中させてしまっている。これではカミさんに文句を言える筋ではない。

 昨年秋には、京都のホテルに従兄弟とその家族の14人が集まって「遠くの親戚の宴」を催した。うつ病気味の従弟が、しゃべり始めると止まらない私の隣りの席に座ったのがまずかった。「テンション高いなあ。そばにいるだけで疲れるわ」とぼやいて、向かいの席にいた私の長男に「きょうだけ特別なんか」と聞いた。「いいえ、いつもこんな調子です」。


どういうわけかファミリーコンサート3
2011/2/1

 こうして私にはよく分からないままコンサートが企画され、結構面白くてまた催すことになりそうなのだが、そもそものきっかけは昨年秋に、家族6人と子供たちの女友達が加わってロシア料理を食べに行ったときにあったようだ。

 このとき、家族が全員揃うのは16年ぶりだという話題になった。そんなはずはないだろうと思ったが、長男と4番目の末っ子は9歳離れている。次男は高校から親元を離れて寮生活に入ったし、その後もそれぞれ進学や就職でバラバラになった。その上途中でヒマヤラに登るやつや、インド、中東、アフリカ、南米をぶらぶら貧乏旅行するやつがいたりで、あいつが帰省してもこいつがいないという状態だった。家族全員が一緒に暮らす期間は意外に短く、これからはそれぞれが家庭を持つようになり、さらに離れてゆくのだろう。

 私は、子供を自立させるのが親の唯一の務めだと思うから、それでよしとするのだが、カミさんは寂しがって用もないのに年中あっちこっちの子供に長電話をする。私はそれを、子供の独立心を妨げてよくないと見ていたが、いつの間にか子供の方がカミさんの気持ちを汲むようになり、それがファミリーコンサートの企画の下地のひとつになったように思われる。「ライブは普通、若い者同士で勝手にやるもので、親はこういう場合まずカヤの外ですよ」と不思議がる人がいた。

 頼りないと思われたのはカミさんばかりではなかったようだ。子供たちが大きくなって、その中に難しい岐路や窮地に立つ者がいると、突き詰めれば親の弱さから迷いが出て、私にはどうしたものか見守るだけで打つ手が見つからないときがある。こういうとき、長男は弟や妹に対して手厳しい。

 長男というのは、小さいときから弟や妹の前を歩いて育つので、家族のまとめ役の立場を自然に身につけながら大きくなるものらしい。末っ子育ちの私には兄や姉に対して、当然ながらそういう視点はなかった。一人っ子育ちの私の父は、世の中のものは全部自分のためにあると思っていた。今回のコンサートは、世代交代が見えてきた親に代わって16年を埋めよう、という長男らしい気持ちが彼に働いたのではないか。

 家族の絆には、中心に強いゴッドファーザーが必要だ。しかし、いつまでも中心にいてはいけない。私の知る人に、兄弟5人の一族で佃煮製造を経営している人がいる。先代が創業し、いまは子供たちで製造や流通、販売を分担しているが、結束が固く、常に同一歩調を取り、傍目にもうらやましいほど仲がよい。正月は長男の家に一族が結集し、3日間朝から晩までにぎやかに酒を飲み続けるという。先代はいつ、どんなふうにゴッドファーザーの座を譲ったのだろう。(おわり)

どういうわけかファミリーコンサート2
2011/1/25

 さて当日。朝から仕上げの練習をする。思えばこのところ車通勤の行き帰りに、フランク・シナトラの「マイウエイ」を繰り返し聞き、夜はカミさんのピアノ伴奏で歌っては細かな打ち合わせをしてきた。

 カミさんは楽譜どおりに弾くのだが、シナトラとは異なる旋律もある。歌う方の解釈で結構アレンジしてよいものらしい。最初は曲について行くのがやっとだったが、だんだん余裕も出てくる。歌はメリハリと情感表現に尽きると言うのが私の持論で、恥ずかしがらずに感情移入をして歌えば、それなりに恰好がついてくる。つまるところどこまで自己陶酔できるかによるのだと思う。

 昼前にライブハウスに到着。すでにリハーサルが始まっていた。2時10分開場。出演者と聴衆合わせて30人ほどが揃った。子供や私の友人夫婦、カミさんの英会話教室の先生や生徒、親戚の夫婦と、いろいろな人脈からやってくるので、テーブルをあちこち回っての顔出しが忙しい。主催者側はなにかと気を遣うのでくたびれる。

 シャンパンで乾杯の後、知らない同士が打ち解けてきたころ開演となり、あとは軽食の休憩を挟んで入れ替わり立ち代りの出演。私の出番は最後だった。

 私もカミさんも途中でちょっと間違えた。カミさんはあとでずいぶん気にしていたが、私は「結構やるじゃない」と褒められて「なあに、本気になればこんなもんじゃない」とうそぶいておいた。

 4時半終演で5時解散だが、そのあと会場を飲み屋に移しての打ち上げに、ぞろぞろと20人も集まった。長テーブル2つに、年配組、若者組と自然に分かれて座り、このころには昼間の初対面同士が冗談を投げ合う仲になっていた。年配組は9時でお開きになったが、若者組は店を移して飲み直し、2時まで飲んだくれたそうだ。

 翌日、長男と婚約者(前日のコンサート途中で、どさくさに紛れて結婚すると発表があり、前から怪しい仲だと思っていたが、突然で驚いた)がやってきて、もう次のコンサートの話になった。今回は仕事のあった次男と、受験直前の娘が参加できなかったが、ファミリーコンサートというからには、家族揃って1曲やりたいものだ。本当は、それぞれ楽器を用意して合奏するのが理想だが、そうなると私には、トライアングルを1、2回チーンと鳴らす役ぐらいしか回ってこない。でなければ「静かな湖畔の森の蔭から」の輪唱でもやるか。まさかね。

 ああ、それにしてもくたびれた。(つづく)

どういうわけかファミリーコンサート1
2011/1/15

 ファミリーコンサートなるものを、どうして開くことになったのか私にはよく分からない。長男が3男に話を持ちかけたのが始まりらしい。長男にはピアノがかなり得意な彼女がいて、3男は高校時代にバンドを組んでドラムを叩き、ライブ演奏もやったことがある。バンド仲間は二つ返事で再結集した。

 2人はライブのできる会場探しを始めながら、私にもお鉢を回してきた。私は小学生の頃バイオリンを習ったが、いまは見る影もない。なにも弾けないよと言ったが「ファミリーコンサートなんだからなにか芸をしないと。お母さんのピアノ伴奏でなにか歌えばいい」と勝手に決める。こういうとき、お調子者のカミさんはすぐにはしゃいで同調する。

 私がカラオケでよく歌うのは石川さゆりの「天城越え」だ。情念が燃え盛るようなあの歌は、感情移入がしやすくて気に入っている。ところが「演歌はだめだよ。そういうコンサートじゃないんだな。雰囲気を壊す」と却下された。

 では、外人と一緒にカラオケに行った時のために用意してある「マイウエイ」にしよう。コサージュを胸ポケットに入れたタキシードを着て、ステージを歩きながら不自然でない振りも付けてとイメージする。しかし、カミさんが楽譜を見ながらなんとか弾けるようになり、歌ってみると、画面にテロップが出て誘導するカラオケとはだいぶ勝手が違う。歌詞もうろ覚えでは手許に置かないと不安で、タキシードで歩きながら振り付けるどころの話ではない。

 一方、この企画を聞きつけて出演者もだんだん増えてきた。ジャズやポピュラーに加え、ゴスペルに雅楽の篳篥(ひちりき)まで飛び込んできて、なんだかヤミ鍋のような様相を呈してきた。これは下手をすると学芸会か結婚式の余興のようになるぞと思ったから、私の友人筋はだれも呼ばないつもりでいたが、聴衆動員がかかり、誘った中にシャンソンを歌わせろというやつが現れて、さらに深みにはまった。

 出演者はこれで打ち止めにしたが、小学校の同級には売れない演歌歌手、高校の同窓にはマンドリンを45年弾いているやつがいた。そういえば私の従弟はカントリーウエスタンのセミプロバンドのベース担当だし、カミさんの従弟はチェロを弾く。社内結婚で寿退社した元社員はたしか吹奏楽をやっていた。音楽愛好家は身近に結構いるものだ。(つづく)