週刊コラムニスト(過去ログ2014年)

家族で迎春
2014/12/27

 1年前の大晦日と元日は、京都のホテルで2泊した。

 例年は自宅でのたりのたりだが、長男は大阪で家族持ち、3男は地元だが家族持ちで総勢10人になるので、食事の用意も大変になる。ホテルでのんびり迎える正月というものも以前から一度やってみたかった。

 知り合いの旅行代理店の担当者に、条件をつけて探してもらったのは秋口に入ってからだった。近場の温泉宿で大浴場つき。4部屋のうちに、みんなが集まって団欒のできる畳の部屋を入れること。のんびりといっても退屈しないようイベントが用意されていること。おせちと雑煮は必須。

 担当者があちこち当たってくれたが、なかなか条件を満たすものがない。畳の部屋はどこも満室で、正月客の考えることはみな同じらしい。毎年、同じパターンで過ごす常連客が、1年後の予約を抑えて帰るという。

 空き室のあるホテルで、大浴場付きを見つけるのも難しく、イベントや雑煮の用意がないところもある。畳と大浴場はあきらめて、なんとか確保したホテルは、通常より高めの特別料金だったが、正月のことでもあり、パーッと行くことにした。

 大晦日の午後京都駅に集合し、近くの東寺(教王護国寺)に歩いて行って五重の塔を眺めた後、長男の嫁の実家が京都なのでせっかくだからみんなで挨拶に行き、帰りの足でそば屋に寄って年越しそば。ホテルでニューイヤーのカウントダウンが用意されていたが、それはパス。私はこういうロケット発射みたいな騒ぎ方より、NHKの「ゆく年くる年」で雪深い山寺の鐘突き風景を見ながら新年を迎えるほうがよい。

 元旦はホテル内の3店で朝食が取れることになっていたが、「たん熊」という店だけがずらりと順番待ちをしていた。別に予定があるわけでなし、ひまだからそこに並んで入ったら、白味噌仕立ての雑煮のうまかったこと。  10時から餅つき大会。力仕事は眺めるだけで、つき立ての餅はアンコときな粉としょうゆにしてひと通り試食してみる。そのあと抹茶と和菓子、コーヒーやたる酒、ミニコンサートなどのコーナーを回って、遅めの昼食をホテルの向かい側のファミレスで軽めに取る。食事をしながら夜までどうするか話し合ったがまとまらず、映画組や昼寝組に分かれた。私はホテルの隣りに西本願寺があったので、長男の家族と一緒にぶらりぶらりとあてもなく散歩。

 夜は中華料理、翌朝は前日の「たん熊」をリピート。そのあとホテルが仕立てた初詣でのバスツアー。2時間で3神社回って、ご利益を欲張るつもりはないが、まあ正月気分。昼前に解散。2キロ太った。

 「なんだか落ち着かなかったね。大晦日と元日はやっぱり家でゆっくりくつろぐのがいいよ」というのが次男の感想。私も同感。

 今回は1日遅らせて元日から出かけようという案も出たが、みんなの日程が少しずつずれて見送りになった。デパートのおせちをしこたま調達して、呑んだくれることにしよう。

安倍晋三の戦術
2014/12/19

 今度ほどつまらない選挙はなかった。選挙戦が始まってまもなく自公で2/3を超える勢い、投票率は戦後最低との予測が流れ、その通りとなった。まさに、こうしてああすりゃこうなると、知りつつああしてこうなったというわけだ。中には激戦区もあったが、沖縄の選挙区を除いてあまりサプライズもなく終わった。

テレビや新聞はさかんに投票を呼びかけた。この選挙は安倍政権の2年間を問うもので、アベノミクスだけでなく、集団的自衛権も、原発再稼動も、辺野古移設も含めて重大な選択をすることになると。なんの効果もなかった。

 虚を突いた解散、野党の混乱、景気回復に絞った自民のアピールとその他の争点隠し、小選挙区制の最大限効果―-すべて自民の作戦勝ちで、首尾よく無党派層も眠らせた。そういえばかつて、森元首相が「無党派層は家で寝ててくれればいい」と口をすべらせて問題になったが、前回に続き今回も睡眠薬がよく効いた。

 安倍さんのご都合解散と言われ、彼は当初、消費税増税を延期したことに国民の信を問う、と取ってつけたようなことを言ったが、たいていの国民は増税には反対だから増税延期は争点にならない。対立軸を無理にでも作りたい野党の中には、消費税減税や撤廃を打ち出したところもあるが、逆に相手の土俵に乗ってしまった。直前に政治と金で辞任した閣僚も堂々の当選で、選挙がなければおおごとになりかけていた問題もボヤで鎮火した。自民としては思惑通りだろうが、何も変わらない結果に無党派層はさらに選挙から遠ざかり、ますます自民の思うツボになる。  野党もなかなか手がない。くっついては瓦解し、バラバラになってにわか連携しても票を積み増しできない。それぞれに独自色を出したい一方、同居仲間や連携相手に気を使いながら中途半端に勝手なことを言うから、ほんとはどうしたいのか分からない。そういう気を使わない共産党ははっきりしているので議席を大幅に伸ばしたが、政権に届くと思っていないので筋論で言いたいことが言える。政権に就いたのにその自覚がなかったのが「最低でも県外」の鳩山さんだった。

 鳩山さんに軽口を叩かれ、仲井真さんに裏切られて、怒りが爆発した沖縄では、全選挙区で自民が全敗した。そりゃ怒るだろう。それでも安倍さんは辺野古を見直す気はさらさらない。開票直後の記者会見で改憲まで口にした。後出しジャンケンもいいところで、こういうことをためらいもなくしゃあしゃあと言うのでかなりの役者だ。

アベノミクスで景気が回復に向かうなんて、本人は本気で思っているのだろうか。3本の矢のうち、金融緩和と財政出動は一時しのぎの劇薬にすぎないのにまだ続ける気で、肝心の成長の矢が出てこない。1000兆円の借金を抱えて金利を上げられず、インフレなのにゼロ金利となれば、ハイパーインフレを心配する預金者は外貨や株への乗り換えにますます走る。円安で外国人投資家は株に相乗りするが貿易収支には効果なく、GDPが下方修正され、ムーディーズに国債の格付けを下げられて、どこがどう成長なのか。

 目くらましを見ているわけにはゆかないので、投票したい人がいなくても私は投票に行く。まず、消去法で入れたくない人を除外する。本当は、最高裁判事の国民審査のように落としたい人に×をして、得票と逆の失票としてマイナスカウントをしてほしいが、その制度がないので消去法で残った人の中から党にこだわらず当選しそうな人を選ぶ。死票になるのを防ぐため、小異を捨てて大同につく。小選挙区制ではこれしか手がない。

 小選挙区制は、金がかからない、派閥が解消される、政権交代可能な2大政党化が期待できるなどの理由で導入され、1996年の衆院選から実施されたが、得票数が議席に反映されず、極端な圧勝や惨敗を招き、ねじれ国会で何も決まらなかったり、やりたい放題の政治を生んだ。

 魔法のような選挙はやめて、中選挙区制へのリセットと、ついでに定数是正を急ぐべきだが、蜜の味を知ったほうは容易に動くわけがない。

いくら保身のためとはいえ、選挙民を無力化する選挙をよくやれるものだ。

高倉健が残したもの
2014/12/08

 高倉健は1956年のデビュー以来、生涯に205本の映画を撮ったそうだが、1977年の「八甲田山」以前と以後で大きく路線が変わった。以後の「黄色いハンカチ」「居酒屋兆治」「鉄道員(ぽっぽや)」「あなたへ」などはそれぞれ深みのある名作ぞろいだが、それに比べると、以前の任侠ものやアクションものはストーリーも単純で、まあワンパターンの乱作を繰り返している。それなのに、彼の訃報を聞いて、私の頭に真っ先に思い浮かんだのが単純路線の「昭和残侠伝」シリーズだった。

このシリーズは65年から72年まで9作制作されたが、私が印象に残っているのはマキノ雅弘監督で池部良、藤(現在は富司)純子共演の第4、5、7作あたりだ。毎年1本のペースで撮っていたから、5本ぐらいまとまると池袋の文芸座で夜10時から朝7時までオールナイトで一挙上映した。当時学生だった私は時々このオールナイト方式の上映に足を運んだが、「宮本武蔵」や「人間の条件」のときとは館内の雰囲気がまるで違い、熱気が充満していた。

 映画が始まって「主演 高倉健」と字幕が出るだけで拍手が起こり、「健さん!」「異議なし!」と掛け声が飛んだ。

シチュエーションや話の展開は大体いつも同じ。昭和初期、義理と人情を重んじる昔ながらの任侠ヤクザの縄張りを、新興の悪徳ヤクザが力ずくで侵しに来る。手段を選ばぬ卑劣なやり口に、ガマンにガマンを重ねてきたイイモン側だが、親分がだまし討ちにあって命を落とすと、組の衆がいきり立って“出入り”を仕掛けようとする。それを一宿一飯の恩義に預かっていた客分の花田秀次郎が押しとどめ、着流しに白さやの長ドスを下げて、単身、敵の本拠に乗り込む。

 乗り込む道すがら、唐獅子牡丹のテーマ曲がバックに流れる。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界。(中略)背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹」。共演の池部良は、端正な顔立ちがよく似合う知性派ヤクザで、作品によって味方になったり敵になったりしている。敵になったときは、健さんが道行く途中で待ち受け、「あんさんに恨みはござんせんが、渡世の義理でここを通すわけには参りません」「勝負は運否天賦。どっちが負けても恨みっこなしに願います」などと対峙する。  イイモンだが、義理を守ってワルイモンについた池部良を倒した健さんは、いよいよ敵数十人の只中に殴り込む。ここでの立ち回りが「仁義なき戦い」のような実録ものの乾いたリアリズムではなく、なにか様式美といったものを備えているが、そうかといって時代劇の殺陣(たて)のような約束事のアクションでもない。なんともいえない独特の迫力なのだ。後ろから切りつけられて着流しの着物が裂けると、背中の唐獅子牡丹のモンモンがあらわになり「ジャーン」と音響効果。健さんが三白眼でにらみつける。

 返り血を浴び、皆殺しにしたところへ官憲が大挙して駆けつけ、健さんに手錠をかけると観客席から「ナンセンス!」。そこへ藤純子が現れ、後ろからそっと抱きつく。すかさず「抱いてやれ!」。健さんはちらりと彼女に目をやっただけで、従容として官憲に引かれてゆく。再び「ナンセンス!」。

ここまで書きながら、我ながら記憶の鮮明なのに驚いた。当時日本は高度成長の真っ只中にあり、人々がなりふりかまわず欲望を満たしてゆく過程で、それと気づかず失ってゆくものも多かった。時代が変わっても、人の生き方には失ってはいけない大事なものがある、とのメッセージが「昭和残侠伝」という題名に込められていたことに今更ながら気がつく。

 健さんの映画はその後大きく様相を変えたが、健さん演ずる主人公の生き方は、核心において遺作「あなたへ」まで変わっていない。「唐獅子牡丹」はその原型というべきものを備えており、それが単純な娯楽映画の限界を超えて観客を熱狂させた。

熟年夫婦の試練 3
2014/12/02

 金銭感覚のない妻に、彼はまず生計を別にすることから始めた。彼の銀行口座から妻が引き落とし自由だったデパートなどのクレジットカードの束は、ほとんど解約した。妻には充分な預貯金があったが、息子に「今までのような使い方をしているとあっという間になくなるよ」と諭され、車なしワンルームマンションの生活に入り、自立を求めて資格取得の勉強を始めた。

それまでのあちこち出歩くキリギリスの生活から一変したように見えるが、彼から見れば、その後もやめようとしない英会話サロンや茶道教室と同じで、お嬢さんの習い事にしか映らなかった。そんなことより修復のためにはときどき家に来て、家事家計10カ条の訓練をしてほしいが、妻は自分の都合で来たり来なかったりであてにならず、来て家事のしかたを注意するとまたけんかになった。身に付いた育ち方は、お互い容易に変えられない。

 生活が大変になったのは彼も同様だった。あちこちに突っ込んだりゴチャゴチャになっていた物を、必要なものは場所を決めて収納し、不要なものは大胆に捨てた。何回か手伝いに来ていた人がこんな仕事は初めてだとあきれた。  仕事に集中していた生活も何割かは家事に回すことになった。最初はそれも気晴らしになり、新鮮で面白くもあった。家事を自分で切り盛りできることは、彼にとっての生活の自立でもあり、独居老人になったときの備えにもなる。

しかし、仕事の帰路、スーパーに立ち寄って食材を買い込み、帰宅して料理を作り、食べ終わるとやることがない。話す相手もなく、テレビをつけてひとりで笑ったり相槌を打ってもなんだかわざとらしい。そうかといって妻を呼び戻す気にも、一緒に旅行に行く気にもなれない。子供たちも自分の生活第一で、都合のよいときしか寄って来ない。妻があんなことをしなければ、もうちょっとやりようがあったのにと思いつつ、彼は独居老人の先の養護老人ホームの生活までちらちら描き始めている。

 「おれはね、家族を守るために一生懸命働いてきた。家族が心の支えだったのになんだったんだろうね。バカバカしくてやってられない」と、彼は深いため息をつきながらも「家族なんかあてにするもんじゃない。自分の尊厳は最期まで自力で守り切る」と長い話を語り終えた。その強気が強みでもあり、災いでもあり……。分かっていても、彼はそういうふうにしか生きられないのだろう。(おわり)

熟年夫婦の試練 2
2014/11/26

 彼の母方の祖母は30代で夫を亡くした。5人の子供を抱えて再婚はせず、男の子は大学に、女の子は女学校に行かせて育て上げた。頭のよい器用な人だったが仕事には就かず、幸い夫の残してくれた土地があったのでこれを切り売りし、食い繋いだ。

しつけが厳しく、倹約しながら育てられた彼の母は、そうした生活が徹底して身についていた。物は滅多に捨てず、仕舞う場所を決めてきちんと整理し、大事に大事に使い込んだ。新聞折込のチラシの裏が白地だと、これを4つに切ってメモ用紙にした。仕事一途の夫、つまり彼の父の帰宅を、食事、風呂を万端整えて迎え、夫を残したまま出かけることは生涯一度もなかった。外出する日は前の晩から準備を完了し、出発の20分前には玄関の戸締りの鍵を握っていた。家庭とはそういうものだと、彼は思って育った。

 彼の妻の父方の祖母は、家業を継ぐ兄弟がいなかったので婿養子を迎え、家に怖いもの知らずで、わがもの顔に振る舞った。そんな家庭の一人息子、つまり父の許へ嫁いだ母は、姑のイビリに随分と苦しんだ。辛さに耐え切れずに家を飛び出し、父が探して迎えに出ることもしばしばだった。

 母は、自分の娘にはそんな思いをさせたくないと、愛情たっぷりに育て、なんでも自由にさせた。家事家計のしつけなどは二の次でよかった。父親も一人娘には大甘で、問題が起きても困った顔をするだけで、娘を叱った事がなかった。可愛がられて育った彼の妻は、自分の子供たちも愛情たっぷりに育てた。

ところが夫は自分に、同じようにはしてくれない。それどころか、親にも叱られたことのない自分に、押し付けがましく生活上の注意をしてくる。お嬢さん育ちの自尊心が、筋を通したい夫の自尊心と衝突して、けんかになる。

やがて愛情を注いだ子供たちがひとり、ふたりと巣立ってゆく。なんだか虚しい心のスキに、チャラ男が忍び込んで言葉巧みにかき回した。(つづく)

熟年夫婦の試練 1
2014/11/19

 彼がひとり暮らしを始めて1年が過ぎた。家族はいるが、妻の浮気が露見してバラバラになった。

 妻が相手の男に走るのなら引き止めるつもりはなかった。なにしろ9カ月も彼に隠して付き合っていた。うかつなことに妻はチャラチャラしたメールのやりとりを家庭のパソコンに残していて、それを当時同居していた息子が見つけた。息子が怒りのあまり妻を追い出すまで気がつかなかった彼もうかつだった。

 相手は妻の学生時代の同級生で妻子があり、事が明るみに出ると男はあわてふためいて醜態をさらした。妻が男の許へ走っても逃げ回っただろう。それはそれで、彼から見れば妻も軽薄の報い、離婚してさっぱりと終わりにしたかった。ここまで行っているとは思わなかったが、どこかよそよそしく冷たかった妻に、そういうことなら未練はなかった。

しかし妻は本気で離婚まで考えていたわけではなかった。というより、ばれたらこんなおおごとになると考えが及ばなかった。呆れた話だが、離婚しても不快な思い出しか残らない。それならば壊れた家庭の修復の道はないかと、彼は妻と話し合った。別居のまま、お互いの不足のところを改める努力をしてみよう、時々は一緒に出かけたり食事をしたりしようと。

 出歩くのが好きで家事が得意でなく、家の片づけができない妻に、彼は以前から不満があった。あまり考えもなくその時の気分で無駄な買い物をするので、部屋のあちこちで無用なゴミになった。おれがアリのように働くのは、キリギリスの気まぐれな生活を支えるためではないんだと妻に言い、出直すに当たり「家事家計10カ条」を書いて物の整理と管理を求めた。

 妻の不満は、彼が妻にたっぷりの愛情表現をしてくれないことにあった。彼は自分の価値観を曲げずにまっすぐに貫こうとする人間で、相手と折り合ったり気持ちを汲んだりして気を使うのが苦手だった。あなたはありがとうもごめんなさいも言わない人だと言われて、男がそんなことを軽々しく口にするものではない、不倫もギャンブルもせず、酒を飲んで暴力を振るうわけでもなく、営々と仕事に打ち込んでいるおれの何が問題だと思っていた。

2人の食い違いは育ち方の違いに根ざしていた。(つづく)

厄介な愛車
2014/11/14

 Aさんは18歳で車の免許を取ってから、長年の間に何台もの車を乗り継いできた。メカに弱いので性能や機能を比べたりこだわることはなかった。近ごろの車は多機能すぎて、分厚い説明書が3冊も付いて来るが、面倒なので読んだことがない。車なんか下駄と一緒で、動いて用が足せればいいと思っている。

 買い替え時には、外観のデザインで決める。しかし本当はそれも決め手にならないと知っている。前の車は重厚なフロント周り、特に凝った造りのヘッドランプがすっかり気に入ったのだが、乗り始めてみて、ヘッドランプなど運転している自分には見えないことに気がついた。

そんな彼が、一度は乗ってみたいと思っていたのが、屋根が開いてオープンカーにもなるコンバーティブルタイプだった。いずれそのうちと思っているうちに歳を取り、そろそろ実行しないとシニアマークを貼らなければならなくなる。今はもみじマークから四つ葉マークに変わったが、かつては通称落ち葉マーク、枯れ葉マークと呼ばれたものを、せっかくのオープンカーに付けたのではいかにもカッコ悪い。年寄りの冷や水ですか、とからかわれそうだ。

で、決心したのが3年前。どうせ乗るならとワインレッドの派手なやつ。屋根の開閉は自動で後部のトランクルームに20秒で格納される。これがカッコよくてつい人に見せたくなる。

いや、そうなると乗っている自分もスーツにネクタイではつまらない。サングラスを掛けようか、ハンチングをかぶろうかと一応考えたが、もともとものぐさなタチなのでこの案は考えただけで終わった。

さて、わくわくしながら乗ってはみたが、思いのほか不都合が多い。オープンカーにして心地よいのは春秋の数カ月で、夏冬はエアコンが利かないのでかなりの痩せ我慢が必要だ。春秋でも雨が降ったらもちろんダメ。快適に風を受けて高速を走っていたら雨が降り出し、あわてて次のインターチェンジで降りたこともあった。

 雨の日は屋根を閉めていても、窓を少し開けることもできない。屋根を畳む機能になっているので、窓の上に雨よけのドアバイザーを付けられず、車内に遠慮なく吹き込んでくる。また、屋根がトランクルームを占領すると、残りの収納スペースがほんの少しになり、細身のゴルフバッグがやっとひとつしか入らない。

 防犯上、オープンにしたまま駐車しておくわけにもゆかないから、面倒でも都度閉める。カッコ優先で、実用性を犠牲にしていることは最初から分かっていたが、カッコはマメで我慢強い人でないと守れない。

 一番具合悪かったのは、取引先の葬式があって斎場に出かけたときだった。もちろん屋根は閉めていたが、こういうとき赤はまずい。しかし広い駐車場の隅なら目立たないと判断したのが間違いで、葬儀の開始5分前に到着したら駐車場は満車、空いていたのが正面玄関の真ん前で、コンクリート敷きの地面にはご丁寧に「お寺様」と記してあった。でもそこしかなかった。あとで、非常識な坊主だと勘違いした会葬者がいたかもしれない。

 最初から3年限定で乗るつもりだったから、まもなく手放すつもりだが、厄介をかけた愛車もいよいよとなると名残り惜しいのだそうだ。

勘弁してほしい
2014/11/06

 健康診断で大腸に要再検査の判定が出た。この程度ならいつもだと面倒なので無視するが、昨年母が、今年は姉がガンで亡くなっているので、次は自分の番かもと気になり、今回はちゃんと受けることにした。

ところがこの大腸の内視鏡検査というのが結構おおごとで、前の晩から下剤を飲み、当日は朝から食事抜きで呼び出され、1時間の間にさらに1リットルの下剤を飲まされたあと、500ミリリットルのお茶で仕上げをし、消化器がすっかりきれいになるのを待つ。それを見計らってパンツを脱がされ、医者が尻の穴から内視鏡を突っ込み、私がウーンとあえいでいるのに、遠慮なく奥へ奥へと突っ込んで行く。

 以前、胃カメラを飲んだことがあるが、これも涙が出るほど苦しかった。私は口は達者だが、肉体的苦痛には至って意気地がない。医者ってやつは、穴があればどこでも突っ込んで覗いてみたくなる人種なのだろうか。べらぼうな職業だ。

これは医療行為です、という前提だから「おい、なんてことをするのだ」と文句も言えないが、そうでなかったらこれはかなり重度の変質者のわいせつ行為と変わりない。

 女性が空港の金属探知ゲートで引っかかると、女性の検査係が身体検査をする。警官が不審者を、刑務官が受刑者を身体検査するときも女性には女性が担当になるが、女性の大腸検査の場合、こんなあられもない検査を女医がするわけでもなさそうなのはどうしたことか。

その上、病巣が見つかりましたと言って切除なり切開なりてなことになれば、殺傷行為と紙一重になる。病院もそれが分かっているから、検査や手術の前に万一のことがあっても揉めないように同意書、承諾書を一札取っておく。手抜かりがない。

いやはやなんだかすごいところに連れ込まれて、私はマゾでもオカマでもないので、そこまでして命が惜しいとは思わないのだが、医者の身になってみれば、他人の尻の穴に管を突っ込む仕事を年中していると、ふと自分の人生に疑問を持つことはないのだろうか。

いろいろ思いを馳せて気を紛らわせていると、検査は30分ぼどで終わった。やれやれ。こうでもしていないと30分もマが持てない。「小さいポリープが2、3個見つかりました。いますぐ切除の必要はありません」。それはよかった。「1年後に取りましょう」。えっ、またやるの。

 翌日ゴルフのコンペがあったが、げんなりして参加を見送った。

 
42年ぶりの再会 3
2014/10/31

 私は6カ月のビザで入国し、3カ月延長した。9カ月滞在しさらに3カ月延長しようと申請したら許可が下りず、アメリカを出ることになった。ヨーロッパに戻り、陸路をインド、東南アジアとたどるコースを考えたが、バックパッカー暮らしにだいぶ疲れも出ていた。日本を出る前、バックパッカーを2年以上やると帰る踏ん切りを失うぞ、と忠告したその道の先輩の言葉もあり、私はそのまま帰国することにした。

これまで陸路は主にヒッチハイクで見知らぬ土地を渡り歩き、荷を解くとまず安宿、大衆食堂、そして就労先をなぜかすぐに嗅ぎ当て、危険を察知して回避する勘もよく働いたが、それ以外で頭を使うことがなく、だんだんアホになるような気がして、帰国したらもう一度しっかり頭を鍛え直そうと決めた。

 帰国してまもなくは、ハゲチャに頼まれて本を送ったこともあったが、2、3度のやりとりでそれも途絶えた。42年の空白を経て、突然彼から連絡が来たのは今年の4月だった。久しぶりに帰国し、気まぐれに私を思い出し、ネットをたどって探し出したという。メールに書かれた本名を見たときは、すぐにはだれだか分からなかったが「ニューヨークで一緒に過ごした」の説明で記憶がよみがえった。

 電話をかけると「デバチャ!」と弾んだ声が響き、私も「ハゲチャ!」と叫んだ。あれから彼は結婚しないままずっとニューヨークに住み、国籍を取り、家も買い、自分の店を持った。安く買ったその家が長年の間に100万ドルにもつり上がったが、人の良さが災いして、知人の保証人になったことから40万ドルを失った。アップダウンの経緯の狭間で、前立腺がんの手術も経験し、老後はふるさとの伊那で暮らしたいと、国籍を戻す手続きのため一時帰国していた。

その時は会えなかったが、先ごろ再来日し私の許に立ち寄った。あのころからのハゲチャは、いまやすっかりテカテカ頭になり、その分を取り返すためかヒゲをたくわえていた。当時の話を語り合いながら「あのころは楽しかったな」と彼はなんども繰り返した。穏やかな彼が、いつだったか頭から湯気を立てて私に激怒したことがあって、それは2人とも覚えていたが、なぜ怒り出したのかいきさつを彼は思い出せない。実は私は、怒られている間中、なぜ彼が怒っているのか分からないままだった。そんなマンガのような生活だった。

 国籍を戻してふるさとの村で暮らせるようになったら、いろんな人が集まって来る憩いの場を作るんだと、彼は計画している。うまく行くかどうか分からないが、実現したら私ももちろん訪ねるつもりで、気に入れば田舎暮らしを始めて、またマンガのような生活をしてみようか、と楽しみにしている。(おわり)

42年ぶりの再会 2
2014/10/24

 店でウエイターをしているときも、いろいろなことが起こって退屈しなかった。

 中年の小太りの白人が勘定をしながら「その服はなんだ」と聞くので、「これはハッピといって、まあ仕事着のようなものだ」と答えたら、へえ、と言いながらハッピの上から私の体をあちこち触っていった。あとでハゲチャに、そんなに珍しいのかねと話したら、「バカだね、そういうやつはホモなんだよ」と説明してくれた。そういえば手つきが怪しかった。私はホモ好みのタイプなんだろうか。

17か18ぐらいの白人の女の子2人連れに勘定書きを出すと、もじもじしながらちょっと持ち合わせが足りないんだけど、と相談された。かわいい子だったし、ないものはしょうがないので、帰りの地下鉄代を残して、あるだけでいいよとマケてやった。その分、その日の売上が合わないはずだが、そこまで気が回らなかったし、それで済んだ。オーナーもどんぶり勘定でいちいちの突き合わせはしなかったらしい。その後、2人はもう一度来店し、食事をしていったから、まあ埋め合わせはできたのか。それとも危機を救った私が目当てで、もう一度会いたかったのか。

ある晩、店を閉めてみんなでまかない食を食べていたら、黒人がひとり入ってきた。閉店なんです、と告げたら、だってOPENの札になっているじゃないかと言う。言われてみればその日はCLOSEDにひっくり返すのをうっかり忘れていた。事情を説明したが分かってくれず、押し問答になったので、たまたままかない食に居合わせた知り合いの白人に相手を代わってもらった。中断していた食事に向かっていると、彼が戻ってきて「帰るには帰ったが、俺はピストルを持っているんだと脅された」と、震えている。黒人だから入店拒否されたと誤解したらしい。ちょっと間違えたら私が撃たれていた。

 別の黒人が飯を食いながら、カウンター越しに「うちの工房を手伝わないか」と声をかけて来たこともあった。針金細工で安物のブローチやイヤリングを作っており、当時はアメリカやヨーロッパでその種の装飾品を路上で売るのが流行っていた。私がイスラエルで一緒だった日本人が、その後フランクフルトでこの商売を始め、帰国後も工房を開いて続けているのを訪ねたことがある。いまはもう少しましなものを作っている。

 黒人に誘いを受けたときも、面白がってハゲチャと一緒に少し手伝ってみた。部屋に「世界最強の男」のタイトル入りでムハマド・アリの大きなポスターが貼ってあり、アリは彼の誇りのようだった。「ジーザス・クライストは、本当は黒人なんだ」という話を何度も聞かされて閉口した。

 女性の雑誌記者が飛び込みでやってきて、取材されたこともあった。アメリカに来た理由はと問われ、モグリで旅費稼ぎにとも言えず文学が好きでと答えたら「好きな作家は」と来た。アーネスト・へミングウエイとサマセット・モームを挙げておいたが、モームはイギリス文学だった。ま、アメリカでもモームの研究ぐらいしているだろう。

というわけで、当時は若さに任せてその場、その場をふらり、ふらりと泳いでいた。そんないいかげんさで、よく大過なく世間を渡ってゆけたものだが、いいかげんでなければ渡れなかったかもしれない。(つづく)

42年ぶりの再会 1
2014/10/17

 彼と私は1972年にニューヨークで知り合った。

 私はそれより1年あまり前に日本を出て、西回りでユーラシア、中東、東アフリカ、北米を放浪し、金がなくなると仕事を見つけて働いた。ニューヨークに漂着したのも仕事を探すためだった。夜間高校の英語の教師だった彼は、ちょうど私と同じころ日本を出て、英語に磨きをかけるために渡米していた。

 私が和食の店でウエイターの仕事に就いたら、彼が語学学校に通いながらその店で調理係をしていた。店のオーナーが借りているワンフロアー数部屋のコンドミニアムに彼のほかに4人がマタ借りしており、週5ドルというので私も同居人に加えてもらった。

 彼ともうひとり、ジミーと呼ばれる私より若い男のいる部屋に空きベッドがあり、そこが私の寝床になった。ジミーといっても青森出身の朴訥な日本人で、地下鉄を「サンブウエイ」と鼻に抜ける東北なまりでしゃべった。昼間は美術学校に通い、夜は同じ店で働いていた。ジミーは目上の彼を本名で呼んでいたが、薄毛の彼にはハゲチャというあだ名があった。それで、上歯の出ている私はデバチャということになった。

 他に、東洋大学の助手が留学しに来ていた。ホテル学だか観光学だかの専攻で、英語なんか来ればなんとかなると思ったのだろうがそうはゆかず、語学学校で苦労していた。もう1人、オーナーの友人のようだが、仕事はしないでぶらぶらしている不思議な人がいた。私の後に入ってきた男もいて、別の店で働いていたが、いつも素っ裸になって寝る癖があった。

オーナーは小柄な人で元は中学の社会科の教師だった。ヒマラヤのどこだかの遠征隊に加わったが、登頂メンバーに選ばれずベースキャンプに残されたのがきっかけで、人生のリセットをした。和食レストランでせっせと働いて小金を貯め、自分の店を持ったが、経営手腕があるようには見えなかった。

とりどりの顔ぶれで一緒に暮らしていると、いろいろと珍事が起きる。オーナーは独身で、日本に心ひそかに思いを寄せる人がいた。遠く離れて思いは募るばかり、わが身はすでに中年、相手は年ごろ、20も違う。悩んだ挙句、ウエイトレスに女心を尋ねると「恋に年の差なんて」と背中を押され、いきなり「結婚しよう」と手紙を送った。そわそわしながら返事を待っていたが、「私には決めた人がいます」で奇跡は起こらずあっさり終焉を迎えた。すると気安く勇気づけたウエイトレスが、手紙を見せてもらって分析するには「こりゃあ、決めた人なんていないんじゃないの。断る口実だわね」。

 素っ裸で大の字になって熟睡する男に、せめて最小限隠すところはみんなで隠してやらなければと衆議一決したときは、ジミーの絵の具で赤、青、黄の縞模様をチンポコに描いた。それでも彼は目を覚ますことなく、翌朝も何事もなく仕事に出かけた。(つづく)

ひとはなんのために働くのか3
2014/10/09

 実は彼の会社は、この企業理念を掲げるずっと以前から、ユニセフに寄付を続けてきた。毎年ではない。利益が一定以上出た年には年度末に業績賞与を支給しているが、その業績賞与総額の数%に当たる額を、会社に残った利益から供出してきた。

 食糧がない、薬がない、安全な水がないという劣悪な環境に耐えられず、今も世界で5秒に1人、年間で630万人の子供が、5歳未満で命を落としている。それでも1990年の1270万人に比べれば飛躍的に改善されてはいるが、死亡児の80%以上がサハラ以南のアフリカと南アジアに集中している。

たとえば居酒屋で1人3000円の飲み食いをすれば1時間でなくなってしまうが、栄養補助食なら85袋、三種混合ワクチンなら214回分、ビタミンAなら3000人分を用意できる。これは施しではない。従業員のみんなが1年間一生懸命働いた成果を、自分のためだけでなく、飢餓や貧困のため死に直面している子供たちにほんの少し回して、自分自身の働く意味を大きく問い直してみよう、と彼は繰り返し話してきた。

 人道支援を進めながら、彼は一方で疑問も持っていた。保健や栄養の緊急支援で、死にかけた乳幼児が命をつなげたとして、彼らに未来はあるのか。教育を受けて字が読めるようになり、就労し、自立ができなければ、いつまでも人の助けを借りて食い繋ぐだけの生活から這い上がれない。その国に産業が育たなければ、就労もできない。長い目で見て教育の用意は不可欠だが、といってきょう、あすの命を落としてしまえばそれまでだ。どちらが優先なのか。

そもそもその国の政治が悪ければ、諸外国からいくら支援を続けても抜本対策にはならない。長きにわたる内戦や繰り返す飢饉で疲弊した国がある。ひとつまみの特権階級と圧倒的な数の貧困層の国も珍しくない。経済大国にのし上がって鼻息の荒い中国でさえ、雲南省は教育支援が必要な地域のひとつになっている。

 「まずその国の政治が変わろうとしなければ、わずかばかりの人道支援なんか焼け石に水ではないか、と思うことがある」。さまざま自問自答しながら、彼は昨年から支援先にカンボジアの孤児院を加えた。

この施設は2002年の開設で、ゴミ山で空き缶やクギを拾って金に換え露命を繋ぐ孤児や貧困家庭の子供を引き取り、衣食住と教育を与え、パソコン操作や縫製、美容師などの職業訓練も行って社会に送り出している。中には奨学金制度で大学や海外留学を果たす者もある。これまでに200人が社会に巣立ち、現在100人弱の在籍者がいる。運営に当たるメチ・ソカ所長自身が、ポルポト政権下で親兄弟を殺害されて孤児になり、トカゲやサソリを食って生き延び、その後ゴミ山で生き延びた過酷な経験を持つ。Aさんは現地を訪問し、ソカ所長にも会って確認した。

  施設を建設したのは日本のNPO法人「JHP・学校を作る会」で、「3年B組 金八先生」のシナリオを書いた小山内美江子が代表となり、孤児院とは別にこの20年でカンボジアに300棟を超える小中学校を建設したり、その活動を通じて地球市民的視野を持つ若者の育成などもしている。

 「当分の間、毎年5人分の費用を支援してゆく。なんでカンボジアなんだと思う人がいるかもしれない。カンボジアでもアフリカでも南米でも、そんなのはどこでもいい。理屈を言ってなにもしないより、たかが5人分でも5人は5人、悪臭が充満したゴミ山に這いつくばって抜け出せなかった子供の人生が一変する。むろん、企業経営の目的は慈善ではない。そこを誤解してはいけないが、こんなことも働く意味のひとつにはなる。みんなにそこを分かって働き甲斐を感じてもらえたら」

それが「森羅万象に生かされ、志をもって一隅を担う」に繋がるようだ。(おわり)

ひとはなんのために働くのか2
2014/10/03

 A社には1600字に及ぶ企業理念がある。苦心のでき上がりだが長すぎて従業員に浸透させるには難があるので、そのエッセンスをひとことでまとめたものを用意した。「森羅万象に生かされ、志を持って一隅を担う」というフレーズで、これに「如是我聞(にょぜがもん=かくのごとく我聞けり)」、つまり「私はこのように天の声を聞いた」というタイトルをつけた。

 前半は、森羅万象(自然界の一切のもの)に生かされているという感謝の自覚で、後半は、だから志を持って一隅を担うという使命感の確認になる。

 感謝の念は自発的に起こってこそのもので、これを人から求められたらうっとうしいし、そんなことを言ってくるやつは、なにか魂胆でもあるのかとうさんくさくもなる。「それは充分承知の上で、でもね、前半の感謝の自覚がもてないと、後半の使命感が実感にならないんだな」と彼は説明する。

どこの会社の企業理念を見ても、たいていは横並びで大切にすべきステークホルダー(利害関係者)として顧客、従業員、株主、地域社会の4つを挙げている。しかし、企業や人が必要とし恩恵を受けるのはこれにとどまらない。太陽、水、大地、森、川、海、さらには原材料や素材、どれひとつ欠けても、人々の仕事や生活は成り立たない。その我々は、一生のうちに牛や豚、魚を何千頭、何十万匹も殺して自分の命をつないでいる。人間は自分ひとりで勝手に生きているのではなく、森羅万象のおかげで、あるいはその犠牲の上に立ってやっと生きることができる。「感謝の自覚と言っても、たとえば食事の前に『いただきます』と言葉に表すような簡単なことだよ」

だからせめて奪った命や消費をムダにしないよう、社会のほんの片隅であれ、そこに自分なりに社会を支えよう、役割を担おうとする志、使命が、自らのものになる。これでその人の生き方が劇的に変わる。

 「ところがだね」と彼は続ける。「俺は俺の甲斐性で稼いでいるんだ、それをどう使おうと勝手だろ、と思うと感謝も使命感も沸いてこない。自分ひとりの中でスタートして自分の中で完結してしまうので、外へ意識が広がらない。特に若いうちは自分のことで精いっぱいなので、なかなか外に気を配れない」

 彼がこのフレーズを作って座右の銘にしたのは50も半ばを過ぎてからだった。10代のころは自分が何者かよく分からず、20代のころは何者かになろうと必死になり、30代、40代は彼なりの野心と功名心に溢れていた。50代になってようやく如是我聞にたどり着いたと言う。「そうしたらね、自分のアイデンティティというか存在動機、もっと分かりやすく言うと自分が生きる意味が大きな世界で捉えられるようになったんだ。これは自己完結型の生活からは絶対に生まれない」

 彼がこの座右の銘を社内に広げたのは、失われた20年で育った今の若い世代が希望や意欲や誇りを持てずに迷っていると感じたからだという。ただ、内心では50を過ぎないとこの話はよく分からないかもと思っていた。

 意外だったのはむしろ若い世代が、なかなか手に入らないそうした存在動機を真剣に求めていて、欲しい物がなんでも手に入った高度成長期を経験した彼と同年代の中高年のほうが、物質欲求の次元のまま自分本位でろくでもないということだった。

 長文の企業理念の中のこの部分では、企業の使命を明示し、それによって従業員が自己完結型では得られない自己実現型ステージに上がれると謳っている。謳うだけなら口先だけのきれいごとですんでしまう。この感謝の自覚と使命の実感をどこかではっきりした形にして、企業活動の一環として実体化しておく必要があると、彼は考えた。(つづく)

ひとはなんのために働くのか1
2014/09/29

 日本の就労者数は、正規社員以外も含めて6300万人。人々はなぜ働くのか。まず自分の生活のため、そして家族のため。食えなければ何も始まらない。食い扶持は誰からもらうか。給料は会社がくれるが、その原資はお客様がくれる。お客様はなぜくれるか。作った製品やサービスが、対価を払ってもほしいからだ。

 会社は一生懸命利益を上げる。なぜ必死になるか。賃金が保障されないと従業員は安心して働けないし、離職率が高いと企業の経営も安定しない。こうしてまず雇用が保障され、残った原資は次の研究開発や設備投資などに回してさらに優れた製品やサービスを世に送り出す。国や自治体に税金も払う。税金で橋や道路を作る。社会保障制度も支える。

つまり、生産者、提供者としてはお客様を通じて社会や国や世界に対して役割を持っている。同時にそのひとりひとりが消費者として、社会や自然界の恩恵を受け取っている。この相関関係が循環して社会が成り立っている。

 世の中にはいろんな人がいるから、中には相手を騙したりごまかしたり、従業員を酷使して利益を上げるブラック企業もある。そうした実態をあばく週刊誌の記事の方が、社会科の教科書に載っているようなまともな話より面白いが、はみ出し話ばかりに慣れてくると、基本はなんだったけと分からなくなることもある。

 大きく成長してきた企業の社長には共通した「4つのション」を持っていると言ったのは、経営コンサルタント会社、タナベ経営の田辺昇一で、ビジョン(夢)、パッション(情熱)、ディシジョン(決断)、アクション(行動)を上げている。この4つのション説は、経済界で時々引用されることがあるが、訳語も順番も違うし、なによりも一番大事なものが抜けていると首をかしげたのがA社の社長だった。

 「ビジョンは実現させるもので、夢ではなく将来像と訳さなければおかしい。夢は叶うか叶わないか分からないもので、英語で言うならドリームになる。将来像を描いたら、次に来るのはそこへ踏み切る条件を冷静に読み込んだディシジョンで、それを遂行するパッション、アクションへと続く。ところが、夢に向かってパッションをかき立てて威勢をつけたんでは、下手をするとゴリ押ししてディシジョンを誤るし、遂行するときにはパッションを使い果たしてしまっている。それよりも問題なのは、ビジョンの前にミッション(使命)がないことだ。これが真っ先に来なければいけない」

かなり手厳しいこき下ろし方だが、田辺昇一が言ったのは「大きく成長してきた企業の社長の共通項」であって、言うならば貪欲なブラック企業も除外されない。A社の社長はあるべき企業の姿を語っているので、向いている方向がちょっと違う。では、彼の言う5つのションの最初に置かれるミッションとはどんなものなのか。(つづく)

美人はどこまでトクか
2014/09/22

 朝の通勤途中で、女子大と地下鉄の駅を直線で結ぶ300メートルほどの道を車で通る。毎日ここで、登校してくる女子大生の群れと出会う。女子大には付属の中学、高校も隣接しているので、歩道は若い娘ばかりヌーの大移動のような状況になる。

 直線道路の中ほどと終わりに信号があり、信号待ちになると退屈しのぎに車窓からその群れを眺めるが、これだけの群れの中でオッとときめくような美人に出会うことはまずない。ま、それだけのことだが、ちょっとがっかりする。そうしてみると映画やテレビに出てくる女優は、さすがに選り抜きなんだなとあらためて実感する。

たとえばドラマで、被害者役の女優が大して美人でもなければ、かわいそうにという同情の程度はどうも盛り上がりを欠く。一方、犯人役が美人だと、よほどの事情があったのだろうと、つい感情移入したくなる。そうなるように配役をしてシナリオもできている。

 顔の造作は生まれつきのもので、努力でそうは変えられない。近ごろは美容整形も盛んだが、やりすぎると男のカツラと同じで、作り物だとすぐ分かる。素の美人はやっぱりなにかとトクなのだろうか。

 「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で慣れる」と言った人がいる。これは単なる慰めなのか、真理を巧みに突いた至言なのか。

 美人はそこにいるだけで男が群がってきてちやほやする。加賀まりこほどになると、高校に通っていたころ下校時の校門の前に若い男のお迎えの車が何台も待ち受けて列をなしたそうだ。彼女が映画デビューしたのも、篠田正浩と寺山修司が通学時にスカウトしたのがきっかけで、下校時のお迎え騒ぎがよほどの評判だったのか、それとも2人もナンパ仲間に入りたかったのか。

 美人はずっといい思いをして育つから、世の中は自分のためにあると甘く見てしまうが、器量が悪いとそういうわけにはゆかない。足りない分を努力して補おうと気配りしたり、愛情こまやかに洗練されてバランスを取る。美人が自信過剰になると鼻について3日で厭になってしまうが、気立てのよいブスなら3日で気にならなくなる、ということか。

 花の命は短くてという通り、美人も歳には勝てない。清楚な妖精のようだったオードリー・ヘップバーンも、妖艶なバーのマダムがよく似合った淡路恵子も例外ではない。永遠の処女と謳われた原節子は42歳で引退し、世間から完全に姿を消した。

 吉永小百合は70歳を前に今でもきれいだ。健康優良児のようだった若い頃より美しいぐらいだ。水泳や乗馬でかなり努力しているらしい。首のまわりのたるみが少し気になるが。

 大女優と言われた人はみんな、美貌だけでスターになったのではない。ヘップバーンは後年、ユニセフの親善大使として難民救済に尽力し、淡路恵子は萬屋錦之助の難病に献身的な介護を尽くし、その後回復した錦之助に裏切られてもさらりと受け入れ、吉永小百合は原爆詩の朗読を長年続けている。生き方にちゃんとした信条がある。

 始末が悪いのは中途半端な美人だ。ボキャ貧で社会常識も疎い女子アナが、バラエティ番組でキャピキャピはしゃいでいるのを見ると、グラビアアイドルとどこが違うんだと思ってしまう。自信満々で派手なだけのこういう並みの美人には近づかない方がいい。もっとも、近づく機会もないが。

電化の限界
2014/09/16

 ひげを剃ることを、顔をあたるという。これは、剃るの訛った「する」が、ギャンブルで有り金をはたく「耗(す)る」に通じて縁起が悪いと考えるところから来ている。スルメをあたりめというのも同じ。スルメをかじりながらばくちをしたわけでもなかろうに。

ひげを剃るのに、電動かみそりを使う人は多い。顔を濡らすことも石鹸をつけることもなく、ジージーとあごや鼻の下に当てれば剃れるから、出勤前のあわただしい時間には重宝する。くるま通勤で運転しながら、信号で止まるたびにチョコチョコやっている人も見かける。

ただ、難点は、念入りに剃っても剃り残しができてしまうことだ。メーカーでは、3枚刃だの首振りだので深剃りOKなどと宣伝するが、特にあごの下は勝手気ままな方向に生えているので、あっち向けたりこっち向けたりしても機械にできることは知れている。堂々と商品として売っているが、これではまだ完成度の低い試作段階だと思った方がよい。

床屋へ行くと、これがつるつるになる。昔ながらの店は、近ごろ流行の、早い安いのアメリ方式の床屋や、おしゃれで勝る美容院に客を取られてヒマそうなところが多いが、1時間もかけて耳アカ取り、鼻毛切りからマッサージまでしてくれる。すっかりリラックスして、でき上がりで一番うれしいのがつるつるのひげ剃り跡だ。

行きつけの店で、ほほやあごを撫でながらそう言ったら、「またすぐ伸びちゃうけどね」なんてがっかりすることを言う。「ひげ剃りだけ頼むといくらなの」と聞いたら「うーん、そういう人は最近いないけど、2000円かな」。そりゃ高い。店もやりたくないのだろう。

ならば電動かみそりを捨てて、自分で手剃りをしてみるか。そういえばジレットが盛んにテレビCMを流している。手剃りでなければという根強い愛用者もいるようだ。

売れ筋と思われるT字型5枚刃のかみそりと、ひげ剃り用のジェルに剃り跡の乳液も揃えて使ってみると、これが実に都合よい。電動かみそりは一応掃除して仕舞っておいた。

そういう目で見ると、不完全な電化製品は他にもある。掃除機はコードを長く使って厄介だし、集塵部も重くて引きずったりひっくり返ったりする。充電式のハンディタイプもあるが、5時間充電で30分しか使えないらしい。家庭の掃除ならほうきにチリ取り、はたきの方がずっと楽ではないか。食洗機もずいぶん時間がかかる。乾燥時の音を聞いていると消費電力もかなりのものだろう。手洗いして水切り放置した方がずっと簡単だ。

電化が普及し始めた洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ、その後のクーラーやカラーテレビの時代は、家事が飛躍的に楽になり生活も便利で快適になった。大量生産、大量消費で価格も下がり、みんなが中流意識を持ち、松下幸之助の考えた水道哲学がずばりと当たった。

しかし、今は湯水のように電気を使っていい時代ではない。国を崩壊の危機にさらして、それでも目をつぶって原発を再稼動するぐらいなら、なんでも電化、それが進歩という考えは見直した方がいい。

女子力の活用
2014/09/09

 A社の給与体系は、生活給、能力給、成果給の3要素のバランスを見ながら組み立てているが、その中でも能力給によりウエイトを置いている。したがって中途入社でも、学歴に遜色があっても、年齢が若くても、序列なく昇格できるようにしている。個人の成果は年度によって上下するが、積み上がった能力が落ちることはない、社員が安心して働くには生活給もそれなりに配慮しなくてはいけない、というのが社長の持論だ。

 能力重視の企業なら、女性の管理職がいてもよさそうだが、なかなか育ってこない。無理もない面もある。ファッションや化粧品の企業なら、女性が能力を発揮しやすいが、その会社は産業用機械や研磨剤のメーカーなので、どうしても男性主体の事業になる。女子社員といえば、営業や製造、経理の事務職として採用され、サポート要員のまま落ち着いてしまうのがこれまでのお決まりのコースだった。

それは上司がそういうものとして扱ってしまうのか、それとも本人たちに、責任の伴う役職を目指す気がさらさらないのか。

 「これからは人口が減る一方で、男子社員だけではまかなえない。それでなくても近ごろは頼りない草食系男子に元気な肉食系女子の世の中ではないか。女子力の活用を図れ」と社長は4年前に号令をかけた。「まず女子の主任を作れ。女子社員の星にして、だれにでも管理職の道が用意されていることを示すんだ」。

 「いや、どんなもんですかね」と、営業部長は最初、消極的だった。というのも、この会社では、同じ考えで16年前に営業事務の女子を2人、相次いで主任に昇進させたことがあった。するとしばらくしてそのうちの1人が、女子社員を代表して彼に申し入れをしてきた。「朝のお茶汲みと机拭きを女子の当番にするのはおかしい」。で、その慣例は廃止になった。お局さまができるとなにかとやりにくい、というのが彼の意見だった。

いきさつを知らなかった社長は「なぜ申し入れを認めたんだ」と切り返した。「お茶汲みも机拭きも大事な仕事で、仕事の担当は会社が決めることだ。仕事を選びたいなら女と思わず営業に出せばよかった。それが総合職だろう」。

お局さまは昇進後、同じ職場のまま力量を伸ばすでもなく、数年で辞めていった。人選を間違えたのか昇格時に自覚を促さなかったのか。教訓は生かさなければいけない。

というわけで、今年久しぶりに女子の主任が誕生した。昨年はリケジョの新卒を開発部の技術職に採用した。営業部長の考え方も変わって、次の5カ年計画の目標のひとつに「女性管理職を2割作る」と思い切って描いた。企業体質を変えるのは容易ではないが、少しずつでも変わってゆかざるを得ない。それほど世の中の変化は激しい。

枝葉末節と肝心要
2014/09/03

 姉の葬儀のとき、控え室で時間調整をしていたら、姉の娘が隣りに来て「仏壇はこれでいいのかしらね」とスマホの画面を差し出した。

この仏壇は、義兄の父親から譲り受けたものだが、義兄は長男ではないので菩提寺は引き継がず、遠い生家の寺ではなく、近所の寺を選んだばかりだった。

 仏壇の本尊は、禅宗なら釈迦如来、真言宗なら大日如来、浄土真宗なら阿弥陀如来と決まっている。スマホでは小さくてよく分からないが、生家も真宗、今度の寺も真宗なら問題ないよと答えた。

 「それがね、実家のほうは真宗でも高田派で、今度のお寺は本願寺派なんだけど」と言う。そんな細かいところまでは私にも分からない。少し離れたところで、この日の導師を務める新寺の住職がちょうど茶をすすっていたので、聞いてみたらと勧めた。

 姪が戻ってきて、違うと言われたと報告した。どこが違うのと聞いたが、そこまでは聞かなかったと言う。気になるなら、本願寺派仕様の仏壇を買うんだね、仏壇だからといって遠慮せずどんどん値切っていいんだよと余計なことまで助言したが、そのつもりはないようだ。義兄には娘しかおらず孫もいないので、一代限りで無縁仏になるとするなら、わざわざ買う気が起こらないのももっともだ。

 「宗論はどっちが負けても釈迦の恥」という江戸川柳がある。釈尊が口伝で遺した言葉を、後の弟子たちが書き伝え、解釈をするうちに宗派が四分五裂していったのは、なりゆきとして了解できるが、仏壇の飾り方まで四の五の言い出したのでは檀家が迷惑する。真宗なら、南無阿弥陀仏と唱えて帰依すれば、阿弥陀仏がすべての衆生を救済する、とそれだけ知っていればよい。

そもそも釈尊は、死後の世界も先祖崇拝も、まして祈祷やお守りで商売繁盛、家内安全、病気平癒、交通安全、学業成就、水子供養から豊年満作、鎮護国家に至るまで、いわゆる現世利益が得られるなどとバガ気たことを言い残してはいない。後の世で修験道や陰陽道、神道などとごちゃまぜになって、どの寺でもそればっかりになっている。それはそれで民間信仰として扱うのは勝手だが、元々の仏教とはまるで縁のない世界だ。それでいて、自分の宗派の本尊がなに如来かを知らない住職もいるから驚く。

 私が住職なら「仏さまはあなたの心の中におられます。仏壇がなければそれでもいいのですよ」と答えるだろう。

クールビズとドレスコード
2014/08/29

 夏のクールビズが、速いスピードで広まってきた。いまや公の集まりでノーネクタイは違和感のない風景になっている。

ここ数年、官公庁が率先して主導してきた効果が大きい。会合の案内にも「ノーネクタイ、省エネの服装でおいでください」とわざわざ付記している。そしてエアコンの温度はちょっと高め。コンセンサスができあがったと言ってよい。彼らはネクタイの代わりに名札にひもをつけて首からぶら下げている。呼ばれたほうの中にネクタイをしている人がいると、見た目に暑苦しい印象さえ与える。そうした感覚が民間にも広がっている。

ネクタイをしなくなってから、ボタンダウンのワイシャツが流行るようになった。襟の先をボタンやホックで留めると、襟が立ってかっこうがつく。これがなく、胸の第一ボタンをはずすと首周りがはだけて、どうもだらしない。だが、このボタンダウンも、着てから気がついて留めようとすると、結構厄介で面倒くさい。見たところ70歳を境にそれ以上の人がボタンダウンのワイシャツを避けたがるのは、この歳になって慣れないことをさせるな、という意思表示なのか。そういえばもっと昔には開襟シャツのいうのがあって、ネクタイを最初から想定せず、風通しよく胸元を開けたまま襟が折ってあった。

そのころ、一級のホテルではドレスコードがうるさくて、ネクタイに上着着用でなければ通さなかった。こちらへどうぞと案内して、貸し出し用を用意して着用させた。それが今では、ジーパンや半ズボンにTシャツ、サンダル履きでもとがめない。ただしたぶんこれはクールビズとは関係なく、アメリカの観光客の影響だろう。かなり前から、彼らはオフのときは大胆にラフなかっこうでどこへでも行く。

日本のゴルフ場では、さすがに近ごろは上着着用を強制しないが、いまでもジーパンやTシャツは禁止している。他のスポーツと一緒にされては困ります、他のお客様に不快感を与えてはなりません、と紳士のスポーツを自負しているのだろうが、だれでもゴルフをやるようになってからプレーマナーの悪い人もいるわけで、特に紳士のスポーツというほどのものでもない。

いまでもドレスコードがしっかり残っているのが葬式や法事。真夏に黒づくめというのも辛いが、哀悼の意をきちんと形で表すためで、これは崩れないだろう。同じ冠婚葬祭でもすっかり崩れたのが結婚式。披露宴に呼ばれた人はたいてい平服に変わった。お祝い事だから、形式ばることもない。

 観光でも、豪華客船のクルージングで、ディナーのときはタキシードなんていうのがある。船の長旅でだらだらし始めたら、時にはしゃきっと気分を変えてもらって、という船主側の気配りなのかもしれない。

 街中を素っ裸で歩いたら、周りはみんなギョッとするが、銭湯で服を脱がずに洗い場に入ってもギョッとされる。みんなと一緒が無難という生き方ばかりではつまらないが、はみ出すにしても超えてはならない限度がおのずとあるようだ。

最期の言葉
2014/08/25

 私は5人兄弟の末子だが、私が生まれたときには上の姉2人が早世していた。戦争中のことで医療環境が充分でなく、今ならなんでもない破傷風と疫痢で亡くなったと聞いた。両親と兄、姉との5人家族で育ったが、次に兄が50で亡くなったとき、母は「子どもに先立たれてばかりで、私はよほど前世の業が深いのだろうか」と漏らした。

そうなるともう親より先に死ぬわけにはゆかない。その後、父が88で亡くなり、母が昨年9月、96で逝った。母は入院する2カ月半前まで人に頼らず日常生活をこなしつつ、それを今後も維持するには長生きしすぎたと言うのが口癖になり、この世に少しも未練を残していないようだった。母を送ることができ、私は子の責任を果たせてほっとした気持ちになった。

それは姉も同じだったろう。実は母が体調を崩して入院したのと前後して、姉もがんが見つかって入退院を繰り返すようになった。母の葬儀には、入院中で参列できなかった。

 姉は1年半の闘病生活を送ったが、最初の入院当初から死を覚悟していた。せめて母を送るまではとがんの浸潤や転移に侵されながら持ちこたえた。母の死後、あらためて自分の死と向き合うようになって、残してゆく家族への気がかりがあれこれと湧いてきたようだ。ただ、自らに対しては「いい人生だった」と自分に言い聞かせるようによく語った。一時退院の折には、義兄と一緒に菩提寺と墓を選んで準備を整えた。

 私が最後に面会に訪れたとき、姉は酸素マスクで呼吸を補い、点滴の管をつなぎ横たわっていた。自力で寝返りも打てず、目を開けるのも辛そうだったが、まだ少し話はできた。「また元気になるよ」と言っていたが、2日後に亡くなった。その少し前、小さな紙片の裏に短い言葉を3行書き残しているのを義兄が見つけた。

 「ありがとう。温かく、やさしい家族、友人、仲間に恵まれ、幸福な一生を送る事ができました」。

 乱れた字で行も斜めに傾いていた。付き添いがいないとき、看護師を呼んで病床から起こしてもらって書いたのだろうか。義兄が告別式の挨拶で「私の宝です」と言葉を詰まらせながらこのメモを読んだ。

 人はだれもいつか死を迎える。私はいつもごく自然なこととして受け入れるが、子供のころ一緒に暮らした5人家族のうち、とうとう私が1人残ったと思うと、なんだか寄る辺ない気にもなる。残された者の方にはなにかと思いが残るが、自分のときも悔いのない人生だったと言える一生を送りたいものだ。それがなにより幸せなのだろう。

夏休みの主夫
2014/08/18

 夏休みはどこへ行っても混雑するので、出かけたことはない。といってなにもしないでぼんやりしているのも退屈なので、たいていいつも休み前に会社の仕事を用意しておいてぼちぼちこなすのだが、9日もあると数日で終わってしまう。よしもとばななでも読もうかと思ったが、報告書や提案書をたっぷり読んだ後なので、この上、字を読む気にならない。

 妻がずっと留守で、犬2匹と遊ぶしかない。庭から家の中に上げてやると喜ぶが、すぐに居眠りを始めて、ものを食うときだけ起きる。よくあんなに寝られるものだ。

 台風で散らかった家の外の落ち葉を掃除し、庭の芝刈りをし、切れた電球を取り替え、洗濯をし、買い物に行って飯を作る。スーパーに行くのは気晴らしになるし、料理は学生時代に故郷にいる母に手紙で教わって、自炊していたことがあるので、それなりにできる。

 当時に比べれば食事の用意は格段に簡単になった。レトルトあり、インスタントあり、デリカあり。手軽だが、自分で作った方がうまいので、飯を炊いて煮物、炒め物、焼き物をなるべく自分で作る。味噌汁は、「かつお風味の本だし」をちょろっと入れるだけで、感動的な味になる。これに豆腐や野菜やワカメを入れて、おたまに取った味噌を菜箸でこちょこちょ溶く。ワカメは湯通し塩蔵ワカメを塩抜きして使う。乾燥したカットワカメは簡単だが、ぺらぺらして歯ごたえもなく情けない。インスタント味噌汁なんぞは言語道断。うどんなんかもダシの素に冷凍うどんを入れて、味つきいなりとかまぼこ、きざみ葱。これが結構うまい。

 肉野菜炒めを作ったら、犬にも分けてやる。味噌汁が残って、残り飯にかけてやると、いつものドッグフードより喜ぶ。昔はこれに煮干の出しガラも入っていて、当時の犬の方が美食だったかもしれない。

まだ暇が余る。取り込んだ洗濯物のうちワイシャツとユニフォームのしわが気になり、クリーニングに出そうと思ったが、あいにく店は盆休み。アイロンがけはやったことがないが、どうせ暇だから試してみることにした。

まず、簡単なハンカチで練習する。合格。つぎにユニフォーム。スチームアイロンであることに気がついたが、なんのためにスチームが必要なのか分からないのでパス。最後にワイシャツ。アイロン台の横にスムーザーの噴霧ボトルがあるのに気がつき、説明文を読んでみたら、前身頃に4、5回吹きかけろと書いてある。前身頃がどこなのか分からないのでパス。アイロンがときどきピーピー鳴るが無視。仕上がりはまあまあ、それなりにシワが伸びた。

それにしても、重くて熱いものでこするとなんでシワが伸びるのだろう。顔のシワ伸ばし整形でアイロンの原理を利用した最新機器ができないか。いや、やけどして大惨事になるだろう。

 家事は面倒だが難しいものではない。子どものころ、おいしいものをなんでも作る母を魔法使いのように見上げていたが、コロッケやハンバーグやてんぷらを自分で作れるようになって思いが覚めたのを思い出した。

 人間、いつなにが起こるか分からない。身の回りのことは、自分でできるようにしておくのがよい。

録画番組を楽しむ
2014/08/11

 まだ私が若いころ、ビデオでテレビの録画ができるようになり、これは便利だと思った。放映時に見る暇がなくても、録っておけばあとからゆっくり見られる。

ところがやってみると案外役に立たないことが分かった。年中忙しいと録ってたまるばかりでうんざりし、あとから見る気もなくなる。暇な人は録る必要もないだろうし、一体どんな人が使うのだろうと不思議だった。

それが最近、事情が変わった。仕事を終えて帰宅し、食事をすますとあとは寝るまでほかにやることもないので、テレビの前に座る。しかし、ニュースとドキュメンタリー、スポーツ中継以外見るものがない。お笑い芸人を使い捨てにするお手軽なバラエティやつまらない推理ドラマばかりで、すぐに飽きてしまう。テレビ局も昔はもっと番組制作に力を入れていたと思うが、これではテレビ離れが起きるのも当然だ。

しばらく退屈していたが、意外な穴場を見つけた。BSで昔の名作を再放送している。「おしん」「フーテンの寅」「夢千代日記」「刑事コロンボ」「男たちの旅路」……。

 「おしん」は、40年近く前の朝の連ドラで大ヒットしたが、私は当時ちょうど通勤時間で見たことがなかった。昨年、かつての1週間分90分を毎週土曜日に1年かけて放映したのを追い続け、さすがに見ごたえがあった。それからすると「刑事コロンボ」は、ストーリーがどうしてもワンパターンで、今でも放映中だが録画をやめてしまった。晩飯で酒を飲んでから見るせいもあり、途中で居眠りすると推理ものだからわけが分からなくなってあきらめた。寅さんもワンパターンだが、制作年順の放映なので寅さんが毎週歳を取ってゆくことの方が気になる。

BSの番組一覧表で物色していると、旧作でなくてもお気に入りが見つかる。NHKの「世界ふれあい街歩き」は、街を歩く速度と目線でカメラが動き、ヨーロッパのどこだったか公園で演奏している音楽隊や、歴史的建造物の近くで散歩している老人、オーストラリアでカンガルーの肉を売っている店、韓国の海辺の占い師、絵を描いている生徒、外壁を修理している人、日なたぼっこをしている夫婦、魚の行商人……つまり通りがかりの人々にだれかれなく話しかける。

 話しかけるほうは日本語の吹き替えで、撮影時はもちろん各国語だろう。相手の返事は字幕が出る。その街、その街の市井の人々の日常生活に触れて、どの国へ行ってもこれが自分でできたら海外旅行の理想だ。それを代わりにやってくれる。

だれもが友好的なのは、カメラとマイクを前にしたせいがあるかもしれない。店の中や家の中へ招かれることもある。時には下打ち合わせをした上の撮影かもしれない。しかしそんな詮索をするのはつまらない。心の通いあいが、見ていて幸せな気分になる。カメラが移動しながら全くブレないのも、なにか仕掛けがあるのだろう。
この番組は姉妹版があって、本編が火曜の夜8時から1時間、もう1編が土曜の朝8時15分から15分で、こっちはタイトルに「ちょっとお散歩」のおまけが付いている。私には15分ものがちょうどいい。

ヒロシマから69年
2014/08/05

 広島に原爆を投下したアメリカの爆撃機、エノラ・ゲイに搭乗していた12人の戦闘員のうち、最後の生存者が先ごろ亡くなった。彼は「日米双方の犠牲を最小限に抑え、戦争を終結させた」と回想録に記し、「投下に後悔はないが、核兵器は2度と使われてはならない」と言ったと、新聞の小さな記事が伝えた。

 戦争の早期終結のため、原爆を投下してよかったとする主張は、いまもアメリカ人の一般的な立場で、彼の話に特別なものはない。総論賛成、各論反対というのはよくある話だが、これは総論反対、各論賛成という逆ねじりの理屈。言ってみれば、やってしまったことの自己正当化で、批判や疑問を排除し、圧倒的多数の同調者で固めれば簡単に成り立つ。赤信号みんなで渡れば怖くないというやつだ。

 泥棒にも3分の理という言葉がある。こっちは理屈ではない。だれが見てもいけないことをしてしまった人間でも、それなりのやむを得ぬ事情や言い分がそれなりに少しはあるものだ。しかしこれと原爆投下は一緒にならない。14万人を無差別に殺し、焦熱地獄に突き落としたのだから、泥棒を認めた上での3分の理ぐらいでは自分たちを支えきれない。10分の理、ということは非を完全否定しなければ、加害した側はそのあとの人生に耐えられない。彼は、良心の呵責に引きずり込まれそうになるのを必死にこらえ、耳をふさぎ目を固く閉じて生涯を終えた、とせめて思いたい。

 言い訳せず非を完全に認めたアメリカ人もいる。原爆開発プロジェクト、マンハッタン計画を主導した物理学者、オッペンハイマーだ。彼は戦後、インドの聖典の言葉を引用し「われは死神なり、世界の破壊者なり」と公に吐露した。核兵器に反対し、公職を追放され、危険人物としてFBIの監視下に置かれた。

 戦争末期の日本も往生際が悪かった。敗色濃厚どころか決定的だったのに、連戦連敗のどこかでちょっと反撃し、終結を有利に持ち込む「一撃講和」を夢見たり、日中戦争の収束をソ連に取り持ってもらおうと、間抜けなことを考えた。本土空襲では竹やりや弾の届かない高射砲で戦闘機を迎え撃とうとした。

それを思えば、原爆を落としてギャフンと言わせるのもひとつの作戦には違いないが、圧倒的有利な戦局の中、ソフトランディングする方法はいくらでもあったろう。原爆投下に踏み切ったのは、できたての新兵器の威力を早速試してみたかったに他ならない。

 事実、アメリカは原爆投下直後に原爆障害調査委員会を設置し、広島に乗り込んで詳細に記録した。威力の調査が目的だから被曝者の治療は一切しなかった。その一方で、放射線被曝による恐怖が世界に広がることを恐れ、「広島には残留放射線はない。死ぬべきものはすべて死に絶えた」と記者会見して流布した。

 悲惨な事実を闇に葬る圧力は今もある。スミソニアン博物館に展示されているエノラ・ゲイには、原爆被害や歴史的背景の説明が一切ない。これらの掲示が計画されていたが、退役軍人の猛反対で引きずりおろされ、博物館の館長は引責辞任している。

 広島には1952年に原爆慰霊碑が建てられ「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と碑文が刻まれた(ここに納められた死没者名簿には現在27万人が記載されている)。これがまた国内で激しい論戦を引き起こした。主語がないが過ちとはだれの過ちなのか、加害者はアメリカ人ではないか、ならば「過ちは繰り返させませぬから」でなければならない、などとする抗議だ。これに対し当時の浜井信三市長は、主語は人類全体であり「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である」と表明し、これが公式見解となった。

その後、この慰霊碑にはペンキで汚されたり「過ち」を削り取られたりする受難もあったが、日本人は悲劇を経験してずいぶんおとなになった。69年前、占領下に乗り込んだマッカーサー将軍は、日本人を12歳の子どもと笑ったが、いやいやアメリカ人こそ立派なおとなになってほしいものだ。

 
努力の報酬
2014/07/24

 20年前、Aさんが交際相手の父親に「娘さんと結婚したい」と申し出たとき、父親はそっぽを向いて返事もしなかった。2度目に訪問したときには、娘は医者と結婚させるつもりだ、とにべもなく断った。

Aさんはそのとき、中堅企業の平社員だった。高校を卒業して入った会社が2年で倒産し、職種を選ばずなんでもやるつもりで転職し、一生懸命だった。その職場で彼女と親しくなった。彼女の方は4年制大学の新卒で、父親としてはそんなやつに大事な娘をやれるかという気持ちだったらしい。

ところが彼も彼女もあきらめないので、しまいに父親が根負けした。彼女は色白のすらりとした長身で、会社でも目立つほどの美人だった。彼は困難を乗り越え得意の絶頂に立ったが、数年のうちにだんだんようすが変わってきた。

 子どもが生まれると、妻が子ども優先に切り替えるのはどこの家庭でもふつうのことだが、妻はその上に彼を管理し始めた。テレビを見ていて、つい女優に見とれていると、無言のまま後ろから足で背中をドンと押す。休日出勤をすると、うそをついていないかと会社の駐車場をチェックしに来る。収支をきっちりつけて1円の不明金もない。

 友人は「美人をもらうと苦労するね」と最初はひやかし半分だったが、彼が「家にどうしても帰りたくないときがあるんだ」と打ち明けるに及んで、そりゃちょっと深刻だなと思った。そんなとき、彼は酒が飲めないのでネットカフェに寄る。入って何をするでもない、2時間ほどぼうっとしているだけ、それで気が休まる。そんなことが月に2度ぐらいあるという。「家に帰ってもひとり孤立でね。子ども2人は妻が自分の側につけている」。彼のご飯茶碗は安い中国製、ほかの家族は安全な日本製だった。

 会社での彼は決してダメおやじではなかった。それどころか大変な努力家で、朝だれよりも早く出社し、ち密な仕事ぶりが評価されて会社の信頼も厚かった。高卒、中途入社のハンディを乗り越え、先輩、同僚を抜いて部長に昇進、難題をいくつもクリアして社長の懐刀となった。そしてこの春には取締役就任が内定していた。

 「おかしいな、奥さんも親の反対を押し切って結婚したんだろ」と、友人は首をかしげた。途切れ途切れに聞いていた話をつなげてみて、やがて「ハハア、そういうことか」とうなずいた。

 妻の父親は、兄弟でがっちり固めた自営業を営んでいた。仕事柄、夜の明けないうちから目いっぱい働き、会社は順調、それはいいが、夜になると遊びに出かけて夜が更けるまで帰ってこない。母親は夫の酒と女で苦労したらしい。愚痴をもらすこともあっただろう。娘はそれを見て育った。結婚相手の条件のひとつが酒を飲めない人だった。そして真面目な人。

 両家にはもともと財力の違いがあり、実家の雰囲気も手伝って妻はしだいに彼を見下すようになる。生真面目な彼は、それをかわせない。

 「だいぶ先の話だけど、リタイアしたら2人で海外旅行をしたいね。船旅でのんびりと」と彼が楽しそうに夢を語ったとき、妻の返事は「なんでそんなことする必要があるの。退職後の再就職に備えて、いまからなにか資格を取っといてもらわないと」だった。

その彼が突然死した。深夜、睡眠中の心筋梗塞だった。40代半ば、特に健康上に問題があったわけではない。仕事でますます本領発揮という矢先、だれもが唖然として言葉を失った。中学生と小学生の子どもが残された。

 「世の中には、努力が報われることの少ない生涯もある。それにしてもなあ」。友人はなんども慨嘆した。

ポチの集団的自衛権2
2014/07/18

 普天間の辺野古移転にしても、アメリカの顔色をうかがってどこまで沖縄を踏みつけにするつもりだろう。私がウチナンチュ(沖縄人)のリーダーなら、とっくに独立して琉球国を復活させている。

 日本には数千の小島があるではないか。中にはぽつんと離れたところに無人島もあるだろう。そこに米軍基地を集めればいい。一番いいのは尖閣諸島だが、それも角が立つ。スーパーやモールといった生活施設も造り、アメリカの民間人が来て営業する。これで地位協定も騒音問題もオスプレイも全部解決する。

もっと抜本的な方法もある。日本がスイスのような永世中立国になり、戦後70年続くアメリカの呪縛から自らを解き放つことだ。これで他国の戦争に巻き込まれない。イスラム圏の産油国とも相互信頼の絆を結べる。G7の場で、ウクライナ紛争での立場をめぐって態度表明を迫られることもなく、ロシアから天然ガスのパイプラインを誘致したり、北方領土を話し合える。

では、アメリカにぶら下がらず中国や北朝鮮など厄介な隣国に対して国防をどう備えるか。自国は自力で守る。土壇場であてにならない他国の軍事力に頼るのでなく、思いやり予算なんてわけのわからないものはやめて、国防費に回す。徴兵制も敷く。ただし、専守防衛の個別的自衛権を厳守する。外交交渉が優先なのは言うまでもない。

アメリカは仰天し、周辺国はざわつくだろうが、これなら憲法を変えることも、その場しのぎのうそをついて解釈を変える必要もない。自衛隊のままでいい。自衛隊の軍事力はすでにかなり高い。

スイスのような小国でさえ、自国は立派に守っているではないか。永世中立を宣言しているから、他国も手を出しにくい。日本には平和憲法がある。こんないいものを捨てたり骨抜きにしてはいけない。

スイスは15世紀のころ、さしたる産業もない山岳地の弱小国で、ドイツやフランスで戦争があると傭兵として出稼ぎに出て、他国のために大勢のスイス人が命を落とした。スイスのルツェルンにはフランス革命で王家側の傭兵となって犠牲になった786人の死を悼んで建てた「瀕死のライオン像」がある。そうした悲劇を繰り返すまいと、1815年のウイーン会議で永世中立国として承認された。ただし武装中立で、職業軍人は数千人だが国民皆兵の徴兵制を取り、成人男子は2年に1度短期の兵役に就いて訓練する。平時は予備役兵として登録し、有事には48時間以内に40万人が結集するという。人口800万人の国で自衛隊をはるかに上回る兵力だ。第2次大戦のときは85万人を擁し、領空を侵犯する航空機があれば、連合国、枢軸国を問わず迎撃して国を守った。

そのころ日本は、太平洋の広域に広げた戦場で、ミッドウエイ以後ガダルカナル、ニューギニア、レイテと負け続け、サイパン全滅で情勢が決定的になったのに、指導層はだれもそれを言い出せなかった。そしてなお、奇跡にすがって兵や民間人を見殺しにする戦いを止めず、硫黄島、沖縄、本土空襲、広島、長崎と、悲劇のてんこ盛りを築いた。4年にわたる太平洋戦争で亡くなった日本人は200万人を超える。

バンザイクリフも平和の礎もひめゆりの塔も原爆ドームもあるのに、安倍首相はすっかりお忘れのようで、改正手続きも問わずに「集団的自衛権は国民の命を守るため」なんだとさ。そんなにやりたければあんたひとりで行けばよい。名誉の戦死をしても他国のためだから、あんたの大好きな靖国には祀ってもらえないだろう。「瀕死のポチ像」でも建ててもらうか。(おわり)

ポチの集団的自衛権1
2014/07/14

 安倍首相は、公明党との間ですったもんだの挙句に、ようやく集団的自衛権の閣議決定を押し切った。アメリカからは早速お褒めの言葉をいただいて、さぞかしうれしかろうが、あの対米すりより姿勢と「戦後レジームからの脱却」とは、彼の中でどう共存しているのだろう。

 戦後レジームとは、日本が敗戦し、ポツダム宣言を受け入れ、アメリカに占領され、安保条約という日本に不利な片務条約を結び、つまりは戦後ずっとアメリカの忠実なポチとして言いなりになってきた体制のことだ。そこから脱却しようというなら、まず日米同盟、いや正確に言うなら対米従属同盟を見直して、国家の独立性を強めるところから始めなければならない、と私なら思う。ところが、「密接な関係のある他国への武力攻撃が発生したとき」には、一緒になって、いや使い勝手のよい手下となって集団的自衛権を行使するというのだから、これじゃあまるっきりポチの深入りではないか。

 アメリカに血を流して日本を守ってもらうのだから、アメリカが攻撃されたときに日本が武力支援をしないわけにはいかない、という理屈らしいが、守ってもらうようにしたのは彼のおじいさんの岸信介だった。サンフランシスコ講和条約に基づき、1951年に締結した安保条約が、アメリカ軍に駐留権を認めながら日本防衛の義務なく、また日本の内乱にアメリカが出動できるという不平等条約だったので、これを改めたのが60年の安保改定だった。このときはかえって対米従属が固定化するとの反対のデモで日本中が騒然となったが、当時の岸首相が衆議院で押し切り、参議院では自然承認に持ち込み、政権は総辞職した。それが今度は逆片務だという理屈だから手品のような話だ。

 そもそもアメリカは、いざというとき日本を守るために血を流すだろうか。あの国は民主主義を監視する世界の警察だと自負して、お節介にもあっちこっちに派兵しては嫌われてきたが、あれでアメリカの軍需産業がどれだけ潤ったことか。やりすぎて国の財政が手詰まりになり、お前も金を出せと言われ、ポチは湾岸戦争で1兆7千億円(当時)を拠出したが、金だけかと礼も言われなかった。で、おっとり刀で今度は人も出してご機嫌取りをする気になったのか。

 いや、首相の思惑はそう単純でもない。靖国に参拝し、特定秘密保護法案を通し、教育基本法を改めたいのだから、ポチでいいというばかりでもない。しかしアメリカは、閣議決定には好感しても、靖国には戦後レジームからの脱却とは戦前への回帰のつもりかと敏感に警戒を示した。アメリカはやはり日本をポチにしておきたい。仮に日本が、いまや経済大国にのし上がった中国といざ衝突というとき、アメリカは当然、国益優先だからポチのことなど二の次になる。

 ポチと脱却は両立しない。使い分けるならもっとしたたかなやり方をすべきだ。1兆7千億円を金だけかと言われたら、だってあんたが戦争しない国にしたんじゃないかとなぜ反論しない。それを、押し付け憲法だなどと文句を言っているから墓穴を掘る。(つづく)

幕の引き方
2014/07/09

2年前、定期健診でウエストを測ったら86センチあり、メタボの判定を受けた。ちょっとぐらいいいじゃねえか、と思っていたら、この年はなぜか保健婦が会社までやってきて、どうやってやせますか、と問いただされた。その場しのぎに、毎日30分散歩する、などといいかげんなことを言ったら、半年後に経過をお尋ねしますと言うので、4キロやせて67キロに落とした。

 面倒な散歩なんかはしなかった。食事の量を減らし、なるべくゆっくり食べ、間食をやめただけで、たいして苦労はしなかった。

その後、66キロを下回ることもあり、ベルトの穴をもうひとつ開けるほど好調だったのに、最近あっというまに71キロに戻ってしまった。たぶんタバコをやめたせいだと思う。消化器が元気になって、栄養分の吸収がよくなるからだという説があるが、私の消化器は昔からずっと元気だからそういうことではない。

 口寂しさに、あめやせんべいを食べたせいだろうと思っておしゃぶり昆布に代えたら、今度は血圧が10上がって150を超えるようになった。昆布の塩分が影響したのだろう。もともとタバコをやめたのは血圧対策だったのに。

これではなにをやっているのか分からない。健康を気にして病気になりそうだ。「どうせ死ぬなら『がん』がいい」や「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著者で医師の中村仁一は、動物は繁殖を終えたら賞味期限が切れて死ぬのが自然で、いつまでも死にたがらないのは人間だけだ、といっている。がんが発見されたら放っておくのがよく、大騒ぎして手術したり抗がん剤治療するとかえって命を縮めるのだそうだ。

そういうこともあろうが、そういうわけにもゆかない人もいるだろう。河野一郎、といって分からなければ河野洋平の父、といって分からなければ河野太郎の祖父は、「死んでたまるか」と言いながら死んだ、と当時の新聞が伝えたのをどういうわけかよく覚えている。総理大臣の有力候補だったから無念だったのだろう。この世への執着が残って、その後化けて出たという話も聞かないが。

 私の大学時代の恩師も、がんの末期に「時間がないんだよ」と直弟子に苦悩の思いを語ったという。途中まで手がけていた研究だけでも完成させたかったのだろう。

 2人のように、最後の最後まで生きようとし、燃え尽きるのと、生への執着を捨て、死を悟るのとどちらがよいのか分からない。

 私の父は88歳、母は96歳で亡くなった。ふたりともがんだったが、手術も延命治療もしなかった。高齢のためそもそもムリだったが、父の場合は「いかに生き延びるかよりいかに穏やかに死ぬかを考えるべきだ」との医師のアドバイスに従った。母の場合は、「長生きをしすぎた。人の世話にならずにコロッと逝きたい」というのが本人の願いだった。入院当初は自分でトイレに立ったが、だんだん歩けなくなり、ベッドに寝つくようになると「こうしてだんだん弱ってゆくのかな」と、冷静に判断していた。信仰心はなかったが、死を恐れることなく受け入れた。

 人の世話にならずにコロッと逝きたいのは、だれしもの望みだろう。いよいよという最終章に、尊厳を失わずに幕を下ろしたい。でも思い通りになるとは限らない。そこはどうしても譲れない、というわけでもなかろうが、自ら死を招いて決着をつける三島由紀夫のような幕の引き方もある。

落差の謎解き
2014/07/02

 Aにはかなり落差のある2つの面があった。

人に対してひどく気さくで、どこへでも顔を出し、親しくなろうとし、世話も焼いた。友人、知人の数をできるだけ増やそうとし、自分は全方位外交だからとよく人に語り、そう思われたがった。高校の同窓会で連絡委員をやり、そのつてでロータリークラブにも企業交流会にも新興宗教にも、同級生の紹介や推薦をもらって会員になった。

しかし一方で、この先つきあうこともない一過性の相手や接点のない人にはびっくりするほどマナーが悪く、いわば旅の恥は掻き捨てで平然としていた。狭い道路でクルマを斜めに止め、後続車が通り抜けに苦労してもお構いなし。間違えて他人の旅行かばんを余分にクルマに積み込んだことにあとで気がついて、捨てても分からないから相手を探すこともないと考える。バイキングで、食べもしない料理を取り分けてきて手をつけず、値段が変わるわけでなし客の勝手だろうと言う。ちょっとしたことでホテルの従業員を叱り付け、おれは客だという顔をする。

 彼の極端な2面性が一体どこから来るのか、初めのうちは私にもよく分からなかった。だがあるとき、彼がささいなことで相手を威嚇しているのを見て、ああこの人はなにか根の深い劣等感にとらわれていて、仲間に入れてもらえれば安心だが、そうでないところでは虚勢を張りながら自分を支えているのだと気がついた。

 彼は一度、自分が経営する会社を倒産させたことがある。父が始めた金物商を引き継ぎ、経営不振に陥り、もう閉めようと父に言われて踏み切れず、タイミングを失った。その後しばらくどうしていたのか私に語ったことはない。ずっとあとになって、私が彼とつきあい始めたころには外構工事の会社をやって再デビューしていた。ただ、金融機関のブラックリストにまだ残っているのか、金が引き落とせないときがあるとか、裏金を用意してやりくりつけるとか、後ろ暗い話をちらりと漏らすこともあった。

 落伍者の復活を世間が認めてくれるのか。一番近づきやすいのは社会に出る前の縁故、つまり同窓生だった。彼は同窓生を大事にし、だれそれの消息に詳しい事情通をアピールし、少し褒められたり認められたりすると、ことのほかうれしそうにした。さらにそこから認めてくれる人を増やしたいと、ロータリークラブにも新興宗教にも首を突っ込んだが、長くは続かなかった。入会の目的が違うし、褒めてくれそうもない。それどころかちょっと軽んじられると過敏に反応して、馬鹿にされたと落ち込んでしまう。うつになることもあって、威嚇の挙に出るのは自衛本能のなせるわざだろう。

 人にどう思われているだろうかとか、どう思われたいとかをひどく気にする人がいるが、自分が気にするほど、人は自分を気にしているわけではない。自分を見る人の目をチェックするより、人を仔細に観察する方がよほどおもしろいし、その方が自分のチェックにもなる。人の振り見てわが振り直せと言うではないか。

父の日の衝撃
2014/06/25

 「きょうは父の日なのに、家族のだれも気がつかなかった。一応言っときます」と、東京にいる娘にメールを送ったら、すぐに電話がかかってきた。「いま、電話しようと思ってたところだった」。見え透いたことを言うやつだ。でも返事が来るだけマシだ。娘なら返事ぐらいくるだろうと思ってメールの相手に選んだ。

 長男は数年前、ポロシャツを送ってきたことがあった。ポロシャツより甚平がいいと言ってからなにも送ってこない。3男は2、3日前、自分たちの結婚記念日だからと孫をうちに預けてすし屋に出かけたばかりだった。この記念日はしっかりと毎年の恒例行事にするつもりらしいのに。

 それぞれ家庭を持てばそっちが中心になるのはやむをえないとしても、どうも親は無条件で子どものことを気にかけるもので、子どもが親を気にかけるのは気が向いたときだと思っているようだ。

 「でもお父さんは、父の日を気にするような人じゃなかったのにね」と娘が言った。なかなか鋭いところを突く。私は誕生日、結婚記念日、還暦祝い、宮参り、七五三、桃の節句、端午の節句、厄年のたぐいを一切気にしない。なんの努力もせず、放っておいても必ず来るものが、なんでめでたい、どこが気になる。初詣も以前はしなかったが、東日本大震災や南海トラフ報道からまじめにやるようになった。あんなものは結局のところ神頼み以外やりようがない。

 だから父の日なんぞは「ケッ」と笑っておしまいだった。もともと母の日に比べて影の薄い記念日だが、近頃はデパートもスーパーもレストランもそれ用のプレゼントやメニューを用意して、子どもをあおる。で、思いつきでプレゼントをもらったことのある父親が、その日あおられただけでなにごともなく終わればどんなことになるか。

 子どもたちが小さかったころがなつかしい。思えばあのころが黄金時代だった。疑念も雑念もなくまっしぐらに働いた。子どもたちのため、それが生きがいであり、誇りでもあった。妻も一心同体で結束していた。

 たかだか父の日のプレゼントで、家族はここまで色あせるものか。諸行無常だねえ。

君子危うきに
2014/06/18

 禁煙外来に通ってタバコを止めて3カ月半になる。

 止めることはそう大変ではない。病院でくれるチャンピックスという薬がニコチンの代わりをするので、喫煙しなくても平気の状態になる。ニコチン補給しなくてもニコチン切れにならないのは不思議だが、脳の中のニコチン受容体というところが、薬の成分をニコチンだとだまされて満足するらしい。最初の1週間で徐々に本数を減らし、その後11週間禁煙ができれば依存症から抜け出せたと判断し、めでたく“卒業”になる。

 私が禁煙外来で禁煙したのは実は2度目で、1度目も成績優秀で卒業したのだが、喫わなくても平気、喫っても平気の状態にしようと、数日に1本喫っていた。禁煙というのは言葉からしていかにも息苦しい。ただでさえ楽しみの少ない人生なのに、みずからひとつ楽しみを捨てるのはいかがなものか。要するに依存症にならなければよいわけで、と思っていたのだが、数カ月してあっと驚く大事件が起きてストレスの塊を抱え込み、ひとたまりもなく1日40本に戻った。

 しかし、依存症の理屈はすでに学習している。イライラしたときタバコを喫うと気分が収まるというのは大いなる誤解で、タバコを喫うからそれが原因で、ニコチンが切れたときにイライラが起きる。その証拠に、1日のうち一番気分がリラックスしているはずの朝の寝起きに、まず1本喫いたくなる。

 大事件はその後も解決には至っていないが、ここはめげずに再挑戦と思ったが、最初の受診から1年空けないと保険扱いにならないと分かり、今年2月まで待つことにした。待っている間に肺がんになったらどうしてくれるんだと思ったが、文句はいえない。

 曲折あって今度も止めるには止められたが、どうしてもまだ喫いたい気持ちが残る。喫煙が常習になるのには、依存症と生活習慣の2つの面があると言われたが、今の私の場合、別に喫わないとイライラして苦しいわけでもないし、口になにかくわえないと物寂しい習慣は、おしゃぶり昆布と禁煙パイポでカバーしている。では何でだろうと思い巡らせて行き着いたのが、リラックスの演出だった。

 そもそもタバコなんてそううまいものではない。飛行機で長時間がまんし、空港に着いて喫煙コーナーに駆け込み、やっと喫えると肺の奥深く吸い込んでも、期待したほどうまかったことはない。喫い始めるきっかけは、ほとんどの人が“格好”ではなかったか。

 仕事でひと区切りついたとき、山荘のデッキで景色を眺めながらいすに腰を下ろしたとき、ほっとひと息ついてタバコに火を点け、煙を吐く。くつろぐ気持ちを全身で感じ、全身で表すのにタバコほどぴったりなものはない。禁煙努力中は酒の席やコーヒーをなるべく避けるようにというのも、くつろぎの道具立てが揃うからだろう。

 君子危うきに近寄らず。つべこべ言わずにぴしゃりと断ち切るに越したことはない。うっかり通用口を残しておくと、病院で「だめねえ、また来たの」と言われかねない。充分承知していて、でも月に1度ぐらいはしみじみとオフの気分を味わいたい。インディアンも厄介なものを広めさせたものだ。