週刊コラムニスト(過去ログ2015年)

消極的平和主義の夫婦仲
2015/12/26

 親の代から本屋を営んできたA君が、数年前に店じまいした。子どもが2人いたが、書店の業界は大型店が資本力で圧倒し、個人商店に将来がなく、継ぐ者はいなかった。

店を閉めるに当たって、その後の夫婦の時間の持ち方をよく話し合ったという。長年、ふたりで店を守ってきたため、旅行にも行けないと言っていたから、さぞかしあっちへ行こう、こっちも行こうという計画かと思ったら、もっと堅実な日常生活の過ごし方だった。

 朝食の後、健康のためふたりで1時間ほど近所を散歩をする。食事は奥さんが作るが、洗い物は彼が引き受けて家事を分担する。午後は、それぞれのプライベートタイムに当てる。彼は読書、奥さんはテレビで「相棒」シリーズを見たりして過ごす。夜は、ふたりの会話の時間をきちんと取って、その日のできごと、世相のこと、将来のことを、お茶を飲みながらなんであれとりとめもなく語り合う。

 いやはや仲のよい夫婦だ。ふたりで店をやりくりし、さまざま乗り越えて子どもを育て上げ、共に老境を迎えたパートナーという思いを、互いに強く残しているのだろう。子どもが独立すると、再び向かい合う夫婦とそれぞれ勝手に自由行動というパターンに分かれるそうだが、こんな支え合う夫婦の鑑のような老後もあるのだ。

 そこへ行くとウチなどは大違いで、会話を交わしているとすぐにけんかになるので、なるべく余計なことを言わないのがなによりの安全策になっている。なにげない意見、感想を言ったら、そうだね、といいかげんな相槌を打っておけば平和なのに、なぜいちいち私はそうは思わないとか、そんなことはないよ、などと言いたがるのか分からない。言われてこっちも聞き流せばいいのに、ああこれだけ人生観が違うと、これから先とても一緒にはやってゆけないとの確信を新たにする。相手も同じことを思うようだ。

 そこでまず、人生観の違う人に意見や感想を言って、共感を得ようなどという幻想はゆめゆめ持たないのがよいと悟る。相手から話しかけてきたときは、よく聞き取れなければわざわざ聞き返さない。返事をしないのは聞こえなかったか特に意見がないからで、無視や否定ではないので、なまじ意見を交わすより状況はずっとよい。歳を取るとだんだん耳が遠くなるのは、天がそうした配慮をしているからではないかと思う。

 もうひとつとても大事なことは、ささいな生活の仕方の違いは、幼少期から身についた育ち方の違いで、今さらどうにもならないから、目をつぶってあきらめるしか解決の道がない。たとえば、玄関灯は防犯上夜通し点けておくのがよいか、死角の位置の玄関灯に防犯の意味がないから消して寝るか、といったことは、どちらに理があるかなどと争わないで、後から寝る方の選択に従えばよい。点けたり消したり毎日方針が変わっても、平和維持の方がずっと大事なのだ。

とはいいながら、これで子ども4人のうち2人に孫3人、年が明けると5人に増え、残り2人の子どもにも近ごろそれらしき相手がいるようで、いずれ孫10人、それぞれ引き連れて正月に集合なんてなれば、ハタから見て、この少子化の時代になんの不足、不満があろうかという一族の繁栄に映る。

 内情はともあれ、世の中はまあそんなものだ。

裏目に出る
2015/12/18

 潰瘍性大腸炎の発症で、医者に酒を止められる一大事が起きたが、それよりももっと大問題が持ち上がった。

 投薬を始めて3週間が過ぎたころから、だんだん体がだるく、倦怠感が広がり始めた。

朝、目が覚めても起きる気にならない。冬至に向かって夜明けは遅いし寒いせいかと思ったが、そうではない。以前なら夜が明けるまで待てずに、6時でも5時でも身支度を始めた。4時だとさすがに大人しくしていたが、きょうはあの件をどうするかとか、この件を片付けて、どれそれを申し送って、と1日のチェックポイントとスケジュール立てをした。この時間によいアイデアが出たり、忘れたままにしていた重要案件を思い出したりした。

 さて、寝床でいつまでもぐずぐずしていると遅刻するので、やっと起き、のろのろと支度をして朝食だが、大して食欲もない。朝刊をゆっくり読む時間もなく車で出社して、到着するとその場でほっとひと息つく。すぐに下車する気にならない。

 部屋に入り席に着くが、坐ったまま何もする気にならない。片付けなければならない書類があるのに、まったく気持ちが向かわない。そのままいつまでもじっとしている。これはえらいことになった。

 最低限の処理をして早退するが、早く家に帰ったところで、することがないのは変わりない。こんな気持ちになったことがない。これはひょっとしてうつ病なのか。

 見かねた次男が「薬の副作用ではないか」と言い出した。この病気は原因も治療法も不明な点が多く、保健所に特定医療申請のできる、いわば難病になっている。薬名を検索すると「倦怠感」や「だるさ」がヒットした。病気は一向に改善しないのに、副作用ばかり効いても困る。

飲むのをやめたらひどい状態からはすぐに回復した。3日後に担当医に相談し、薬を変えてようすを見ることにした。変えた薬も要注意のようだ。

 次男は、セカンドオピニオンを求めて医者を変えたらと言うが、難病なら医者のハシゴを急ぐのもよくない。会社が新5カ年計画策定の詰めの時期に入っているから、ここはなんとか乗り切らなければならない。

 薬効も裏目に出ると恐ろしいものだ。

酒の飲めない1カ月
2015/12/14

 18の時から酒を飲み始めて、20代の後半からはほとんど毎晩飲むようになった。

 冬は日本酒の熱燗、夏は冷酒も飲むが、焼酎の水割りが多い。これが基本で、料理によってはワイン、紹興酒、のどが渇いたらビール、飛行機に乗ってサッサと寝てしまいたいときはジンやウオッカの入った強いカクテル。

 そういう生活を何十年も続けてきて、突然酒をやめたらどうなるか。潰瘍性大腸炎で医者に酒を止められてから1カ月になる。

 飯があっという間に終わる。酒があればちびちびやりながら、珍味をつまむから30分はかかる。宴会なら2時間もつ。飯をむしゃむしゃ食うだけなら、情けないことに10分もいらない。車がエネルギー補給のためにガソリンスタンドに寄るようなものだから、別に楽しむ時間ではない。

 酒肴とはよく言ったものだ。肴は酒を楽しむためのものであり、酒で楽しむものでもある。酒の代わりにウーロン茶、ましてコーラやジンジャエールというわけにはゆかないのだ。

 酒が入れば気分がほぐれ、ほろ酔い加減で疲れも取れるが、コーラやジンジャエールではいくら飲んでもゲップしか出ない。

 世界中どこへ行っても、その土地その土地の食材を発酵させて酒が発明されてきた。イスラム世界では飲酒を戒めているが、その魔力をよく心得て人の道を外さないためだ。仏教にも同様に不飲酒戒がある。

 こんなすごい世界を知らない下戸の人たちは、お気の毒なような気もするが、お預けを食らっても痛くもかゆくもないとてもうらやましい人でもある。

近ごろの新聞
2015/12/05

 電車に乗ると、乗客の半数以上がスマホやケータイを見ている。メールやゲームや調べ物の検索、と用途は多様で便利だが、朝の通勤電車で新聞を読む人をほとんど見かけなくなった。

 ぎっしり満員の車内でほんの少しの隙間を見つけ、新聞を小さく畳んで読むのが、昔のサラリーマンのごく当たり前の姿だった。読むのは圧倒的に日経新聞。出社すると、その朝の記事をひとつ選んで説明させる会社もあった。

 新聞を読まない人はどこからニュースを取り込んでいるのだろう。テレビは速報性で新聞に大きく優り、おまけに映像付きで感覚的には捕えやすい。だから話題や情報として仕入れるには充分だが、できごとの表面を追うのが主で、問題を掘り下げたり、そのための材料を揃えるところまではなかなか難しい。画面を見るのと紙面を読むのとには、本質的な違いがあり、向き不向きが生まれるのはやむをえないところだ。

 新聞は、自らの強みをよく分かっているはずだが、近ごろの夕刊には掘り下げ意欲がまるで感じられない。ニュースをちょろりと出して、あとは新鮮味のないいつでも使える記事で紙面を埋める。しかもそのちょろりニュースは、翌日の朝刊に本格的に再掲載される。

 速報性と映像で負ける夕刊は、午後6時、7時、9時、10時、11時と、テレビ各局の連続攻撃に晒され、すっかり戦意をなくしたようだ。これでは朝刊だけでいいという家庭が増えても自業自得だが、その結果、夕刊づくりにますますやる気をなくす。

 その反動か、朝刊には各社に力が入る。全国紙はもともと、毎日、朝日がリベラル、読売、サンケイが保守だったが、政府の記者会見の記事は配布されるプレスリリースの丸写しで、どこも似たり寄ったりで変わり映えがしない、と批判されたこともある。あの頃に比べると、各紙の論調や記事の扱い方にはかなりの違いが出る。

 さてそこで、論調は世論を反映しているのか、それとも世論を操作しているのか。かなり微妙な話だ。各社がそれぞれ主張を備えて報道するのは悪くないが、読む側も自分の視点や基本軸をもって読まないと、ただの受け売りをして自分の意見のつもりになる。世の中は結構いい加減にできていて、それでたいてい通る。

 本当は、色合いの違う併読紙を取って、いつも読み比べるとよいのだが、それがなかなか難しい。自分の感覚と違う論調を読むと、朝から気分が悪い。野球で分かりやすく言うと、中日ファンが報知新聞を読み、巨人ファンが中日スポーツを読むようなものだ。

 配達を頼むまでもなく、図書館で閲覧するのも面倒なら、せめて安保法制案通過や辺野古移転工事差し止め請求の翌日には、ファミレスや喫茶店で朝食を取るとよい。数紙がどっさり置いてある店がある。

入院生活 2
2015/11/29

 私がこんなことを夢想するのは、病院が娑婆の日常とあまりにかけ離れていて、娑婆での非日常が院内のありふれた風景になっているからだ。

 たしか昨日だれかが寝ていたベッドが、今朝はきれいに片付けられていて空っぽになっている。めでたく退院できたのか、それとも手当ての甲斐なくご臨終なのか。病院はそういう思いが自然によぎる所だ。ここでは人の死は特別なできごとではない。銀行員が1億、10億の札束を勘定して目がくらまないように、医者や看護師は毎日人の死を日常のできごととして見慣れている。

 それでいて、医療はどんどん高度化しているから、その恩恵で命はかなりの程度引き延ばせるようになった。私が子どものころ「村の渡しの船頭さんは、ことし60のおじいさん」という歌があった。「60のおじいさん」に違和感がなかったが、いまや日本人の平均寿命は男が80.5歳、女が86,8歳、100歳以上の人が6万人近くいる。考えてみると、これはかなり異常な数字ではないか。そのうち還暦を2度迎える人が現れるだろう。

 「闘病」という、病に正面から闘いを挑む言葉がある。さあ、あの手この手の医療がこれだけ揃っているのだから、あとは本人の気持ちしだい、精いっぱいがんばらないと、と本人が思うのか、周囲や医者が励ますのか。しかし、気力充実して運動会に出るのとはわけが違う。心身ともに大きなハンディを負いながら病と闘うなんて、いかにも辛く、苦しい。

 生をすべての前提条件と考えれば疑問もわかないが、そんなにまでして死に抵抗しなければならない理由は何か。いま死んだら、幼い子どもが残される、会社の機能がストップする、ライフワークが未完で終わる、だから死ぬわけには行かないんだ――それぞれに事情はあろう。人間はなかなか執着を捨てられない。

 いくら切実な事情があろうと、人にはそれぞれ持って生まれた寿命がある。それをなんとか引き延ばそうと壮絶な闘いをさせるのはどこか間違っていないか。臨終を迎えた途端に「もうがんばらなくていいのです。ゆっくりとお休みください」なんて弔辞をぬけぬけと言える気が知れない。終点が見えたら、元気が残っているうちに外泊許可をもらって、心置きなくクルーズにでも乗り込むのがよい。

 私の今回のケースでは、入院前から出血が続き異常が感じられたので、ひょっとしたらガンが進行し、もう手遅れかもと思った。まだ5、6年は死ぬわけにはゆかないと決めていたが、それが寿命ならしかたない、言い訳が立つ。そう思ったらなんだか気がラクになった。未練がましくじたばた闘病なんかしていたら死にそびれる、と構えていたら、ガンではなく潰瘍性大腸炎で、朝夕にほおばるほどの薬を渡された。

 おまけに酒も医者に止められた。ずっと飲めないかもしれない。うーむ、せっかく娑婆に戻ったのに。(おわり)

入院生活 1
2015/11/25

 ふだん病院には縁のない生活をしていると、年1回の定期健診を受けたぐらいで調子が狂ってしまう。朝食抜きの腹ペコで検尿、検便、レントゲン、採血、心電図などと引き回され、仕上げにバリウムを飲まされてあっち向け、こっち向けといじくられる。全部終わって遅めの朝食にありつくと、ほっとして生き返った心地になるが、そのあと白いウンコを絞り出すのにまたひと苦労する。健診を受けると病気になりそうだ。

 たかだか2時間の健診でこのありさまだから、入院ともなると刑務所に入れられたような気持ちになる。個室なら独房、4人部屋なら雑居房。どちらにせよ退屈でやることがない。長期入院患者が雑居房の牢名主になってにらみを利かすのであれば、それを眺めるのも暇つぶしになるが、そういうわけでもない。病気療養中では古参患者といえどもそんな元気は出ないのだろう。

 実は私、昨年の健診で大腸ポリープが見つかり、1年後に切除することになっていた。そこで朝食を抜いて入院し、ひたすら下剤を飲んで腸内を洗浄し、昼飯も抜いて刑の執行を待つことになった。じっとしていても時間を持てあますので、院内の各階をぶらぶら散歩してみる。

 点滴スタンドを引きずりながら歩く人と廊下ですれ違う。チューブでつながれて動くのはさぞかしうっとうしいに違いない。でも命が大事だからわがままを言う人はいない。

 よその病室のドアが開いていて、中が見える。スマホでゲームに興じている爺さんは、元気なほうだろう。何回通りかかっても口を開けてベッドに寝たままの婆さんがいる。眠っているのか、ひょっとして死にかけているのか。

 私は1泊で退院だが、数週間、数カ月の病院暮らしともなれば、さぞかし気が滅入ってくるだろう。入院が好きな人もいないだろうが、病院も治療すればよしではなく、患者のメンタル面にも配慮して、もう少しなんとか明るくウキウキできないものか。

 たとえば豪華客船の地中海クルーズなら、洋上でプカプカ浮いているだけでは飽きるから、ショーやコンサート、ダンスパーティなどエンターテイメントを数々用意して、寄港地と寄港地の間を埋める。食事はフランス料理のフルコース、ティータイムには気の利いたお菓子付き。ご参加はタキシード、イブニングドレスで、なんてドレスコードが付くイベントもある。

 これと同じようにはとてもむりでも、パジャマやジャージー姿で、無精ひげ、サンダル履きで点滴スタンドずるずるでは、気分もシャンとしない。プラスチック容器に、低カロリー、薄味の食事もうまかろうはずがない。

 楽しい入院生活を売り物にする病院があったら、きっと人気が出ると思うのだが。(つづく)

女の仕事場 3
2015/11/21

 業界の親睦旅行は、朝、観光バスに乗るとすぐに缶ビールとおつまみの詰め合わせが配られ、あっちこっち見物しながら夕方宿に着いて、まず温泉。風呂から上がって宴会。そこへコンパニオンが登場する。

 コンパニオンにも2種類あって、都心のホテルでナニナニ祝賀会の立食パーティーだと、髪を結い上げ、ドレスを着ておめかしした一団になるが、温泉宿の宴会では、お揃いのブレザーにスカートの仕立てで化粧も普通の事務員風。立食用のコンパニオンは、アルコールや取り皿に取った料理を運んだり下げたりするだけだが、温泉宿では目の前の膳に料理が並んでいるから、膳を挟んで向かい合い、話し相手になる。

 話し相手といっても、別に話芸に長けているわけでもないので、いてもいなくてもよいようなものだが、いないと宴会が2時間で終わったあと、8時からやることがなく、部屋に戻って早々と寝るしかない。コンパニオンがいれば、カラオケルームに引き連れて2次会になる。

 昼間は会社の事務員をしていて、コンパニオンは週に数回、夜のアルバイトというのが多い。昼夜働くからにはそれぞれ事情や目的がある。

 先日、山代温泉に出かけたときは、われわれ7人に相手は4人。小規模だから席を移して膳の前に来るたびに、退屈しのぎに探りを入れると、自分から身の上話を始めた。

 28歳のA子は、3歳と5歳のシングルマザー。コンパニオンの仕事の時は両親に子どもを預けて来る。亭主がカネにルーズで、生活費をパチンコに使ってしまうので別れた。結婚はこりごり。今は余裕がないが、子どもと初の海外旅行に行くのが夢だという。「どこに行きたいかって? 別にどこでもいいの」

 B子は24歳。優しかった男が、同棲を始めたら豹変し、暴力を振るうようになって逃げたがストーカーになり、やっとの思いで振り切った。彼女も男はこりごり。まあそう思った方が無難だろう。男運が悪いのか、男を見る目がないのか。いまは自営の仕事を立ち上げようと、昼も夜も休まず働いて元手づくりの最中だとか。

 C子も24歳で、近々オーストラリアに行く。あっちに好きな人がいて2年暮らしてみるが、結婚するかどうかなりゆくまかせ。「別れたら日本に帰ってくる」 まあ、そのぐらい冷静だと修羅場にならない。

 いろいろな仕事場にそれぞれの人生がある。(おわり)

女の仕事場 2
2015/11/17

 会社の並びにあった紡績工場の跡地に、大型のスーパーマーケットが建ってから、片道1車線の道路がにわかに込み合うようになった。併設の3階建て駐車場手前の歩道を行き交う歩行者、歩行者の通過を待つ買い物客の車、その車の出入りに遮られて停車する後続車。そうした人や車の動きをガードマンが誘導する。

 何人かでシフトを組んで交代制を取っているようだが、男たちに混じって年配の女性が1人いる。歳は60を過ぎているか。かなり小柄で140センチ台の前半だろう。着ている制服も制帽もだぶつき加減で、それだけでも目立つが、動作が実にキビキビしていて、通りがかりの車の中からつい見とれてしまう。

 動作が大きいのは、自分が小柄なので意識的にそうしているのだろうか。背をそらし、胸の高さで誘導灯を横にして両手で支え、車の進入を止める。あるいは腕を大きく振って前進させ、待機させた後続車には深く、深く頭を下げる。

 通行止めや1車線の交互通行の規制に比べ、この現場には複雑な判断が必要だが、手馴れているからキャリアのあるベテランなのだろう。仕事を楽しんでいるようにも見えるが、夏の炎天下、冬の寒風吹きさらしの中でも休めないから、かなりきつい仕事のはずだ。日焼けした顔が、生活がかかっていることを物語っている。

 彼女について私に分かるのはそこまでだ。どんな生活なのか想像はつかない。車窓越しに眺めるだけの関係なのに、なぜだか気になるのは、彼女の姿がとても一生懸命だからだろう。「がんばってるね」と声をかけたくなる。(つづく)

 
女の仕事場 1
2015/11/13

 私の家の前のバス通りの坂道をだらだら下ってしばらく行くと川に出る。橋を渡った交差点の左側に、イタリア国旗をぶら下げたパスタの店がある。

 スパゲッティのほかにもピザやリゾットが少々あるが、イタリア料理店というほどではない。15人も入れば満員のごくありふれた作りの店だが、値段はちょっと高い。ファミレスの倍を取っても、味で差がつけば客は来る。トマトソースに使うトマトはイタリア産だと聞いた。

 この店が印象深いのは、店と味、値段のつりあいの悪さだけではない。老夫婦2人で切り盛りの店なら、おやじは厨房で黙々とフライパンを振るい、妻が愛想よく客席に皿を運ぶと相場が決まっているのだが、ここは逆だ。エプロンをかけたおやじが、親しげに話しかけてきて、ちょっとうるさいときもある。通い客にしたいのだろう。厨房のばあさんは対照的にニコリともしない。何回来ても声を聞いたことがない。

 夫婦もいろいろだから、世の中にはこういう取り合わせがあって不思議はない、と自問自答してみる。

 この店にしばらく足が遠のいていて、久しぶりに訪ねてみると、老夫婦が若夫婦に代わっていた。どうしたのと聞いたら、ちょっと旅行にと言うから、臨時に代役かと思った。味も変わらない。夫婦2代でそれぞれパスタの店か。若夫婦は旦那が厨房で、奥さんは店番だが、おやじほど取り付いては来ない。

 次に行ったときは、若夫婦におやじの取り合わせ。奥さんは体を壊して辞めたらしい。その次のときはまた若夫婦だけ。おやじも奥さんにつられて遊びたくなったのかなと思ったら、あのダンマリばあさんは、よく間違えられるけど奥さんではなく、雇い人だったと始めて知った。

 愛想なしでも味で客を呼ぶという料理人のプライドだったのか、笑顔を振りまく分まで給料に入っていないという雇われ人の解釈なのか。たぶんどちらでもなく、彼女は単純に愛想笑いが苦手なだけだったのだろう。それをいろいろと詮索したくなるぼど、見事な無愛想ぶりで、もう見られないかと思うと、なんだか寂しい気もする。(つづく)

鳥のように空を飛ぶ
2015/11/08

 人間が鳥のように大空を自由に飛べたら、というのがダ・ビンチの生涯の夢だったそうだ。「鳥の飛翔に関する手稿」に今のハンググライダーのような概念図も残している。1505年ごろのことだ。

 ライト兄弟が有人動力飛行に初めて成功したのは1903年。1回目に記録したのは12秒、36.5メートル。4回目でやっと59秒、260メートル。このときの観客は5人だった。それが1927年にはリンドバーグがニューヨーク―パリ間の単独無着陸飛行に成功している。飛行機の驚くほど急速な進歩には、第1次大戦で兵器、つまり戦闘機として開発されたことが大きく影響している。

 しかし、この「鳥のように」の思いは、世界中で毎日飛行機が飛び交うようになった今も、人々の心を捉えて離さない。英語の仮定法過去(現在の事実に反する願望表現)の例題として使われるのが「もし鳥だったら、空を飛べるのに」で昔も今も変わらない。中学で最初に習う英文「これはペンです」に比べ、なんと現実感の高い用例だろう。赤い鳥の「翼をください」や五輪真弓の「時の流れに〜鳥になれ〜」、中島みゆきの「この空を飛べたら」のように、歌詞にもこの願望がよく登場する。

 憧れは、鳥と同じ飛び方であって、パイロットに運んでもらう飛行機ではダメなのだ。自分で弾みをつけて地面を蹴り、空中に飛び出し、羽を広げて羽ばたき、気流を捉えて滑空し、はるか遠くまで俯瞰する。自分をさえぎったり制約するものは何もなく、完璧な自由を手に入れる。ハンググライダーはそれに近いが、自力では羽ばたけない。

 飛行機に乗ると、会ったこともないパイロットの腕1本に運命を託すしかなく、運が悪けりゃ墜落するのではという思いがどうしても残る。頭のどこかで信用できない。

 事故率の高いのが、離陸時の3分と着陸前の8分で、魔の11分と呼ばれる。今は操縦もかなり自動化されていて、安全性は高くなっているのだろうが、海外向けの団体旅行がはやりだしたころは、無事着陸すると、期せずして客席から拍手が巻き起こるなんてことが、実際にあった。

 社員旅行では、せめて全滅しないようにと、2班に分けて別々のフライトを使う配慮が、今でもよくされる。しかし考えてみると、たしかに全滅防止にはなるが、フライトが2重になるので墜落する確率も2倍に上げることになる。

 人のことは笑えない。私自身も、ひょっとしてという事態が頭をよぎるので、搭乗前夜はよくすし屋に行った。墜落の土壇場で、食っておけばよかったと後悔しないためだ。

 私は臆病なので、鳥に近づきたいとハンググライダーにぶら下がったり、魚に近づきたいとスクーバダイビングで潜ったりする気はさらさらない。

 欲を出してはいけない。仮定法過去はお互い様だ。人間を見て、蛇は自分が二足歩行できたら地を這わなくでもすむのに、犬は手が使えたらもっと行儀よく食事ができるのに、鳥はうんちとおしっこを別々にできたら気持ちよかろうに、魚は1日中陸に上がって平気なのかい、と羨ましいに違いない。

グルメ番組に足りないもの
2015/11/02

 テレビが視聴者に伝えられるのは、色付き動画と音声で、音声だけのラジオに比べると、その場に居合わせるかのごとき臨場感は、数段優れている。しかし、匂いと味はどうにもならない。その弱点をさらけ出すと分かっていながら、相変わらずさかんなのがグルメ番組だ。

 弱点をなんとかカバーしようとして食レポなるものを使う。つまり、番組の進行役に食べさせて、食べた感じを表現させるのだか、まず成功しない。

 食べる前から褒めると分かっている。そして予定通り褒める。テレビの本領は意外性、ハプニング性にあるのに、これを制作側がわざわざ殺してしまう。NHKのアナウンサーが台本どおりの冗談を言ったときと同じように白ける。

 それでもレポーターとしては、ただ「うまい」や「おいしい」では芸にならないので、並々ならぬ努力で役目を果たそうとする。「外はサクサク、中はジューシー、この絶妙の食感がたまりません」「うん、これはすごい、口の中いっぱいに、食材本来の甘みがパーッと広がって、しかも独特の香りがさらに素材を引き立てていて、参りました」

 いくら言葉を並べ立てても、見ているほうは共感できるわけもなく、言えば言うほどウソっぽい。しまいに「勝手に言ってろ」という気になる。なんだか安倍普三の説明とよく似ている。

 こういう場合、あれこれ言おうとしないほうがよい。それで成功しているのが石塚英彦だ。太った体に満面の笑みを浮かべ「まいうー」と言うだけだが、さんざん考えた挙句の定番リアクションだろう。

 もし、匂いだけでも伝えられたら、状況は大きく変わるはずだ。人間の嗅覚は犬に比べたら100万分の1以下だそうだが、うなぎの蒲焼きやカレーライスが、匂いだけで食欲を掻き立てることを思えば、決してあなどれない存在だ。ワインのテイスティングでもまず、香りを確かめる。

 といっても匂いはむりなので、せめて音声をもっとうまく使えばよいのにと思う。第2次大戦だか朝鮮戦争の昔、米軍の前線基地に人気俳優が慰問に訪れ、流した音声がある。厚切りのステーキを熱く焼けた鉄板の上に置いた瞬間、弾けるようにジューッと立ち上がる音、音を聞くだけなのにわっと歓声を上げる大勢のGIたち、そういうニュース映像が残っている。あのときの俳優はボブ・ホープだったか。

命を後ろから見る
2015/10/26

 たばこをやめて半年になる。つらいけど我慢するという状態にはなく、どうやら依存症からは抜け出せたようだ。久しぶりにちょっとくゆらせて、くつろいだ気分に浸りたいと思うことがあり、実際にだれかに1本もらって火をつけてみても、ああうまいというより、異物がのどにひっかかって、こんなんだったっけと意外な感じになる。

 「ウイスキーなんてどこがうまいんだろうね。あんなもの酔っぱらえるのでなければ飲むやついないだろう」という男がいた。好き嫌いは人の好みだが、気持ちはよく分かる。酔うために飲むのと同じ理屈で、ニコチン切れを抑えるためでなければ、喫煙者はぐんと減るだろう。

 依存症から“更生”できたとなれば、たかが嗜好品にムキになることもないので、死ぬまで近寄らないなんて決意を固める必要もない。1本吸ったら元のモクアミという人もいるが、うまくもないのを確かめながら吸えば、1本でスイッチが入るわけではない。そのぐらいの気持ちでいた方が、吸いたい、吸いたいと思いながら我慢するよりよい。

 私がこんなにラクな気持ちになったのは、困ったことにそもそもの禁煙の動機がなくなってきたからだ。自分にはまだまだ使命が残っていて、気を抜くわけにはゆかない、健康維持に気をつけるのも仕事のうちで、たばこなんぞを吸っている場合ではない、と毎年春になると12週間の禁煙外来に通い、成功せず、3年目にしてやっとここまでこぎつけたのだが。

 家庭を背負い、家族を心の支えに、うまずたゆまず長い道のりを歩いて来たつもりでいるのは自分ばかりで、妻子は数年前からあっちこっちに勝手放題だし、人はそれぞれそれなりに社会との関わりや役割を担い、なんてことを真面目に考えていると世間とズレてすっかり浮いてしまう、ということに最近気がついた。

 そうかといってすっかり宗旨替えをして、遊び呆けてみたら楽しかろうとも思えない。これから先、どういう生き方をすれば充実し、快適かと頭をひねってなかなか思い当たらないところへ、老化が徐々に忍び寄る。毎朝血圧を測って記録し、4週間ごとに医者に薬をもらいに行くなんて面倒くさいことを、いつまで続けなきゃならんのか。秋の定期健診を受けたら大腸ポリープが成長しているようで、もしかしたらすでに立派ながんということもありうる。

 健康に細心の注意を払い、医療の手を尽くしながらできるだけ長生きすることが、尊く幸せなことなのだろうか。命を延ばすことを疑問の余地のない自明の是とするよりも、どう死ぬかを突き詰める方が、限りある命の意味を自然に導き出せるように思う。

秋には秋の空
2015/10/19

 小学生のころ「天高く馬肥ゆる秋」という言葉が不思議だった。

「天高く」は分かる。秋特有の、澄み切って抜けるような青空を「天高く」と言った。なかなかうまい表現だ。しかし、天が高いとなぜ馬が肥えるのか。よく分からないまま使っていた。

 こういうことは子供のころよくある。「赤いくつ履いてた女の子」の歌の続きで「異人さんに連れられて行っちゃった」を、なんでいきなり「ひいじいさん」が連れてゆくのか、人には言えない複雑な家庭の事情があるのだろうか、と思いながら口ずさんでいた。「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」の歌は、屋根を飛ばして壊して消えるのだから、これは大変な台風が来たにちがいない。それにしてはシャボン玉なんかでのんびり遊んでいるのはどうしたことか。

 もっともおとなになってもそんな錯誤はないわけではなく、中島みゆきの「まわる、まわるよ、時代はまわる」が、4時台が回るとはどういう意味か、最近まで理解不能だった。

 さて「馬肥ゆる」だが、秋だから天が高く、秋だから馬が肥えると言いたいだけで、天が高いことと馬が肥えることとは相関関係にはない。まあ要するに馬にとっても食欲の秋と言いたいのだろう。ということは、馬も暑さに負けて夏痩せするんだろうか。

 酷暑や集中豪雨の異常気象続きだが、秋には昔と変わらずすっきりと秋晴れになるのはうれしいことだ。小学校の運動会では「きょう、秋晴れの運動会。力の限り戦わん」と歌った。秋は運動会の季節であり、体育の日も、1964年の東京オリンピックの開会式が10月10日だったのに因んで制定された。この日を開会式に決めたのは、過去にさかのぼって調べてみても雨天が極めて少なかったからだそうだ。

 気候的には春でもよさそうだが、春は春がすみ、花ぐもりのぼんやりした季節で「天高く」というわけにはゆかない。それに厳しい寒さがようやく終わって春眠暁を覚えず、熊や蛇なら冬眠から覚めたばかりで、「力の限り戦わん」という気分にもなれない。

 春のサクラには春の空、秋のモミジには秋の空がよく似合う。似合うと思うのは見慣れているせいだが、見慣れたとおりに季節がやってくるのはありがたいことだ。ただ、昔あれほどいた赤とんぼを見るのは、めっきり減った。

 そこで錯誤をもうひとつ。「夕やけ小やけの赤とんぼ」に「追われてみた」だなんて、いくらなんでも追いかけられるほどの大群は大げさだろうと思っていたが、(母親の背に)負われて見た、という意味だった。

心ならずもか、求められるままにか
2015/10/14

 新聞社主催の定期講演会や経済界の会合に出ると、それでなくても加齢臭充満の会場に、ひときわ目立つ長老風クラスが1人、2人、姿を現わす。

席に着くのに、杖をつきながら、ちょぼちょぼと小幅でおぼつかない足取りだったり、付き添い役の課長あたりが後ろにぴったりとくっついて立ち、長老のズボンのベルトをしっかりつかんで吊り下げるようにして歩を進めるから、いやでも目につく。

 歳は80半ば、いや90を超えているかも知れない。そこまでムリして出なければならないほど重要な講演、会合でもなかろうにと思うのだが、もののはすみで発言すると、長々と自論を展開する元気も残している。ただしだいぶズレている。

 社に戻れば、多少は困った存在なのだろうが、引退を迫る部下がいるわけもなく、まあ、機嫌よくさせておくのがとばっちりもなくなにより、という扱いだろう。

 本人は、老害などとは思っていない。わしが目を光らせてなければこの会社はどうなるか分からないと心配で、死ぬにも死ねない。あれが足りない、これが間に合わないと気に入らないから、つい小言も多くなる。その一方で、ある程度は目をつぶらないと部下が育たず、自分がいつまでもラクにならないとも腹立たしく思っている。思い込んでいるのではなく、そう思いたいのでそうしている。

 身を引く気などまるでない。仕事ばかりしてきたから、辞めたらなにをしたらよいか見当もつかず、時間を持て余して困るのは目に見えている。会社が生きがいで、肩書きが心の支えなので、それを手放すのは自己崩壊にも等しい。

 これがサラリーマンならイヤもオウもなく退職しなければならないときがくるが、オーナー会社なら死ぬまでいられる。一体どちらが幸せなのか。

 自分のライフスタイルに合わせてどちらか選択できるとよいのだが、世の中そんなに都合よくできていない。まだ働きたいのにもういいよと言われたり、第2の人生に踏み出したいのに自分とは縁のない別世界として眺めるしかなかったり。どうせ思い通りにならないなら、心ならずもと思いを残すより、求められるならと流れに乗った方がよろしかろう。「置かれた場所で咲きなさい」(ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子著。幻冬舎刊)ってそういうことだろう。

 そういう気持ちになれば、あの長老ももう少し穏やかな顔つきに変わるだろうに。

記録がよいか、記憶がよいか
2015/10/07

 私が取材記者をしていたころ、聞き出した情報やコメントは大学ノートに万年筆で書き止めた。相手の話す速さに合わせて記録するには、かなりの早書きが要求される。要点にとどめたり、語り口を残したりしながら、同時に頭の半分で次の質問もひねり出してゆく。

 インタビュー記事ともなると1時間、2時間に及ぶので、ボールペンやシャープペンシルでは握った指が疲れるし、芯の柔らかい鉛筆では芯の消耗が速く途中で書けなくなる。だから万年筆がよい。

 カセットの録音機を使うと、口八丁手八丁でもなく、正確に記録できてよいように見えるが、あとで原稿を起こすとき、聞き直したり止めたりしなければならないから、返って何倍も手間がかかる。走り書きのメモに目を通した方がずっと早い。

 いまは仕事もすっかり変わって取材することもなく、長い原稿を書くときはパソコンになる。手書きのときは2Bの鉛筆を使う。サインのときぐらいは万年筆を使いたいところだが、時々しか使わないとペン先でインクが固まってしまって具合が悪い。やむをえずポールペンにするが、字に味も出ないし味気ない。複写もできて便利だから今では筆記具の主流になっているが、私はどうも好きになれない。

 さて、今日の話は筆記具についてのウンチクではない。会議や打ち合わせでは、メモをとるのが鉄則だが、議事録を書く係りでない限り、私はできるだけメモをとらないようにしている。大事なことはその場で全部頭に入れてしまう。書き止めると安心して、むしろ記憶に残らない。

 とまあ、そういうつもりなのだが、実際には人間の記憶力など情けないもので、3日も経てば話の半分も忘れてしまうものらしい。事実、同じ人に同じことを言ってみたり聞いたりすることがあって、相手ははた迷惑だろうが、反復は記憶に残す効果的な手段のはずで、遠い昔、受験勉強のころそう教わった。

 同じ理屈で、私は観光旅行にデジカメも持って行かないし、写メも撮らない。名所旧跡を目の前にして、わざわざ小さなファインダー越しに眺めなくても、自分の網膜に焼き付けた方がよほど感動的で印象に残るはすだ。やたらにバシャバシャやりたがる人は、確かにそこに行ったという証拠を残して安心したいのではないか。ひょっとして殺人犯がアリバイづくりでもしているのかと思ってしまう。

 とはいうものの、数年前「スイスの4名峰めぐり8日間の旅」に出かけたときは、帰ってからどんなのがユングフラウヨッホで、マッターホルンで、モンブランだったか区別が付かず、もうひとつはなんだったか名前も思い出せない。写真も1枚もない。

 まあいいさ。写真があったとしたらどうなんだ。どっちみち終わった話だ。古くて動かない過去を振り返るより、なにが起こるか分からない現在と新しい未来を見つめたほうが面白かろう。

墓を建てる 2
2015/09/30

 さて、墓をどうするか。現世のご利益がほしいわけでも、来世に救いを求めたいわけでも、先祖を祀らねば祟りがあるとも思っていない私にとって、形だけの菩提寺ならわずらわしいだけで必要ない。しかし墓なしとすれば、最近はやりの散骨か合同埋葬だが、散骨はなんだか茫漠として拠り所がないし、合同埋葬は逆にギューギュー狭苦しい気がする。死んでしまえば広いも狭いもどうでもいいようなものだが、落ち着き先はやはり落ち着いていたほうがよい。

 2つの意味で「落ち着く」ものでありたい。現世はまさに生病老死に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦八苦。解脱できればよいがそれには程遠い凡人が、思い通りにはなかなかならなかった一生をようやく終えて迎える安息。そして残された者たちが、還らぬ人を弔うことによって安んじる自らの心。

 あれこれ思案していた春の彼岸のころ、全1面の新聞広告が目に入った。超宗派で、特定の住職がいる菩提寺というのでなく、廃寺の怖れもなく、自宅から車で20分という日泰寺。これなら申し分ない。

 この寺は、1898年に北インドで見つかった釈尊の遺骨が、インド政府からタイに贈られ、さらにその一部がタイ政府から日本に贈られるに当たって、日本の全宗派が協力して建立した。その経緯は知っていたが、墓地まであるとは思わなかった。本堂では毎日、大勢の僧による読経供養があり、登録しておけばいつでも登壇して焼香もできる。

 私には34年前、死産だった娘がひとりいて、遺骨は妻の実家が寺なので、その墓に預けてあったが、その後引っ越しをしてこの墓とも遠くなった。いつまでもそのままにはできない。近くに墓を用意すれば、わが子をようやく手許に引き取れる。

 寺御用達の石材店に話をつけ、洋風横長の墓石に柔らかい行書体で「安息の地」と刻むことにした。「先祖代々之墓」や「南無阿弥陀仏」は周りにたくさんあって、同じように彫るとうっかり間違えて他家にお参りしかねない。「安らかに眠れ」では広島の原爆慰霊碑のパクリになるし、ここはやはりワンウエイでなく、故人と遺族双方の安息の地でないと。

 費用は墓地の永代使用料、石材代、加工代、工事費などの合計のようだが、丁寧な説明はなかった。石材店の分が原価の4倍は掛けているなと読み、値切ろうかと思ったが、御用達とあってはなにかと物要りなのかもしれない。あれだけの寺を維持するのも大変だろうから喜捨することにした。

 超宗派なので宗派は気にしなくてよいはずだが、読む経も祀る本尊も付ける戒名も、宗派によって違うから、私の本意ではないが、あえて言うならぐらいの心積もりはしておかなければならない。

 私にとって宗教はあくまで生きている間の生き方の問題であって、信仰ではない。現世で仏法に帰順するが、受戒してちゃんと守れるかどうか心もとない私には、授戒をしない浄土真宗が一番近い。真宗はだから戒名ではなく法名と呼ぶ。宗祖親鸞の言葉を記した歎異抄は、私が大きな感銘、というよりは衝撃を受けた書でもある。

 私はすでに自分で勝手に簡素な法名を付けている。父は11字の戒名を付けてもらって喜んだが、虚飾と言う以外言葉が思いつかない。私は2字。自分の座右の銘から採った。

 法話を聞きたくなったら東本願寺の別院に行くが、その門徒という意識は特にない。中にはそういうやつもいると、大目にみてもらうことにしよう。(おわり)

墓を建てる 1
2015/09/23

 墓を、今ある墓とは別にもう一基、新たに用意することにした。

 7代前からの墓は山あいの寺にあるが、車で片道3時間半、思い立ってひょいと行ける距離ではない。以前はノンストップで行って日帰りしたこともあるが、近ごろはむりをせず、途中のサービスエリアで休憩を取り、近くの温泉宿で前泊し、と2日がかりになる。それでも高速道路で居眠り運転をしたり、段取りを整え墓参直前になって台風が接近し、気をもんだこともある。母が亡くなるときは、遠い寺から枕経に駆けつけてくれるか本人が気にかけていた。

 遠いだけが理由ではない。田舎の寺はそれでなくても過疎化が進むのに、前の住職は身を入れて務める気がなく、結局檀家ほったらかしで辞めてしまった。本山からの指名なのか、すぐに新しい住職が赴任してきて、この人は再興に一生懸命だし、両親ともこの墓が気に入っていたので、この墓はそのまま残すことにした。

 墓は当面、寺から1時間の圏内に住んでいる私の長男に看てもらうことにした。先のことは分からない。寺離れは全国的に進んでいて、特に地方ほど廃寺が増えている。今の住職の間はそんなこともなかろうが、次の代になって維持できるかどうかなんともいえない。

 さて私が入る墓はどうするか。そもそも墓は必要なのか。私は以前から、葬式や法事のときにしか用を足さなくなった寺に強い批判を持っていた。

 釈尊はその生涯をかけて、人が現世をどう生きるかを説き続けたが、異界(死後の世界)に執拗にこだわったり、まして葬儀の作法にもったいぶったこじ付けをするなんてことは、ずっと後世の者たちの所業に過ぎない。分派、分派で宗派分かれが起きたのはまだしも、日本に伝来して以後も、自然崇拝や先祖崇拝、民間信仰、神道、修験道、陰陽道、なんだかんだが入り雑じって、元の姿(原始仏教)はなんだったっけてなありさまだ。いまだに、忍者よろしくチチンプイプイと印を結び、呪文を唱え、護摩を焚いて祈祷をする宗派もある。あれで大真面目に魔除けや雨乞いをしているんだろうか。

 坊主がみんな、葬式や厄払い、ご利益(りやく)なにがしのお札の上にあぐらをかいて、身過ぎ世過ぎの家業にぶら下がってよしとしているわけではない。真摯に仏道、仏法を志す僧も探せばそれなりにいる。しかし、大きな改革の力にはならない。釈尊から2500年、伝来から1500年の長い歴史が、がんじがらめの因習の世界を作り上げていて、淀んだ空気を吹き払い、新風を巻き起こすのは容易なことではなかろう。

 栄枯盛衰、時の権力の絶大な庇護を受けたり、過酷な迫害にさらされたりの波乱の中で生き延び、時には自らが権力、権勢を誇ることもあるのが、いずれの宗教にも共通する宿命だが、いま仏教は、明らかに自ら衰弱の道を進んでいる。(つづく)

マジョリティとマイノリティ
2015/09/16

 なにかというと人の血液型を聞きたがるやつがいる。それで相手の性格や人柄を判断しようというわけだ。なんの根拠もないのに、人間を4パターンに単純化するのはバカげた話だが、根強い信者がいるようだ。

 人格形成の影響でいうなら、その人がきょうだいの中で何番目に生まれたかの方が、よほど大きいと私は思っている。1番目は家族やきょうだいの全体を意識しながら育つ。末っ子は自分本位で勝手度が高い。間に挟まれた第2子、第3子は、まとめ役ではないがそれなりの気配りはする。ただこれも、えてしてという話で、親が第1子を特別に甘やかすと、総領の甚六になる。男の子か女の子かでも違う。

 多数派と少数派に分かれることがある場合、その人がどちらに入ることが多いかも、人の生き方や価値観が反映している、と感じている。多数、少数は結果としてそうなるのだが、やってみたらそうなったというより、情勢を見ながら多数に付いておこうとか、それじゃあつまらないと思う気持ちがそれぞれに働いて、差がますます広がってゆく。

 多数派に入っておけば、まず無難。目立たないし穏便で、悪い言い方をすれば風見鶏、大勢(たいせい)順応。こういう人から見れば、わざわざ異を唱えなければ丸く収まるのにと、少数派の気が知れないが、少数派からすれば、自分の頭で考えて自分の意見をしっかり持て、と言いたくなる。もっとも、少数派の中には劣勢の方に味方したくなる情緒的な判官びいきも混じっている。一時の同情では先々あてにならない。大勢順応型も判官びいきも、日本人に多いという。

 世間の大勢に摩擦を起こす少数派は、孤軍奮闘で大変なようだが、思ったことを遠慮なく言うので内向きにはストレスがたまりにくい。それに比べて多数派は外に対して調和第一、言いたいことも飲み込むから、そのツケが内に残る。内と外、どっちを重視するかでひととなりが表れる。

 内に向かっては内、外に対しては外重視と使い分ける人もいる。Aさんの社内や家庭でのワンマンぶりは、いろいろな筋から聞いていた。なんでも自分中心、自分が一番で、本人は心地よくても社員や家族がさぞかし大変だろうと想像するが、異業種の集まりで一緒になると実に気配りが利き、話していても常識的でつまらなく、群れの中にスーッと消えてしまう。演じているわけでもなさそうだ。

 よく分からないので、しばらく彼の観察を続けることにしよう。

色は匂へど散りぬるを
2015/09/01

 庭に柿の木が2本あって、秋になるとたくさん実をつけた。小ぶりだが甘みが濃く、店で買うものよりうまかった。柿が好物の母は、毎年楽しみにして待ち、収穫すると、遠くに住む私の姉の元へも、ダンボールに詰めておすそ分けしていた。

 1本は道路との境界の垣根に迫って生え、もう1本は他の木々とともにもう少し内側にあった。息子が来て、その配置を眺めながら、垣根に寄せたらいいのにと言ったが、わざわざするほどのことでもない、と私はその時聞き流しておいた。

 ところが次の年の冬、施肥にやってきた庭師に妻が頼んで、例の柿の木を植え替えてしまった。鉢植えの木ならば、根は行儀よく鉢の中に収まっているが、庭木は地中の八方に根を広げている。枝の張り具合と同じ広さだと聞いたことがある。木を移すには根をある程度のところで切断せざるを得ず、だから生命活動が不活発な冬の間にするのだが、やはりそれなりにダメージを受けるのは免れない。

 運の悪いことに、その年の夏は酷暑となった。見るからに衰弱した木に気がついて、私はあわてて朝晩の水遣りを始めた。なんとか間に合って生き延びてくれたが、その年は実が成らなかった。

 もう大丈夫だろうと油断したのがいけなかった。2年続きの酷暑で、とうとう枯れてしまった。切り倒された跡を見て、私は何度も後悔した。

 すっかり諦めたころ、訳の分からないことが起こっていた。枯れた木が元あった位置に、背の低い柿の木があって、実をつけているのだ。これは一体どういうことだ。庭師に聞いても首を傾げる。

 「日本むかしばなし」でも見ているような気分で秋になるのを待ち、赤く実った柿をひとつかじってみた。残念ながら渋柿だった。何年かしたら甘くなるかも、と妻が言ったが、そんなことはないだろう。

 この庭にはもうひとつ異変があった。柿の木とは反対側の隅に大きな桜の木があって「あれは植えたんじゃない。ひとり生えでな」と母が言っていた。春になると華やかに満開を迎えて楽しませてくれたが、柿の木と同じころ花が咲かず、葉もつけなくなり、立ち枯れて、これも庭師に切ってもらった。

 その代わりというのもヘンだが、桜の木の下に背丈のない蜜柑の木が2本あって、実が成っても酸っぱいのでほうっていたのが、桜の木がなくなって陽が当たるようになったせいだろうか、結構いける味に変わった。

 こんな小さな庭でも、時の流れとともに様変わりしてゆく。柿の木も桜の木も無くなった。そしてそれを楽しみに見ていた母も姉も亡くなった。

又吉ブーム
2015/08/24

 お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹の小説「火花」が、単行本で230万部を突破、大変なブームになっている。

 最初は文芸誌「文学界」に発表されたのだが、この時すでに編集者の注目を集め、1933年の創刊以来初の増刷に踏み切り、計4万部に達した。3月に発売された単行本は初版で15万部。これも、地味な純文学の世界では異例中の異例だ。本屋の入口に平積みされ、私も読んだ。

 その後、三島由紀夫賞の候補になって受賞には至らなかったが、ぐんぐん伸びる単行本の横に、「ピーズ又吉が愛してやまない20冊!」なるものが、やはり平積みで並んだ。そして芥川賞受賞。これでお祭りのような騒ぎになった。

 お笑い芸人と芥川賞というのは、たしかに意外性の高い取り合わせに見える。笑いというのは、笑う側の優越感から起こるもので、それを引き出す役の芸人は、芸と実とが混同されて「バカだなあ、あはは」と上から目線で見られやすい。一方芥川賞は、純文学の権威の象徴のようなイメージをいまだに保っている。

 しかし芥川賞には、処女作1作でも才能が評価できれば受賞対象とする、という新人の登竜門の1面もある。もともと読書家としてはよく知られた又吉の才能を見出したのは、文藝春秋社の若い女性編集者で、渋る又吉を5年がかりでその気にさせたというから、大した眼力だ。押しが弱く、存在感が薄くてお笑い芸人にはとても向いてないように見えた又吉が、近ごろはなんだか風格のある作家の風貌を帯びて映るから面白いものだ。

 万葉集、源氏物語、枕草子の昔から文学の主流は、文字と語りだった。王朝文学が貴族のもので、埒外に置かれた文盲の階層には、琵琶法師の平家物語、近松の文楽などが享受された。現代に下り映像が登場するようになってからは、多くの才能が映画に流れ、その後アニメーションへと広がった。

 そしてお笑いの花盛り。つぎつぎ現れては使い捨てにされるお笑い芸人を見ていると、気の毒になるほどだが、そのカオスの中、漫才やコントの台本書きで鍛え、生き残った者が、小説の分野で才能を開花させたとしても、決して意外ではないのだろう。

 今度の又吉ブームで私に幸運だったことは、「ピース又吉が愛してやまない20冊」で、太宰治や谷崎潤一郎、安倍公房、坂口安吾などとともに、向田邦子の短編集「思い出トランプ」を挙げていたこと。向田邦子は読んだことがなかったので、試しに読んでみたらぴったり波長が合い、それから短編、長編、小説、エッセイ取り混ぜて、文庫本を立て続けに5冊読んだ。正直言って「火花」より面白かった。

映像と証言から得る敗戦の追体験
2015/08/17

 ヒロシマ、ナガサキの日や、8月15日になると、テレビや新聞で戦争の特集が組まれるのは例年のことだが、今年はNHKスペシャルで特別な力の入れようだった。

 8月6日「きのこ雲の下で何が 原爆直後のヒロシマの写真 最新技術で徹底解析」、7日「憎しみはこうして激化した 太平洋戦争の宣伝戦略」、8日「特攻・なぜ拡大したか」、9日「長崎の被爆児童37人 戦後70年の人生とは」、11日「あの日僕らは戦場で 知られざる少年兵たち」、13日「女たちの太平洋戦争 激戦地の従軍看護婦」、15日「カラーでよみがえる太平洋戦争」、16日「“終戦”知られざる7日間」。

 NHKはヘンな人が会長になって、ときどきアホなことを言って問題を起こしているが、一連の番組は、いずれもNHKでなければという時間をかけた丹念な取材や検証に基づいていて、質の高いシリーズ番組だった。

 当時のアメリカや日本の資料、フィルムに基づき、あるいは新たに発掘し、生き証人を捜し出し、過去が明らかになってゆくと、驚かされることも多く、私はつぎつぎと全部見ていった。

 特攻隊は、フィリピン戦で初めて出撃し、敵艦隊に損害を与え戦果を上げたことから多用されるようになった。次第に飛行機も操縦士も底を着き、スピードの出ないベニヤ張りの練習機に、訓練未熟の練習兵を乗り込ませて送り出したので狙い撃ちされ、ほとんど撃墜されていった。

 沖縄戦では、13歳から17歳の少年が1000人動員され「10人殺したら死んでもいい」とゲリラ戦に狩り出される。護郷隊と名づけられ、記録はほとんど残っていないが、生き残りの元少年兵が語る。「仲間の死体を見ても(神経が麻痺して)何も感じなくなった}

 一瞬にして3000度の熱、猛烈な爆風、放射線に見舞われたヒロシマの爆心地から、重傷を負いながら黒焦げの死体の山を乗り越え、火の海を逃れて御幸橋にたどり着いた人々を捉えた写真が残っている。そこに写っていた人の証言で、熱さのあまり川に飛び込んで力尽きる人、炭のようになった幼児を抱いて「起きて、起きて」と揺さぶる女性、軍の救護トラックに乗車を拒否される戦力にならない女の子の光景が再現される。

 ヒロシマのウラニウム型で14万人、ナガサキのプルトニウム型で7万4000人が亡くなったが、米軍の評価はヒロシマ大成功、ヒロシマの倍の殺傷力を期待したナガサキは、投下目標がずれて失敗。アメリカには投下に反対の意見もある中、大統領のトルーマンが実施に踏み切った理由は、でき上がったばかりの新型爆弾の威力を都市で試してみたかったから。戦後の軍事力でソ連との間に差をつけておく必要があった。

 それにルーズベルトがヤルタ会談でソ連の参戦を求め、見返りに樺太の南半分と千島列島を占領するのを認める密約をしたが、トルーマンが引き継いで、原爆製造に成功するとなると戦後の日本占領にソ連を割り込ませたくなかった。そこでポツダム宣言で、天皇制存続を認める条項を外して無条件降伏を要求し、日本が受諾しないようにして原爆完成まで戦争を引き延ばした。原爆投下は戦争の早期終結を導いたという、今もアメリカに定着している正当化論は事実と全く違う。

 むごたらしい無差別大量殺戮に成功して歓喜する彼らの姿には絶句するが、特攻だの玉砕だの民間人も含めて自決の強要だのも正気の沙汰ではない。戦争は一度始めてしまうと、互いに憎悪が増幅し、狂気に支配され、行き着くところまで行ってしまう。日本が鬼畜米英と叫んだように、トルーマンもジャップだビースト(けだもの、畜生)だとののしっている。相手も自分ももはや人間ではない。殺しあっていれば、そうなるしかない。

 狂信的な軍部に導かれて、日本は破滅の道をたどったが、多くの被害者を生むとともに加害者としても残虐行為を働いた。真珠湾、バターン、ソウル、南京、重慶、マニラ……。それぞれの地にひとりひとり言葉に尽くせない悲劇があるはずだ。私たちはほとんど知らないが。

 一方で、ヒロシマ、ナガサキを一瞬で地獄に変えた悪魔のようなトルーマンを、神として教会に祀り、歴代大統領が毎年感謝と尊敬を込めて頭を垂れるとしたら、私たちはそれを他国のやり方だからと看過できるだろうか。A級戦犯は靖国に合祀すべきではなかった。

 日本は戦後、経済復興はみごとに遂げたが、戦争の検証や総括は加害者としても被害者としてもあいまいなまま、厭なことは早く忘れようとしてきた。幸いにしてその後70年戦争もなく、「戦争だけは絶対だめだ」と信念をもつ体験者もどんどん減った。近隣の被害国の非難や抗議には、いつまでもしつこいなと思いながら、それで通ってきた。

 のどもと過ぎれば熱さ忘れる。再び戦争の惨禍を起こさないためには、加害、被害両面でこうした生々しい映像なりを学校の授業に取り入れ、生徒たちに事実あったことの認識を促し、考え、討議させる教育を行うべきだろう。

国会中継の見どころと安倍晋三の自己矛盾
2015/08/10

 安保法制案の審議が参議院に移ったが、与党の対応は相変わらずの強弁、詭弁、はぐらかし、すり替えで、まあ要するに時間だけ消化して、審議を尽くしたという形を取りたいわけだ。

 「国民の理解が不充分」(安倍総理)だったので、参議院で丁寧に説明すると言うのだが、その理屈がおかしい。国民の理解が不充分なままで、それを自覚しながらなぜ衆議院を通したのか。

 国民が理解してくれないのは、ホンネを隠して法案を潜り抜けようとするからで、国民は総理が思うほどバカでないから、すでにホンネに気がついている。むしろ、眠っていた政治的無関心層を揺り起こした。

 集団的自衛権が現行憲法に違反することは、野党や憲法学者や元法制局長官に繰り返しゴチャゴチャ言われなくても、総理自身が一番よく理解している。だけど安保法案は通したい。だからほんとは改憲したい。だけど96条の改憲手続きを踏んだら改憲できない。だから解釈改憲で押し切る。

 すでに総理の結論は出ている。60日ルールを使っても通す。支持率が20%に下がっても通す。参議院で丁寧な説明どころか、通過儀礼、もっと言うなら消化試合と変わりない。プロ野球では、消化試合がつまらないから、リーグ戦が終わって2位、3位チームにも優勝のチャンスがあるクライマックスシリーズを作り出した。消化試合の国会中継では見ていてつまらない。

 そうは言っても、しっぽを捕まれないようにやらないと、一転、倒閣につながる怖れもある。総理にとって心配なのは、うっかりホンネを漏らしてしまいそうな中谷防衛相の答弁だ。分厚い資料にポストイットをたくさんつけて質問に備えているが、危ない、と周りが察知すると、後ろに待機した官僚が答え方を指南する。総理が防衛相を封じて代わりに答える場面もしばしばある。質問席のすぐ近くの席にひげの隊長こと佐藤正久議員が坐っていて、野党の質疑中さかんに首をヨコに振ったり苦笑してみせたりするのは、テレビカメラに写ることを意識しての援護射撃だろう。国会中継の数少ない見どころはこの辺だ。

 できれば防衛相の首のすげ替えをしたいのが本心だろうが、獅子身中の虫はこれにとどまらない。自民党若手勉強会や磯崎補佐官からぼろぼろホンネが出る。防衛相のホンネが意図せずポロリと出てしまうのに対し、こっちは言いたくてしかたがないことを抑えきれずに吐き出している。ホンネを隠し続けるのはかなり忍耐が必要らしい。

 さて、総理が掟破りの法案通過を狙っているのは分かるが、なぜそこまでしてという疑問が解けない。手柄を立てて、おじいちゃんの墓前に報告し、褒めてもらいたいと思っているのだとしたら、それは随分考え違いだぞと思うのだ。

 60年の安保改定で岸信介が求めたのは、サンフランシスコ講和条約時のままでは、日本が米軍に基地提供の義務を負いながら、米軍は日本を防衛する義務のない占領軍さながらの片務協定だったからだ。これを双方に義務のある双務協定に変えようとした。安保条約そのものの廃棄を求めて国会を取り巻いたデモ隊はピーク時30万人を超え、死者まで出たが、岸は法案を強行突破した。

 今回、力まかせのやり方はおじいちゃんの丸写しだが、向いている方向はまるで逆なのだ。岸はアメリカからの独立性を相対的に高めようとしたが、集団的自衛権の発動は、アメリカの戦争におっとり刀で地球の裏側まで馳せつける対米従属を、さらにいっそう強化するものだ。ポチもいよいよ番犬に昇格か。

 首相の言う戦後レジームからの脱却とは、たとえば東京上空の米軍制空権の解除であり、沖縄の地位協定の廃止であり、米軍基地の海外移転であるべきだ。

 あの人の頭の中はどうなっているのか。多弁だが言葉に真実味がない。

家族は変容する 3
2015/08/03

 親子がなぜ分かり合えないかについて、彼女は自分が講師を務めるエッセイ教室の受講者から、解明のヒントをもらう。

 受講者は言う。「一番家族が分かり合える、話ができるのは、親に介護が必要になった時ではないか。家族はいやおうなく向かい合い、お互いを理解するために話をはじめるのではないか」。

 そうかもしれない、と彼女は気付く。「親は親という役割と立場上、なかなか本当の姿を見せない。健康な間は弱みを見せないものだ」。一方、子供の方は、親が元気ならさして気を使うこともない。それどころではない。新しい自分の家庭や自分たちのこれからに精いっぱいで奮闘中だ。親の第3期、子の第2期は、孫の第1期になる。

 いくつになっても親は親で子は子。親はプライドにかけて子に追い越されまいとする。子にとって親はいつか乗り越えたい目標であって、自分が保護する相手などとは思いもつかない。受講生の言葉によれば「親が弱い立場になってはじめて本来の親の姿を知る」のだという。

 なんだか切ない話だが、その通りなんだろうと思う。私の場合、支配欲がとても強くて専横な父親と衝突して、14年の長きに亘って絶縁していた時期があったが、兄の死がきっかけで再会して見ると、すっかり弱っていて拍子抜けした経験がある。和解するもしないも、見捨てるに忍びない状況になっていた。

 時はめぐり、私もそろそろ手回しよく終活の準備を始めようかという歳になった。ところが妻も子供も勝手ばかり言ったりしたりするので、計画がちっとも進まない。私が終活を放り出して、あとで困るのは私ではないのに。子供のひとりなどは、放っておけない不動産のリユースに同意を求めても応じず、「心配しなくても、ヨイヨイになったら面倒みてやるから」などと軽い口調で言う。そんなことは頼んでいない。かなりムカつく。

 昔はかわいかったのに、いまは自分の新しい家族しか眼中にない。そんな恩着せがましいことを言われて、それこそほんとに世話になるようなハメになったら、どんな目に合わされるか分からない。あわれ、寝たきりの身の上になっても、あいつの世話には意地でもなるかと心に決めた。でも、そう思うのは私がまだ力を残しているからなのか。

 かつて家族の黄金時代、ゴッドファーザーの私は5人の家族を背負い、前へ前へと進んだ。私の誕生日だの、父の日だの、つまらない記念日はどうでもよかった。それがいま、だれも気がつかなくてがっかりする。おめでとうと声をかけられれば、つまらんことを言うなとは言わないのに。

 著者は、家族と分かり合ったつもりであらぬ期待をかけるから、裏切られた気持ちになる、と割り切った書き方をしている。そうだ、割り切るのがいいと思ったら、実は彼女は割り切っていなかった。最終章で、もう亡くなっている父、母、兄それぞれに宛てた手紙を書いている。

 私は彼女と違って、あてにならない子供はいるが、両親やきょうだいに先立たれた点では同じ境遇だ。振り返って、みんなにもう少し優しくしておけばよかったなと思う。孝行をしたいと思うときに親はなし。それが繰り返されてゆくのか。(おわり)

 
家族は変容する 2
2015/07/28

 彼女は、どうしたら家族をもっと知ることができるか、などということは少しも書いていない。分かり合えるわけがないのに分かったつもりでいることを強い調子で指弾する。

 「幸福な家族とはどういう家族のことをいうのだろうか。親子きょうだい仲良く平和でけんかすることもなく、お互いを理解し助け合って生きている。そんな家族がいたらいっそ気持ち悪い」

 「考える必要のないのが家族であり、何でも許される空間で、今さら考えることは家族への冒涜である、理屈を超越したところにこそ家族は存在する、と信じているかのようだ」

 父との確執、母への批判、縁の薄かった兄、そうしたことをみんなが亡くなるまで引きずってしまって、かなりムキになっている。そこに、なるほどとうなずかされる半分の真実が汲み取れる。ただし、半分はストンと欠落している。欠落しているのは、彼女が子供のいる家庭を作らなかったことにある。

 家族は時の流れとともに変容する、と私は思う。生まれて育つ第1期。成長して独立、結婚し、子供を生んで自分の家庭を持つ第2期。やがてリタイアし、余生を過ごす第3期。

 子の第1期は親の第2期に重なる。とりわけ子供が乳児、幼児、小学生ぐらいまでは、親子の黄金時代だ。自分の子供は無条件でかわいい。子供のためにがんばろうと思う。それが生活の張りになる。そういうものがなければ、世話が焼けて時間も掛かる子育てなど、とてもできるものではない。

 子供はそうした庇護のもとで育つ。親の規制や、親子げんか、兄弟げんか、夫婦げんかも当然起こる。小競り合いは日常的に起こるが、家庭を壊すところまでは発展しない。子供はその世界しか知らないから比べるものがない。親も親の世界を初めて経験する。理屈などない。

 もちろんどの家庭も同じとはいえない。敗戦を挟んだ軍人の家庭の子供だったことが、彼女に厭な思い出を残したようだ。だからといって家族というものの全部を否定するのも乱暴だろう。

 彼女は母親となることを捨てて仕事を選んだ。それは勝手だが、仕事を続けながら他人の子を育てた人もいる。服飾デザイナーだった私の知人の母親は、いつも数人の知的障害児を引き取り、手に職をと洋裁を教えながら育て上げ、十数人を送り出した。彼が生まれる前に3度流産をしたことが、大きな影響を与えた。

 その限りでは、あんたの内輪話と言い分を聞かされてもという気になるが、子の第2期と親の第3期が重なったステージで、自分の立場をあっちやこっちに移してみると、俄然説得力を帯びてくる。(つづく)

家族は変容する 1
2015/07/23

 朝の目覚めが早いので、出社までの間、お茶を飲みながら新聞や本がゆっくり読める。新聞は記事を拾いながら新刊本の広告にも目を通す。いま読みかけの本が終わったら次はなにを読もうかと物色するのだ。

 売れ行きのよい本は広告も大きい。本屋に行くと目立つところに平積みになっているのですぐ見つかる。元NHKアナウンサーの下重暁子の「家族という病」もそうした本の一冊だ。

 内容は、子離れができない親は見苦しい、おとなにとってのいい子はろくな人間にならない、「子供のために離婚しない」は正義か、家族の墓に入らない人が増えている、家族ほどしんどいものはない、家族写真入の年賀状は幸せの押し売り、といったようなもの。特に目新しい切り口ではないが、そう思いながら思うようにできなかったり、家族に懐疑的になって行き詰まりを感じている人が増えて、共感を呼んでいるように思う。

 実際、地域社会や家族共同体の崩壊は、半世紀前の高度成長のころから始まっている。大都市への一極集中、都市近郊農村のベッドタウン化、そして都市の核家族化、地方の過疎化が進んだ。家族や生活のありようが変わって、著者が指摘するようなひずみが噴き出す。私が東京の郊外で地域紙を発行していた4半世紀前には、地域・家族共同体をどう再生するか、発行紙の命題として掲げた。

 しかしいまや、家族がお互い理解し合い、助け合うなどというのは幻想で、それを盲信するのは病気に等しく、そもそも家族のことを分かっているつもりで何も知らないのだ、と著者は断定している。実は私もこのところ自分の家族について、以前とは様変わりしたと感じていて、ああ、いっそそこまでの割り切り方もあるんだな、と思わないでもない。

 この本は、社会現象に対する論評に止まらず、著者の育った家庭環境や現状を披瀝しながら書かれているので、彼女がなぜそう考え、いま本にする気になったのかが読み取れる。

 彼女は軍人の父と後添えの母の間に生まれた。前妻とは離婚。異母きょうだいの兄がひとりいた。戦後、一時父は公職追放になり、のち復活、その変節を彼女は反感を持ちながら育ち、自らの自立の道を求める。父に従い、一人娘の彼女を溺愛する母にも「あなたの生き方は間違っている」と反発する。兄は父と折り合い悪く、家を出て前妻の祖母の許で育つ。

 著者は大学を卒業するとNHKに入局、のちフリー。結婚したが互いに仕事が忙しく、別居の時期も多かった。子供なし。夫婦の財布はずっと独立採算制。

両親も兄も、夫の両親も亡くなり、家族と呼べるのは夫だけになってみて愕然とする。自分の家族について何も知らなかった……。

 「父はほんとうは、何を拠り所に生きていたのか。母はなぜ私に異常とも思える愛情を注いだのか。兄は妹である私にどんな感情を抱いていたのか」「もっと早くに聞いておけばよかったと思うが、後の祭りである。彼らは話のできない世界に行ってしまっている」(つづく)

喫煙中の気持 2
2015/07/18

 このうち習慣対策は簡単で、わたしは禁煙パイポで代用している。以前は菓子で口寂しさを紛らわせていたが、ガムはあごが疲れる、せんべいやポテトチップは太る、おしゃぶり昆布は塩分が高い。もともと禁煙したいのは血圧を抑えるためで、肥満や塩分過多は本末転倒になる。第一、菓子はタバコの代用にならない。

 その点、パイポは私にはとても都合いい。昔のブームはすっかり下火になり、今は売っている店も少ないが、それはパイポがニコチン補給までするわけではないから、切り替えに成功するにはむりがあったのだろう。今はチャンピックスがあるから、禁煙の補助材として機能する。おしゃぶりをいつもくわえているのはちょっとカッコ悪いが、手放せない。

 問題は快感記憶と嗜好欲求だ。ニコチン中毒がなくなればタバコを吸っても快感はなくなるはずで、事実いま試しにタバコを吸っても別に快感もなければうまくもない。ところが妙なもので、「いつだったか肺の奥まで吸い込んでしびれたなあ」という思いが忘れられない。これが嗜好欲求とつながる。

 たとえばそれは、とてもうまいラーメンを食べて、またあの店に行きたいと思うのと似ている。いくらうまくても毎日食べないと耐えられないというものではないから、依存症というのとは違う。年に数回そのラーメンを食べるように、その感覚でタバコを吸っても、理屈上平気なはずだ。

 そもそも私がタバコを止めたいのは、まだやらねばならない仕事上の役目が残っていて、時間をかけないと終わらないからだ。せめてあと6年、欲を言えば10年、少しずつ怪しくなり始めた頭と体を騙し騙し、健康寿命を引き延ばす。自分のためではないのでもっとラクにしたいし、命が惜しくて長生きしたいわけでもないが、先がまだしばらくある以上、タバコを1日40本は問題だと分かっている。突然死も身近に見てきた。

 ラーメン感覚で、吸っても平気、吸わなくても平気なのがよいが、それがそううまく行かない。1本吸ったら元のモクアミとよく言うが、私の経験では一気に崩れるわけではなく、週に1本が3日に1本になり、5本になり、気がつくといつしか元に戻っている。依存症の怖いところだ。覚せい剤の再犯を断ち切れない人の気持ちが、妙に理解できる。

 チャンピックスは朝晩1錠ずつ飲むことになっているが、私は朝だけにして服用期間を延ばしている。飲んでいる間はとにかく大丈夫だ。さてその後だが、これで一生吸えないとなると、快感記憶ががっかりする。だから私の役目が終わるまでにして、その後は自由にしてよいことにしたらだいぶ気が晴れた。

 それでもまだ快感記憶は収まらない。さしあたって薬がなくなったら、今年も卒業記念に1本吸ってみるか。そのほかにラーメンと同じように年に数回の喫煙記念日。誕生日と元旦と、あと2回ぐらい。

 そういうことを考えるだけで楽しくなる。ひょっとすると私は、喫煙への憧れを掻き立てるための禁煙マニアなのかもしれない。(おわり)

禁煙中の気持ち 1
2015/07/13

毎年春になると禁煙外来に通う。今年で3回目だ。指導医に「また来たの」と言われそうなので、病院を変えた。

 治療といっても、喫煙を断ちチャンピックスという薬の服用を12週間続けるだけ。あとは、本当に禁煙しているかどうか、呼気中の一酸化炭素の量を測定される。吸わなければゼロになるので、ウソをつくとすぐにばれる。

 治療にはニコチンガムやニコチンパッドもあり、これはニコチンをタバコ以外から摂取し、徐々に量を減らす方法。薬局でも買えるので、以前試したことがあるが、私にはチャンピックスが実によい。薬にニコチン成分は含まれておらず、脳内のニコチン受容体にいわば害のない偽物を送り込んで騙し、満足させるもので、タバコを止めてニコチンが切れても辛くならない。

 だから服薬しているうちは大丈夫なのだが、優秀な成績でめでたく12週間を終えたあとがいけない。止めても平気だという自信とともに、せっかくの嗜好品がひとつ減ったという不満が残る。趣味や楽しみが大してない人生なのに、害にならない程度の喫煙というわけにはゆかないものか。

 医者はニコチン依存症という病気として扱うが、喫煙にはいろいろな要素がある。

 日本たばこ産業が昔、専売公社と言っていたころのコマーシャルコピーに「タバコは動くアクセサリー」というのがあった。まあ言うなればおとなのおしゃれ、たしなみといった訴求力。子供とおとなのはざまで背伸びをしておとなの真似をしているうちに、気がついたら依存症になっていたというのが、大抵の喫煙者のたどったコースだろう。

 当時と違い、いまは喫煙がカッコ悪いものに変わったが、それでもタバコの持つ訴求力はまだ残っている。百害あって一利なし。百も承知で、だからこそ身体強健、品行方正、経済的合理性の観点にはない、不健康でバカげていてむだなもののもつ理屈に合わない魅力がある。嗜好品とはそういうものだ。「バカバカしい人生より、バカバカしいひとときがいい」という歌があった。ちょっと吸ってみたい気持ちをガマンして、決して近づかない人生より、百害のひとときがたまらない。

 専売公社のコマーシャルに「きょうも元気だ、タバコがうまい」というのもあった。タバコはしみじみ味わいながら吸ってみると、大してうまいものではない。あれはうまいというより、ニコチン切れを補ってほっとしたところから来る快感や安心感と言った方が正しい。

 タバコにはリラックス効果があるとか頭が冴えるという説もあるが、これもウソだ。イライラしていたのはニコチン切れのためで、喫煙習慣がなければそもそも禁断症状は出ない。喫煙者が朝起きて真っ先にしたいのが起き抜けの一服だが、一日のうちで一番リラックスしているのが、ぐっすり寝たあとの寝覚めのはずだ。

 タバコに手が出るのは、イライラしているときだけではない。ものを書いているとき、読んでいるとき、人と話しているとき、何もしていないとき。理由などなく、ただタバコを口にしたくなる習慣がついてしまったためだ。これでいっぺんに本数が増える。

 さてこの嗜好欲求、快感記憶、習慣の3つをどう乗り越えるか。(つづく)

店のわきまえ、客のわきまえ
2015/07/08

 行きつけのガソリンスタンドで給油と洗車を頼んで車を預け、歩いてちょっとの店で昼食を取ることにした。洗車の仕上がりを待つのも退屈なので、昼時を狙ってよくそうしてきた。

 店はさほど広くもなく、2人掛けが3席、4人掛けが3席、8人掛けが1席。がらんとして先客はひとりもいない。ところが、ドアを開けて入ったとたん、配膳窓の向こうの厨房のおやじと目が合って「2人掛けに座ってください」と言われた。そのときウエイトレスは姿が見えなかった。

 客の顔を見るなりどこに座れと指図かよ、とムッとしないでもない。時刻は正午ちょっと前、これから混んでくればあとから来た客が座れなくなることもある。それを尻目に4人掛け席を占領するつもりはないから、言う通りにはする。それにしても「恐れ入りますが」ぐらいは付け足すものだ。

 ウエイトレスにドリアを頼んで週刊誌を読んでいると、30半ばの太ったおばさんがひとり入ってきた。私の右隣の2人掛けに座り、オムライスを注文した。しばらくして私はなんだか臭いが気になり始めた。どうもおばさんの化粧品の臭いのようだが、化粧品というよりトイレの芳香剤と言った方が適当かもしれない。

 こういう臭いは食欲を殺ぐ。おばさんがどんな化粧品を使おうが勝手だし、オムライスを食いに行くのに適当な臭いかどうか、いちいち気にしなくても怒ってはいけないとは思う。でも私はどうなる。2人掛けに座れと言われているんだぞ。

 そのあともうひとり客が入ったが、それ以上増える気配もないので、私はドリアが出る前に左隣りの4人掛けに移った。おばさんは、私が席を変えたことを気にかけるような人には見えないが、もしウエイトレスに移ったわけを尋ねられても、だって、隣りの人が臭いんだもんとは言えない。幸いウエイトレスは何も聞かなかったし、厨房の窓からはつい立で死角になっておやじからは見えない。

 食事をすませ、ガソリンスタンドに戻ると、ちょうど洗車が終わるところだった。このスタンドに来るのもこれが最後だ。その理由がある。

 昨年の夏、私の車で友人たちと飛騨の山あいに行くことになり、私は前もってこの店で満タンにしダイヤの空気圧をチェックしておくことにした。ところが、タイヤのチェックを忘れたので、翌日もう一度出かけて悪いけど空気圧を見てくれるかと頼んだ。ガソリンは入れたばかり、給油口に停車したのでは邪魔だろうと、わざわざ外した位置に停めたのだが、店員は給油に来る車につぎつぎ取り付いてなかなか見てくれない。

 空気圧調整は店の無料サービスで売上にはならないが、私はこの店の長年の利用客で、洗車のプリペイドカードも、満面の愛想笑いで売りたがるので2枚も持っていた。「まだ時間掛かるの」と叫んでも、聞こえたのか聞こえないのか返事もない。とうとうぶち切れて、「来た車から見るのが順序だろう。もういい。2度と来ない」と捨て台詞を吐いて車を出した。

 ムカムカしながら車を走らせてすぐに気がついた。プリペイドカードが2枚も残っている。しかたがないから時々来て、ようやく使い切った。なくなったところでまた売りつけられたがもう買わない。

 わきまえのない店にいちいち腹を立てていたのでは、行く店がなくなる。もちろん客の方も、客だからと言ってわきまえを忘れてはならない。客がわきまえれば、店もよく分かって大事にしてくれるはずだが、店にわきまえがないと客のわきまえも分からず、呼吸が合わない。人間関係ほど難しいものはない。

飽きるほど寝てみたい
2015/07/03

 最近、4時間も寝ると目が覚めてしまう。朝の4時くらいならまだしも、夜中の2時、3時では、夜明けまでどうしたものかともてあます。そう思いながら、うとうと2度寝することが多いと思うが、しっかりと寝ているわけではなく、よく夢を見る。

 自分が主演しているサスペンスドラマをただで見られると思えば、ものは考えようだが、困るのは昼食後につい眠くなることだ。クルマの運転中だと特に危ない。

 10分でも20分でもちょっと昼寝するとずいぶん違うという話をよく聞く。たしかにいすに腰掛けたまま居眠りをしたあとは、思いのほか目覚めがいいが、そういつも器用にちょい寝もできない。

 睡眠薬もときどき使う。ところが睡眠薬には夜中に起きないよう長時間効くものと、寝つきがよくて即効性に優れたものとの2種類があると、最近になって知った。睡眠導入剤という言い方は、文字通りの寝つき薬の方を指しているが、私は睡眠薬の成分の弱いものをそう呼ぶのだと思っていた。睡眠薬をたくさん飲むとそれこそ永眠してしまうので、手軽に自殺しないように開発し、服用しても怖くありませんというつもりがあってソフトに命名したのだろうと解釈していた。

 私は、寝つきが悪いわけではない。ベッドに入ったら面倒なことは考えないようにしている。たまには考え始めて止められず、頭が冴えてくることもあるが、そういう時は酒を飲んで神経を鈍らせる。睡眠導入剤と同じような効果がある。

 長時間効く睡眠薬は、たしかに朝まで寝られるが、起きてからしばらく眠気が残ったりだるかったりする。薬が全部抜け切らないのだろう。それに毎日飲むのはよくない。依存症になったり副作用が出るらしい。

 薬に頼るより、昼寝が自然で一番いい。休みの日は、昼飯のあといつも、見る気もないテレビをつけたまま床に寝転がって寝てしまう。こんな幸せはない。

 本当は若いころのように10時間でも12時間でも、ノンストップで飽きるほどぐっすりと寝てみたい。歳とともに睡眠時間が短くなるのは、眠るにも体力が必要で追いつかなくなるからだそうだ。

 それにしては、私の同級生で、信じがたいことに毎日10時間でも寝られるという男がいる。そいつは起きている時も動作がのろくてボーとしているから、たぶん一日中夢うつつなのだろう。それでもうらやましい。

暴走する安倍政権の裏側 3
2015/06/23

 どうしてこんな暴走をしたいのか、私はボス、安倍晋三の言動を観察しながら、その心のうちを忖度(そんたく)してみた。

 本音は、防衛相がうっかり漏らした「安保法案に憲法を適応させる」にある。しかし、いくら正攻法の憲法改正がムリだからと言って、こんな無茶な論理の逆立ちで、解釈改憲を押し通そうとするからには、目的のために手段を選ばず、無理が通れば道理引っ込むやり方だと充分承知しているはずだが。

 ボスはそんな後ろめたさをまるで感じていない。取り巻きがイエスマンばかりで、率直に苦言を呈する者がいなければ、逸脱がいつのまにか適合になり、非常識が常識になる。ギャップがどんどん広がって、それに気付かない。

 イエスマンを集めたのはもちろんボス自身だ。お友だち内閣ばかりでなく、日銀総裁も内閣法制局長官もNHK会長も、原子力規制委員会委員長も、みんな自分の都合のよいように首のすげ替えや選任をしてきた。

 “同好の士”の、耳に心地よい声しか入ってこない。外部の“雑音”など耳を貸す必要はない。そう耳元でささやく茶坊主もいるだろう。自分は正しいと確信をもって、ますます有頂天になる。坊ちゃん育ちの典型だ。

 彼の父は外務大臣を務めた安倍晋太郎、母方の祖父は昭和の妖怪と呼ばれた岸信介で、60年安保を押し切って総辞職した総理大臣。その弟の佐藤栄作はアメリカとの密約がらみの沖縄返還時の総理。密約がバレそうになり、スクープした毎日新聞記者をスキャンダルで封殺し、切り抜けた。

 ボスは保守の“名門”の家の出だから、少なくとも成り上がりや叩き上げの苦労はしていない。坊ちゃま、坊ちゃまと呼ばれて育ち、わがままは大抵通ったことだろう。私立の坊ちゃん学校に入り、小学校から大学までエスカレーター式で進学した。

 苦労知らずかといえば、名門ゆえの重圧はある。父や祖父や大叔父は東大法学部卒で、官僚、政界とバリバリのエリートコースを歩んで名を残した。それに続いて政治家になる以上、陣笠議員では終われない。総理になって、見劣りする経歴を補う目立った手柄を早く立てたい。中でも改憲は、祖父が果たせなかった夢でもある。

 権力に野心を持つ者は、強きを助け弱きをくじく。沖縄の基地県外移設の願いは冷たくあしらいながら、先の訪米時には「きのうの敵はきょうの友」と演説するタイミングで、硫黄島ゆかりの日米2人を握手させる卑屈な演出までしてウケを狙った。まるでアメリカのかいらい政権だ。アジア侵略の反省も言いたくないが、アメリカの原爆投下の非人道性を喚起するなど思いもつかない。

 思い上がって自戒を忘れ、功を焦り、感情がすぐ顔に出るわがまま坊ちゃまと、ごムリごもっともの取り巻き連中が、言葉を尽くして改憲を問うのでなく、口先のごまかしで現行憲法のまま捻じ曲げようとしている。恥を知るべきだ。

 新聞に女性の読者からのこんな句が載っていた。「ふざけるな おれはお前の銃じゃねえ」(おわり)

暴走する安倍政権の裏側 2
2015/06/19

 この群れは最初から力づくのつもりだから、勝てるかどうか自分の勢力を慎重に測る。で、憲法改正の正面突破は早々に諦めた。だが、集団的自衛権は行使したい。そこでまず、のちのち口実として使える閣議決定の手順を踏んでおき、突如、衆院選に踏み切る。それでなくても小選挙区制で不利な野党は、不意打ちを食らって準備が整わない。かくして自民党は、48%の得票率で76%の議席獲得という魔術のような圧勝を得る。

 事前の世論調査で内閣支持率は維持していたので強気に出た。ただし、国民の支持は円安、株高による景気回復への期待であって、集団的自衛権には反対多数なのを承知していたから、選挙中はこれには極力触れず、アベノミクスの継続を繰り返し訴えた。その実態は、円安でも貿易収支は一向に好転せず、株高と言っても年金運用資金を株式市場に大胆につぎ込んで吊り上げ、外国の機関投資家を誘い込んだ結果で、肝心の個人消費は伸びていない。あてなく異次元の金融緩和を続けて、トリクルダウンどころかバブル崩壊の懸念さえ出てきた。

 争点をぼかした大義なき選挙で、投票率は戦後最低の52.7%。投票率×得票率で有権者の25%しか得票していないのに、国民の審判が下ったと、何重にも分かりにくくこね回した安保関連法案をひとまとめにして出す。あとは、詭弁(法案名に目くらましの「平和」の2文字を付ける)、強弁(中谷防衛相の「自衛隊のリスクは増えない」。後に変更)、はぐらかし(菅官房長官の「違憲学者の数が問題ではない」)、すり替え(高村副総裁の砂川判決解釈)、居直り(同副総裁の「違憲かどうかは憲法学者でなく最高裁が判断する」)のやりたい放題。

 首相は、国会審議に入る前に、訪米して安保法制を通すと約束し、立法無視で平気だから、司法も圧力をかければどうにでもなると思っているようだ。事実、そんな例は過去にもしばしばあった。都合が悪くなれば特定秘密保護法を使う手も用意してある。

 動物の群れには掟があり、統制を乱したり権力闘争に敗れると群れを去らなければならなくなる。自民党の掟もなかなか厳しいようで、閣僚が官房長官と全く同じ言い回しの答弁をすることがある。答弁のせりふが決まっているのだろう。内部統制が利くのも小選挙区制の影響で、選挙の公認や人事が党の中枢に集約されているからだ。中選挙区制時代は派閥の発言力が強く、タカ派、ハト派が党内で応酬していた。

 いまはタカ派一色で、平和の党を掲げているはずの公明党も、たいした歯止めにならないが、こうした群れの強権的な均質化、同質化は、近ごろ政界に限ったことではない。ママ友や中高生でボスが群れを統制すると、群れの連中はとにかく従順、忠誠の態度を取る。まさかの異議や別行動を取る分子が出ようものなら、いち早くボスの側に駆けつけないと、自分が仲間はずれやいじめの標的にされてひどい目に合う。

 いつもシレッとした顔で表情を変えない官房長官も、どこやらネジのゆるんだ防衛相も、ゾンビの風格が出てきた副総裁も、やり口がかなり強引で危ういことはよく分かっているに違いない。でも、ボスににらまれたら逆らえないもんね、と思考停止をしているとしか思えない。

 ちょうど太平洋戦争で、日本軍がサイパンを落として負けを決定付けたのに、重臣のだれもそれを胸に閉まって言い出せなかったのとよく似ている。そのままその後もフィリピン、特攻隊、人間魚雷、硫黄島、本土空襲、沖縄、原爆投下と1年2カ月も無意味な悲劇を引きずった。

 ところで、ボスはどういうつもりなのか。(つづく)

暴走する安倍政権の裏側 1
2015/06/15

 以前、民放で「わくわく動物ランド」という番組があって、9年続いたが92年に終了した。それからしばらくしてNHKで「ダーウィンが来た!」が始まって9年になる。どちらも野生動物の生態を茶の間向けに制作したもので、私は長年楽しみに見ている。

 生態のすべては、本能に従って自分の命を守り、つなげることに賭けた行動と言ってよい。獲物や食糧を手に入れ、外敵から身を守り、子を産み、育て、種の保存をする。そこに人間を重ねて見ると、似たようなことをしていたり、全く違っていて興味深いのだ。

 人間も原始人だったころは野生動物の端くれで、生きるのに精いっぱいだから、他の動物と大同小異の毎日だったろう。ところが火を使い、道具を作り、言葉を操るようになって動物界の頂点に立ち、支配するようになった。そして神という概念まで生み出した。神、つまり創造主が天地を創造し、人間を作ったというのは宗教上の話で、宗教を生んだのは人間だ。

 人間が神を生んだのは、自分たちが動物界では君臨できても、万能というにはなにかと力及ばず、中途半端なできそこないであることをよく自覚していたからだ。地震、台風、津波、噴火、古代なら雷、日照り、干ばつ、火事、伝染病、風土病……。日蝕のような一時的な自然現象ですら、古代人はどうなることかと大騒ぎしたことだろう。自然を恐れ、死を恐れ、自らの内部に潜む邪悪な心を恐れ、そうであるがゆえに全知全能の神を信じ、足元にひれ伏し、救いを求めた。

 神はなぜ怒って人々に試練を与えたのか、あるいはなぜ奇跡を起こして救ったのか、それを知りたくて科学が生まれ、進歩し、人間は自然界を解明しつつ、一定の予測で対処ができるようになった。とりわけコンピュータが発明されてからここ数十年の進歩は、恐ろしいほどのスピードだ。

 動物界に続いて自然界、しかしもうひとつ、原始人の時代から一進一退でおそらく永久に解決しない境界があって、それが内なる心の制御である。そこに宗教、とまで言わなくても、モラル、言い換えれば人間の生き方が問われ続ける余地がある。

 ところが、勢力に驕り高ぶって自らを過信するようになると、自戒などすっかり忘れ、世の中を力勝負で自分の思い通りになると思い込んでしまうハタ迷惑な群れが現れる。昨年7月、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をして以来、度重なるルール無視で暴走する安倍政権には正直なところヘキエキしているが、少し仔細にこの群れを解剖してみよう。(つづく)

文化財保護か経済効果か 3
2015/06/10

 耐震補強と老朽箇所の復元、保全にいくらかかるか分からないが、Aさんは親の遺した文化財を、自分の代で潰すには忍びなかった。面倒なものを遺してくれたとは思うが、託されたものはしっかり受け取らなければみっともない。もちろんそれだけではない。自分が生まれ育った家や庭に、愛着や思い出もある。

 しかし彼の次の代となるとそうは思わない。経済効果しか計算しないから、文化財の維持管理など厄介なだけだ。いま、思い切って抜本改修をしてもいつまでだれが使うのか。

 料亭かフレンチレストランとして、庭も含めて貸したらどうか、という案も浮かんだ。汎用的ではないマッチングだ。しかし借り手があったとして、耐震工事や補修にかかった費用を回収できるのか。固定資産税も維持費も火災保険料も負担が来る。家賃を高く設定すれば可能だが、相手も商売をする以上、採算が合わなければ安定して借りてくれない。駐車スペースが取れないのも致命的だ。昭和初期の家なのでクルマのことまで想定されていなかった。

 「賃貸マンションが建てられますよ、建て替え費がいくらで家賃収入がいくら、ローンの返済を差し引いていくら残り、投資の回収は何年。当社が一括借り上げしますから、入居者の管理も当社、空き室保証で安心です」と提案する建築会社もいた。

 しかし、いまや全国の空き室、空き家は820万戸。人口減少、供給過剰の時代に、そんなにうまく行くはずもない。それが分かっているから、業者は今のうちが勝負と見て盛んに売り込み、供給過剰がますます加速する。業者にとっては、最初の建築費でしっかり利益を取り、あとは空き室保証といっても、空きが目立ってきたらオーナーを説得して、家賃を下げさせてゆけばビジネスは成り立つ。

 前門の虎、後門の狼、八方ふさがりでぼんやりしているとスキを狙って食い物にされる。家族でさえ、それぞれ勝手なことを言って助けにもならない。まして他人に語ったところで、持てる者のぜいたくな悩みだね、と妬まれこそすれ同情などしてくれるわけがない。

 しかし、他人に語れるほどの悩みなら知れたもの。語れない悩みを人はみなだれでも持っていて、胸にしまっているものだよと、私は彼を慰めながらたしなめた。そしてアイデアをひとつ提案してみた。「文化財としてどのくらいの価値があるか知らないが、だれかに無償譲渡して移設してもらったらどうだ。耐震、復元、移設の費用は相手持ちで、建物は保存、利用され、あんたは空き地の活用ができる」

 八方うまく収まる話だが、さてうまく相手が見つかるかどうか。彼はいま、寺社仏閣や古民家の修復保全を手がける建築士と知り合い、手計算を加えた耐震診断と施工の提案を待っている。(おわり)

文化財保護か経済効果か 2
2015/06/03

 この家には昭和のころ5人家族が住んでいたが、子どもたちが順番に独立して平成になると老夫婦の2人暮らしとなり、やがて息子のAさんを残してみんな亡くなった。

 Aさんは同じ敷地の南側の空き地に別棟を建てて住んでいたが、2軒あっても持て余す。といって、空き家のままでは家も荒れるし防犯上も好ましくない。

 使うとなると、なにしろ古い家屋なので耐震上の心配もある。試しに市の無料診断を頼んでみたら、最も弱いところで、0.24という結果になった。0.7ぐらいはほしいところだが、「ただし」と、診断した建築士は言った。「この数字は在来工法の計算基準を当てはめてコンピュータ処理したものなので、町屋づくりのこの建物は数字以上に強いとも思われます」。

 昭和19年の東南海地震でびくともせず、築80年で柱や長押(なげし)にほとんど狂いもないが、なにはともあれ耐震工事を施すといくらになるか。業者を呼ぶと、旧工法の重い屋根を葺き替えて軽くするだけで1300万。宮大工だと2500万。

 宮大工を呼んだのにはわけがある。この家はもともと訪問客をもてなす客間を庭の眺めのよい南側にしつらえ、家人が日常使う台所や食堂は、冬暗くて寒い北側に配置してあった。時代が変わり、年始回りや新年会、冠婚葬祭などで個人宅に大勢の来客を迎えることもなくなったので、ダイニングを南に移したり、寝室を和室から洋室に改造したりした。老朽化してきたベランダを全面的に作り変えたり、銅製の樋を付け変えたりもしたが、元の水準には戻せず、そのたびに風格を失ってきた。

 職人技が伝承されず死に絶えたのだ、と母親は生前、不満ながら諦め顔だったが、今回Aさんは宮大工ならできるのではと思いついた。この家は県の近代化遺産に挙げられ、市や大学からも時に視察に訪れるのだから、改造や改築をするにも依頼先を慎重に選ぶぐらいの配慮が必要だったのではと考えた。

 ところがこの宮大工、といっても先代を引き継いだが職人育ちでなく商売っ気たっぷりの営業畑の社長がやって来て、受注を焦ったのか屋根の下がり棟が崩れたら大変だと、見積もりも出さずに取り外して、磨き加工が加えてある年代物の瓦を捨ててしまい、請求書を送ってきた。工事をするか、いっそ取り壊して別の土地活用を考えてみるか、迷っていたAさんの背中を押して踏み切らせようという作戦だったのだろう。ひとまず応急の補修をする程度だと思っていたAさんは、こんな強引な人には頼めないと、請求額を払ってケリをつけた。

 注文建築が主力の大手の建築会社にも相談してみたが、耐震第一で、ヒノキの一枚板や土壁をふさいでしまう提案をするので、耐震と原状保全の釣り合いをとってほしいと、手を加えてよいスペースを限定した。ツゲ板の廊下は工事の範囲外にしたのに、床下にシロアリの恒久対策を提案され、ツゲの廊下は元に戻らないと言われた。シロアリ対策は5年ごとに薬散布をすればすむ話。結局、この業者も売上増に気を取られ、文化財の視点がない。(つづく)

文化財保護か経済効果か 1
2015/05/29

 その家はお屋敷と呼ぶにふさわしい建物だった。

 高さ2メートルを超す石垣の上に和瓦を葺いた黒塀が連なり、その内側の木立ち越しに風格のある2階建ての一部が仰ぎ見られた。純和風だが、南西の角に青い丸瓦の洋室が突き出て、全体の調和を保ちながら印象的なアクセントをつけていた。

 腕利きの大工が精魂込めて建てたようで、昭和8年の着工から完成まで3年かかっている。門をくぐると緑青を噴いた銅板のひさしが美しく、石段を上って表玄関に立つと、那智黒の玉石を敷き詰めたたたきにヒノキの一枚板の腰板、繊細な土壁。開け放すと20畳の大広間になる2間続きの和室、その南面、庭に臨んだツゲの縁側には長さ8メートルに亘って継ぎ目がない。

 凝った網代天井の茶室、書斎は舟底天井、座敷は格子天井、洋室は寄木づくりのウッディフロア。濡れ縁や格子戸、板塀にもうっかりすると見落としてしまうさりげない細工が注意深く施されていた。敷地430坪に部屋数は11、女中部屋も残っている。

南面と東面には庭石をふんだんに使った庭園があり、春になると木々にウグイスが訪れ、秋にはカエデの赤が鮮やかに広がった。黒しっくいの蔵は2階建て三重壁の特別構造になっている。

 道行く人の中には、この屋敷を見上げて、一体どんな人がどんな暮らしをしているのだろうと想像したりもしたが、当の家主はこの先この家をどうしたものか思い悩んでいるというから、他人の事情はよく聞いてみないと分からないものだ。(つづく)

見切りどき
2015/05/22

 2年前まで薬いらず医者いらずで、健康保険の使い道は歯医者ぐらいしかなかった。もともと服薬だの通院だの面倒なものは嫌いで、多少のことは気にせず、それでもたまには病院で健康保険証を使ってみたいと思っていた。

 ところがこのところ、なにかと使う機会が増え、循環器内科で高血圧とコレステロール、そのための薬3種、追加で禁煙外来、整形外科でたまに起きる腰痛、そのための鎮痛剤、と気がついたら合計6種の薬漬け状態になった。禁煙用と腰痛用は短期で終わるが、循環器用の3種はずっと続けることになりそうな雲行きで、薬に頼って生きるのは不本意だ。

 それだけではない。大腸にポリープが少々あり、小さいからいま切る必要はないが、来年また来てと言われている。以前なら、なんだ大げさなと聞き流すところだが、友人知人に大腸がんで死にかけたり、手術で乗り切ったが再発転移に不安げな人を見ると、手遅れにならないうちに大事を取った方がいいんだろうな、と思うようになった。

 腰痛も、周りに結構たくさんいることが分かった。いままで大して関心がなく、若い人も含めてそんなにいるとは気がつかなかった。

 まだある。歯医者には、これまで虫歯の治療が主で、1本、2本抜歯することがあっても、それはやぶ医者の治療ミスに起因するもので、それに懲りて歯医者選びはよほど慎重でなければという方針で来た。実際、歯医者はつくだ煮にするほどたくさんいるが、腕はピンキリだ。なんであんなに粗製乱造するのか分からない。

 ところがここ数年の間に、歯が割れてひびが入り、やがてだめになるケースが2回あって、いま掛かりつけの歯医者には、就寝中の歯ぎしりや、仕事中のストレスによる無意識の食いしばりで、歯に相当な負担がかかると説明を受けた。そんなに食いしばって生活をしているとは思えないので、たぶん歯そのものが、だんだんもろくなっているのだろう。

 頭や顔が少々悪くても、日常生活に支障はないが、体が劣化するのはなにかと不都合だ。私もだんだんポンコツになってきたのだ。人間にも賞味期限や消費期限がある。医学の進歩で健康寿命が延びるのは結構だが、それにも限度がある。いつまでも未練がましく粘っていると死に損なうから、尊厳を保ってタイミングよく死ぬのがよいが、それがなかなか都合よくゆかないようだ。

 極端な話、三島由紀夫の割腹自殺は、潔く前途に見切りをつけたとも、行き詰まって大義に殉死の形を取ったとも受け取れる。生き死には最後まで難しい。

肉食系女子を育てたい
2015/05/13

 人を育てるのは難しいが、人を採用するのはもっと難しい。1次、2次面接を積み重ね、適性テストの結果を参考に最終面接を行うのだが、相手もある種、ベストを演じて臨んでくる。こちらとしては相手の想定外の質問を投げ、変化球にどう反応するかを見たりするが、それでも見極めは難しい。ダメな場合はすぐ判断がつく。迷ったら採用しない。厳選して、いいと思って入れても、実際のところ全部が当たり券になるわけではない。

 本人が持っている素質が重要なのは言うまでもないが、会社もあとは本人しだいというのでなく、だれでもここまではというベースを用意してやらなければならない。そうやって研修をし、関連部署で実習をし、実務セミナーを受け、先輩について見習い期間を設けても、1、2年で辞める者が出てくる。

 海外営業課で、そうしたケースが2件続いた。1人は新卒で、多忙な先輩が少し任せて目を離したら里心がついた。もう1人はその穴埋めで入れた中途採用で、「英語を生かして海外へどんどん出張できると思ったが、イメージが違った」と腑抜け状態に。日本ではいまだに英会話力を特殊技能だと勘違いしているらしい。英語は単なる手段に過ぎず、何をどう折衝するか商品知識を持たなければ仕事にならない。

 海外営業には、英語力、商品知識に貿易実務の知識も必要で、全部を備えるには時間が掛かる。これまで採用にはまず英語力を条件にしてきたが、こんなに耐性の弱い草食男子ばかりでは埒も明かないので、方針を変えることにした。商品知識も経験も充分な国内営業マンを海外案件にも送り込む。現地法人相手と言っても日系が中心だから、英語に困ったら自分の才覚で何とかしてこい、ということにした。それと女子の採用。

 女性の役職者や役員は近ごろ珍しくもなくなった。しかしそれは、化粧品やファッション系の企業に多い。当社のように重筋作業が伴ったり、安全靴と軍手が必要な機械製造と窯業のメーカーでは、製造も営業も男性中心、女性はアシスタントの事務職という位置づけでずっと来た。

 しかし今後は少子化で労働人口も減少する。採りにくくなる男性が頼りないのでは、女子力の活用を本気で考えなければいけない。育児休暇制度も就業規則に加わり、社内にもこれを利用して職場復帰する例もある。結婚までの腰掛就職で、寿退社という定番コースは労使どちらの考えにもなくなってきつつある。

 女子力を生かせる職場は、設計、開発、品質保証、検査、貿易実務、営業など、重筋作業回避に配慮すれば結構ある。これまで開発技術職、設計補助と、数年前から起用を始めて、今度は海外営業職で3人の女性と面接した。私は海外販売まで見越して2人採用を唱えたが、他の面接員は貿易実務と調達出張までで1人採用、と慎重な構えを崩さなかった。ま、なんともいえない。

 女性の中からいずれは係長、課長もと期待しているが、長らく男社会だった職場には少なからずカルチャーショックや抵抗勢力も生まれるだろう。それを乗り越えるためには、1人、2人で孤立しないよう層としての女子力が必要だ。

 
むかしの読書、いまの読書
2015/05/01

 読書にもいろいろあって、同じ本を2度読むことはそう多くはないが、何度も繰り返し読む本もある。私にとっての座右の書は「歎異抄」と「平家物語」になる。

 「歎異抄」は高校2年の時に初めて読んで強い衝撃を受けた。人間、ここまで捨て身になって虚心に自らを語れるのは、よほどの絶望を乗り越えたからではないか、と驚いた。河出書房刊で、増谷文雄さんの解説がついていたが、いつしか紛失してしまった。どんな解説があったかとんと記憶にないが、今は手に入らない。「歎異抄」は他の出版社からもいくらでも出ており、原文を読むのに支障はない。

 「平家物語」は、高校の古文の授業で序を習ったのが最初の出会いだった。そのときは、七五調のリズムのよさに印象付けられた程度だったが、のちに海外放浪生活をして無常を感じたことが、この書に戻って引き付けられる契機になった。

 どちらも高校時代に出会いがあるが、「歎異抄」は今読んで、最初に受けたのと同じ衝撃が蘇ることはない。若いころの感性が鈍ったともいえるが、若いころの読書はその本の魅力を直感的に捉えながら読むからではないかとも思う。直感に導かれて愛読書になってゆくなら、高校時代に出合うのがどんな本か、かなり重要になる。なるべくたくさん読んでおくとよいのだろう。

 本は新聞や週刊誌と違って、読み終わってすぐに捨てる気にならないが、だんだん溜まってくると場所を取るだけになり、処分したくなる。大胆に捨てようと思っても、また読むかもしれないと取っておきたい本もある。新規購入で読んでがっかりすることもあることを思えば、こういう本は安心感がある。

 そうして実際、何十年ぶりかで読む本もあるが、まず最初に字の小さいことにびっくりする。新聞も今は1段11字取りが普通だが、かつては15字取りだったのだから、当時はこれで当たり前だったのだろう。昔の年寄りは虫眼鏡を使って新聞を読んでいた。

 字が大きくなったのは、もちろん高齢化社会に対応した新聞や本のサービスだが、それにしても行間も狭く、1ペーに字がぎっしりつまった本を読むと、紙が貴重だった時代はとうに終わり、高度成長の真っ只中だったのにと思う。

 ぎっしり詰まったページの余白に、ところどころ追い討ちをかけるように自分で書いた書き込みが残っている。なまいきなことを書いていたり、いま読んでもその通りだと思う走り書きもある。

 書き込みは、高校の国語の教師がそうしていたのを真似してみた時期があったのだが、その後やめた。本を汚すし、書き留めた効果があるとも思えない。記憶に残したいときやその本を引用してなにか書きたいときは、1度読み終わってすぐにもう1度読み返し、ポイントをマーカーで塗るようにしている。

 さて、連休中はなにを読もうか。

だれのための鎮魂か
2015/04/24

 私は5人家族の末子として生まれ育ったが、かなり以前に兄、父を、1年半前に母を、1年近く前に姉を亡くした。自分に3男1女はいるが、幼少期からの思い出を共有できる家族がいなくなり、それはそれでひとり取り残された思いになる。

 とりわけ3歳年上の姉に先立たれたのは、男女の寿命差から言って当然私の後だろうと思っていたから、最後のひとりになっちゃったとの思いが強い。姉と一緒に生活したのは、私が進学で上京するまでの18年で、その後は姉が商社マンと結婚し、フィリピンやアメリカで暮らすようになったから、よく行き来をしていたというわけではない。それでもどこかに喪失感が残る。

 人はだれしもいずれ命が尽きる。突然の事故死であれ、想定外の病死であれ、それがその人の寿命だったんだと思えば異常事ではなく、むしろ逆らうことのできない自然な出来事として受け入れようとする気持ちが私にはある。私は第2子を死産で亡くしており、その耐えがたかった辛い経験がそう思おうとしているのかもしれない。当時はなにをどう悔やんでも「しかたがない」という言葉しか浮かばなかった。

 人の死をそう受け止めているのに、毎日の生活の中で、ふっと亡くなった両親や兄姉のことを思い出すことが多くなった。あの時あんなことを言ってたな、あの時はこんなことで笑ったな、とその時の情景や表情がありありとよみがえって来る。

 そして気の向いたときに墓参りをしたり、母の遺影の前で合掌するようになって、気がついたことがある。自分では死者の冥福を祈っているつもりだったが、本当はお参りで自分の心を鎮めているのだ。鎮魂とは相手の魂ではなく、実はどこか足りない自分の魂を慰撫して埋めようとしていることになる。

 新井満訳詩、作曲の「千の風になって」がなぜ人の心を捉えたか。この歌は、遺された者が死者を弔うのでなく、死者が遺された者をいたわり慰めている。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
秋には光になって 冬はきらめく雪になる
朝は鳥になって 夜は星になって
あなたを見守る
千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
(抄録)

 宗教は生きている者のためにある。あの世があるかどうか、私は死んだことがないので、「ない」と断定はしないでおく。しかし輪廻転生となると、善因善果、悪因悪果の考えをおそろしく広げた方便にすぎないと思っている。

 もともと輪廻転生は先行するバラモン教、もっといえば古代インド思想に由来するもので、釈尊が積極的に説いたものではない。原始仏教(釈尊の当時の仏教)の核心は、初転法輪(最初の説法)で説いた四諦(人間の苦しみと解放)と八正道(解放のための行動規範)にあり、死後の世界なんていう怪しげなものが入り込んできたのは、後世に民間信仰と混じりあったり、宗派分かれが起きてからのことだ。

 原始仏教の話はいずれあらためて取り上げるが、「千の風になって」がヒットしたのは、葬式のお経よりはるかに共感を呼ぶからだろう。寺の坊主も「墓をないがしろに言うな」と思わず、この歌に耳を傾けながら、仏教の原点に戻ってほしいものだ。

社長もいろいろ、6つの類型とその社員たち
2015/04/13

 日本には421万社の企業があり、そのうち中小企業(製造業なら資本金3億円以下、従業員数300人以下)が99.7%を占める。企業の数だけ社長がいるが、社長にもいろんなタイプがある。

 創業者社長は当然ながら先頭を突っ走るタイプが多い。会社のものはクギ1本、かまどの灰まで、喜びも悲しみもぎっしり詰まった自分のものだと思っているから、とても人には任せられない。町工場のおやじの中には、ネクタイは冠婚葬祭用の白黒2本だけ、みんなで止めないとトイレの掃除まで黙々と始める人もいる。

 その限りでは従業員にとばっちりは来ないが、年中、従業員を叱りつけるタイプもいる。次々起こる情勢の変化に、ああしよう、こうしなければと気が焦るが、思い通りに人は動かないもので、連日の噴火大爆発になる。従業員の能力を引き出すのが社長の仕事なのに、上手に動かせないどころか引きずりながら先頭を走っているようなもので、いっそひとりで働いた方が楽なのに、雇用はしっかりと確保する。こういうワンマン企業は離職率が高い。

 2代目、3代目になると、思いつくところで4つのタイプがある。

 天命タイプは、先代の築いた企業を自分の代で衰退させたのでは情けない、しっかりと承継しなければと使命感に燃える。ただし、承継するのは企業体であって、経営方針に新味を出したくなって大塚家具のような親子バトルに発展することがある。創業者は人生のすべてをかけた会社だから、目の黒いうちはなかなか引っ込む気になれない。一方、承継者は、先代亡き後は、すべて自分が背負うことになるので、これも譲れない。

 私の知人で、先代の生存中に自社株の移譲をして相続税対策をしておかなければと心配な息子が「あのう、株の件ですが」と遠慮がちに切り出すと、おやじの方が「ああ、上場株は孫に移しておくかな」ととぼけた場面に居合わせたことがある。その後、この件は取引銀行が間に入って進めようとしたが、結局、おやじは自社株をもったまま逝ってしまって、息子が苦労している。

 後継者にはお任せタイプもある。自ら選んだ職業でなし、なりゆきで引き受ける星の下に生まれたのでイヤとは言わないが、おとなしく収まっておくので幹部の皆さんよろしくね、といった立ち位置になる。株とカネの管理以外は、深くはタッチしないし、経営に生きがいを求めているわけでもなく、いつも会社で退屈している。こういうタイプは、古参の幹部が面従腹背の態度を取ったり離反することがある。

 傍(はた)迷惑なのは甘やかされて育ち、実力値もないのに思い上がって、先代のワンマンぶりだけ真似をしたがるわがままタイプで、大韓航空の副社長のナッツ姫がよい例だ。日本の某テレビ局の2代目も、出社時にエレベーターの前で待たされると不機嫌になるので、社員が扉を開けたまま社長の到着に備えたというエピソードが残っている。

 一番多いのが、仕事はちゃんと、あるいはそれなりにやるが、外のつきあいで羽目をはずす2面タイプだ。それも同業者の集まりでは具合が悪いが、異業種交流の集まりや若手2世の会では、海外研修と称して買春ツアーをしてみたり、セミナー仲間でせっせと遊ぶのに忙しかったりする。ゴルフ同好会ぐらいならおとなしい方だが、それでシングルの腕前となると遊びすぎだろう。

 取引先の銀行主催で講演と懇親の会が開かれると、休憩時間のロビーの片隅で、クラブのママやホステスと連絡を取り合って、その日の同伴出勤に応じるおやじが目に付く。昔、森繁久弥が映画で演じた「社長シリーズ」そのままで、そういう息抜きをしないとストレスの多い社長なんか続けられないというのが言い分らしい。店の勘定は経理に回り、交際費で落ちる。社員はそんな一面を知らないし、知っていても咎め立てできるわけでなし。

 2面タイプならひとりで使い分ければよいが、兄弟で天命タイプとわがままタイプが一緒に経営していると、これも内紛の元になる。勢力が拮抗すれば社内に派閥もできる。上層部を親族で固めた同族会社では、それが宮仕えの致し方ない処世術となる。

 兄弟で責任やストレスを分け合えば、毛利元就の3本の矢の理想だが、そうはうまく行かないこともあるのが世の中だ。

選挙の裏側
2015/04/06

 選挙が近づくと公示前から、急にあっちの党、こっちの党の立候補予定者の顔がでかでかと載った印刷物が、郵便受けに投げ込まれる。印刷物では効果が薄いと、電話も掛かってくる。

 休日の午前、長男がいるかと掛かってきたので、同窓会の連絡でもしてきたのかと用件を尋ねると、選挙戦のあいさつだった。長男は進学で関西に移ってから20年近くになり、地元に選挙権はない。そう言うと話は終わったが、それでも同窓のツテで掛けてきたのかと思ったが、そういうわけでもなかった。

 その日の午後、同じ候補予定者の別の運動員からまた掛かってきた。朝にも電話があったよというと、あわてて引っ込んだ。なにかの名簿を見ながら何人かで一斉に電話攻勢をかけているのだろうが、分担ぐらいちゃんとしとけと思う。数日後、ご丁寧にもう1回掛かってきた。

 顔と名前をまず覚えてもらわなければ始まらないのはもっともだが、日ごろから業績を上げていれば、ドタバタでにわか対策を打たなくてもすむだろうに。現職なのに知名度がなければ、議決の集票に使われるだけの陣笠議員だったということだ。

 首長ともなれば知名度もある。知名度があれば次は縁故だ。何年か前の市長選で、現職と、近隣の市長を辞めて名乗りを上げた候補者の一騎打ちがあった。その直前、たまたま高校の同窓生のゴルフコンペがあって、幹事がパーティ席で挑戦者の方をよろしくと言う。挑戦者が同窓で、現職が進学のライバル校の出身だった。母校と政策とはなんの関係もなかろうに、世間とはそういうものらしい。

 昨年末の衆院選の投票日当日午後6時ごろ、投票行動の調査の電話が入った。自動音声で「投票はお済みですか。お済みの方は1を、お済みでない方は2を押してください」から始まって「どの党に投票されましたか。自民党には1を、民主党には2を…」などと続く。「支持政党はありますか」では、「特にない」だから、多党乱立の中、最後に呼ばれるまでじっと待ってなければいけない。

 これは出口調査の集計に使われるのだろう。出口調査というから、投票所から出てきた人の袖を引いて物陰に呼び、ポン引きよろしく小声で「いい子がいますよ」、いや「だれに入れました?」と囁くやつがいるのだろうと、ずっと思っていたが、そうではなかった。

 投票が締め切られると、テレビの各局が一斉に速報を流す。これが驚くほど正確で、NHKはやや慎重だが、民放は番組スタートと同時に大勢が決まっている。私はこの速報番組を見るのが好きで、以前はスポーツ中継を見るような気分でつい夜更かしをしたものだが、こうあっけなく着地が読めてしまったのでは楽しみが続かない。

 選挙中はペコペコ頭を下げて、時には失職の恐怖から土下座までして哀願する候補者もいるのに、当選したとたんそっくり返るのも毎度見慣れた風景だ。こういうのを民主主義というのかねえ。

深みにはまる
2015/03/30

 電話回線を光ファイパーに代えないかと、以前から電話勧誘がしきりにあって、なにがどう便利になるのか知らないが、面倒なので断っていたところ、しまいに同じ会社なのか別の会社なのか訪問勧誘がやってきた。どっちでもいいが、変更すればうるさい電話もなくなるだろうと、切り替えることにした。

 変換器か何かをちょいと換えるだけで済むのだろうと思ったら、インターネットのアドレスやセキュリティがどうで、プロバイダーがどうで、セコムがどうで、ケーブルテレビがどうでと、なんだかわけが分からない。その上、詳しい説明はあとから電話でと言われ、1度で分からない話は文書にしてくれなければと文句をつけたが、決まり通り電話が掛かってきて理解不能なことを長々と30分も説明する。とても人間とは思えない。

 まあなんでもいいからやってくれと観念したが、工事費はいったん徴収するものの、半年後にリターンがあるので負担がかからないんだそうだ。それは振り込みかと聞くと、メールで通知するからそれに返信すればよいという。

 用もないメールがいっぱいくるのに、紛れたり見落とすこともあるから、そういう厄介なことをするなと言っても「そのシステムになっています」と受け付けない。なんでも自分の都合で事を運びたがるやつだと思ったが、人間と話しているとは思えないので、話が通じなくてもしかたがないかという気持ちになってくる。それが昨年の11月。

 やれやれと思ったら、今度は別の会社からやってきた。ちょうど家族と近所に食事に出かける時で、予約しているからと言うのに、5分でいいからと出口で立ち話になった。

 工事費負担の返信が頭にあったのでその話をすると、「その分は当社で肩代わりします」と言いながら、なんだかんだと話が続いて、結局30分。「きょうのところは契約でなく、申し込みだけしてくれれば、後日、確認の電話の上、契約の運びに」と言われ、店に待たせている家族も気になって、フン、フンと生返事をしながら申し込み、ようやく帰ってもらった。

 しかし、考えてみれば、電話で契約というのもおかしな話で、契約書が残らない。翌日、くだんのセールスマンに電話してもう1度説明してもらうことにして、そうは言ってもインターネットのあれこれは、詳しい中身に入るとチンプンカンプンなので、そういうことにやたら詳しいAさんに付き添いを頼んだ。

 再度の説明にはAさんがやりとりし、私は隣りで聞いているだけ。どっちが付き添いなのか分からない。詐欺でもなさそうなので、行きがかり上乗り換えることにしたが、ナントカサービスが2カ月無料で、3カ月目から有料にと言われ、そんな面倒なものいらないと言ったら「それですとただいまキャンペーン中の割引がなくなりますが」と来た。

 理解の追いつかないインターネットに、ひねくり回したキャンペーンサービスを付けられて、もはや自白を迫る刑事に根負けして冤罪を引き受ける気になった容疑者か、UFOに拉致された善良な地球人状態。

 こんど別のエイリアンが勧誘にきたら、ワン、ワンと吠えてやるか、いっそ電波の届かない山奥に引っ越して、平穏な田舎暮らしを始めたい。

年度末、年度初め
2015/03/21

 年度末になると、人事考課や新年度の準備で忙しくなる。

人事考課は5段階の等級別、部門別で評価をする。能力の欄は職能要件書に基づき5項目前後、成果の欄は各人が担当するプロジェクトのテーマとその他の取り組み結果に基づき2項目、他に勤務態度の欄に4項目がある。1人に対し、2人の目で考課するが、気分で評価しないよう考課制度に整備をかけ、かなり整ってきた。それでも考課者によって見方の違いや甘辛が出るので、出揃ったところで部門長の間で意見交換し、微調整する。人が人を評価するのはどこまでやっても難しい面がある。

 新年度に入ると、全社員を集めて、前年度の決算見込み、新年度の予算、取り巻く経済情勢、全社方針、部門方針を50分かけて発表、説明する。1600字ある企業理念も、こういう機会にと、作りっぱなしにせず4年に分けて詳しく説明している。

 アドリブというわけにゆかないので原稿とパワーポイントを用意する。といって原稿を棒読みしたのでは、聞いている方も退屈して目を開けたまま居眠りをしたくなるだろうから、丸覚えではないがひと通り頭に入れる。記憶力が鈍っているから以前のようにはゆかず、これが最近は結構厄介。当日は口調にメリハリをつけたり、身振りを交えたりの演出を加える。

 そのあと業務改善表彰、発明褒賞、優秀従業員表彰、部門部会を経て、そこそこの内容の立食パーティを開く。クルマ禁止で呑み放題。これはみんな楽しそうだが、実は一連の新年度式の前にテストがある。「全社の基礎知識」14講の中から順次出題して4年で1巡する。問題はなるべく簡単にしてあるが、テストとなるといくつになってもプレッシャーがかかるようだ。成績上位者には2000円の賞金が出るが、不振者は再試験。

 最後はほろ酔い加減で解散だから、終わりの気分がよければすべてよしか。仲間同士で春の夜の2次会に繰り出すグループもある。

 今年も地道にコツコツの1年が始まる。

李下に冠を正すふり
2015/03/08

 あなたがスピード違反で警官に制止されたとき、「え、40キロ制限? 気がつかなかった」と言って、見逃してくれるだろうか。交通切符を切られても罰金を納めずに「罰金があるとは知らなかった」で終われる話だろうか。

 国の補助金交付が決まった企業からは、1年間、政治献金を受けるのを禁ずると政治資金規正法で定めているのに、出るわ出るわ、農相、環境相、法相、経済再生担当相、クビの飛んだ農相に代わって就任した新農相、果ては首相まで、芋づる式に上がってきた。まだ出そうだ。

 ところが「交付決定を知らなかった」と言えば、違法ではないことになっていて、だれもかれもみんな知らなかった、知らなかったとすり抜ける。世間では通らない話が国会では通用する。そもそもこの規正法は国会議員がイヤイヤ作ったもので、随所に抜け道がある天下のザル法なのだ。「知らなかった」と答弁する態度の実に堂々とした居直りは、むしろよく知っていて、バレたらその手があると高をくくっているように見える。

 政治にカネはつきもの、数十万、数百万のはしたガネで細かいことを言うな、そのぐらいの実入りがなければ国会議員なんかやってられないよ、この世界は出入り業者と持ちつ持たれつ、魚心あれば水心なんだから、なあ上州屋、イヒヒてなことになれば、だんだん時代劇の悪代官風になってくる。

 補助金交付は毎年たくさんあるから、いちいちのチェックは難しい、ほんとに知らなかったんだという言い分もあるかもしれない。しかし、それなら交付が決定した企業・団体の一覧表を配り、議員が献金を受けるときに企業名、団体名の照合をすればよいことだ。知らなかったと言えなくなるから、そんな気はさらさらない。

 「李下(りか)に冠を正さず」という中国の故事成語がある。その意味は「君子たるもの、人から疑いを招くようなふるまいはそもそもしない。瓜畑の中で脱げた靴を履くようなしぐさをしたり、李(すもも)の木の下でずれた冠を被り直そうとすると、盗ろうとしていると怪しまれるから、そのままにしておく」というものだ。贈収賄蔓延に手を焼く現代中国にこの故事が生き残っているかどうか心もとないが、冠を正すふりをしてスモモを取っているなら、日本も大同小異、隣国を笑える立場ではない。

 集団や組織に権限や権力がないと、バラバラな動きになって方向が定まらず「船頭多くして船、山に登る」になるから、それはどうしても必要だ。だからこそ権力を握るものは常に自戒し、よほど慎重に「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」でなければならない。それが「知らなかった」で済ます上州屋ではねえ。

いかがなものか
2015/03/02

 朝、納豆を食べるときはいつも、なかなか優れた食品を考えたものだと感心している。

 かき回してご飯にかけるだけで一人前のおかずになる。ダシじょうゆとカラシはたいてい付属でパックに付いてくるが、さらにカツオブシと生タマゴ、刻みネギを加えると結構立派になる。

 昔は関東限定の食品で、私が食べるようになったのは18になって上京してからだった。子供のころは、あっちの方ではヘンな食べ物があるらしいというぐらいで、売っているのを見たこともない。母は奈良の育ちで、食べ物にはことのほか保守的だったので、顔をしかめるだけで生涯一度も食べたことがない。あのネバネバとにおいは、たしかに初物で食うには抵抗があるかもしれない。今でも食わず嫌いはけっこういるのだろう。

 同じような食品にキムチがある。あのトウガラシべったりでニンニク臭の強い食べ物を、日本人は長く敬遠していて、今のように当たり前には食わなかった。あれもご飯によく合い、いつでも便利に使える。韓国の空港では、日本人のみやげ用に「からくないよ、からくないよ」と売り子が声をかけてくるが、食べ慣れるとからくないのはかえって物足りない。

 塩は使っているが、唐辛子やニンニクで味付けをカバーしているので、日本の漬け物や佃煮より塩分が少ないような気がする。なにしろ日本人は塩分摂取量が1日平均10グラムを超え、取りすぎで血圧が高い。病院食だと1日6グラムぐらいに抑えるから、レモン汁や酢で補わないとかなり参るが、ほんとうはそのぐらいが健康にはいいらしい。

 私の友人に、一流の料理を食べ歩くのだと言って、どこそこの寿司屋だの、あっちのフレンチだの、こっちのイタリアンだのと目指して出かけるやつがいる。彼は若いころガンで胃を切ってからたくさんは食べられない。小食をしょぼしょぼ続けてきて、老い先が短くなってきたのにハタと気づき、この際思い残すことがないように、という決心なら、その気持ちは分からないでもない。

 しかし私にはどうも、食べ物に対する思い上がりのような厭な感じがする。きょうも一日、つつがなく食膳に向かえる、それを長い人生で無事に続けて来られたと思えば、栄養が足りないわけでも、若い人並みに激しく消耗するわけでもない年寄りは、ふだんはつつましく粗衣粗食でよい。それでこそたまの美食もうれしくなる。

納豆やキムチはそういうことも教えてくれる。

図書館再訪
2015/02/23

 その中央図書館は、高校時代、学校帰りによく利用した。

利用といっても図書を閲覧するためではなく、宿題やテスト前の勉強をするのにちょうどよい環境だった。自習室のようなもので、他校からもそれ目当ての高校生がたくさん来ていた。中間試験、期末試験のころになると満席で、入館制限が出るほどだった。

 そんな利用のされ方は、図書館としては不本意だろうが、生徒が勉強したいと言うのだからまあいいか、という雰囲気だった。途中で、息抜きに中庭に出て、一緒に入った友達と声高に談笑していると、見回りをしている職員がちゃんといて「静かにしなさい」と叱りに来た。

 地下には食堂があって、小ぶりのラーメンがたしか40円だかで、当時としてもバカ安だった。受け付けに太ったおばさんがいて、1杯注文すると厨房に通じるインタホンに向かって「中華イチー」と間延びした声を出した。友達とその声の真似をしてキャッキャと笑ったものだ。

 高校を卒業してから長く東京に移ったこともあり、その図書館にはずっと行ったことがなかったが、先ごろ古い本を調べる用があって再訪した。

 建物は全館が建て替えられていて、なつかしい面影はない。自転車置き場だったエリアは広げて駐車場になっていた。入館時には学生証を見せたような気がするが、いまはフリーパスで、その代わりパネルの間を通るようになっているのは、帰りに黙って本を持ち出せないようなしかけにしてあるのかもしれない。

 閲覧したい本はパソコンで検索し、印刷してカウンターに持ってゆくと出してくれる。ぎっしり詰まった書名カードを繰って探し出す当時の方法とは様変わりで戸惑ったが、職員が親切に教えてくれた。席も番号札をもらい、指定の場所になる。

 一番変わったと思ったのは、受験シーズンだというのにあれほど集まってきた高校生がいない。進学塾に通っているのか、大学が余ってきて勉強しなくても困らなくなったのか。座席の数もうんと減っていて、年寄りが目立つ。

 今どきはパソコンでたいていは調べがつくから、よほどの稀少本や専門書でなければわざわざ図書館に出かける用も減ったのだろうか。年寄りが多いのは、家にいても居場所がなく、空調も効いているし暇つぶしや居眠りにちょうどよいのかも。スーパーやデパートでそんな年寄りをよく見かける。

 地下には食堂があったが、チェーン店が入っていて、あの太ったおばさんはもちろんいない。「中華イチー」とつぶやいてみた。

 いろいろと違ってはいたが、図書館の静かで落ち着いた独特の雰囲気はやはりいい。勝手が分かったからまた来て、こんどはゆっくり本を読ませてもらおう。読書に飽きたらちょっと外に出て、隣接の広い公園を散歩するのもいい。桜の名所だから春にはにぎわう。

「21世紀の資本」が示唆するもの
2015/02/16

 フランスの経済学者、トマ・ピケティが書いた「21世紀の資本」が、世界的なベストセラーになっている。本文600ページに及ぶ専門書ながら、英、独、日、中、韓など30を超す言語に翻訳され累計150万部、日本で13万部という異例の反響を呼んでいる。1月末から4日来日し、過密スケジュールで講演や、テレビ、新聞、雑誌のインタビューをこなした。

 彼が投げかけた問題は、株や不動産の運用で得る利益の伸び(資本収益率)の方が、経済成長率に伴って上がる賃金を上回り、資本主義経済の下では富裕層とそれ以外の給与所得者などとの格差が拡大してゆくというもの。世界20カ国以上の実態を200年以上にわたって調査し、資本収益率は年率4〜5%、経済成長率は1〜2%と割り出した(2度の大戦とその後の一時期を除く)。

 この結果、世界の富裕層上位1%に富の半分が集中しているという。日本ではアメリカほどではないが上位10%に40%の資産集中。発展途上国や独裁国家ではとんでもないことになっているのだろう。アベノミクスの言うトリクルダウン(成長による富はやがて下層まで行き渡る)理論が実現した例は過去にないという。

 株や不動産を持つ富裕層の優位性がここまでとは今更ながら驚くが、人間の欲には限度がないから運用でつまずくやつもいる。バブルの絶頂期に、羽ぶりよく外車を乗り回していた不動産屋が総量規制で転落し、自転車に乗り換えたり、私有地活用で賃貸業とはいうものの、要するに家賃収入で不労所得とうらやましがられる家主も、少子化で空き室ばかりが増え、傍で見るほど楽ではなさそうだ。

 バブルの頃はバカでもチョンでも株で儲けたようだが、信用貸しで株を買いまくって気がつくと3億円の負債を抱えていたサラリーマンもいる。株なんてものは投資先の企業の成長を末長く支えるなら真っ当だが、高値になったら売り抜けようというのが大概の魂胆だから、欲には大やけども付き物だ。

 50で勤め先を早期退職し、その後は株の売り買いで小遣い稼ぎをしている知人がいて、ギャンブルの才覚があるからまあまあうまくやっているが、欲得だけの残り30年の人生にどんな意味があるのだろう。毎日パチンコをやっているのと変わりない。

 富がほんの一部に集中すれば、全体の購買力が落ちて市場も人も活力を失う。ひとり占めでも一攫千金でも不労所得でもなく、地道に働いて報われるのが健全な社会だろうに、格差は社会を壊して行く。

 振り返れば1989年にベルリンの壁が崩壊し、その後ソ連や東欧の社会主義が行き詰まったが、資本主義や新自由主義も大きな矛盾が膨らんで曲がり角に立ったということか。この年は中国で天安門事件が起き、日本ではバブル崩壊の直前を迎える。中国はその後、政治は共産主義、経済は資本主義という使い分けで急発展したが、それも陰りが見え、格差が各地で暴動を引き起こしている。日本は今、失われた20年から抜け出そうと禁じ手まで使い始めたが、安直な対症療法でうまく行くとも思えない。

テロリストの憎悪とテロリストへの憎悪
2015/02/09

 イスラム国の日本人人質殺害事件をきっかけに、国際社会は一気に緊張の局面を迎えた。

 アメリカは日本を含む有志国連合の結束を訴え、イスラム国掃討にイラク政府軍やシリアの反体制派への武器供与、訓練支援を含め53億ドルを計上、空爆に加え壊滅に追い込む地上戦も検討に入った。一方イスラム国には、ボコ・ハラム、アルカイダ、タリバンなど、アフリカやアジアのイスラム過激派と呼応する動きが高まっている。

 ヒステリックな憎悪と憎悪がぶつかりあい、復讐、報復の応酬がエスカレートする一方だが、その先の解決はあるのか。

 どちらの側も大義や正義を声高に訴える。残忍で非道なテロリストを国際社会は許さない、と一方が叫べば、聖域の蹂躙や貧困、不平等からの解放のための聖戦を他方が訴える。軍事政権、独裁政権の圧政に不満が噴き出し、過激派が台頭する土壌になっているのも事実なら、サダム・フセインを倒したイラク戦争が、その後ごちゃごちゃになってイスラム国を生むという結果もある。

 人間とはどこまで愚かな生き物なのだろうかと暗澹たる気持ちにさせられるが、憎しみを超えて苦しみながら許しにたどり着いた例もある。

 1945年2月、日本軍が占領していたフィリピンに米軍が反攻、上陸し、マニラで激しい市街戦が展開された。犠牲になった10万人のマニラ市民の中に、後に大統領になるエルピディオ・キリノの妻と3人の子供がいた。キリノが防空壕のある親戚の家に避難させようと見送った途中の道路で日本兵に撃たれた。妻に抱かれ、泣き叫んでいた赤ん坊は銃剣で何度も突き刺されて血まみれになった。

 激しく抵抗する日本軍は市民を1カ所に集め、後ろ手に縛って“処分”したりもした。弾薬と労力を省くためだ。街は廃墟となり、日本軍が投降すると人々は石を投げ、約200人が戦犯となった。

 戦後フィリピンが独立し、国軍による戦犯の裁判が始まると、大統領として死刑の執行にサインをするのは、妻子を惨殺されたキリノだった。彼は、死刑がすでに確定し執行が保留されていた者のほか、16人の執行にサインした。

 日本では残った戦犯の家族から必死の助命嘆願運動が起きる。キリノは「みなさんの気持ちは分かるが、血まみれの子を抱いた私の気持ちも察してほしい」と言いつつ、「私たちは、憎しみや恨みの気持ちを永遠に持ち続けるわけにはゆかない」と心が揺れ、思い悩む。そして、親、兄弟、わが子を殺され心の傷の癒えない国民の轟々たる非難の嵐の中、大統領特赦に踏み切り、108人全員を帰国させる。終身刑、有期刑戦犯は釈放、死刑囚56人は終身刑に減刑の上、日本に送還、服役となった。

 その年の大統領選挙で、彼は国民の支持を失い当然のように大敗する。しかし任期が切れる2日前、服役中の死刑囚全員に恩赦を発令し釈放となる。

 日本兵に殺されずに1人だけ生き残った娘に「どうして許せるの。みんな殺されたのに」と聞かれ、彼は答えた。「もし許すことができなければ、穏やかな人生が訪れることはないんだ。われわれは許すことを学ばなければならない」。

 在任末期の彼は、とても穏やかな状態ではなかった。葛藤の渦の中で胃潰瘍に倒れ、入院、手術をしながら腹心の者に離反され、選挙を戦い敗れた。2年後に死去。(BS1スペシャル「憎しみとゆるし――マニラ市街戦その後」。さる1月3日放映から引用)

 彼が残した「憎しみの連鎖を断ち切りたい。許すことができなければ前に進めない」という、腹の底から絞り出すような言葉を、イスラム過激派にも有志国連合にも噛みしめてもらいたい。それにつけても安倍首相の言動のなんとも軽はずみなことよ。

安倍晋三の危うさ
2015/02/02

 イスラム国の日本人人質事件の結末について、新聞、テレビで詳しく報じられている。今後は、救出に向けての日本政府の対応に問題がなかったか、官房長官が検証すると話し、野党からも質疑が出されるだろう。

 問題は主に3点。第1に2人の人質が昨年8月と11月に拘束された情報をキャッチしながら、相手側との水面下の交渉に糸口のないまま表面化し、結局最後まで反イスラム国側のヨルダン頼みで直接交渉ができなかったこと。

 第2に、その緊迫のさなか、安倍首相がイスラエルや有志国連合国を訪問し「イスラム国と戦う周辺国に2億ドルの支援を行う」と相手側を刺激し、人質を使った攻撃のタイミングを与え、表面化させてしまったこと。日本政府はあわてて2億ドルは人道支援だと呼びかけたが、相手にとって敵か味方かといえは言い訳にしか聞こえない。

 第3に、殺害に踏み切るとともに今後日本を標的とするとの声明に「テロリストに罪を償わせる。テロと戦う国際社会で、日本の責任を毅然と果たしてゆく」とやり返したこと。このあと官房長官が軍事上の意味ではないとフォローしなければならなかった。

 イスラムと欧米には十字軍の昔にさかのぼって根深い対立がある。第1次大戦後には英仏ロが乗り出して中東に国境線を引き、イギリスが二枚舌を使ったためにイスラエルの建国とその後の終わりなき中東紛争を誘発し、アメリカが対イラク戦争を仕掛けて後始末せず、スンニ派とシーア派の対立を激化させ、と遺恨はもつれにもつれて積み重なるばかりだが、日本はこれまでどちらにも与(くみ)せず、中東諸国と良好な関係を続けていた。

 それは日本がイスラム教の国でもキリスト教の国でもなく、憲法9条の国でもあったからだ。産油国からの安定輸入を確保したいという立場もあっただろう。むしろこうした国際紛争に、独自のスタンスで和解や調停の仲介役を果たすことも期待されてよい位置にあった。それが一気に崩れた。

 テロには断じて屈しない――それは正しい姿勢だ。だだ、だからどうするのか。非軍事支援と言いながら、集団的自衛権に乗り出したいのだから、衣の下によろいが透けて見えている。

 日本の外交はリーダーシップを取るどころか自主性に乏しく、右顧左眄しながら他国のあとから付いて行くことが多い。イラクのクエート侵攻の折、金しか出さない国と批判されてからは、なにか芸をしなければとオタオタしてきた。これではいけない、というのが安倍首相の「戦後レジームからの脱却」なのだろう。だが、抜け出そうとする方向が真逆だ。

 抜き差しならないところへ追い込んだ殺害通知に対する彼の反応が、9・11で報復を叫びアメリカ全土を集団ヒステリーに導いたブッシュのスピーチと、よもや同じ道をたどることはあるまいが。先で何が起こるか多面的に見極めず、思い込んだら一徹に押し通そうとする彼の性向には困ったものだ。

漢字の話
2015/01/26

 妻が、韓国ではどうして漢字の使用をやめてハングルだけにしたんだろうね、と聞くので、そりゃあ合理性を優先させたのだろう、パソコンを打つにしても漢字変換しなくてすむし、と答えた。

しかし、漢字が厳しく制限されたのはワープロやパソコンが出回る以前の話だったことに気がつき、調べてみることにした。

 漢字廃止宣言が実行され、徹底したのは朴政権時代の1970年だが、ハングル専用法が制定されたのは韓国の建国と同時だった。そのいきさつには日本が大きく影響している。つまり、日本統治時代の学校教育では日本語を基本とし、朝鮮語の科目にも和製漢語や日本語発音の単語などを導入していたため、戦後「われわれの言葉を取り返そう」と国語醇化政策を取った。要するに日本語排斥運動が漢字の追放につながったわけだ。漢字にとっては迷惑なとばっちりだったことになる。

 漢字教育を全く受けず、自分の名前の漢字さえ知らない世代が増えるにつれ、新聞記事も漢字の使用を減らし、やめてゆくのでハングル専用化はますます進んだが、困った問題も生まれてきた。

 表音文字だけでは同音異義語が大量に発生し、意味が取れなかったり間違えたりする。そればかりか長い間漢字を使ってきた伝統文化を継承できず、断絶が起きてしまう。彼らのアイデンティティ(国語の純化)を取り戻そうとして始まったことだが、漢字交じりの長い歴史の中で作り上げてきた彼らのアイデンティティ(文化)を破壊したのでは本末転倒ではないか。漢字復活を求める主張が根強くあるのももっともな話だ。

 漢字の本家といえは中国だが、ここにも問題がある。もともとの正字は画数が多くて使いにくいため、この繁体字に対して総画数のほんの一部だけに略したりする簡体字化が進んだのは20世紀初頭からで、1946年に「簡化字総表」にまとめられた。現在では中国のほか、華人の多いシンガポールやマレーシアでは簡体字を採用しているが、香港や台湾、北米の華僑などは繁体字を続けており、互いに互いの字が読めない事態が起きている。香港の商店では、大陸からやってくる観光客が増えるにつれ、繁体字の看板と簡体字の看板を2枚掲げて対処している。

 出版物も同じ本で繁体字版と簡体字版を用意するというのだから厄介だが、繁体字に触れた若い中国人が字体の美しさや意味の奥深さを知る機会にもなっている。たしかに、漢字はもともと表音文字のような単なる記号とは違い、象形文字、指示文字、会意文字、形成文字、いずれも魅力に溢れていた。簡体字はそれを破壊し記号化に近寄った。

 日本で使う漢字とも混乱がある。葉の簡体字が「叶」のため、叶姉妹は中国では葉姉妹と読まれてしまうし、機の簡体字に机が当てられているので中国で机場とは空港のことになる。

 私はかねがね、同じ漢字を使いながら日本の新字体と中国の簡体字を統一する話し合いの場を両国でなぜ持たなかったのか疑問だったが、中国の簡体字が成立してゆく時期に戦争したり国交断絶をしていたのでは無理な話だった。

 韓国や台湾も含め、同じ漢字文化圏でありながら互いに足並みが揃わない。文化のグローバル化は経済のグローバル化のように単純ではない。

 蛇足ながら、日本と中国で同じ漢字を使うための混乱は、簡体字以前からある。中国で手紙はトイレットペーパー、汽車とは自動車のことだと中国帰りの留学生から聞いた。

自然死がいい
2015/01/17

 会社で仕事中にケータイが鳴り、出るとゴルフ仲間のAからで「あしたよろしくね」と言う。プレーの予約をしてあるのは翌週なので「あしたじゃないよ、24日だよ」と答えると「24日はあしたじゃないか」とヘンなことを言う。「あしたは17日で、行くのは来週だよ」。えっ、と言ってしばらく沈黙し「あ、そうか」とようやく腑に落ちたようだ。「おい、おい、大丈夫か」。「大丈夫じゃない」と力のない返事。「こんど後ろから頭をがーんと殴ってみようか。治るかもしれない」。「よしてくれよ」。

 ボケの始まりというわけでもなかろう。ちょっとした思い違いなのだが、ひょっとしてと不安になる年齢でもある。ま、笑い話になるうちは問題ないと思いながら仕事に戻り、新製品のデザインのためのコーポレート・コンセプトを仕上げてひと息ついたところで、ハッと思い出した。きょうは内科の受診の日で、最終受け付けの6時半の予約を取ってあった。きょうの予定のメモ用紙に「6:30 ほりえクリニック」と書いておいたのに、すっかり忘れて時計を見ると6時10分過ぎ。とうてい間に合いそうもないが、内服薬が切れているのでとにかく行ってみることにして会社を飛び出した。人のボケを笑っていられない。

 帰宅ラッシュの時間帯でも空いていそうな道を選んでスピードを上げ、2度ほど接触事故を起こしそうになりながら、それでも案外早めの5分遅れで滑り込んだ。「そういう時は電話をくれれば。7時まで診療していますから」と看護婦に言われたが、時間厳守をしなければ待つのも待たされるのもイライラする性分なのでしょうがない。高血圧で通院しているのに、こんな駆けつけ受診で血圧が上がるのはどういうことだ。

 医者は130以下にしたいらしいが150前後で行き来しているので、あすから薬を増やして毎朝4種類飲めと言う。150ならまずまずだと思いながら毎朝血圧を測って薬を飲むのが面倒でうんざりしているのに、この分だとだんだん薬漬けにされそうで、そうまで警戒して長生きしたくない。今度来た時は減らしてくれと抗議してみよう。

 私は2年前に高血圧に気がつくまで医者や薬の世話になったことがほとんどない。大変幸せなことだが、加齢とともにあっちこっちが故障し始めるのは自然のなりゆきで、いちいち大事を取っていたら社会保障費がかさんで国も困っている。元気なうちはぎりぎりまで働いて、役に立たなくなったら医療も介護も受けず、未練を残さず南無阿弥陀仏とひとこと唱えてこの世におさらばする――そういう潔い最期を迎えられないものか。ゾウは死期を覚ると群れを離れてゾウの墓場に足を運ぶというが。

イヌの気持ち
2015/01/09

 コジローとクマゴローは夜の間、屋内のケージで寝かせ、朝になると庭に出して食事を与える。食事は朝晩2回、ドライのドッグフードにウエットタイプを混ぜてやる。

 いつも同じでは飽きるだろうと、ときどき銘柄を変えてみる。幼犬用、成犬用、シニア犬用や、すきやき味、バーベキュー味、ビタミン入り、ボリボリタイプ、ふっくらソフトタイプなどといろいろあって、クマはなんでもあっという間に平らげるが、親イヌのコジローはふーんと思案顔をして食いつきの悪いときがある。

 時には古くなった食パンをミルクに浸したり、冷や飯に味噌汁をかけたり、切り落としの豚肉を野菜と炒めたりすることもある。賞味期限、消費期限の切れたハムや粉チーズも喜んで食べる。優れた嗅覚で嗅ぎ分けて判断し、食べて腹痛になることもないので、本当は人間も消費期限なんかいちいち気にしなくてよいのだろうと思う。立川談志が、弟子に消費期限の切れた食材をなんでもぶち込んでカレーを作らせるので、弟子が「大丈夫ですか」と心配すると「お前は、会ったこともない人の言うことと自分のどっちを信用するのだ」とたしなめたそうだ。

 もっとも、イヌが人間の食事の分け前を喜ぶのは味付けが濃いからのようだ。ドッグフードを試食したことはないがかなり薄味らしい。体が小さいので、人間の食事と同じ濃さでは塩分の取りすぎになると聞いた。タマネギやチョコレートもいけないようだ。タマネギの入った味噌汁はやれない。

 2匹を見ていると、イヌの1日の関心事といえば、食い物と縄張りの確保に尽きる。食事を予定通り貰え、トリやネコの侵入、不審者の接近がなければ、安心してぐうたら寝てばかりいる。飼い犬だからまだいいが、野性の動物は保障のない環境でいつも空腹や飢えの危機を感じながら生きている。食い物の確保が一生の仕事になる。

 ナマコのようなグロテスクなものを最初に食べた人は勇気があった、などともっともらしく言いたがるやつが時々いるが、食糧自給率39%なのに食べ残しや期限切れで1/3を捨てる飽食ボケの頭で原始時代を想像するのはムリな話だ。原始時代ならずとも、飢えに晒されれば人間といえども食えるものは何でも食う。戦争末期の日本人はイモのツルを食った。ポルポト圧政下のカンボジアでは、親を殺された孤児はサソリやトカゲを食って生き延びた。大岡昇平は、日本の敗残兵がフィリピンで人肉を食った話を「野火」に書いているし、アンデスの雪山に飛行機が墜落、遭難して取り残された者同士でも同じことが起こった。

 イヌ丸出しのクマゴローと、やや人間寄りのコジローは、それぞれどんな気持ちで毎日の生活を捉えているのだろう。私にイヌ語が話せたら彼らの生き方や心情を聞いてみたいのだが。

 
年賀状の楽しみ方
2015/01/04

 昨年は喪中だったが、今年は友人、知人からの年賀状が復活した。

たいていは型通りの挨拶の余白にひとこと手書きを添えたものが多いが、印刷文だけのものもある。なにかひとことと思っても、書くことが思いつかずまあいいかとあきらめるのだろう。私もそうすることがある。

 ふだん付き合いのない遠い姻戚筋や、昔、昔の知り合いでその後の交流が長く途絶えている相手がそれで、年に1度の挨拶ぐらいはと思いながら、お互いにはがきをくるりと反して差出人の名前を確認するだけで終わってしまう。

 親戚には儀礼上やめられないが、何十年も会っていない知人でそう親しくもなかった相手なら、もうそろそろ見直しをかけてもと、お互いに思いながら、送らなかった相手から来ると翌年はやっぱり送らなければと思い直すから、合意のタイミングが合わない。

 なんとか余白を埋めようと、こちらの近況に触れて、そちらはいまどうしていますか、と書くと、1年遅れでその返事が来たりする。前年の年賀状を見ながら、相手も書き添えるネタが見つかってほっとするのではあるまいか。

 前年の年賀状を見ながら書いてくれる人は丁寧な人で、近ごろはパソコンに宛名書きを保存できるから、なんでもかんでも印刷しちゃえという人もいる。名前の漢字を間違って保存したまま、ノーチェックで毎年間違って届く。そんなに面倒ならやめればいいのに、数が多いとやっつけ仕事にならざるを得ないのだろう。年賀状にはそういう一面がある。

 送りたくて、送りたくてという人もいる。家族やペットの写真つきのジャンルだ。他人の子どもやイヌネコを見せられたところで、こっちはどうということもないが、実は私も若い頃同じことをしていた。

送ってうれしかったり、気が済んだり、もらって懐かしかったり、楽しかったり、それが年頭の決まりごと。型通りの儀礼と思わず、吟味しながら深読みすると、さまざま思い浮かんで結構面白い。