親の代から本屋を営んできたA君が、数年前に店じまいした。子どもが2人いたが、書店の業界は大型店が資本力で圧倒し、個人商店に将来がなく、継ぐ者はいなかった。
店を閉めるに当たって、その後の夫婦の時間の持ち方をよく話し合ったという。長年、ふたりで店を守ってきたため、旅行にも行けないと言っていたから、さぞかしあっちへ行こう、こっちも行こうという計画かと思ったら、もっと堅実な日常生活の過ごし方だった。
朝食の後、健康のためふたりで1時間ほど近所を散歩をする。食事は奥さんが作るが、洗い物は彼が引き受けて家事を分担する。午後は、それぞれのプライベートタイムに当てる。彼は読書、奥さんはテレビで「相棒」シリーズを見たりして過ごす。夜は、ふたりの会話の時間をきちんと取って、その日のできごと、世相のこと、将来のことを、お茶を飲みながらなんであれとりとめもなく語り合う。
いやはや仲のよい夫婦だ。ふたりで店をやりくりし、さまざま乗り越えて子どもを育て上げ、共に老境を迎えたパートナーという思いを、互いに強く残しているのだろう。子どもが独立すると、再び向かい合う夫婦とそれぞれ勝手に自由行動というパターンに分かれるそうだが、こんな支え合う夫婦の鑑のような老後もあるのだ。
そこへ行くとウチなどは大違いで、会話を交わしているとすぐにけんかになるので、なるべく余計なことを言わないのがなによりの安全策になっている。なにげない意見、感想を言ったら、そうだね、といいかげんな相槌を打っておけば平和なのに、なぜいちいち私はそうは思わないとか、そんなことはないよ、などと言いたがるのか分からない。言われてこっちも聞き流せばいいのに、ああこれだけ人生観が違うと、これから先とても一緒にはやってゆけないとの確信を新たにする。相手も同じことを思うようだ。
そこでまず、人生観の違う人に意見や感想を言って、共感を得ようなどという幻想はゆめゆめ持たないのがよいと悟る。相手から話しかけてきたときは、よく聞き取れなければわざわざ聞き返さない。返事をしないのは聞こえなかったか特に意見がないからで、無視や否定ではないので、なまじ意見を交わすより状況はずっとよい。歳を取るとだんだん耳が遠くなるのは、天がそうした配慮をしているからではないかと思う。
もうひとつとても大事なことは、ささいな生活の仕方の違いは、幼少期から身についた育ち方の違いで、今さらどうにもならないから、目をつぶってあきらめるしか解決の道がない。たとえば、玄関灯は防犯上夜通し点けておくのがよいか、死角の位置の玄関灯に防犯の意味がないから消して寝るか、といったことは、どちらに理があるかなどと争わないで、後から寝る方の選択に従えばよい。点けたり消したり毎日方針が変わっても、平和維持の方がずっと大事なのだ。
とはいいながら、これで子ども4人のうち2人に孫3人、年が明けると5人に増え、残り2人の子どもにも近ごろそれらしき相手がいるようで、いずれ孫10人、それぞれ引き連れて正月に集合なんてなれば、ハタから見て、この少子化の時代になんの不足、不満があろうかという一族の繁栄に映る。
内情はともあれ、世の中はまあそんなものだ。
|