週刊コラムニスト(過去ログ2015年)

年末年始の迎え方
2016/12/30

 年末年始は7連休だが、どこへ行っても混雑するから出かける予定はない。といって、家でぐうたらしていてもすぐ飽きる。ほかに行くところもないので会社に出る。

来年度に向けて仕事はしこたま用意してあるから困らない。別に勤勉なわけではない。退屈しのぎにしているだけ。

会社に来ると妙に気分が落ち着く。それに、みんなが休んでいるときに仕事をすると、なんだか充実感が満ちてくる。自分でもヘンなやつだと思う。

大晦日と元日、2日ぐらいはのんびりして、朝から酒を飲んだり昼寝したりするが、今回は大阪の長男一家が全員で風邪を引き、シカゴの娘は日本から男友達を呼んで楽しいクリスマスだから、どちらも帰って来ない。孫がちょろちょろしないのは静かで幸いだが、そうは言ってもいささか拍子抜けする。

休み中いつも1回は下手なゴルフに出かけたものだが、今回はそれもない。友人を誘ってもひざが痛い、腰が痛い、肩が痛い、とはかばかしい反応もなく、メンバーを揃えるのに苦労する。寒いのにむりをすることもないなと、方針を変えた。

休みの間に働いた分、みんなが仕事を始めたころの3連休を「初春クルーズ 三保の松原と富士」に出かけることになっている。みんなとちょっとずらして遊ぶのが、また格別に楽しい。

このクルーズは、12月に社長職を降りた友人の暇つぶしに付き合って組んだ。退職金を取って閑職に就いたら、会社に来てうろうろしていると税務署ににらまれる、と税理士に念を押されたらしい。

役を降りていよいよ気楽な身、と退任の日が待ち遠しかった彼だが、何十年も毎日通って来た会社に、もう気安く行くなと言われると、これからどうしたらよいのだろう、と怖くさえなったようだ。

仕事、仕事でうんざりし、解放されて晴れ晴れし、でも行き場を失って愕然とする。人間は勝手なものだ。とはいえ他人ごとではない。

もうすぐお正月
2016/12/25

 11月半ばぐらいから年末に向かって、喪中はがきが相次いで届くようになる。たいていは親の逝去を知らせるものだが、中には妻や夫の場合もあり、兄嫁、姉、弟と1年で3人亡くした人もいる。

友人、知人が身内を亡くしたのだから、遺された彼らの気持ちの重さがどんなものか、ちょっと思いがよぎる。しかし亡くなった本人とは全く面識がない場合がほとんどなのに、わざわざ送ってくるあの喪中はがきは、どういうものとして受け取ればよいのか。

相手方としては、不幸があったので年頭の挨拶を欠礼するとのお知らせで、同時に、こうして知らせた以上、謹賀新年などと空気の読めないことを書いてくるなよ、という言外の圧力をかけている。

それが世の中のしきたり、きまりと言ってしまえばそれまでだが、せっかく新年が来て、気持ちを切り換えるよい機会なのに、年をまたいでまだ引きずるのかい、と思わないでもない。

こちらにしたって、直接の知人が亡くなって、その家族に「あけおめ、ことよろ」などと書いたらよけいなお世話だが、知人が遺った側なら納骨を終える頃にはすっかり日常生活に戻っている。こういうときこそ「昨年は大変でしたね。ことしはよい年になりますように」と慰労や励ましの言葉が生きてくるというものだ。

そもそも人の死を忌むもの、縁起でもないもの、ひっそりとしてなるべく触れないで置くもの、という考え方がおかしい。死はごく自然な人間の営みのひとつにすぎないのに、ことさらに理屈をつけて特別扱いするのは、宗教が生まれた当初のみずみずしい本来の姿を見失い、やがて人間の心の弱さや怖れにつけ込めることに商機を見つけたやつらが、もったいをつけてインチキのし放題を始めてからのことだ。何世紀もの間巡り巡って現代に行き着いた宗教には、船底にびっしりとついた藤壷のように、いまさらどうにもならないポピュリズムが何重にも張り付いて、社会儀礼化している。

よかったことも、悪かったことも、楽しかったことも、哀しかったことも、腹の立ったことも、いろいろあって一年が終わってゆく。すんだことはすんだこと。気持ちを切り換えてまた1年。

毎年同じ。いいことはかりでもなかろうが、欲張らなければいいこともあるかもしれない。ろくな目に合わなかった人ほど、ささいな幸せでもしみじみとうれしい。

冗舌か沈黙か
2016/12/14

 12月になると酒を飲む機会が増える。忘年会だ、懇親会だ、なんだのかんだのと、要するに酒が飲めれば理由なんかなんでもよい。

同窓の顔ぶれなど気の張らない会でも、最初は幹事の挨拶があって、まず型通りの乾杯。ぼちぼち飲み出してしばらくは気分よく、陽気になり口数も多くなる。だんだんアルコールの血中濃度が増えてゆくと、ほろ酔いから酩酊の段階に移る。同じ話を繰り返してみたり、呂律が怪しくなる。さらに進んで泥酔ともなれば千鳥足、天井が回る、記憶がなくなる。「酒飲みは奴豆腐にさも似たり。初め四角であとはぐずぐず、なんて申しましてな」と、寄席で円生が話していた通りになる。

しかし天井が回ったり、記憶がなくなったりするのは、友人数人で勢いに任せて飲んでいた若いころの話で、さすがにその後は正気を保てる酒量の限度も自分で量れるようになり、KO負けすることもそんな場面を見ることもなくなる。

むしろ最近気がついたのは、にぎやかな宴会の席で、口数少なく大人しく、ほぼ四角のまま全然変身しないやつがいることだ。酒に強いとか、飲めないとかいうのではない。人並みに飲んでいる。私のようにしらふの時からおしゃべりで、飲むと輪をかけて冗舌になり、周りにはうるさがられるわ、自分でもしゃべり疲れるわ、という者には、どうにも理解できない。飲む意味もない、お茶でも飲んどけと思う。

生来無口なのか、口下手なのか、聞き手に回るのが好きなのか。いや特にそういうわけでもない。1対1や少人数の時なら普通にやりとりして違和感はない。

人数が10人近くになってくると大人しくなるってことは、みんなを相手に目立ちたくない、余計なことは言わないほうが無難だという警戒心が働くのか。いやいや、ついガードが甘くなってしまうのが酒のよさでもあり、しょうのないところではないか。

ははあ、するとこれは、過去に大失敗をして懲りたのではないか、という大胆な推測にたどり着く。そういうつもりでそいつの顔をしばし眺めてみるが、こっちも酔っているのでその先は何も浮かばない。

どうしてなのと無邪気に聞いてもよいが、当たりだったらそんな失敗談は話したくないだろうし、特に理由もなければ質問に戸惑うだけで答えようがないだろう。

ま、この謎は酔いが覚めてから解明しようと飲み直すことにすると、翌日はこんなどうでもよいことになんでいろいろ頭をめぐらせたのだろうと思う。酒を飲んでいたせいだ。

カラオケのルーツ
2016/12/05

 私がニューヨークにいた若い頃、だれにだったか覚えていないが、ピアノバーに連れて行ってもらったことがある。

そこには黒いグランドピアノが置いてあり、白人の小柄なばあさんが鍵盤に向かって構えていた。客はほとんど日本人、赴任や出張で来た商社マンや現地法人の駐在員だろう。テーブル席が埋まってほどよく混んでいた。

客は酒を飲みながらマイクを回し、ばあさんの伴奏で日本の歌を歌った。次々と出てくるリクエストに、ばあさんはほとんど対応できた。今にして思うと、なぜあんなに日本の歌を熟知していたのか不思議だが、一曲終わるごとに「うまい、うまい、うまい」と若やいだ声を張り上げた。たまに知らない歌になると、ポロン、ポロンとリズムを取りながらつくろった。

異国の地で、日本人が寄り集まって望郷の想いに浸ったり、慰め合ったりする姿は、あまりみっともよいとは言えないが、昼間がんばったのだから、夜は素(す)に戻ってもとがめられるほどのことではない。あのばあさんは、たくさんの疲れたたましいを癒してくれたのだろう。

ニューヨークにはああしたピアノバーが、ほかにも数店あったのか、シカゴやロスにもあったのか、あのとき一度行っただけでよくは知らない。そのころ日本では歌声喫茶がはやっていたが、あれはみんなで合唱して連帯感に浸りたいもので、だいぶ趣きが違う。

時を経て、いまはカラオケが大はやりで、本家の日本から中国などにまたたく間に広がって行った。それに比べてアメリカでは見かけたことがないが、カラオケの源流はどうしたってピアノバーのはずだと思う。音響メーカーの役員か社員が、ピアノバーへ行ってヒントを得て、伴奏者のいらない機械を作ってみたら大ヒットしたのでは。それはよいが、アメリカへの赴任者は、近ごろどうやってたましいを癒しているのか。

私も最近までは、宴会のあとの二次会でよく歌ったが、歌いなれているのが7、8曲なので毎回同じでは飽きてしまう。自分で飽きるぐらいだから聞いている方はもっと飽きるだろう。それで前回は、歌わないで聞いているだけにしてみたが、退屈な上にいかにも能無し、芸無しに映る。どうしたものか。

中島みゆきのCDを2枚買った。車の中で聞きながら少し新境地を開いてみよう。

不思議な性癖
2016/11/30

 テレビ番組で私が毎週予約で録画するのは「NHKスペシャル」「池上彰のニュースそうだったのか」「サンデーモーニング」「ドキュメント72時間」「ダーウィンが来た」「サワコの朝」「ドクターX」といったところ。

「サンデーモーニング」は最近飽きてきた。スポーツコーナーが長すぎる。「ドクターX」も「水戸黄門」ばりのワンパターンで、マンネリの安心感が狙いなのか。BSの再放送で「刑事コロンボ」や「フーテンの寅」も、以前、見続けていて限界が来てやめた。

例外は「おしん」だった。週6回分90分を、土曜日にまとめてリバイバル放映されたときは、1年間欠かさず見通した。山形の貧農の子が、子守の奉公から始まって、東京で髪結い、結婚して反物商、佐賀で農業、三重で魚の行商、スーパーマーケットと、毎週、毎週、難問に直面しながら健気に働き抜く女の一生を描いて飽きさせなかった。年代別に主人公を演じた小林綾子、田中裕子、音羽信子もよかった。

さて、毎週予約だけでなく単発で予約することもあり、見たらすぐに消去、毎週の定番でもテーマに興味が薄いときは見ずに消去するのだが、容量不足で取れないときがある。妻がやたらに予約を入れるせいだ。

毎朝起きると新聞の番組表を手許において目星をつけ、せっせ、せっせと予約を入れる。それがまた料理、宗教、国内外旅行、映画、美術とやたらめったらで、ひょっとして録画依存症か認知症ではないかと思うほどだ。

それでもまだ、見て消してくれれば問題ないが、見もせずに放っておくからどんどんたまってゆく。見ないのになぜ予約するのかと聞くと「忙しくて見る暇がない」と言う。見る暇のない人がなぜ毎朝予約をするのか、ますます分からない。3分、5分の料理番組ならまだしも、2時間規模の映画となると容量をかなり使う。画質を落として時間枠を広げたが、それでも残量が見る見る減ってゆく。

私の見たい番組が、残量不足で見れなくなったら、と危機感を募らせて、妻が予約したつまらない番組(私から見てつまらないのだが)を大胆にパカパカ消すと、妻が気づいて憤然とする。

「謝ったらどうなのよ」と息巻くが、こっちにしてみれば、後始末もせずほったらかしにしてあるのを親切にも代わりに整理したのだから、お礼を言ってもらいたいぐらいだ。文句があるなら自分で予約した分量だけ消去して、プラスマイナスゼロにしてほしい。

消去を怖れてロックをかけてあるものもある。ロックをかけたまま安心してずっと見ることはないのだろう。残量がさらに減る。

妻が予約した昔の名画を私が見て、堪能してしばらくそのままにしておいてやることもある。でも妻がいつまでも見る気配がないので結局は消すことになる。

見るのが目的ではなく、予約するのが目的ならそれでよいのだろう。

鳥取が東
2016/11/17

 LDLとHDLのどっちが悪玉コレステロールだったか、ノンレム睡眠とレム睡眠のどっちが深いのか、覚えたつもりでよくこんがらがる。

私の場合、鳥取と島根の東西の並びも同様で、その理由を考えてみるといくつか上がる。

まず「鳥」と「島」がよく似ていて、パッと見の字面からして識別性が弱い。さらに日本列島の中での地理的位置が、どうも目立たない。

幹線の鉄道や道路が走る太平洋ベルト地帯のような日の目は当たらず、北海道や九州のような強い個性にも乏しい。日本海側は昔は裏日本と呼んで、そんな差別的な言い方はさすがにしなくなったが、その中でも秋田、新潟は米どころ、美人、豪雪地帯、富山は魚介類、立山、黒部、福井は原発銀座などとすぐにイメージが浮かぶが、両県は鳥取砂丘に出雲大社ぐらいか。竹島はどっちだったっけ。

人口が少ないことでも分が悪い。島根は全国46位の69万人。鳥取は最下位の57万人。2015年の国勢調査で、調査を開始した1920年(大正9年)以来、日本の総人口が初めて減少に転じたことが判明したが、とりわけ島根は第1回の71万人を下回ったというのだから驚く。1票の格差是正のため、両県の参議院小選挙区が合区にされた結果、東西320キロにも広がったのはよいのか悪いのか。

この秋その両県に、会社の外注工場各社の人と親睦旅行に出かける機会があった。40年ばかりの間、毎年組まれてきた旅行で、国内はほぼ行き尽した果ての初訪問だった。

行ってみると、足立美術館には横山大観、竹内栖鳳、小林古径、河合玉堂、菱田春草など豪華なコレクションがあり、松江城は国宝の風格、境港のズワイガニもまた格別だった。特にリクエストして寄り道してもらった加納美術館には、死刑囚となった元日本兵108人の特赦、帰還に至る加納莞蕾からキリノ・フィリピン大統領あての嘆願書が残っていて、館長が熱弁を振るった。

逆に、期待していた鳥取砂丘は思ったほどでもなかった。たぶん「アラビアのロレンス」の映画でとてつもない砂漠の映像を見たことがあるからだろう。開催中の砂の彫刻展は面白かったが、観光用のラクダ乗りが3分ほど散歩して1300円、2人乗りだと2500円というのには呆れた。

先入観は、良くも悪くもあてにならないものだ。ともあれ、これで両県の位置関係に迷わずにすむ。

場違いもまた悪くない
2016/11/10

 口は達者でいくらでもしゃべるが、運動は嫌いで体が口ほどには動かない私だが、最近スポーツジムに通い始めた。

私も70歳。昔ならとっくに死んでいる。志半ばで夭折した人の無念を思えば、ここまで与えられた命になんの不服もない。事実、いつどうなっても不思議でない歳だが、今のところ元気は元気で、この分だと下手をすると、いや運がよければあと10年ぐらい行きそうな気もする。

それでもやはり、あちこち衰えてはきた。このまま下降線をたどり、やがて車イスだのおむつだの人の世話になって長引くのも具合悪いので、臨終ぎりぎりまで自立していようと思えば1に運動、2に食事、3に睡眠と相場が決まっている。

基本は毎日1時間歩くのがよいらしいが、目的もなく歩き回れる健康オタクにはほど遠いので、車をやめて電車通勤にしようかと最初は考えた。これなら出勤と帰宅のため、いやおうない目的がある。ウチから地下鉄の駅まで早足で10分、途中で路線の乗り換えで階段を使い、さらにバスでつないで、会社までまた10分歩く。

1度試してみてまずまずだったが、車があるのに真夏は汗だく、冬は木枯らし、雨や雪の日もあると思ったら、これは続かないなとあきらめた。

スポーツジムなんてもっと面倒で、二十日ネズミでもあるまいに、ベルトの上を流れに逆らってひたすら歩いてなにが面白かろう、とひねくれてみたが、近ごろは音楽やダンスを取り入れて、ピラティスだのバレトンだのバトルミックスだのとわけの分からないプログラムもいろいろあるらしい。

ま、講釈ばかり言ってないで、インストラクターのグループ指導によるストレッチから始めてみることにした。やってみると45分でうっすらと汗をかく。

「はい、ぐっと体重をかけて、ナントカ筋を伸ばしましょう。はい、もう少し、できるところまででいいですよ」

明るい声で励まされながら、こういう人たちとは全然違う世界を生きてきたんだな、とつい感慨にふけったりする。

ランニングマシンも使ってみる。ペースを上げたり下げたり、傾斜をつけて負荷をかけたり、いろいろ調整できる上、退屈しのぎに、運動しながら目の前でテレビが見れたり、歩いた距離や消費カロリー、心拍数も計れる。ヘエと今のところもの珍しい。

日ごろ鍛えていないから、30分も歩けば充分だが、慣れてきたら筋トレマシンも使ってみよう。それも飽きたら、縁のなかった世界の人間観察を始めてみるか。

惑わす書き方、読ませ方
2015/10/14

 車通勤の途中、信号で止まって何げなく左側に止まったトラックのボディを見たら「ってかな」と書いてある。字の左側が余白になっているので、元は「割り込みさせてねってかな」なんて書いてあって、だれかに「ふざけるな」と怒られて消したのかも、と思ったが、それなら全部消すだろう。

すぐに気がついた。左から読んだのがいけない。右から読むと「なかてつ」、鋼材の商社か鉄工所の配送車なのだろう。車体の右側の字は、前から後ろ、つまり右から左に読ませることになっているが、読む方はどうしたって左から読む癖がついている。あんな書き方をだれが決めたんだろう。社名がロゴだったら並べ替えるのもむりだし。

日本語、中国語、朝鮮語といった漢字系や、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などヨーロッパ系言語は左から書く。右から左はアラビア語、ペルシャ語など限られる。漢字系は揮毫して額に入れる時、右から書くこともないではないが、そもそもは上から下に書いていたのを横にも書くようになったわけで、どうでもできるというのは柔軟なのか、節操がないのか。さすがに下から上には書かない。

印刷物は、面白いことに新聞、雑誌、文学書や、新書、文庫本の装丁だとタテ書きで、ビジネス書、実用書、資格試験教書などはヨコ書きが主流になっている。ヨコ書きが増えてきたのはパソコンの影響が大きいに違いない。パソコンなしでは仕事にならない実業の世界でヨコ書きに慣れてしまうと、関連書籍もヨコ書きが馴染むようだ。

パソコンは左利きの人にとって恩恵が大きいのではないかと思う。手書きでヨコ書きにすると書いたばかりの字を自分の手で隠してしまうことになる。文脈を見ながら書けないし、インクだと乾かぬうちにこすって汚してしまうおそれもある。ペン先を進行方向に突き立てながら書かなければならず、用紙に引っかかることもあるだろう。パソコンはそのすべてを解消した。

だからといって、右利きの人が右から書いても苦労はありませんよと、日本語表記のパソコンにアラビア式書き方の過剰な機能をつけているわけではない。車のボディ書きだけ例外の扱い。あの虚を突いた書き方を、なんとかしてもらえないだろうか。

 
首相の語り口、陛下の語り口
2016/10/05

 フランス人はhの発音ができないし、朝鮮人は濁音が苦手という。なんでできないのか不思議な気もするが、母国語にその音(おん)がなければ身につかないのでもっともな話だ。日本語もthの音がない。

五十音にちゃんとあるのにダ行とラ行の区別の付かない日本人がたまにいる。

たとえば「北海道で数の子と果物を食うんだぞ」というのが「ほっかいローでかルのこと、くラものをくうんラロ」になる。ダ行がうまく言えなくてラ行になってしまうのだが、逆の人もいる。「大原麗子が語る。赤裸々な連載開始」が「おおはダデいこがかたドゥ。せきダダなデんさいかいし」。

音声学のことはよく分からないが、ダ行もラ行も同じように舌の先を上あごで弾いて発音するので、そのわずかな違いの使い分けを習得できないうちに育ってしまった人たちなんだろう。

安倍首相のスピーチやコメントを聞いていて、よくしゃべるわりになんだか不明瞭で聞き取りにくいと感じていた。どこがおかしいのか耳を傾けていて気がついたことがある。時々gやrの子音を飛ばしてしまうのだ。つまりこうなる。

「わが国の働く人びと」が「わアくにのはたアくひとびと」、「重ならないよう探しながら、分からなければならない」が「かさなアないようさアしなアら、わかアなければなアない」

ここまで連発はしないが、国際会議で同時通訳を使うこともあろう。通訳泣かせに違いない。

英語では子音の発音を省略することがある。デンティストがデニスト、トゥエンティがトゥエニー、インターネットがインナネットといった類で、これはtの発音を省略して前のnと後ろの母音をつなげて音節を縮める効果があるが、安倍首相の場合は子音を省略しても前にnがないから、前の音節のアと後ろのアを続け、舌足らずでだらしなく、すべってよろけたようなしゃべり方になる。

明仁天皇の日本語はさすがに正統派だ。「が」をgaとは決して発音しない。必ず「nga」と柔らかい鼻濁音になる。これは戦前の小学校では教えたらしいが、その後は構わなくなった。今はアナウンサーや歌手でも意識している人は少ない。

安倍首相も取って付けたように「美しい国日本」などと言ってないで、陛下の美しい日本語を見習って、まず発声の矯正から始めたらどうか。

お1人様の心配事
2016/09/28

 ずっと昔、葬儀屋は病院の婦長(現在は師長)にいろいろと付け届けを、それも冷蔵庫やテレビを送ったという話を聞いた。

病院で人が亡くなると、遺族に準備がなく動転しているドサクサに、婦長一任で葬儀屋を決めることが多いからだという。

葬儀屋も受注はほしいが経費倒れになっては困るので、生前予約で見込み客を取り込んだ。下手な勧誘をすると「縁起でもない。わしを死なせたいのか」と怒り出すので細心の注意が必要だったが、最近は事情が変わってきたようだ。

高齢化が進んだためだ。思いのほか長生きをして、いくらなんでももうそろそろだろうと本人が思い始める。ほかに考えることもさしてなく、ひまだから準備だけでもしておくか、というので自分から葬儀屋にやってくる。1万円で入会すると、葬儀の時に通常価格の2割引なんて特典が付く。

準備に心がけるようになった理由はもうひとつある。高齢化に加えて少子化。子どもがいない、配偶者に先立たれた、離婚した、生涯未婚、といった独居老人がどんどん増えて、あてにする人もいないおひとり様暮らしなら、孤独死して気付かれず、放って置かれるのも心細い。私の友人、知人にもそうした人たちは何人かいる。

葬儀や法要、墓や仏壇などは、面倒だから全部省略という手もあるが、人ひとり死ぬと死後の手続きがいろいろあって何かと大変だ。遺体の引き取り、火葬、埋葬、役所への死亡届、病院や家賃の支払い、遺品整理、保険や年金、カードの返却、解約、残った資産の処理……亡くなった本人にはどれひとつできない。

こうした仕事を代行業者や弁護士、司法書士が、本人の生前に引き受ける死後事務委任契約や財産管理事務委任契約が増えているようだ。

葬儀屋は増えすぎて、いまや淘汰の時代に入っている。寺いらず、墓いらずで寺の将来も危ういが、また新しい代行業が生まれて忙しくなる。世の中の移り変わりはまことにめまぐるしい。

だれのための利便性か
2016/09/12

 家の近くで予約のできる内科を検索していて、ここにしようと思ったら、ヘンなことが書いてある。「当日午前の診療は7時から、午後の診療は14時から受け付けています。明日以降の順番受け付け、時間指定の予約はできませんのでご注意ください」。

診療時間は9時から12時と、16時半から19時となっている。朝早めに受診したいが、7時に電話はどうもしにくい。早番の受け付け嬢がひとり、電話の前で待ち構えているのだろうか。

8時に電話をかけると、医師とおぼしき人が出た。「ウエブを見て電話してください」と言うので「見ています」と答えたら、「自動電話の方にお願いします」。ナニ、ナニとよく見ると「お問い合わせ、ご予約は」の下に固定電話の番号があるが、さらにその下に「ウエブ、電話予約受け付け」と書いてアドレスと13桁の電話番号がある。

そっちにかけ直すと自動電話の受け付けになっていて、音声ガイドに従って受け付け内容、受診人数、誕生日、こちらの電話番号をボタン押しで答えることになった。さらに「あなたの順番は8番目です。順番が近づいたら電話でお知らせコールを通知します」と機械に言われた。

面食らいながら一応受付けをすませて待つことにしたが、だんだん疑問が湧いてきた。これは順番取りをしただけで受診時間を予約したわけではない。ということは、いつ来るか分からないお知らせコールをじっと待っていなければならない。途中で所用が入ったり、やりかけた用事の途中でコールが来たらどうするのだ。

9時半ごろになってスマホにコールがあり「順番が近づきましたのでご来診ください」と言われたが、こっちが医院の近くにいるか遠くにいるか機械は知らないだろうに。いや、早めに呼んでおいて、待合室でまた待たせるつもりだろう。これじゃあなんのための予約か分からない。

このやり方にメリットがあるとすれば、医院の側で人手いらず、手間いらず、診察に空きのないよう患者を詰めていけるということか。医者の都合しか考えていない。受診のたびにこんな目に合わされたのではかなわないので、すっぽかして別の医院に行くことにした。

利用者に音声ガイドで何度もボタンを押させるシステムは、カード会社への問い合わせなどでよくあり、挙句の果てに「ただいま大変込み合っています。しばらく経ってからおかけ直しください」などと言われたりする。人件費の合理化なんだろうが、利便機器の悪用でサービス業にあるまじき行為だ。それを、一刻を争う急患も扱う医者が始めたか。どんな育ち方をしたんだ。

突如の攻防戦
2016/09/06

 7月の終わりごろからなんだか体がかゆくなって、足首に虫に食われたような跡があちこちにできた。ダニが発生したのかと思ってようすを見ていたが、たまたま娘が帰省し犬の毛づくろいをしていて、ノミがいくつも隠れているのを見つけた。

すぐに風呂に入れてノミ取り効果のあるシャンプーで洗ったら、きれいになった。ノミは石鹸水に弱くてすぐに死ぬようだ。

うちの2匹の犬は、夜はケージに入れて寝かせ、朝になると日が暮れるまで庭に出している。となると当然、家の中にも庭にもノミがいるはずだ。庭で体に付いたノミを家の中まで運んでくる。犬のせいばかりではない。私の足首がやられたのは、庭の草刈り作業中に付いたものに違いない。

まず、犬を動物病院に連れて行って、ノミ取りの薬をつけてもらい、家の中はリビングなど3室に、発煙して駆除するアースレッドを焚いた。残るは発生源の庭を制圧しなければならない。

業者を呼んだら、薬剤を原液のまま散布すると芝や植木が枯れるので3倍に薄めるが、きょうはその道具を持っていないと言う。のんびりはできないので、その場で、芝の生えていない家の周りだけ応急的に原液を撒いてもらった。

そうなると犬も庭には出せない。3日の間、昼間は玄関側の日陰を作れるところにつないだり、散歩に連れ出したり結構世話がやけたが、まあなんとか過ごした。

芝の生え際が枯れてきたので、かなり強い薬剤なのだろう。しかしノミが潜んでいるのは草の生えている所だ。どうもこの業者は危なっかしいので、別の業者を捜して見積もりを取ると、家の中も玄関側も徹底的にやるとこれだけかかる、とバカ高い費用を書く。いやいや庭だけでよいのでと押しとどめ、1/4の値段に落ち着いた。業者は「やり出せばきりがありませんからねえ」と言いながら、この料金で、2、3週間空けてもう1回散布に来ることになった。この業界はみんなそうするようだ。

ノミはノラ猫が外から持ち込んで来ることが多いらしい。そういえば2カ月ほど前、縁の下にどういうわけか子ネコの死骸が見つかり、庭に埋めたと言うと、あ、それですね、と死骸を掘り起こして引き取り、入念に薬を撒いてくれた。

前に飼っていた犬が死んだ15年ほど前にも、ノミが大量発生したことがあった。老衰を狙ってノミが付いたのか、ノミが付いて老犬の体力をさらに奪ったのか分からないが、かわいそうなことをした。

2回目の散布はこれからだが、どうやら状況は落ち着いたようだ。私の足首の古傷はまだ消えないで残っている。

人畜無害とは言いがたい
2016/08/29

 友人のA君は12月の社長退任を楽しみにしており、暇になったら遊んで、遊んでとさかんに誘ってくる。

別に12月にならなくても彼は以前から暇で、一応会社には行くが、新聞を読んだり昼寝をして定時終業を待つ。アフター5や休日になるとテニスやカンツォーネや英会話のレッスンで俄然元気になる。そんなふうでよく会社が傾かないものだと思うが、社長がなにかと頼りないと、周りがしっかり支えるものらしい。

名誉職になれば、いよいよ昼間からでも堂々と遊びに行ける。テニスは学生時代からずっと続けている。カンツォーネは、10年ほど前からシャンソンを習っていたが、発表会で歌いたかった歌を指導の先生にムリと言われてぷいと辞め、カンツォーネ教室に乗り換えた。英会話は2年前から日本人の若い女性教師による個人レッスンに通っている。これがいけない。

自分の娘の歳ほどの教師にすっかり参って、英語はちっともうまくならないが、あっちこっちのレストランを予約しては毎月ディナーに誘う。それ以上の下心はなく、その限りでは人畜無害だが、私のスマホに電話してきては「メイ先生、メイ先生」と、うれしそうに話す。メーメー、メーメーとうるさくてどんなヤギなんだ。

そのデレデレした話を、あろうことか奥さんにも話す。自分では隠し事をせず、公認を得ているつもりだが、それは虫のよい話だ。奥さんにしてみればいい気のするはずがない。2人で京都に旅行に行ってもいいかと持ちかけ、「色ボケ!」と叱られたと、ニヤつきながら打ち明ける。

お前、そんなことしているとそのうち手痛いしっぺ返しを食うぞと、脅してやったが、本人は、なんでもオープンに話すことにしているとピンときていない。心移りをぺらぺら聞かされるのは、バレない不倫より妻にはつらかろう。

とにかく奥さんには“ヤギ”の話をするなと忠告したが、急に話さなくなったらそれはそれでどういうことだと疑心暗鬼を招きかねない。しかたがないから私が彼の遊び相手になることにした。小淵沢で1泊の男同士のゴルフ旅行。これなら奥さんも安心だろう。

もう1人誘い、ゴルフ場もホテルも私が予約し、電車の切符も手配して添乗員よろしく連れ回ったが、相変わらずメーメーが止まらない。打つ手がない。

「コンビ二人間」の現代性
2016/08/22

 コンビ二というものを以前はよく理解できなかった。

とりあえず必要なものをコチャコチャと用意してあるが、店舗スペースに限りがあるから、スーパーのように銘柄やサイズの大小を選べない。値段も割高なのに、業績好調で店舗数はどんどん増えてゆく。

当初は店の外に置かれた自販機でタバコを買うぐらいしか利用しなかった。ところがタスポが登場してから、タスポを持たない私は、店内のカウンターで買うようになり、いちいち年齢確認のボタンを押せと言われた。ハゲおやじの私を見れば、未成年でないことぐらい分かりそうなもので、馬鹿げているからかなり遅れてタスポを作ったら、今度は外の自販機がなくなった。

店としては、せっかく店の前まで来た客を、タバコだけ買って帰したのではもったいない。店内に引き入れて、ついでに他のものも買ってもらうには、自販機は撤去しないと具合悪い。その作戦に私もまんまとはまってゆく。

時代遅れの“コンビ二偏見派”だった私も、コンビ二の人気の理由にようやく気かついた。コンビ二愛用派が求めているのは、さしあたって間に合う利便性であって、商品の値段や選択の幅の広さではない。日用品や食料品、それも手間いらずですぐに食べられる朝のサンドイッチ、おにぎり、昼の弁当、カップラーメン、合い間の挽きたてコーヒー、ドーナッツ、夜のおでん、コロッケ、唐揚げ。弁当はチンで温め、カップラーメンはお湯も用意、店の隅で食べられるようカウンターとイスもある。

さらにATMで現金引き出し、カウンターで納税や送金、映画やコンサートのチケット購入。それが24時間年中無休で利用でき、都市なら半径500メートル以内にひとつやふたつはあり、へえ便利なんだね、あっそうか、それでコンビニエンスストアというんだね。

いまさらながらなんでこんな話をするかというと、この、消費者ニーズの大きな変化を先取りし、ぴたりとはまって急成長した最も現代的といえる事業の一職場を舞台にした小説「コンビ二人間」が、今度の芥川賞を受賞し、興味を引かれて読んでみたら、実に面白いのだ。

主人公は、子供のころから一風変わった女の子で、親には普通の子供にならないと、と心配されるが、どこを治したらよいのか分からない。大学生になってコンビ二のアルバイトを始めると、そのときだけ自分の存在意義が感じられ、それから36歳になるまで独身のまま水を得た魚のようにキビキビと働く。まともな就職をするわけでなく、結婚もしない彼女を、学生時代の友人ら「普通の人間」は不思議がり、異物視し、普通にならないと、とずけずけ干渉してくるが、本人はむしろ彼らを冷静に観察する。

そこへかなり身勝手な理屈をこねるダメ男が新顔のバイトで入るが、すぐクビになる。その彼に彼女は言う。ムラに必要のない人間は敬遠される。コンビニに居続けるには皆の中にある「普通の人間」という架空の生き物を演じるしかないのだ、と。

作中の主人公は作者の経歴と重なるが、私小説ではない。ムラは、どのムラも正常化を強制する、としながら、疎外されても暗さはなく、どこかユーモラスで、見極めたように描いている。

新聞勧誘員の攻勢
2016/08/14

 朝早く目が覚めて困る。前夜11時に寝ても4時、下手をすると3時、睡眠薬を使ってもせいぜい5時。薬は常用したくないので、寝床でごろごろしながらその日の計画や、当面の懸案事項にあれこれ考えを巡らせたりするが、持て余して5時に起きる。

テレビを録画しておいて見たらいいよと言う人がいるが、どうも起き抜けからチラチラ動く映像を見る気にならない。お茶を沸かして飲みながら新聞を2紙、ゆっくり読む。面白い記事もつまらない記事もある。たいして読みたい記事がないときは、折り込みチラシに目を通す。

ダイレクトメールが届いて、全く関心がない案件なので封も切らずに捨てる時は、こんな手の込んだことされても紙がもったいないのにとよく思うが、チラシの方は多種多様だから、世相や生活を感じ取りながら、へえとかふうんとかつぶやきながら、つい読みふけったりする。

新聞の勧誘員が来て、去年の11月半ばから読み始めた併読紙は、1年契約にしたら1月まで無料にしてくれた。昔は洗剤や鍋釜をくれたが、景品競争が過剰になって自粛するようになった。しかし、他紙との獲り合いに加え、購読者自体が減っているので、特典をやめるわけにはゆかないようだ。記事は読まないがテレビ欄が必要、としていた人も、今はテレビで1週間分の番組表を見ることができる。もっと言うとテレビを見る人も減った。

併読しているのは全国紙で、数年前、この新聞をやはり併読紙として購読していた時期があった。しかし配達時間が遅く、出勤に間に合わないのでしばらくしてやめた。この地方では、ブロック紙が圧倒的に強く、全国紙は薄く広い配達区割りを受け持ち、とびとびに走り回って配達するのでどうしても遅れる。この弱点を克服し、今は5時には届いている。

必死さはこれにとどまらない。4カ月ほどしたら別の勧誘員が来て、契約をもう1年延長してくれないかと言う。延長といっても、契約が切れるのは来年の1月ではないか。そんな先まで決めなくてもと帰ってもらったら、翌月、また別の勧誘員が来て同じことを言う。同じことを言って返したら、今度は「続けてトクするキャンペーン」なるDMが届いた。契約を1年延長すると、洗剤や食用油やしょうゆなどからひとつプレゼントというお知らせだった。半年前の契約でひとつなら、1カ月前の直前になると「持ってけ泥棒」と全部くれるかもしれない。

この新聞は、慰安婦問題で吉田証言を真に受け、発行部数に大打撃を受けたと聞く。あってはならないことをやってしまい、営業サイドではいま、しつこいまでの巻き返し作戦中と思われる。編集サイドは犯した汚点を深く反省すべきだが、萎縮はしていないようだ。リベラルな姿勢をはっきり貫いており、よかれあしかれ分かりやすい。よいか悪いかは読者が判断すればよい。

かつて沖縄返還の裏で日米の密約が交わされ、これをスクープした敏腕記者が、老獪な佐藤政権の手で男女のスキャンダル問題にすり替えられた。読者の不買運動が勢いを増す中、当の新聞社は記者を見捨てて営業を守った。

同じ社内で営業と編集がバランスを取るのはなかなか難しいようだ。それからするとNHKは、スポンサーもなく視聴料も一律徴収で、民放では敵わない優れたドキュメンタリー番組も作っているので、会長なんてものはモミイなにがしとかいうかなりズレた人でも務まるのだろう。

死者との対話
2016/08/08

 読売新聞の「人生案内」欄にこんな話が載っていた。

50代男性からの相談で、母子家庭で兄弟もなく2人暮らし。妻がいたが8年前に離婚、5年前には仕事先でリストラされ、その後はパート従業員。その都度、落ち込む自分を励ましてくれた母が、ある朝、食卓に向かったまま亡くなっていた。

苦労して育ててくれた母に、なにひとつ期待に応えられず、喜ばすこともできず、認知症で夜中に騒ぐときにはついどなることもあった。今となっては、自分の注意不足のせいで死なせてしまったのではないかと苦しく、仏前で毎日謝りながら泣いているのだという。

世の中には不運続きの人生を送る人がいる。当社の中途採用の面接で何度も転職している人にわけを尋ねると、よく考えないで就職してみたり、軽い気持ちで転職をしたりで、同情の余地のないケースもあるが、就業の先々で倒産や人員整理の憂き目に会い、ほんとにツキがないんだなという人もいる。ウチへ来てツキが変わればと思ったりすると、「ツキのなさを持ち込まれては困る」と総務見解が出る。負のスパイラルから抜け出すのも大変だ。

孝行をしたい時分に親はなし、石に布団は着せられず、という。親の死に目に会うと、多かれ少なかれだれしも、後悔先に立たずの思いをするのだろうが、この人の場合、思うに任せぬ人生の途中でたった1人の肉親を失い、悔やみきれない胸の内は人一倍だろう。

回答者は、ライバル紙の朝日新聞でも「折々のことば」を連載している哲学者の鷲田清一氏。こんな導き方をしている。

生前は2人きりの生活で、距離が近すぎたから、余計な憎まれ口を叩いたり、八つ当たりをすることもあって、悔いばかり残るのでしょう。でも、もう取り返しがつかないのではなく、初めてお母さんとの距離が取れてきちんと向き合い、すなおに言葉を受け取れる対話の相手が生まれたと考えてください。お母さんの生前のさりげない言葉を思い出しながら。

私は母を亡くして3年、姉を亡くして2年になる。生前の2人のなにげない言葉やその時の表情、しぐさをよく思い出す。なぜかずっと前に亡くなった兄や父も出てくる。私は彼らと対話しているのだろうか。9月には、遠くてなかなか行けない墓にお参りに行く。行くと気持ちが落ち着くように思うのだ。今までは、そんなふうに思ったことはなかった。

子どもたちには、親を大事にしないと亡くしてから後悔するぞ、と言ってやりたいが、返って嫌われるので黙っているのがよい。

クルーズを楽しむ 2
2016/08/01

 乗船してみて想像以上だったのが、乗客の多くが高齢の夫婦だったことだ。60代、70代、80代で9割を超えていたか。杖のおばあちゃん、車イスのおじいちゃんは90以上か。たまに見かける小学生や中年は、年寄りが孫を連れて遊びに来たか、中年の息子、娘が年寄りを心配して付き添いについたか。

なるほどこの年齢なら、リタイアして日常生活の方がむしろ退屈だし、時間はたっぷりある。海外に行くにも時差ぼけはない、日本船籍なら言葉も困らない。荷物は客室に置きっぱなしで連泊と同じ、あちこち気を使いながら出歩くより、勝手に動いてくれる船でのんびり過ごす方が、くたびれなくていい。船内の買い物やアルコール類は全部ツケが効き、世話がない。

すっかり気に入ってクルーズ専門のリピーターもたくさんいるようだ。夕食で私たちの隣りのテーブルについた80歳と78歳の兄妹は、兄が20年で1000日の乗船歴。飛鳥クラブという船会社用意の同好会では当然ながら事情通だが、上には上、10年で2000日の伝説のリピーターもいるそうだ。

今回の日南花火は3回目で、同じコースの同じマジシャンの同じ手品ショーを飽きずに前列の席で見て、ネタの仕掛けを見破れないかを楽しみにしている。お互いにつれあいに先立たれ、コンビを組むようになった。38日の長丁場コースにも乗り、今回のような数日のコースだと前後のコースとつなげて乗ったりする。

料理も楽しみのひとつ。客室はロイヤルスイートからKステートまで7段階あり、料金は6倍、7倍の差がつくが、料理は同じで、和食の料理長、洋食のシェフが腕を競っている。

さて私は、五木寛之の「大河の一滴」と大岡信の「折々のうた」を持ち込んで、本を読んだり昼寝をしたり海を眺めたりするつもりで乗り込んだが、つぎつぎ開かれるイベントを娘と2人でつまみ食いしたりチラ見したりでそれどころでなく、なんだかごった返す学園祭にやってきたような気分になった。どうもまだ、せかせか日本人から抜け出せないのだ。

船旅は、船内のホスピタリティが命で、申し分ないとはいえ、どこやらのんびりして陸上と比べるとテンポが遅い。それはスタッフの多くがフィリピン人やロシア人を起用しているからだと思うが、そこでせかせかしたくなる自分が貧乏臭く、自制が働くから不思議だ。

バルコニーから見る海は、くすんだグリーンあり、濃いブルーの時あり、ほとんどブラックあり。気晴らしの異空間、グルメの3食付き、夢のショートステイ。こんな心地よさはほんとに久しぶりだった。また行こうかな。(おわり)

クルーズを楽しむ 1
2016/07/25

 飛鳥Uで神戸発3泊4日、日南で海上から花火を観て横浜着というクルーズに娘と乗ってみた。

若いころ、一人旅のバックパッカーを始めてほどなく、アテネからイスラエルのハイファまで客船で渡ったことがある。キブツ(集団農場)に入って旅装を解き、ボランティアでグレープフルーツの収穫を手伝いながらしばらくその場に落ち着き、外国の生活に慣れるのが目的だった。

キプロスにちょっと立ち寄って、たぶん2泊の旅程だったと思う。あまりよく覚えていないが、一番安い船底の窓なし2段ベッドの4人部屋で、それでも甲板に出てイギリス人だかの新婚夫婦と話したりして、快適な旅だった。

その体験があるので、いつかまたと思っていて、10年ほど前、四万十川と屋久島に行くクルーズの説明会に妻と2人で出席し予約金も払ったが、妻がさほど乗り気でなくあとでキャンセルになった。4年ほど前にも、知床を巡るクルーズを計画したが、妻に「あんたひとりで行ってきなさいよ」と冷たく断られ、2度と誘うかと思った。だから今回は娘を選んだ。娘が9月からシカゴ美術館付きの大学に留学するので、その後はなかなか会えなくなる。

旅行で一番多いのは、飛行機、列車、バスを使う観光旅行だろう。クルーズはそういう観光旅行ともバックパッカーの旅とも違う。日本のように海に囲まれた島国で、クルーズが一般的にはさほど人気がないのは、海ばかり見ていたんでは退屈すると思うからだ。せっかくの休みを、それでなくても日数がないのだから、できるだけたくさんの観光スポットを効率的に回らないと、という日本人らしい勤勉さが抜けないのは、むりからぬ話だ。

船会社の方は、退屈させないようにショーや映画や、生バンド演奏、運動会、ダンスパーティ、講習会、ストレッチ教室、ウクレレ教室と、つぎつぎ繰り出す。船旅をしたことのない人のための事前説明会では、大型船なので船酔いもご心配なく、医者もいていざとなれば手術も可能でご安心を、などと話して、でき上がっている先入観をさかんに揉みほぐそうとする。

飛行機やバスの旅行とは、そもそも目的が違う、と私は思う。日南の花火が目的ならなにも前日の午後3時までに神戸に出向いて船に乗り込まなくても、当日の夜に間に合うように現地に出かければよい。その晩1泊すれば翌日はあちこち見物して帰れる。

一方クルーズは、クルーズそのものが目的で、花火はイベントのひとつに過ぎないから、仮に雨で中止になっても大して問題ではない。ホテルに数日泊まってディナーショーを毎夜楽しむようなもので、神戸―日南―横浜の移動が重要なのではない。横浜に入港するのは、次のクルーズを横浜発で集客するための船会社の都合に過ぎない。(つづく)

超長寿社会2 捨てて悲劇を回避する
2016/07/19

 島田は、家そのものが、昔とはすっかり違うものになったのだと言う。

かつては武家も商家も農家も、家を中心とした家社会として継続していた。しかし近代化、工業化が進むと、地方から都会へと人口流出が起こり、勤労者の社会へと変貌した。そして、親から子に教え伝える家業もなくなり、実家は墓参りや正月に集まるだけのところになってくる。都会生まれの孫の代になり、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなると、本家とも疎遠になり、故郷もなくなる。

親が子どもに残すものは教育ぐらいしかない。子どもはどこかで自立して親から離れ、親も子どもが成人したら同居など望まず自分で生きていく。それでよい、それが超長寿社会が生んだ枷(かせ)から逃れ、変質した家庭の正しいあり方ではないか、と提言する。

「家や家族の関係がもろいものである以上、人はひとりで生きていき、ひとりで死んでいくしかない。子どもに介護を期待すること自体が、そうした状況からすれば、あり得ないことである」。

日本人は長生きしすぎる、だからとっとと死ぬしかない、とまで言う。それほど家庭の介護の実態は深刻で、せっぱ詰まっている、と警告したいようだ。しかし、どうすればとっとと死ねるのか。

彼は安楽死を法制化しているオランダの例を紹介している。オランダでは、本人の意思が固ければ、自宅や施設でホームドクターが致死量の麻薬、麻酔剤、筋弛緩剤などを投与し、無痛で死なせることができる。安楽死は、ベルギー、ルクセンブルク、スイスと、アメリカのいくつかの州でも法的に認めている。

日本ではどうか。「日本尊厳死協会」では会員のために「尊厳死の宣言書」を用意している。これには@死期を引き延ばすためだけの延命措置を拒否するA苦痛を和らげるための緩和医療は望むB持続的植物状態になったときは生命維持装置を取りやめる―の3点が明記され、日付と署名を入れる。

尊厳死は、日本ではまだ法制化されていない。しかもこれでは延命措置を取らないだけで、とっとと安楽死するまで至っていない。結局日本で、家族を巻き込まないで始末をつけるには、衰弱してきたら水分と栄養の補給を自ら断って死を待つか、自死するしかない。自殺は一般に、マイナスの見方しかされないが、自らの意思で、尊厳を守って最期を迎えるのは、立派な死に方、いや生き方だと私は以前から思っている。

ただ、生存本能に逆らって命を自ら絶つのは、なかなか思い切れないもののようだ。そこを軽い気持ちで潔く、無痛でむしろ気持ちよく、じゃあ行って来るよとさよならできる終末医療にならないものか。果てしない長寿を是とする医療の高度化が、高齢者の尊厳を損なう死に際や介護殺人を生み、病院と医薬業界には商売繁盛をもたらし、医療費がかさんで社会保障が行き詰まるのでは、なんの意味もない。(おわり)

超長寿社会1 行き詰まって悲劇
2016/07/11

 「初老」とは何歳くらいのことを言うのだろうか。前期高齢者が65歳からだから、まあ60代の半ばというのが現代人の感覚だろうか。国語辞典には「老年に入りかけた年ごろ、もと40歳の異称」とある。

明治時代後半の平均年齢が、男女とも40代の前半だったから、当時はそれで違和感はなかっただろう。70歳で古稀と呼ぶ。つまり古来稀なほどの長寿と見なされたのも今は昔、自立生活に支障のない「健康寿命」が男で71歳の時代になった。後期高齢者が75歳から、男の平均寿命が80歳だからそんなものかと思うが、70歳の人の平均余命があと14年、100歳以上の男女が6万人を超えているから、75歳はいずれ中期高齢者と呼ばれるようになるかもしれない。

ここまで超長寿社会になると、おめでたいなどとのんきなことを言ってはいられない。要支援や、軽度の要介護のうちはまだしも、それ以上の寝たきりや認知症の親や配偶者を、1人、2人の家族で支える在宅介護となると、介護離職、家計破綻、孤立、疲弊困憊、絶望から介護殺人に至る事例が、2週間に1件あるいは10日に1件起きていると報告されるようになった。

さきごろ放映されたNHKスペシャル「私は家族を殺した――“介護殺人”当事者たちの告白」は、配偶者や親を手にかけたやり切れない事情が、生々しく語られた。

71歳男性は、妻と42年、順調で平穏な生活を営み、老後は2人でよくドライブを楽しんでいた。妻が腰を骨折、寝たきりになり、夫が自宅介護を始めてから、事態は徐々に悪化する。排便も自力でできなくなった妻が絶望を深め、「生きるのがつらい。死にたい、殺して」とたびたび懇願するようになり、夫はついに引きずり込まれる。2人で最後のドライブに出かけ「ほんとにいいね、後悔しないね、もう後戻りできないよ」と念を押すと「うん」と答えた。夫は後追い自殺を試みて手首や首を切るが、死に切れなかった。執行猶予付きの有罪判決。長男には「絶対許さない」と責められている。

また、60歳男性の場合は、母親が認知症になり、昼夜を問わず暴れ出すようになった。昼間はデイサービスに預け、仕事を続けたが、帰宅後は朝まで介護という生活が続かず、失業中の弟に託した。兄に「助けてくれ」と頼まれ、弟は自分が引き受けるしかないと介護を始めたが、自分の言葉が相手に通じない、相手が何を言っているのかも全く分からない生活が一日中続く。母がパジャマもタオルも汚物まみれにした時、一番辛いのは母だ、母を楽にしてやれるのは俺しかいない、と手にかけた。懲役8年で服役中。刑務所での取材で「どうしてあなたが介護を」と聞かれ、「家族だから」と答えた。

介護を続けている肉親の4人に1人は、終わりが見えない状況で苦闘し、親子心中や自殺を考えたというアンケート結果も紹介された。対岸の火事ではない。超長寿社会では、だれもが同じ立場に立たされるリスクをはらんでいる。

宗教学者、島田裕巳の新刊書「もう親を捨てるしかない」(幻冬舎新書刊)は、タイトルからして衝撃的だが、介護による悲劇に陥らないためには、そうするしかない、と説く。(つづく)

忘煙、蘇煙
2016/07/01

 タバコをやめて1年余りになる。禁煙などというといかにもストイックで、たかが嗜好品にそこまで自己抑制をかける生き方もバカげているので、ニコチン依存症から抜け出せればよしとした。2度と手を出すまいというような悲壮な決意は。最初からしなかった。

以前のように、2時間も空けたら喫わずにはいられないわけではないので、ふだんは忘れている。でも忘れたことは時々思い出すから、たしなむ程度ならよしとする。それを月に1本とした。

そんな器用なことができるかと思いながらやってみて、ちゃんとできた。この分だと正月と誕生日をスペシャルデーにして、年に2本というセンもあるなと考えた。喫煙からさらに遠ざかるというよりも、特別な日にしみじみと味わえたら、究極の愛煙家といえる。

ふだん忘煙、たまに蘇煙の愛煙家というのは、心理学者が研究テーマにしたいぐらい屈折していないか、とわれながら思う。自己分析してみると、節煙の徹底はまず、血圧や肺機能に悪影響があり、それが健診の数字に表れているからだ。リタイアすれば身軽になるが、まだしばらくは仕事から降りられないから、数字の無視はできない。

次に、喫煙場所がどんどん削られて、タバコを喫うのがとても不便な世の中になった。喫煙者には生活に支障が出るほどだし、そこまでされてなおタバコが手離せないのは、自分で自分が惨めになる。

ところがそこまで迫害されても屈しないのは、アウトローの不屈のたましいと見ることもできる。アメリカインディアンが生み、コロンブスが世界に広めた文化を、ムダかムダでないかの合理主義で消滅させてよいものか。文化とは、実利の視点から見れば、もともとムダなものだ。

香りのある煙を深々と肺に吸い込んでしびれ、ぱあっと吐いてひと息つく。喫煙の代用になるくつろぎの小道具はほかにない。百害あって一利ないことを知りながら、体を張って伝統文化を保存することが無意味とは思えない。

実は5月に新潟の友人夫婦を訪ねたとき、彼の姉を含めた3人のヘビースモーカーに囲まれて、一泊する間に4、5本喫った。「来年の分まで喫って行きなよ」と奥さんにからかわれながら踏みとどまったが、その後、喫いたい気持ちが以前よりも強くなった。

幸い、依存症にまでは戻ってないが、忘煙、蘇煙の喫煙法は、なかなかスリリングな生活習慣だ。

犬にドタバタ
2016/06/22

 子どもが大きくなるにつれ、だんだん親の言うことを聞かなくなるのは、自立心の表れでいたしかたないとしても、飼い犬もしつけなどしないで放任していると、ときどき厄介なことになる。

うちにはジャックラッセルテリアの親子がいて、毎朝庭に出して好きにさせ、日が暮れると室内に入れてまた好きにさせ、10時ごろにケージで寝かせることにしているが、「もう寝るかい」と声をかけると庭に出たがるときがある。

おしっこやウンチならば朝までがまんさせるのも気の毒だし、ケージの中でされても困る。閉めたガラス戸をカリカリ引っかいてはこっちを見て促すので、開けて出してやる。しばらくして名前を呼ぶと、親のコジローは聞きわけがよくてすぐに戻ってくるが、クマゴローはちょっとアホで、私との距離を保って尻尾を振りながら、家に入ろうとしない。

夏に入りかけたころの夜は、室内より外の方がひんやりと心地よいので、庭で鬼ごっこでもしたいのか。何度呼んでも入らないので、戸を開けたままその場を離れてみたり、「閉めちゃうぞ」と叱って雨戸を閉めてみたりするのだが、効果がない。しまいに庭に下りて捕まえようとすると、面白がって逃げ回る。おもわく通りの鬼ごっこにされてしまう。

あれこれやって1時間経ってもどうにもならないので、諦めて戸締りを確かめ、2階に上がって寝てしまう。勝手にしろと思うが、勝手にされて困るのは目に見えている。

夜中の2時、3時になって、ワンワン吠える声で目が覚める。怪しい侵入者に気付いたわけではない。寂しくなって入れてくれと呼んでいるのだ。そのうち静まるかと、ようすをうかがってみるがやめる気配がない。近所迷惑が分からないのか。

雨戸を開けると中へ飛び込んでくる。やれやれ、できが悪くて苦労する。おかげで翌朝は寝不足だ。近所の人もそうなのか。あれはよその犬だと思ってくれないか。くれないだろうな。門を開けてそおっと出勤する。

人気者の心得
2016/06/15

 血圧を下げる薬を飲み始めてもう3年になるだろうか。近所の内科で薬をもらうのだが、4週分しかくれないのでその都度通院しなければならない。6週分にしてくれないかと聞いてみたが、容態が急変したときに対処が遅れると、了解してくれない。

容態というほどのものではない。このところは上が140前後、下が70台の前半だから、なんの問題もなかろう。上の正常血圧とされるのが、現在では130未満ということになっているが、ハードルをどんどん厳しくして“異常値”の人、つまり患者の数を数千万人増やしたという経緯がある。第一、血管は歳とともに硬くなるものだから、数値が上がらない方が異常だ。

薬は降圧剤のほかに、利尿剤と、コレステロールを下げる薬が出る。利尿剤は摂取した塩分が高血圧によくないので、尿とともに排出するため。コレステロールも基準値を少し上回っているが、騒ぐほどのものではない。おまけに、その医院では尿検査を毎回したがる。タンパクが少々出ているそうだ。ただ、問題になるほどではないという。ならば毎回取ることもなかろうに。それどころか、来院して採尿すると、体が活動しているので数値が上がって正確でない、今度家で朝起きたときに取って来なさいと容器を渡された。じゃあ今までの検尿はなんなのだ。

いろいろ心配してくれるのはありがたいが、私が医者から経過観察を求められているのは循環器だけではない。潰瘍性大腸炎で消化器内科に月1回、ブリッジ施術後の歯科にも月1回、おいでおいでと人気者になっているのだ。八方美人というわけにもゆかないので、歯科には春から行っていない。循環器の方も、血圧が下がる夏の間はサボってみてはどうだろう。

自分で勝手に判断してはダメだよ、薬を飲んでいるからその数値なんだろ、と薬を飲んで10年の友人が言う。それはそうだが、上がってきたらまた通院すればよい。あまり神経質になると病気になるから、健康管理はアバウトでよい。

いつ死んでもよいように準備をしておけば、生に執着しなくなる。その方が長生きする。別に長生きしたいわけではないが。

 
まさかのできごと
2016/06/09

 中学で同じバレー部だった男から電話があり、自分がメンバーの異業種交流会で講演をやってくれないかと頼んできた。

私はこれまでたまに、大学や自治体、商工会議所やロータリークラブ、カルチャー教室から、講演を頼まれたことがある。自分の考えをまとめるよい機会だから断ったことがないが、準備もそれなりに必要で面倒なので、今回は断ることにした。

ところが相手が食い下がって諦めない。なんでも、予定していた講師の都合が悪くなり、日にちもあまり余裕がないから、なんとか穴を埋めたいらしい。そりゃドタキャンするやつが悪いだろう、おれを気安く使うなと思ったが、旧知の友人なのでむげにも断りにくい。

だいたい異業種交流会なんてものはどこも遊び半分の集まりだし、持ち時間が1時間45分というのも気が重い。私は毎年3月末の新年度式で、全社員を集めて50分の話をするが、だんだん重荷に感じて、短めにまとめるようにしているところだ。

なりゆきまかせの話では大事な点を言い落とすおそれがあるから、原稿をしっかり用意して、頭に入れる。昔はそれで苦労はなかったが、近ごろはなかなか頭に入らない。リハーサルばかりやっていられないので、なにかやり方を考えなければと思っていたところに、倍も時間をくれたんでは、どうにも持て余す。

すったもんだの果てに引き受けたものの、話を1から組み立てるのでなく、過去に新年度式で話してきた経営理念や人材育成、企業戦略などをつなぐことにした。原稿を作るのもやめ、10枚のパワーポイントを用意して、それぞれで話す要点を並べた。リハーサルをやって時間配分を調整して出来上がり。時間が余った場合のために、10分ほどの余談も用意した。

本番では、余談を使うこともなく持ち時間ぴたりで終わった。それはよいが、そもそもこの話を持ち込んでむりやり引き受けさせた男が、受諾したら早々に急用ができたと会長に丸投げして、欠席を決め込んだ。講演まで2週間あった。そりゃないだろう、都合ぐらいつけられるだろうに、と私は内心穏やかでなかった。

講演の2日後、会長から電話が入った。「彼がきょう、すい臓がんで亡くなった」と。えっ、と言ったきり言葉も出ない。会って話したときはそんな気配はなかったのに。ギリギリ最後の仕事を、だれにも覚られずにやり遂げたのか。

葬儀場の案内がファクスで届くまでは、まだ半信半疑だった。本当に言葉もない。

私的同級会
2016/06/01

 中学2年のあるクラスで、なかよし5人組ができた。中高一貫の男子校で、彼らは高校卒業まで互いに誕生会を開いたりしてよく一緒に遊んだ。大学進学で西や東にバラバラになったが、夏休み、冬休みに帰省するとまた集まった。やがて就職し、家庭をもつようになり、だんだん寄り合う機会も少なくなっていったが、子どもたちが巣立ち、自分たちの定年が近づく歳になると、再び集まり始めた。

仲間が2、3人増え、翔陽会と名前も付けた。名前だけ見ると、活発な何かの代理店会かと間違われそうだが、毎年春に1泊で伊豆に出かけ、気心の知れた者同士で酒を酌み交わして思い出話や近況を語り合い、翌日はのんびりとゴルフのコンペを楽しんで帰るのが定例となった。

メンバーは少し増えたが、都合で来れない者やゴルフをしない者もいるので、コンペといっても静かで盛り上がりを欠く。で、もう少し仲間を増やそうと、私にも声が掛かった。誘われたのは3年前だが、一昨年も昨年も都合がつかず、ことしやっと参加できた。

集まったのは8人。初対面の人がひとりいた。6年間同じ学校にいても、なにしろ1学年11クラス、700人近くの大所帯だったから、そういうケースはよくある。もうひとり、同じクラスになったことがあって相手はよく覚えていたが、こっちは全く記憶がない人がいた。失礼なことをしたが、そこは同窓のよしみで、わだかまりなくすぐに打ち解ける。

そんな顔ぶれで、三島から伊豆箱根鉄道に乗って修善寺までぺちゃくちゃしゃべっていると、はた目にはどこの老人会の旅行だと思われたことだろう。宿の温泉に入り、宴会を始めても、健康や病気の話がついて回る。膀胱ガンで手術、心筋梗塞で手術、腰痛だ、ひじ痛だ、坐骨神経痛だ、と情けない話題がなぜだかにぎやかに飛び交う。案の定、当初の案内ではゴルフは2組6人で組んであったのに、老老介護で来れなかった人もいて、1組4人で間に合うことになった。

さて翌朝、心配された雨が予報どおり降り、同室のAが、起きたとたんにきょうのゴルフはやめようと言い出し、だれも反対せず即座に中止になった。7時から9時までの食堂の朝食タイムをフルに使ってまたしゃべり、帰りの電車で三島に戻ったら空はすっかり晴れていた。

同窓会というものを、私は本来あまり好きではない。それが備えている共通項や同質性により、マズローの言う所属の欲求や承認の欲求が安易に満たされて、最初からなれあいの関係が予定される。過去の1通過点に過ぎないものに特別な意味を持って安心したい人がいるとすれば、前をしっかり見て生きていない、なんて思っていたが、この集まりはごく親しい少人数の長く続いた間柄だったためか、私にもなかなか心地よかった。

いやいや、とんがった理屈をこねる気にならなかったのは、歳のせいかもしれない。

都会暮らしと田舎暮らし
2016/05/25

 毎年5月になると東京、新潟、富山、大阪、三重の代理店を訪問する。これまでは2日、3日で一気に回って、その効率に満足していたが、今年は3回に分けて、寄り道もすることにした。

北陸ルートでは、富山と長岡の間で新潟と福島の県境に近い山あいの集落に寄り、友人宅で1泊してみた。ここは、妻と中高で同級だったAさんの夫、Bさんのふるさとで、AさんとBさんは東京の児童館で職場結婚し、定年まで東京暮らしだった。

定年後Bさんは、東京にいても特にやることもなく、空き家のままの生家も気になるし、なつかしいふるさとで老後を暮らすのも悪くないと考えて生活の拠点を移した。まず、傷んだ家の修理、そして自給用の野菜の栽培、夏は草刈り、冬は雪掻き。

力仕事は自分の分だけではない。なにしろ小中学校も廃校になる過疎村に15世帯残って、暮らしているのは年寄りばかり。60半ばに近い彼は、村では貴重な“Uターン青年”で、農作業、雪掻きどころか買い物、病院通いにもマイカー出動を頼りにされる。

隣り近所の絶大な信頼を集めながら、さしたる産業もなく寂れ行くふるさとの村起こしができないものかと、彼は付加価値の高い野菜の共同生産、現金収入、共同体の活性化まで描いてみる。だが、新しいものへの挑戦に、じいちゃん、ばあちゃんの理解が容易に得られるはずもない。

東京生まれ、東京育ちの妻、Aさんにとっては村人とのギャップはさらに大きい。月に1度やってきて、豊かな自然を楽しんでも定住する気はなく、ふだんは東京で別居のライフスタイルを選んでいる。彼が車に乗れない歳になったら、東京に戻ろう、と今から言い含めている。

過疎村の村役場が、優遇措置を用意して都会からの移住を呼びかけ、田舎暮らしにあこがれた都会人が第2の人生を託しても、村のしきたりや不便さにうまくなじめない事例もしばしばあるらしい。「都会のネズミと田舎のネズミ」のイソップ寓話の逆の例だが、人間が互いに深く理解しあうのはとても難しいことで、世界中でイザコザが絶えないのもむりからぬ話なのかもしれない。

ストレス耐性と自覚症状
2016/05/18

私は自分ではストレスに強いほうだと思っている。進退窮まるような状況下に置かれることはめったにないし、実際に窮まって身動き取れなくなったら、どうにもならないわけだから、クヨクヨ悩んだところで何の足しにもならない。そう割り切ってさっさと寝てしまわないと体がもたない。朝起きるとなぜだか状況が好転して最悪の事態は免れているかもしれないし、相変わらずだったとしても、それなりのやりようはいずれ見つかって、なんとかなるものだ。そう思って置けばよい。

ところがとてもそんな気にはなれない、と言う人がいる。だってジタバタしてもしなくても同じなら、やっかいなことは忘れちゃうに限るでしょう、と言っても、それは理屈であって、理屈どおりにできれば苦労はない、と同調しない。できないものはしかたないけど、進退窮まるような目に合っていないと、ストレス耐性も鍛えられないのかもしれない。

ストレスの大半は人間関係で起きるものだから、こころ優しい人は、他人に気を使いすぎて抜け出せなくなるとも言える。わが身を振り返れば、私は人に気を使うのが面倒で、言いたいことは遠慮せずに全部言って清々したいし、マイペースを崩して他人に合わせてまで人づきあいをしたくない。

かなり際どい冗談を言ったら相手が真に受けてその場が白けてしまうことが時にあるが、そこで冗談だよと弁明したり、誤解を解く説明なんてことは一度もしたことがない。際どい冗談は共有できない相手なんだなと気がついて、うっかり繰り出したことは後悔するが、これからは無難な冗談にしておこうとは思わない。毒気を抜いた冗談など面白くもない。

「お前みたいなやつはうつ病になるわけがない」と言った友人がいたが、潰瘍性大腸炎になってから、「実は内面は繊細な人だと思っていた」とか「ストレスを感じていないだけで、実際にはかなりのストレスを受けてはいるんだ」と言う友人もいろいろ現れた。ストレスが意識の上ではないのに、体が反応するとは、鈍感なのか敏感なのかよけい分からなくなる。

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(在原業平)

こんな風流なストレスを感じてみたいものだ。

あなたならどうする
2016/05/09

 原発再稼動、辺野古移転、安保法制、緊急事態条項、アベノミクス、選挙制度改革、と国論を2分する論議が折り重なっている。これらの案件の賛否を、報道各社が世論調査で尋ねると、「分からない」「どちらとも言えない」とする回答が少なからずある。

白とも黒とも言い切れないグレイゾーンという存在は、どんなアンケート調査にも出る。ただ、こうした政治的課題を、趣味嗜好のアンケートと同様に受け取るわけにはゆかないわけがある。

「分からない、どちらとも言えない」をもう少し踏み込んで読み取ってみると、次の3つに分けられるのではないか。「知らないし、知らなくて困らないし、構わない」「ある程度知ってはいるが、あまり関心がなくどちらでもよい」「よく知っているが、賛否どちらもなるほどと思い、一概に言えない」

政治や経済の動きは新聞やテレビのニュースでも繰り返し取り上げているが、咀嚼し理解するには少々努力がいる。忙しかったり面倒だと、適当にパスするかナマかじりで済ませることになる。良いも悪いもない、世の中は大体そんなふうに回っている。

池上彰の人気が高いのは、そこを噛み砕いて分かりやすく解説してくれるからで、彼は1994年開始のNHK「週刊こどもニュース」ですでにその力量を発揮していた。こどもに分かるニュース解説をしながら、おとなの視聴者に注目され、私もよく見た。2010年に放送が終了したのも、番組のタイトルが実際にそぐわないからだったという。

そんな手間の掛かる説明は飛ばし、とにかく数で優れば勝つのが民主主義のルールだから、手っ取り早く単純化して印象付け、大衆ウケを狙うのがポピュリズム(大衆迎合主義)のやり方だ。この手で、トランプの排外主義がツボにはまり、共和党の大統領候補選で予想外の成功を収めている。かつてはジョージ・ブッシュも「9.11の報復」でアメリカ国民を熱狂させた。さらに遡れば、ヒトラーは全権委任法を手に入れた。こうしたことは、いったん勢いがつくと暴走して止まらなくなる。

ポピュリズムが勢いをつけようと狙うのは、この「分からない、どちらとも言えない」の層だ。先の3分類のうち、「よく知っているが一概に言えない」の層は、他の2つの層と違って考えあぐねて真剣に悩んでいるように見えるが、自分の意見を持たず、大勢(たいせい)に流されやすいという点では変わりない。

よくは知らなくても、よく知っていても、自分の意見を持たない限り、なにかの弾みでトランプやブッシュのような扇動に乗って、あっという間にひと飲みにされる。国家規模の付和雷同には取り返しのつかない犠牲がしばしば伴う。アメリカはブッシュがアフガン、イラクに手を出した戦費でいまだに19兆ドルもの債務を引きずっており、それがトランプの極論と人気につながっている。

彼らの死生観
2016/05/02

 友人のAさんに一昨年夏、前立腺がんが見つかった。病巣は4段階判定のうち第3段階まで進んでおり、もう手遅れかとショックを受けた。医師の判断に従って放射線と抗がん剤治療を選び、入院、通院を続けたところ、幸い仕事に復帰できた。

彼の職業は税理士で、歳は69歳、このまま仕事をやめてもよかったが、退屈するのでその気はなかった。仕事は死ぬまで続けたい。

ただ、再発の不安は常にある。ムリはいけない。ストレスが重なると免疫力を弱め、再発を呼びかねない。そこで、体調維持のため仕事量をセーブして午前中だけ働くことにした。遠隔地や内輪もめの多い顧客は発病を理由に顧問契約を降ろしてもらった。

仕事を減らした理由はもうひとつあった。死に直面して気がついたのは、海外旅行、特にアメリカ、ヨーロッパには全然行ったことがない。命に限りがあると思い知って、やり残したまま後悔したくない。そうだ、好きだった絵も思うまま描いたらよいのだ。いまさらガマンすることもない。

死を目の前に突きつけられて、自らの行動を見つめる話はいろいろとある。黒澤明の初期の作品「生きる」は、事なかれ主義のお役所仕事に徹していた市役所の市民課長が、胃がんでこの先長くはない寿命を覚る。人生の意味を見失い、一時的な享楽に走ってみるが満たされない。そして、地域住民から要望が出ていながら棚上げにしていた公園建設に使命を見出し、やり遂げて亡くなる。

これは映画の上の話だが、実話もある。俳優の宇野重吉は、民話に材を取った「三年寝太郎」の全国縦断の地方公演を敢行中、肺がんが見つかり、公演を中断して手術を受けた。医者は舞台への復帰を禁じたが、宇野は公演を再開し、幕間に酸素吸入の助けを得ながら予定通りやり遂げた。その不思議な力に支えられて演ずる姿は、ニュースでも報じられた。退院から8カ月後に亡くなった。

指揮者の小澤征爾は、2010年、食道がんで食道を全摘出し、その後腰痛の手術もし、体調は決してよくないが、音楽活動への意欲は衰えず、ことし80歳にしてグラミー賞を受賞した。

彼らと比べるとAさんには仕事に対してそれほどの執念は感じられない。「税理士の仕事って、他人の経済活動の後始末をするだけで、ものを生み出すってわけでもないしね」と言うのだが、それでも病にへこたれず、それなりの新しい生き方を見つけた。

パリやローマ、ロスやニューヨークに行ってみたところで、凱旋門やコロッセオが、なるほど以前テレビや写真で見た通りある、と確認をするだけのように思われるが、彼には生き続けるための目標がなくてはならず、また確認して満足できるのだろう。

私の“その時”はどうなるだろう。死をごく自然な日常のできごととして受け入れ、死ぬまでにやるべきことを決める心の準備はしているが、その時にその通りにできるかどうかは分からない。

物忘れの防止と許容のしかた
2016/04/27

 物忘れを防止するにはメモを取るのがよい。しかし取れない時もある。朝、目を覚ましてまだ布団の中で、きょうはあれとあれをやらなきゃとか、車の運転中にそうだあれがそのままになっていると思い出したときは、頭の中で映像を用意して2つでも3つでもつなげてゆく方法がある。

たとえば、A君と打ち合わせをして案件を詰めたあと、銀行へ行って出金し、その途中で車にガソリンを入れ、戻ったらB君に依頼した件を確認しなければという時、頭の中でA君に給油ノズルを持たせ、そのノズルからコインが出てきて、それをB君が受け取る姿を描く。記憶術でよく使われる手だ。事柄を具体的な形に変換するので記憶に残る効果がある。

しかしそんなヘンテコな映像をいつまでも頭に残しておくわけにはゆかないので、字が書ける状態になったらメモにする。これで万全と思うと大間違いで、メモを取ったことをすっかり忘れることがある。メモで安心して、用をすませた気になって、返ってよくないのだろう。

そこまでひどくなくても、メモを見ようと思って仕舞った場所を思い出せないときがある。あそこだったはずだが、ここだったかもしれない、おかしいな、なくすはずないのに、とつぶやきながら、探し物をする時間ほどやるせないひとときはない。頼りないのは自分だから怒る相手もなく、ただ情けなくて打ちのめされる。

そういえば、買い物をして、支払いをすませたまではよいが、品物を置いて帰ってきたり、ほんのちょっと前使っていたハサミがどうしても見つからないこともあったな、とだんだん弱気になる。ひょっとしてこれは、認知症がいよいよ始まったのかと。

若年性認知症も知られるようになり、物忘れを認知症に結び付けて心配する人が、近ごろ結構増えた。心配になるだけ頭がちゃんと働いているのだから、まだ大丈夫なのだ。心配がボケを防止しているぐらいに思っておくとよい。ボケてしまったらその自覚もない。

どっちが幸せか、これはまた別問題になる。記憶力が低下して若いころのようには事が運ばず、いつしか背後に迫っていた老いや衰えに、今さらながら気がつき愕然とする、そんな場面をだれしもいつか経験する。あるがままに素直に受け入れるのは至難の技のようだが、むだな抵抗をやめるか、いっそボケちゃったほうが、心穏やかに過ごせるのかもしれない。

一病息災
2016/04/11

 潰瘍性大腸炎で1カ月入院し、退院してから2カ月になる。入院中は大して快方に向かったとも思えなかったが、退院後どういうわけか順調に回復し、1カ月ほどですっかり元に戻ったようにみえる。

もっともこの病気は、原因が解明されておらず、完治する治療法も確立されていない難病指定を受けており、いくら症状が回復しても完治とは言わず寛(緩)解と呼ぶのだそうだ。医療費の負担も、申請すれば1割減にしてくれる。

担当医は、薬の量を減らしながらも「症状が急変したら次の診察日までガマンしないですぐに受診してください」などと脅かすので、うっかり油断はできない。まあそれでも高カロリー、低脂肪、低刺激、低残渣の食事にかなり気を使っていた当初に比べれば警戒レベルを下げ、近ごろは酒もコーヒーもおそるおそる飲んでいる。酒は毎晩チマチマと焼酎40ccをお湯で倍に薄め、コーヒーは1日1杯を限度とするが、それでもどんなにうれしいことか。

直らない病気だと言われたときは、旅行や運動をするにも制約を受けるのだろう、厄介な疫病神に取り付かれたものだと落ち込んだが、どうやら気に病むほどでもなさそうだ。

医者や薬に頼るのはみっともない、第一あんなものは、坊主の加持祈祷ほどインチキではないにしても、気休めの域をたいして出ないぐらいに思っていたが、こうして世話になってみるとゲンキンなもので、薬効あらたか、担当医のご高察あらばこそ、いやありがたやお蔭さまで、と頭(す)も低くなる。

一病息災とはよく言ったものだ。人間、不都合なく勢いに任せていると、ありがたみが分からない。ひどい目に合って初めて、40ccの焼酎がしみじみ味わえる。

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2016/04/04

 

桜の下の大道芸
2016/04/04

 桜の名所となっている公園で、ビアガーデンが設営されると知り、次男とそのカノジョを誘って席を予約しておいた。

桜の名所といえば、自宅から歩いて5分の川沿いに桜並木が延々と続くところがある。子供のころは両岸に屋台がずらりと並び、酔っ払いが踊ったり歌ったりしてにぎやかだったが、いつのころからか飲み食い禁止となり屋台が消えた。衛生上の問題や近隣住民への配慮からだろうか。今も花見客は大勢訪れるが、人の群れがぞろぞろと行儀よく歩くだけで、昔のように浮かれて華やいだ気分には、いまいち物足りない。

ビアガーデンの予約は1時だったが、早めに出かけて人の溢れた公園をぐるりと回ってみた。桜は750本というが一画にまとまっていて、木の下は隙間なくビニールシートが敷き詰められている。散策路にはビアガーデンのほか、屋台がずらりと並び、B級グルメの「金賞受賞」などと張り紙をした焼きそばやトリの唐揚げ、たこ焼きなどに混じって、シシカバブの店。ビールや酒も売っている。やはり花見はこれでなくちゃ。

満開の中を一周して戻ると、正面入口のメインストリートで大道芸が始まっていた。サドルまで4メートル近くある一輪車に乗るようだが、見物客をできるだけ増やしてから見せたい。そこで、通りがかりで立ち止まって、見ようか通り過ぎようかと遠巻きにして半身の人たちを、まず近くにぐいと引き寄せる。巧みな話術で、観客との協調関係を作ってゆき、つぎに、ちょっとした前振り芸を見せるのだが、あらかじめ拍手と歓声を頼んでおく。この反響音でさらに見物客を増やす。

さていよいよ一輪車に乗るのだが、アシスタントがいないと跳び乗れない。とはいえ、ひとりでなんでもまかなうピン芸だから、驚いたことに見物人の中から3人選び、支えのポールを持たせたり、足で車輪の車止めをさせたりして、ひょいと乗る。乗ってバランスを取りながら、棍棒のジャグリングをやって見せた。

この芸も簡単ではなかろうが、それに優るのが見物人を操る話芸ではないか。なんだか香具師(やし)のがまの油の口上を思い出させる。手品師や声帯模写でも、しゃべくりで人気を集めるタイプがいる。

ビアガーデンには1時間ほどいた。帰りがけ、別の大道芸人に代わっていたが、やはりよくしゃべる。アクロバット芸を黙々と見せるより、話術でその場の見物人とより親しい人間関係を作った方が投げ銭も増えるに違いない。それにしても、なんの後ろ盾も保障もなく、固定のファンがいるわけでなし、たまたまその場に居合わせた人の群れを相手に、体ひとつでその日その日の生活を懸ける過酷な道を選んだのはなにゆえか。そういう生き方でなければ得られない特別な世界があるのだと思う。

眠ければ眠いなりに
2016/03/28

 睡眠時間が長く続かなくて、3、4時間、短いと2時間で目が覚める。2度寝してつないでも眠りが浅く、合計でまあ5時間も寝られたらよしとしなければならない。早寝早起きや、睡眠薬を使ったりの対処をしてみたが、結局はたいした成果もない。

下手な努力をするよりも、遅寝遅起きでいいという説を聞き、時々居眠りをしながらなんとか12時ごろまで起きていて寝てみると、やはり4時ごろ目が覚めてしまうが、それでも睡眠薬の世話にならないだけマシだし、4時なら夜明けも近い。以前のように夜中の1時、2時に目覚めて、これから朝までどうしようかと心細くなることもない。

そのあとまたちょっと寝るときもあり、そのままもやもやして5時半か6時に寝床を出る。お茶を沸かしながら血圧を測り、新聞を2紙読む。流し読みで1時間、じっくりだと2時間かかる。本当は読書の時間に当てるつもりだったのだが、新聞であらかた時間を取って細切れにしか残らない。新聞も特集を組んだりして、読ませる記事をといろいろ努力している。

本当なら、論調のぶつかる2紙を読み比べるのがよいだろうが、朝から読みながら腹を立てたくないので、そうだ、その通りだ、よく言ったとうなずける2紙にしている。私はテレビを見ていても、同調したり、いい加減なことを言うな、と野次を飛ばしたりする。その姿を小さいころから見て育った子どもたちがみんな理屈っぽくなり、親の言うことに素直に従わなくなったのは、私のせいらしい。

実は朝から睡眠不足で少々ぼんやりしているし、昼食後の午後などは居眠りをするほど眠くなることもある。しかしこれはもうしょうがない。こういうものだと思って受け入れた方が、不本意な自分をなんとかしようと戦うより、大所高所をわきまえた生き方と言えるのではないか。

こういうのを妥協とか諦めと言わず、許容と呼ぶことにしよう。

もの言わぬ人びと
2016/03/18

 世の中、いつどこでだれの世話になるか分からない。そう思えば顔が広い方がなにかと有利だ。ならばというので、交流の場がたくさんできる。

そういう場に、人脈作りこそが経営者の仕事だと、どこにでもマメに顔を出す人もいれば、仕事に直接関係のない付き合いにうろうろ時間を使っていたんでは、本業がおろそかになる、と極力敬遠する人もいる。

実際、どんな世話になるか分からないという程度のものだから、顔を売っておいてよかったということが、そうしばしばあるものではない。それは分かっていて、これまで使い道がなかったとしても今後の可能性として残しておき、人付き合いにはそれはそれで楽しみ方がある、というのがまあ一般的な考え方だろうか。

掛かるか掛からないか分からない魚を相手に、釣り糸を垂らしているのと同じようなものだとすれば、釣り人は周りの景色に溶け込んで一体となり、自己主張することなく、決して目立ってはいけない。年度末になると、硬軟さまざまな団体、組織で理事会や役員会が開かれるが、年間の事業報告、収支報告、次年度計画、予算の承認に質問や異議が出ることはまずなく、型通り「異議なし」でシャンシャンとけりがつく。

硬と軟とでは年間の事業内容の捉え方も違い、軟はたとえば異業種交流会で、企業視察や工場見学などを折り込んでいても、飲んだり食ったり旅行やゴルフをしたりの遊びも多い。これも大事な仕事、勉強会、付き合い、と言いながら、気の張らない息抜きの場として用を足している。

こういうところには長老がいて、悪くするとボスになっている。いくら馴れ合いの場でも、一般のメンバーは決して主張せず、群れの中におとなしく溶け込んでいなければならないから、ボスにお任せになる。今年の海外旅行先はどこに、なんてことで役員会を開いても、開く前に2、3人の間で根回しがすみ、候補地が決まっている。

遊び慣れて大抵の国には行ってしまったボスから、反政府ゲリラが出て来そうなマニアックな辺境の地が選ばれると、これまで仕事に追われて海外旅行などろくにしたこともないAさんは目を泳がせて言葉を失う。まず王道のフランス、イタリア、あるいは近隣の中国、韓国を手始めにと描いていたのに……。

結局、ツアーの参加者は数人に激減する。「だれも行かないところに行かなきゃ」とボスの同調者は言うが、Aさんは「私が行ってないまともなところは、いくらでもあるのに」と思っている。

酒を飲ませろ
2016/02/28

 潰瘍性大腸炎で1カ月入院し、点滴治療で消化器を休めて回復を待ち、退院して2週間になる。その後、一本調子にではないが徐々に正常化に向かっている。

健康な状態と同じになれば、寛解と呼ぶ。見た目によくても完治したわけではなく、治療を止めずに経過観察を続ける――これが難病指定の厄介なところだ。難病といっても命に関わるほど大変なものでもなさそうで、困るのは寛解の域に入ったのかどうか、自分では判断がなかなか難しい点だ。

酒とコーヒーをずっと止められている。早く飲みたくてしかたがない。で、もうそろそろいいかな、と久しぶりに酒をさかずきにひとなめ、あるいはコンビ二の小サイズのコーヒーを1杯、ちびちびと飲んでみる。これが全身で感動するほどうまい。

飲みたい、飲みたいと思っていたので、しみじみと味わいを確かめながら大事に大事に飲む。「幸せの黄色いハンカチ」の映画で、刑務所から出所したばかりの高倉健が、飲食店に入ってビールを頼み、両手でコップを支えながら思いつめたように飲むシーン、まああんな感じ。

欲しいものがなんでもいつでも手に入ることが、豊かなことでも幸せなことでもないんだな、と実感する。その少量の酒やコーヒーのせいかどうか、翌朝、病状が後退していると、なおさらその思いが強くなる。担当医にしてみれば、もう少しガマンしろよと言いたいところだろうが、私には代償を払っても手に入れて後悔しない快感だったのだ。

体重も少し戻ったが、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲んでいた入院前より6キロ減が維持できている。なるほど、欲望の無制限解放でも、厳しい制約を課して窮屈な思いをするのでもなく、節度を見計らいながら楽しみを残す、これが「われ、ただ足るを知る」の禅の極意なのか。

高カロリー、低脂肪、低刺激、低残さの食事メニューは、妻に予想外の貢献があり、あとは運動量をなるべく増やせばいい。歩くだけで睡眠にも好影響が出る。健康に気を使い始めたのは命が惜しいからではない。なんといっても酒を飲みたいからだ。

クルマの降り時
2016/02/19

 13年11万キロ乗ったクルマを乗り換えることになった。大変気に入っていた愛車で、いよいよ手放すとなるとなんとも名残り惜しい。

調子の悪いところはなく、まだ数年は充分乗れる。パワーに余力があり、ゆったりと快適に走る。トランクなどはゴルフバッグが4つ入り、みんなが驚く。

ただ、長年乗っているとだんだんあっちこっち擦り傷へこみ傷が増えてくる。特に最近は、歳のせいかバックの勘に弱くなった。もう少し小さい方が扱いやすい。

いや、これだけの名車だ。同じ車種で乗り換えたいところだが、メーカーが製造を中止してしまった。5年ほど前に新シリーズを発表して、旧車種のいくつかを吸収したのだ。なんてことするんだ、バチが当たるぞと思ったが、いかんともしがたい。

それで、飽きるまではこのクルマでと思っていたが、いつまでも飽きない。乗り換える気になったのは、同じメーカーから燃料電池車が発売になり、話題を呼んだからだ。私もいい歳になると、いつまでも自分で運転というわけには行かなくなるかもしれない。次が最後のマイカーなら、次世代のちょっと変わったのを試してみたい。

とはいえ、世に出たばかりだから、生産も燃料供給ステーションの整備も追いつかない。今から予約を入れて2年後に乗るつもりでいたら、納車は早くて3年後、水素ステーションも計画より遅れ、稼動予定は今年度中に全国で81カ所計画していたが、現在やっと28カ所。2025年度までに1000カ所に広げるそうだが、この分だとどうなるか分からない。

で、早々に諦めて代わりの車種を決めた。納車は来週末。

13年の間に、スピード違反2回、軽い追突1回、自転車との出会い頭1回、自損数回、居眠り運転3回。あれあれ結構やっているものだ。だんだん命がけになってくる。最近は穏やかな運転を心がけているが、なにかのはずみで交通刑務所行きってこともある。納車待ちだが、これはどうも早めの卒業がよさそうだ。

 
24時間点滴生活の新体験 4
2016/02/12

 入院18日目に点滴がはずれた。夜の11時だったが、ヒモ付から解放されたのがうれしくなって、1人でニヤニヤしながら病室をしばらく歩き回ったほどだ。

しかしそれは、病状が好転しているからというよりは、消化器を使わずにしばらく休ませたから、そろそろ攻めの治療に入ろうかという担当医の戦術変更で、あれやこれや薬がどんどん増えた。

朝食後は4種類13錠の他に、3年前から飲んでいる血圧の薬3種類3錠を加えると7種類16錠にもなる。昼食後は2錠、夕食後は6錠に坐薬1錠。こんなに薬漬けにして、アホになったらどうするんだと心配だが、医者は一生懸命で気にする風もない。

私としても、せっかく入院して大した効果もなく退院したくないのでここはなんとか粘りたい。完治は難しいらしく、緩(寛)解といって、健康時と変わりない排便が継続できればいいのだが、悪くなると下痢でトイレ通いに忙しくなり、仕事にも生活にもならないそうだ。

私の場合、排便時の微量の出血を止めたい。それと、トイレのそばにいないと、心理的にちょっと不安。何もよりも、毎晩1合といわずその半分でいいから、酒の飲める一般人になりたい。それが今の私の人生の目標になっている。

大願成就といいながら、いつまでも待ってはいられない。年度末は何かと忙しい。決算、予算、人事考課、新年度方針、部門別課題設定、今年は新5カ年計画もスタートする。外出許可で会議に出たり、スタッフを病院に呼んで打合わせもしてきたが、病状も少しずつ改善傾向にあるので、通院に戻ることになった。

1カ月で8キロ痩せた。ま、それでもいつもと気分が変わって仕事も捗ったし、結構楽しい入院生活だった。(おわり)

24時間点滴生活の新体験 3
2016/02/05

 病院に籠っていると、毎日話す相手は看護婦に限られてくる。朝晩の体温、血圧、酸素濃度の計測、記録、体調、排便状況の確認、配膳、入浴補助、血液採取、それに点滴が順調に流れているか、深夜にもようすをチェックしにやってくる。

点滴チューブの血管への差し込み針も、入れっ放しというわけにはゆかず、具合が悪くなると針を引き抜いて、別の血管へ差し直す。私は2週間で右手、左手と5回もブチブチ変えられたが、人によっては2カ月平気な人もいるらしい。

担当看護婦は昼と夜、今日と明日で次の人にに変わる。私の病棟のフロアは50床弱あって、午前8時30分から午後5時30分の日勤は12人、午後4時30分から翌朝9時までの夜勤は3人シフトでまかなう。1人で20人近くを看る夜勤は月6回。2時間の仮眠が取れるが、生活のリズムを取るのも相当大変だろう。

深夜勤務のタクシードライバーや旅客機のキャビンアテンダントと共通点もあるだろうが、相手が病人だからかなり事情が違う。苦痛や不安、急変を訴える患者もいるだろうし、小ぎれいな仕事でもなく、体力も要求される。規則厳守で、医師の指示なく、臨機応変の判断は禁じられているだろうし、目の前でたくさんの悲惨な死にも立ち会うのだろう。昔からの女性に代表的な職業だが、若い女の子がよくがんばっていると思う(今は男性スタッフも居て看護師と呼ぶが)。厳しいが人の命を支えるという使命感あればこその話なのか。使命感のある仕事をもてるのは幸せなことだ。

24時間点滴生活の新体験 2
2016/01/29

 いくら栄養補給しても、1週間も絶食してたんでは腹も減るだろうと思ったが、案外そうでもない。何かを食べたくてマブタに浮かぶというわけでもない。食う方はすっかりあきらめているからだろうか。

病院食はもともとまずいから、他の患者に配膳されても、別にうらやましくはない。退院したら何を食べたいだろうかと想像してみても、消化のよいうどんくらいしか頭に浮かんでこない。

それでもまあさすがに、1週間で4キロやせた。1日500ミリリットルの栄養液3袋で600キロカロリーしかないから当然かもしれない。やや肥満ぎみだったのでちょうどよいが、このまま断食状態で行くと、半年で即身成仏、ミイラになりそうだ。

3度の食事を摂らないということは、単に栄養やエネルギー補給の問題でなく、生活のリズムやメリハリがなくなってしまうことの方がずっと大きい。朝起きてさあ行くぞの腹ごしらえ、お昼のチャイムでインターバル、夜は楽しくリラックス――――毎度の食事にあった切替タイムが全部なくなり、点滴スタンドと一緒なので外出もできない単調な生活に、変化をつけるのは容易ではない。

毎日予定は立てるが、新聞、読書、会社の報告書読みや決裁、あとはブログを書いたりテレビを見たり昼寝したり。多少は動かないと、と点滴スタンドを引いて廊下を歩いてみても、自分で自分にリードをつけた犬が散歩をしているような気分になる。

本は よしもとばなな、太宰治、島田裕巳、それに「楽しく暮らす!高齢者ホーム選び」。私の歳だと平均余命はまだ15年もあるそうで、介護のことまで考えると、こういう機会に読んでおくと現実味が出てよい。(つづく)

24時間点滴生活の新体験 1
2016/01/22

 昨年末、病院の廊下で点滴スタンドを引いて歩いている人を見て、さぞうっとうしいだろうにと書いたら、年が明けて自分がその身の上にはまるハメになった。

11月に潰瘍性大腸炎が判明し、服薬治療していたが、薬を変えたりしてもはかばかしくなく、1ヶ月ほどして入院を勧められた。

日常生活や仕事にさして支障があるわけでなく、食欲もあり、栄養も取れているのに、なんで入院をと聞いたら、点滴治療をしてみるのだという。食事を取ると消化器にストレスがかかるので点滴で栄養補給する、治療薬も経口剤より、点滴で直接血管に送り、効果を期待する、ということだった。

こっちとしては、目前のおせち料理と雑煮を楽しみにしていたのに、このタイミングでかい、と思ったし、消化器のストレスにはよくても、飯も食えない幽閉生活では、精神的ストレスでかえって病気が悪くなると思ったから、この話は一旦かわして逃げた。

ところが担当医もあきらめず、年が明けるとまた同じ話をもちかけてきた。もともとこの病気は治療法が確立していないので、症状を見ながら手探りでいろいろ試したいのかもしれない。

私もこのままでは酒も飲めない、旅行やゴルフも制約を受けるのでしぶしぶ従うことにした。

改めて点滴を経験して、気がついたことも多い。

まず、流量がそれほど正確ではない。栄養液の方はひと袋8時間滴下して交換になっているが、滴下のペースは看護婦がカンで弁を調整する。寝たり起きたり坐ったりすると、袋と腕の差込口との落差が変わるので、その影響もあって、中味が早めに空になったり残ったりする。精度が必要な人には、チューブの途中に流動制御の電動ボックスをつけるようだ。

絶食して口から食事もとらないということは、歯も汚れない。面倒なことがきらいな私にとって、毎日歯を磨かなくてよいのは、具合がよい。

まだある。(つづく)

人と人との交差点「ドキュメント72時間」 2 深みにはまる
2016/01/15

 1万基もの墓がある牛久の大霊園には、盆の8月13日からカメラが入った。

墓をせっせと掃除する69歳の女性。つれあいをバイク事故で突然亡くしてから21年になる。今もその現実を受け入れることができない。毎日のように「ほんとに会いたい。ちょっとだけでもいいから会いたい」思いが尽きない。見合いでアカの他人が一緒になって、こんなに大切な人になるとは。自分が入るときは、骨をごちゃごちゃに混ぜてもらうよう、子どもに頼んである。

深夜の11時に、父親の墓参りに来た30代の男性。「このタイミングしかなくてね」。好きだった酒のふたを開けて供える。「喜ぶかなと思って」

独身や子どものいない人が入ることが多い個人墓の一画もある。小学校の図書館で司書を勤め上げた74歳のひとり暮らしの女性。おととしガンが見つかって覚悟し、墓を買った。この日はかわいがっていた甥を連れてきて場所を教えた。「これで思い残すことはない」と安堵の表情を浮かべる。

墓の周りにおにぎりや惣菜をにぎやかに並べた3姉妹。亡くなる前、娘たちとお茶を飲みたいと言っていた母親の月命日に、いつもこうして1時間過ごす。

69歳の女性は、長男を35歳で亡くした。ガンの宣告を受けてわずか2カ月の余命だった。しばらくは人に会うのが嫌になり、引きこもっていたが、8年経った今は、週に何度も来るようになった。「(生きている間に」もっと話せばよかった。仕事で忙しいだろうと思っていたから」。いつまでも心が残る。スタッフに「お母さんに親孝行してあげてね、、ね」としきりに声をかける。

7人の子ども、その妻たちと孫、総勢20人を引き連れた67歳の女性。夫は生活費を一銭も入れないのに、ほしいものがあると借金して買ってしまう人だった。子どもたちは自分が保険の外交員をして育て上げた。亡くなるときもひと騒動あり、愛人の家からくも膜下出血で倒れたと電話が入った。彼女と一緒に夫を看取った。「さんざん苦労させられたけど、なぜか憎めない人だった。あら、私しゃべりすぎたかしら、アハハ」と笑い飛ばす。

もういなくなった大切な人に会うことができるお盆、亡き人がみんなを結びつけてくれる――とナレーションが入る。

人びとはなぜ、カメラの前でこんなにも素(す)になって、心のうちを語るのか。みんな実はどこか孤独で寂しいのだ、という思いが私に残った。ひとり、ひとりが人恋しくて、一過性の相手の前なのに、あるいは一過性の相手だから、聞いてくれるなら語りたい。番組を見ている自分も共感を覚えて、なぜだかほっとする。

テレビとこんなつながり方ができる。(おわり)

人と人の交差点「ドキュメント72時間」 1
2016/01/09

 金曜日夜10時55分から、NHKテレビで「ドキュメント72時間」という番組が放映される。歌舞伎町の花屋、沖縄のドライブイン、名古屋の地下鉄の忘れ物受け付け所、秋田のうどん自販機前など、人が立ち寄る場所にカメラを持ち込み、丸3日間定点観察して25分番組に仕上げている。ニューヨークのコインランドリーという番外編もあった。

私がこの番組と出会ったのは昨年の春ごろだったと思う。その3日の間に、たまたまカメラの現れた人々にスタッフが話しかけると、さまざまな人生や人間模様がしばし浮かび上がってくる。彼らは、結構事情を抱えていて折り合いをつけていたり、ちょっとした楽しみや思い出があって通って来たりで、なんとはなく心のうちを語り、垣間見せる。

私はこの番組がすっかり好きになり、毎週録画をするようになったが、放映された1年分のうち再放送の希望が集まった上位9本が、年末スペシャルに組まれることになり、楽しみに待っていた。この話をすると、民放のディレクターの長男も、講釈好きの3男も、前からファンだったと知って少し驚いた。

9本は、私が見たものも見落としていたものもあったが、4位の神戸の駄菓子屋と2位の茨城県牛久の大規模霊園はこんなふうだ。

その駄菓子屋はおばあちゃんの代から50年以上も続き、現在は3代目の45歳女性が店をやりくりし、みんなに「おねえちゃん」と呼ばれている。

学校が終わると、まず小学生がやってきて、ソースせんべいや1枚100円の手作りクレープを店内の狭いテーブルで食べ始める。食べ終わると店の前がそのまま遊び場になる。道路でボールをつくのは危ないので叱るが、店の中でけんかが始まっても口出ししない。子どもたちは揉めてもやがて仲直りして遊び始める。

中2の女の子がクレープの受け渡し口で、学校がつまらない、と浮かない顔をして打ち明ける。ねえちゃんは「そやかて歴史好きやろ。徳川将軍みんな言えんねやろ」と水を向けて、笑顔に戻す。

おとなも来る。空き缶拾いのケンちゃんも仕事の合い間におしゃべりに立ち寄る。子どもたちに「鬼ごっこしよ」と誘われる。

小学校のころからの常連で、両親が離婚してグレ、鑑別所にも入った19歳の男の子が、今は土木の仕事に就き、幸せな家族を作るのが夢だと、姉ちゃんに語る。

スナックで働く20歳の女の子が、出勤前に子どもを実家に預ける途中に立ち寄る。中学で出産した。昼も夜も働き、「人生をやり直したい」と漏らす。ねえちゃんは彼女が小6の時に店の前でみんなで撮った写真を持ってきて見せながら「やり直せるで。20や、なんでもできるで」と励ます。幸せな記憶が残るこの場所にいつかみんな帰ってくる――のテロップが入る。

仕事帰りの24歳の若者が、ビールを飲みながら、去年海で溺れて亡くなった19歳の弟の話を始める。小さい頃から2人でねえちゃんのところに来て、よく遊んだ。優しい子だった。「今でもおれのとこにときどき出てくるんや。そやけど、死んだら戻ってけえへん」(つづく)

年末年始――昭和と平成
2016/01/04

 年末年始というと、昔はなにかと決まりごとがあって、どの家もひとつひとつ大真面目にこなしたものだった。

暮れには一家を挙げての大掃除。畳を上げて2枚をもたれ合わせて干し、床に渡した板に湿気取りの新聞紙を敷き直す。廊下は雑巾掛け、障子の張り替え、電球の取り替え、庭掃除、国旗掲揚と徹底していた。おせちはすべて自家製、正月準備の合い間に男は床屋、女は美容院で、大晦日は夜更け、下手をすると年を越して夜明けまで混雑し、日の出までにはなにがどうあれ、こざっぱりした頭にしなければならなかった。

年越しそばは、日本人の主食と仰ぐご飯を、食べ残して新年に持ち越さないためと、人生健やかに細く長くの願いを込めてのゆえと母から聞かされたが、母はたぶん祖母から同じ話を聞いて年を越したのだろう。

年が明けると、神棚と仏前で父の後ろに並んで正座して畏まり、神仏への挨拶が終わると一同あらためて座敷に揃って「明けましておめでとうございます」。ここでまた父が年頭の訓示をひとしきり垂れ、ようやくおとそとおせち、雑煮。父は正月だけは特別に朝から酒を飲み、だんだん赤い顔になって、最後は決まって戦争中の思い出話、苦労話。やがて年賀状が届く。当時は学校で版画を彫り、べたべた刷って出すのが流行った。

元日に小中高で登校日というのがあり、校長の訓示と担任の話を聞きに呼び出される。そのあとは、お年玉で兄と超満員の映画館に入って押し合いへし合い、前の人の頭で画面が全部は見えなかった。どんな映画だったか覚えがないが、西部劇だったり中村(のち萬屋)錦之助だったような。原っぱで凧揚げ、道端でコマ回し、家の中では双六や福笑い、かるた。

冬休みはたいして長くもなかったが、休み中の宿題がちゃんと出て、ドリル1冊に書き初め提出もあった。

決まったことを決まり通りやるのが昭和なら、それがどんどん崩れてなんでもいいやにしたのが平成で、床屋は「冬は頭を刈ると寒いから、お客の数はむしろ減るね」と話す。大掃除は、どうせきれいにしてもまた汚れるからと、そこそこの手抜きで一応やったことにする。

そばはいまどきパスタも堂々の仲間入りだし、おせちなどはデパート、スーパー、コンビ二、料理屋、通販でも売っている。中身も中華、洋風、多国籍とタブーなし。年賀状は手っ取り早くメールに代わり、凧揚げ、コマ回し、双六のたぐいはとんと見ない。

昔からあまり変わらないのは、紅白歌合戦とそのあとの「ゆく年くる年」だろうか。もっとも私は紅白を全部通して見た事がない。子供のころは始まって1時間ほどしか起きていられなかったし、おとなになってからは、プロの歌手が集まって歌うのに紅が勝つも白勝てもないだろう、わざとらしいお祭り騒ぎだとばかにしていた。最近はなじみのない若手の歌手も多い。昔は、渡辺はま子だの東海林太郎だの、紅白しか出てこない年寄りがいて不思議だったが、今は私には懐かしい歌手を、若い視聴者が不思議に思っているのだろう。

「ゆく年くる年」は大好きで、私は毎年、全国各地の寺や神社にお参りする人の群れや除夜の鐘の音を中継するこの番組を見て、正月を迎えた気分になる。ご利益頼みが嫌で、私自身は長い間初詣でに出かけることはなかったが、最近は私的にも会社からも神社には行くようになった。神道は、いいも悪いも理屈もなく、そもそもの成り立ちからそういうものだと受け取るようになったからだ。